米アリステック・ケミカル買収——日本企業初の大型LBOと6年越しの黒字化

2000年実施

口銭を旨とする商社が、なぜ8億8000万ドルを借金漬けの米化学会社に投じ、6年かけて建て直したのか

時期 1990年3月
意思決定者 三菱商事(化学品部門)
論点 事業投資と海外事業会社の経営
概要
1990年3月、三菱商事は米アリステック・ケミカルを総額8億8000万ドルで買収した。買収先の資産を担保に資金を調達するLBOを用い、日本企業の大型買収では初の手法となった。買収直後の景気後退で赤字に沈んだ会社を、三菱商事は6年をかけて黒字へ建て直した。
背景
三菱商事の化学部門は、1970年代半ばから米国に製造・技術の拠点を持つことを念願していた。対象のアリステックは、米最大の鉄鋼メーカーUSスチール(USX)の化学部門を母体に1986年に独立した、売上高10億ドルの中堅化学メーカーだった。
内容
競合の米ハンツマンとの競り合いを制し、旧経営陣5人と組むMBO方式で買収。買収に伴いアリステックは6億5000万ドルの銀行債務を負い、三菱商事が8割強を保有した(残りは三菱化学・三菱レイヨン)。
含意
資源を開発して長く配当を得るブルネイLNG型とは異なり、借金で買った赤字会社を建て直し、最後は売って回収する投資回収型の事業投資であった。1995年の初黒字は三菱商事の連結首位を後押しし、2000年にSunocoへ売却して幕を引いた。
筆者の見解

買って、直して、売る——事業投資のもう一つの形

この判断は、商社の事業投資がとりうるもう一つの形を示している。ブルネイLNGが資源を開発して長く配当を得る投資だったとすれば、アリステックは借金で赤字会社を買い、経営に踏み込んで建て直し、価値を回復させたうえで手放す投資であった。口銭を得る仲介からも、権益を長く抱える資源投資からも離れ、事業そのものを一定期間預かって値を上げる——LBOという手法は、その関与のしかたを先鋭に映していた。

もっとも、道のりは平坦ではなかった。買収の直後に景気は沈み、黒字化までには6年と5億ドルの追加融資、旧経営陣の総入れ替えを要した。化学品の市況は7年から10年の波で動くという読みに賭け、需要の低迷を構造的なものと見なさずに待った末の建て直しであった。買って、直して、売る。長期保有を旨としてきた商社が事業会社を「回して」価値を取り出すこの型は、のちに事業ポートフォリオの入れ替えを掲げる時代の経営を、遠く先取りしていたようにも読める。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

化学部門が抱えた「米国拠点」への渇望

三菱商事は総合商社として川上の資源から川下の消費財まで扱ってきたが、化学品では海外に自前の製造・技術の拠点を持たずにいた。同社の化学部門にとって、米国に生産と研究開発の足場を築くことは、1970年代半ばからの念願であった。取引を仲介して口銭を得るだけでなく、事業会社そのものを抱えて技術と製造に踏み込む——ブルネイLNGで資源開発に資本を投じたのと同じ発想が、化学の領域にも及んでいた[1]

買収対象アリステック——鉄鋼系化学の中堅

対象となったアリステック・ケミカルは、米最大の鉄鋼メーカーUSスチール(USX)の化学部門を母体に、1986年に独立した売上高10億ドルの中堅メーカーであった。工業用化学品から樹脂まで幅広い品目を抱えていたが、独立して間もない同社は、次の資本の受け皿を探す立場にあった[2][3]

決断

ハンツマンとの競り合いと、初の大型LBO

買収は競争のなかで決まった。1989年秋、米ハンツマン・ケミカルが1株25ドルでアリステックに買収を提案する。三菱商事はこれに対抗して価格を引き上げ、1990年1月31日、アリステックの取締役会は1株27ドル・総額約8億7700万ドルの三菱案を受け入れた。買収は同年3月に完了する。総額8億8000万ドルは、当時の三菱地所によるロックフェラー・グループ株の取得にほぼ並ぶ大型案件であり、日本企業の大型買収では初のLBO——買収先の資産を担保に資金を調達する手法——であった[4][5]

旧経営陣と組むMBO、そして重い借金

三菱商事は、この買収を進んでLBOに乗り出したものとは位置づけていなかった。ライバルの米化学メーカーが買収に動く以上、旧経営陣と手を組んでマネジメント・バイアウトを組むほか道はなかった、というのが同社の説明であった。最初の5年間は旧経営陣5人に経営を委ねる契約を交わす。買収にともなってアリステックは6億5000万ドルの銀行債務を背負い、これを減らさない限り銀行管理会社も同然という重い財務を抱えての出発となった。買収の4カ月後には三菱化成など三菱系化学会社も出資し、三菱商事が8割強を握る、三菱系化学の米国拠点となった[6][7]

結果

景気後退、追加融資、そして初の黒字

出発は逆風のなかにあった。買収の直後から米国は景気後退に入り、業績は1991・92年こそ収支トントンで持ちこたえたものの、93年に赤字へ転落する。三菱商事は1994年1月、化学品畑を歩んできた上村次郎をピッツバーグへ送り、同年8月には5億ドルを追加で融資して銀行債務の圧縮と設備の増強にあてた。翌1995年4月、旧経営陣が退任して上村が会長兼CEOに就く。名実ともに三菱商事が経営権を握ったこの年、アリステックは初めて黒字を計上した[8][9]

建て直しは事業の絞り込みをともなった。1995年から96年にかけて不飽和ポリエステルや石炭化学など5工場を売却し、工業用化学品・中間原料・ポリプロピレン樹脂の3分野へ集約する。1996年1月にはスタンダード&プアーズから、投資適格の最低ラインにあたるBBBの格付けを得た。アリステックの黒字化はそのまま親会社を押し上げ、1996年3月期には三菱商事が連結最終益で三井物産を抜いて商社首位に立つ。その原動力が、前期のゼロから57億円へ伸びたアリステック関連の連結利益であった。そして2000年11月、三菱商事はアリステックをSunocoへ約6億9500万ドルで売却し、10年に及ぶ関与に区切りをつけた[10][11]

出典・参考