曙ブレーキ工業 の歴史

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創業 1929年
創業者 納三治
創業地 東京都豊島区
創業
1929年、米国留学から戻った納三治氏が東京で曙石綿工業所を興し、織布に石綿を使うウーブンブレーキライニングとクラッチフェーシングの製造を始めた。国産自動車工業の黎明期に、摩擦材という一点へ絞った創業である。1936年に曙石綿工業株式会社へ改組し、1939年には埼玉県羽生市に羽生製造所を建設した。戦後は鉄道向けへ広げ、1952年に鉄道車両用の耐摩レジン、1958年には国鉄の特急「こだま」へレジン制輪子とディスクブレーキライニングを納めている。社名は1946年に曙産業、1960年5月に曙ブレーキ工業と替わり、1961年10月に東京証券取引所市場第二部へ上場した。
決断
どの完成車メーカーにも過半を渡さない代わりに、技術は外から借り続けた。1960年10月、曙ブレーキ工業は米英仏3社と技術提携を結び、岩槻製造所へ資本金の数倍を投じた。摩擦材1品目の供給から、ブレーキ装置全体を手掛ける会社へ移るためである。技術は契約で借り、量産の工場とテストコースだけは自前で建てた。新車組付用ライニングの占有率は約65%に達し、日産・トヨタ・いすゞ・三菱が株主に並びながら、いずれも決定権を持たない構成が保たれる。1986年10月にはGMとの合弁アムブレーキを設立して、四半世紀にわたる筆頭株主との関係を打ち切って米国生産へ移った。借りる相手を替えながら過半を渡さなかったことが、ほぼ全ての完成車メーカーへ納入できる立場を55年守った。
現況
四輪車用の製品は赤字で、利益は二輪車用・鉄道車両用・補修品が出している。2026年3月期の連結売上高は1,601億円、営業利益55億円、純利益18億円。地域別の6区分のうち損失を計上したのは北米だけで、売上486億円に対し31億円の赤字だった。米国は摩擦材とメカ製品の2工場を持ち、赤字のメカ製品工場を2025年12月をめどに閉鎖して1工場へ集約する。2025年8月の中期経営計画は営業利益を2027年度80億円、2030年度150億円と置き、四輪車用製品は2027年度に損益均衡、2030年度に黒字化する計画である。売上の中心である四輪が利益を出せないまま、周辺の3区分が損益を支える構成が続いている。
競合
同じ摩擦材でも、系列に入らなかった側だけが資本の後ろ盾を持たなかった。国内のブレーキ供給は完成車メーカーの系列の内側で担う会社が多く、曙ブレーキ工業はどこにも属さないままブレーキ関連製品の国内シェア約40%を占めた。同じ独立系でも日清紡ホールディングスは2011年に欧州ブレーキ摩擦材大手TMD Frictionの全株式を取得し、紡績と電子で得た資金を摩擦材の世界展開へ充当している。曙ブレーキ工業が2009年に独ボッシュの北米事業を譲り受けたときは、増えた売上に見合う採算が付かなかった。系列に属さない立場がほぼ全社への納入を許した一方、赤字が続いても引き受ける親会社を持たなかったことが、金融債権者から560億円の債権放棄を受けるという道しか残さなかった。
曙ブレーキ工業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2006年3月期2026年3月期

創業ストーリー 日本初のブレーキライニングから始まった創業とブレーキ専業化の決断 (1929年〜)

米国帰りの納三治氏が興した日本初のブレーキライニング製造

曙ブレーキ工業の源流は、1929年に納三治氏が東京で興した曙石綿工業所にさかのぼる[1]。米国留学の経験を持つ納氏は自動車用ブレーキライニングの将来性に着目し[2]、織布に石綿を使うウーブンブレーキライニングとクラッチフェーシングの製造を始めた。国産自動車工業の黎明期に、摩擦材という一点へ絞った創業である。同社は1929年について『日本最初のブレーキライニングを世に送り出した』[引用元]年と説明してきた。事業は1936年に株式会社へ改組して曙石綿工業となり、1939年には埼玉県羽生市に羽生製造所を建設して稼働させた[3]。羽生はのちに本社新社屋も置かれる、曙ブレーキグループの中核拠点となる土地である。

  • 曙ブレーキ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1929年に曙石綿工業所を創業し、ウーブンブレーキライニング・クラッチフェーシングの製造を開始
  • 曙ブレーキ工業『半世紀の歩み』(1979年5月)
    • [2]創業者の納三治氏は米国留学後にブレーキライニング製造の将来性に着目し、1929年に東京で曙石綿工業所を設立
  • 曙ブレーキグループ85年史(2015年6月)
    • [3]1936年に曙石綿工業株式会社へ改組、1939年に羽生製造所を建設・稼働。2001年に羽生市で本社新社屋が完成

社名は1946年に曙産業へ変[4]わった。戦後に事業の幅を広げたのは鉄道向けである。1952年に鉄道車両用の耐摩レジンの生産を始め、1958年には国鉄の新特急『こだま』にレジン制輪子とディスクブレーキライニングが採用[5]された。自動車用摩擦材で培った配合技術の鉄道車両への転用はその後も続き、1968年時点では自社開発のメタリックライニングが新幹線『こだま』『ひかり』のディスクブレーキに全面採用されている[6]。株式は1957年に公開し、東京証券業協会の店頭売買承認銘柄となった。自動車向けに加えて鉄道向けにも摩擦材を納める事業構造は、この時期に形を成した。

  • 曙ブレーキ工業 公式サイト「沿革 1920〜1969年」
    • [4]1946年に曙産業株式会社へ改称、1957年に株式公開(東京証券業協会の店頭売買承認銘柄)
  • 曙ブレーキグループ85年史(2015年6月)
    • [5]1952年に鉄道車両用耐摩レジンの生産開始、1958年に国鉄新特急「こだま」へレジン制輪子・ディスクブレーキライニングが採用
  • 証券アナリストジャーナル 1968年6巻9号
    • [6]自社開発のメタリックライニングが新幹線「こだま」「ひかり」のディスクブレーキに全面採用(1968年講演)
  • 曙ブレーキ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1929年に曙石綿工業所を創業し、ウーブンブレーキライニング・クラッチフェーシングの製造を開始
  • 曙ブレーキ工業『半世紀の歩み』(1979年5月)
    • [2]創業者の納三治氏は米国留学後にブレーキライニング製造の将来性に着目し、1929年に東京で曙石綿工業所を設立
  • 曙ブレーキグループ85年史(2015年6月)
    • [3]1936年に曙石綿工業株式会社へ改組、1939年に羽生製造所を建設・稼働。2001年に羽生市で本社新社屋が完成
    • [5]1952年に鉄道車両用耐摩レジンの生産開始、1958年に国鉄新特急「こだま」へレジン制輪子・ディスクブレーキライニングが採用
  • 曙ブレーキ工業 公式サイト「沿革 1920〜1969年」
    • [4]1946年に曙産業株式会社へ改称、1957年に株式公開(東京証券業協会の店頭売買承認銘柄)
  • 証券アナリストジャーナル 1968年6巻9号
    • [6]自社開発のメタリックライニングが新幹線「こだま」「ひかり」のディスクブレーキに全面採用(1968年講演)

追放と復帰を経た信元安貞氏のブレーキ専業化

朝鮮戦争の特需でブレーキ用部品が利益を上げていた1950年代半ば、常務だった信元安貞氏は『ブレーキ全体を手掛けなければ生き残れない』[引用元]と考え[7]、部品供給からブレーキ総合メーカーへの転換を社長に進言した。だが、遅れていた合理化への着手と膨大な投資を要するこの構想は他の経営陣に受け入れられず、米国視察から帰国した1956年、羽田空港で出社無用を告げられて事実上追放された[8]。36歳のときである。約1年の浪人生活ののち、病床の社長に呼び出され『君に任せる』と実質的に経営を託された。社長派と専務派による激しい社内抗争の収拾役として指名された復帰だった。

  • 日経ビジネス 1993年5月3日号 有訓無訓
    • [7]「ブレーキ全体を手掛けなければ生き残れない」との考えから社長に進言して米国を視察した
    • [8]信元安貞氏は常務時代の1956年、米国出張からの帰国時に羽田空港で出社無用を宣告され(36歳)、約1年後に病床の社長から実質的に経営を託された

経営を引き継いだ信元安貞氏を待っていたのは、社内抗争で低下した対外信用である。金融機関は合理化に必要な資金を貸さず、同氏は取引先のトヨタ自動車と日産自動車に頭を下げて回り、当時の金額で5,000万円の合理化資金を工面した[9]。合理化投資を終えたところに神武景気が重なり、設備投資は一気に償却できた。信元安貞氏はのちにこの経験を『こだわりが運を呼んだのかもしれない』[引用元]と振り返っている。小規模な下請け企業に終わらないためにブレーキ全体を手掛けるという積年の主張[10]は、1960年代の海外提携と大型投資で実現に向かう。

  • 日経ビジネス 1993年5月3日号 有訓無訓
    • [9]金融機関の融資を得られず、トヨタ自動車・日産自動車から当時の金額で5,000万円の合理化資金を調達。合理化投資後に神武景気で設備投資を償却
    • [10]「小規模な下請け企業に終わらないためには、絶対にブレーキ全体を手掛けるべきだとの強い信念を持っていました」という信元安貞氏の回顧
  • 日経ビジネス 1993年5月3日号 有訓無訓
    • [7]「ブレーキ全体を手掛けなければ生き残れない」との考えから社長に進言して米国を視察した
    • [8]信元安貞氏は常務時代の1956年、米国出張からの帰国時に羽田空港で出社無用を宣告され(36歳)、約1年後に病床の社長から実質的に経営を託された
    • [9]金融機関の融資を得られず、トヨタ自動車・日産自動車から当時の金額で5,000万円の合理化資金を調達。合理化投資後に神武景気で設備投資を償却
    • [10]「小規模な下請け企業に終わらないためには、絶対にブレーキ全体を手掛けるべきだとの強い信念を持っていました」という信元安貞氏の回顧

社名変更・上場と資本金の数倍を投じた岩槻製造所

1960年5月、曙産業は曙ブレーキ工業へ社名を改め、米国ベンディックス社とブレーキに関する技術援助契約[11]を結んだ。信元安貞社長は1968年の講演で、1960年10月に米国とフランスのベンディックス両社、英国のロッキード社と自動車用ブレーキの技術提携を結んだと説明している[12]。世界的なブレーキ専門メーカーの技術を取り込み、ライニング単品からブレーキ全体へ事業を広げるための提携である。1961年10月には東京証券取引所市場第二部に上場した。信元安貞社長が『ベンディックスはウチの会社にとって親にもあたる』[引用元]と語った提携先は、発行済株式の15.2%を握る筆頭株主にもなり[13]、以後四半世紀にわたり曙ブレーキの技術基盤と資本構成を左右した。

  • 曙ブレーキ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [11]1960年に曙ブレーキ工業株式会社へ改称し、米国ベンディックス社とブレーキに関する技術援助契約を締結。1961年に東証二部上場
  • 証券アナリストジャーナル 1968年6巻9号
    • [12]昭和35年(1960年)10月に米仏のベンディックス両社、英ロッキード社と自動車用ブレーキの技術提携を締結(信元安貞社長の講演)
  • 日経ビジネス 1985年9月30日号
    • [13]ベンディックスは曙ブレーキ発行済株式の15.2%を握る筆頭株主。「ベンディックスはウチの会社にとって親にもあたる」と信元安貞社長

提携と並行して、1962年11月に埼玉県岩槻市(現さいたま市)で岩槻製造所を稼働させた[14]。信元安貞氏が『当時としては非常に思いきったバクチ的な大投資』[引用元]と振り返る、当時の資本金の数倍にあたる12億円を投じた本格工場である[15]。この投資はモータリゼーションの本格化と重なって当たり、建設後数年間は手直し程度の追加投資で急増する需要に応えた。1967年には自動車部品メーカーとして国内で唯一というテストコースを岩槻の元荒川沿いに設け[16]、ドラムブレーキからディスクブレーキへの転換を見込んだ第2次の大型設備投資に進んだ。

  • 曙ブレーキ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1962年に岩槻製造所を建設・稼働開始
  • 日経ビジネス 1993年5月3日号 有訓無訓
    • [15]岩槻製造所には当時の資本金の数倍に当たる12億円を投資(信元安貞氏の回顧)
  • 証券アナリストジャーナル 1968年6巻9号
    • [16]岩槻製造所建設は「バクチ的な大投資」で、成功後数年間は手直し程度の投資で需要増に対応。ディスクブレーキへの転換を見込み第2回目の大投資を実施(1968年講演)。1967年に岩槻市元荒川沿いのテストコース完成、国内部品メーカーで唯一
  • 曙ブレーキ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [11]1960年に曙ブレーキ工業株式会社へ改称し、米国ベンディックス社とブレーキに関する技術援助契約を締結。1961年に東証二部上場
    • [14]1962年に岩槻製造所を建設・稼働開始
  • 証券アナリストジャーナル 1968年6巻9号
    • [12]昭和35年(1960年)10月に米仏のベンディックス両社、英ロッキード社と自動車用ブレーキの技術提携を締結(信元安貞社長の講演)
    • [16]岩槻製造所建設は「バクチ的な大投資」で、成功後数年間は手直し程度の投資で需要増に対応。ディスクブレーキへの転換を見込み第2回目の大投資を実施(1968年講演)。1967年に岩槻市元荒川沿いのテストコース完成、国内部品メーカーで唯一
  • 日経ビジネス 1985年9月30日号
    • [13]ベンディックスは曙ブレーキ発行済株式の15.2%を握る筆頭株主。「ベンディックスはウチの会社にとって親にもあたる」と信元安貞社長
  • 日経ビジネス 1993年5月3日号 有訓無訓
    • [15]岩槻製造所には当時の資本金の数倍に当たる12億円を投資(信元安貞氏の回顧)

豊生ブレーキ設立とトヨタ・日産をともに株主とする独立経営

1965年には晝田工業、三菱重工業との共同出資で山陽ブレーキ工業を設立し[17]、1968年5月にはトヨタ自動車工業、アイシン精機、豊田鉄工との共同出資で豊生ブレーキ工業を設立した[18]。曙ブレーキ35%、トヨタ35%という出資構成にトヨタへ身売りしたのではないかという非難も浴びたが、信元安貞社長は豊生設立後にむしろ日産自動車との関係は良くなったと講演で反論している。新車組付用ブレーキライニングの市場占有率は約65%と国内部品工業では例外的な高さに達し[19]、日産とトヨタがそろって大株主に並ぶという、部品業界でも稀な資本構成を保った。

  • 曙ブレーキ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1965年に晝田工業・三菱重工業と共同出資で山陽ブレーキ工業を設立
  • 曙ブレーキグループ85年史(2015年6月)
    • [18]1968年5月に豊生ブレーキ工業を設立(トヨタ自動車工業・アイシン精機・豊田鉄工と共同出資)
  • 証券アナリストジャーナル 1968年6巻9号
    • [19]豊生ブレーキの出資比率は曙35%・トヨタ35%・アイシン20%・豊田鉄工10%。「トヨタ自工に身売りをしたのではないかという非難をあびた」が日産との関係はさらに良くなったと説明。新車組付用ライニングの占有率は約65%

1971年4月には福島製造所を稼働させて大型車用[20]ライニングの生産を始め、1976年に三春製造所を建設した。生産網を広げる一方で、完成車メーカーどこか一社の系列に入らない経営は変わらなかった。日産、トヨタ、いすゞ、三菱、日野など大方の自動車メーカー[21]が株主に名を連ねながら、いずれも決定権を握らない。この独立性がほぼ全ての国内自動車メーカーへの納入を可能にし、ブレーキライニングの高シェアを支えた。他方で、特定メーカーの後ろ盾を持たないことは、のちの対米進出でも独力での決断を迫る条件になった。

  • 曙ブレーキグループ85年史(2015年6月)
    • [20]1971年4月に福島製造所が稼働し大型車用ライニングを生産開始。1976年に三春製造所を建設・稼働
  • 日経ビジネス 1985年9月30日号
    • [21]日産・トヨタ・いすゞ・三菱・日野など大方の自動車メーカーが大株主で、ほとんどの国内自動車メーカーに納入(1968年講演)。大株主はいずれも決定権を握らない独立系(1985年報道)
  • 曙ブレーキ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1965年に晝田工業・三菱重工業と共同出資で山陽ブレーキ工業を設立
  • 曙ブレーキグループ85年史(2015年6月)
    • [18]1968年5月に豊生ブレーキ工業を設立(トヨタ自動車工業・アイシン精機・豊田鉄工と共同出資)
    • [20]1971年4月に福島製造所が稼働し大型車用ライニングを生産開始。1976年に三春製造所を建設・稼働
  • 証券アナリストジャーナル 1968年6巻9号
    • [19]豊生ブレーキの出資比率は曙35%・トヨタ35%・アイシン20%・豊田鉄工10%。「トヨタ自工に身売りをしたのではないかという非難をあびた」が日産との関係はさらに良くなったと説明。新車組付用ライニングの占有率は約65%
  • 日経ビジネス 1985年9月30日号
    • [21]日産・トヨタ・いすゞ・三菱・日野など大方の自動車メーカーが大株主で、ほとんどの国内自動車メーカーに納入(1968年講演)。大株主はいずれも決定権を握らない独立系(1985年報道)

AD型ディスクブレーキの量産と自社技術の確立

1979年、岩槻製造所でAD型ディスクブレーキ[22]の量産を始めた。AD型は自社開発のディスクブレーキで、1982年に『昭和56年度日本機械学会賞』を受け、2011年9月には国立科学博物館の『重要科学技術史資料(未来技術遺産)』[引用元]に登録される[23]、曙ブレーキの技術自立を象徴する製品である。1982年ごろには主力商品のディスクブレーキを全面的に自社開発品へ切り替え、ベンディックス特許によらない自社技術の確立に総額50億円以上を投じたと当時報じられた[24]。技術の自立を確かなものにした曙ブレーキ工業は、1961年の二部上場から22年を経た1983年9月、東京証券取引所市場第一部へ上場した。

  • 曙ブレーキ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [22]1979年に岩槻製造所でAD型ディスクブレーキの量産開始、1982年に「昭和56年度日本機械学会賞」受賞、1983年に東証一部上場
  • 曙ブレーキグループ85年史(2015年6月)
    • [23]AD型ディスクブレーキは2011年9月に「重要科学技術史資料登録台帳(未来技術遺産)」に登録
  • 日経ビジネス 1985年9月30日号
    • [24]1982年ごろ(報道の3年前)に主力のディスクブレーキを全面的に自社開発商品へ切り替え。ベンディックス特許によらない自社技術の確立に総額50億円以上を投入したとされる

技術で自立するほど、提携の重さが際立った。ロイヤリティは売上高に比例する計算式で、自社開発品を増やしても支払いは減らず、支払額は年間6億円とも報じられた[25]。ベンディックスは筆頭株主でもあり、同社と技術提携を続ける限り、米国で単独にブレーキを生産・販売する道は閉ざされていた。1984年度の推定で曙ブレーキグループは生産個数ベースの世界シェア13%とGMデルコ・モレーン部門に次ぐ世界2位、国内ではドラムブレーキ50%、ディスクブレーキ42%のシェアを握る[26]。生産規模では世界2位でありながら、提携契約が米国での事業の自由を縛る。この矛盾の解消が1980年代半ばの経営課題になった。

  • 日経ビジネス 1985年9月30日号
    • [25]ベンディックスへのロイヤリティは売上高比例の計算式で支払額は年間6億円ともいわれた。技術提携を続ける限り自動車機器類を米国で単独に生産・販売できない
    • [26]1984年度推定で曙ブレーキグループは世界シェア13%(生産個数ベース)で世界2位(1位はGMデルコ・モレーン17%)。国内シェアはドラムブレーキ(グループ)50%・ディスクブレーキ42%
  • 曙ブレーキ工業 有価証券報告書【沿革】
    • [22]1979年に岩槻製造所でAD型ディスクブレーキの量産開始、1982年に「昭和56年度日本機械学会賞」受賞、1983年に東証一部上場
  • 曙ブレーキグループ85年史(2015年6月)
    • [23]AD型ディスクブレーキは2011年9月に「重要科学技術史資料登録台帳(未来技術遺産)」に登録
  • 日経ビジネス 1985年9月30日号
    • [24]1982年ごろ(報道の3年前)に主力のディスクブレーキを全面的に自社開発商品へ切り替え。ベンディックス特許によらない自社技術の確立に総額50億円以上を投入したとされる
    • [25]ベンディックスへのロイヤリティは売上高比例の計算式で支払額は年間6億円ともいわれた。技術提携を続ける限り自動車機器類を米国で単独に生産・販売できない
    • [26]1984年度推定で曙ブレーキグループは世界シェア13%(生産個数ベース)で世界2位(1位はGMデルコ・モレーン17%)。国内シェアはドラムブレーキ(グループ)50%・ディスクブレーキ42%

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曙ブレーキ工業の沿革1929〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1929〜1959年日本初のブレーキライニングから始まった創業とブレーキ専業化の決断曙石綿工業所を創業
ウーブンブレーキライニングとクラッチフェーシングの製造を開始★★
曙石綿工業を設立
羽生製造所を建設し稼動開始
1960〜1985年ベンディックス提携と岩槻の大投資、総合ブレーキメーカーへの転換曙ブレーキ工業に商号変更
ベンディックス社とブレーキに関する技術援助契約を締結★★
東京証券取引所市場第二部に上場
米英仏3社との技術提携と岩槻製造所への資本金数倍の投資

1960年から1962年にかけて、曙ブレーキ工業が米仏のベンディックス社・英ロッキード社と自動車用ブレーキの技術提携を結び、あわせて埼玉県岩槻市に当時の資本金の数倍にあたる12億円を投じて岩槻製造所を建設した経営判断。摩擦材の専業からブレーキ総合メーカーへ移るための、技術と設備の同時手当てにあたる。

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★★★
晝田工業、三菱重工業と共同出資で山陽ブレーキ工業を設立
福島製造所を建設し稼動開始
岩槻製造所でAD型ディスクブレーキの量産を開始★★
AD型ディスクブレーキが「昭和56年度日本機械学会賞」を受賞
東京証券取引所市場第一部に上場
1986〜2008年GM合弁と世界シェア30%への拡大、独立系専業メーカーのグローバル化ベンディックスとの技術提携の解消と、GM合弁アムブレーキによる米国生産

1985年から1988年にかけて、曙ブレーキ工業が1960年以来の米ベンディックス社との技術提携を解消し、提携相手を米GM(ゼネラル・モーターズ)へ替えて合弁会社Ambrake Corporationを設立、ケンタッキー州で米国生産を始めた経営判断。

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★★★
テストコース「曙ブレーキ・プルービング・グラウンド」完成
信元久隆曙ブレーキ山形製造を設立
信元久隆Amak Brake L.L.C.を設立
信元久隆PT. Tri Dharma Wisesaに資本参加
信元久隆Akebono Corporation (North America)を設立★★
信元久隆Akebono Europe GmbHを設立
信元久隆広州曙光制動器有限公司と曙光制動器(蘇州)有限公司を設立
信元久隆Akebono Brake (Thailand) Co., Ltd.を設立
信元久隆F1にマクラーレンチームのオフィシャルサプライヤーとして新規参戦
信元久隆館林鋳造所が稼動開始
2009〜2026年ボッシュ北米事業譲受の代償と事業再生ADR、縮小均衡からの再出発信元久隆Akebono Brake Astra Vietnam Co., Ltd.を設立
信元久隆Akebono Brake Mexico S.A. de C.V.を設立
信元久隆スロバキアにAkebono Brake Slovakia s.r.o.を設立
宮地康弘Akebono Cooperation (Thailand) Co., Ltd.を設立
宮地康弘事業再生ADRの申請と560億円の債権放棄を前提とした国内外の生産拠点の縮小

曙ブレーキ工業は2019年1月29日に事業再生ADR手続を申請し、同年9月18日に事業再生計画を成立させた。取引金融機関から総額560億円の債権放棄を受け、企業再生ファンドのジャパン・インダストリアル・ソリューションズ(JIS)が200億円を出資、国内外の生産拠点の閉鎖・売却・縮小を計画に織り込んだ。

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★★★
宮地康弘子会社のエリザベスタウン工場を2025年12月に閉鎖する方針を決議★★
宮地康弘米国生産をグラスゴー工場へ集約
宮地康弘電動パーキングブレーキのモータギヤユニット開発で日本機械学会賞を受賞
宮地康弘事業再生計画期間が終了★★
出典・参考
  • 曙ブレーキ工業 有価証券報告書【沿革】
  • 曙ブレーキ工業『半世紀の歩み』(1979年5月)
  • 曙ブレーキグループ85年史(2015年6月)
  • 証券アナリストジャーナル 1968年6巻9号
  • 日経ビジネス 1985年9月30日号
  • 日経ビジネス 1993年5月3日号 有訓無訓
  • 曙ブレーキ工業 公式サイト「沿革 1920〜1969年」

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