1951年、船井哲良氏が大阪でミシンの卸商・船井ミシン商会を興した[1]。ミシン輸出の伸び悩みを受けて社名を船井軽機工業に改め、1959年からは輸出用トランジスタラジオの生産を始めた。[2]1961年8月、このラジオ部門を分離して大阪市生野区に資本金2,000万円で船井電機株式会社を設立した[3]。設立の2年前からラジオを手掛けていたため、創業と同時に量産と輸出の体制が動いていた。製品を国内ではほとんど売らず、米欧の大手メーカーや流通業者へのOEM(相手先ブランドによる生産)供給に徹する輸出専業メーカーとして歩み始めた会社である。
輸出先の開拓は早かった。1960年に米軍統治下の沖縄へ最初に進出し、[4]1963年にはオープンリール式のテープレコーダーを製作、そこから派生した8トラックカーステレオでは世界最大の生産台数を確保した。[5]1964年には広島県深安郡(現福山市)に生産子会社の中国船井電機を設立[6]した。取引先はGE、フィリップスといった米欧の大手電機メーカーや、シアーズ・ローバックなどの大手流通業者で、『低価格、安定した品質、納期の正確さ』[引用元]の3点を武器にOEM供給[7]で成長した。トランジスタラジオは、この米欧大手向けOEMを中心に売れ行きを伸ばした。
1971年のニクソンショックによる円高は[8]、ドル建て輸出に依存する船井電機を直撃した。1973年の変動相場制移行を受けて、船井哲良社長は為替対策として海外工場の建設を急ぎ、1960年に進出した沖縄に続いて台湾へ工場を置き、さらにシンガポール、ドイツ、イギリスへ生産・販売の拠点を広げた[9]。この研修から、かんばん方式を原型に独自の改良を重ねた生産方式FPS(フナイ・プロダクション・システム)が生まれた。ラインの速度をあえて作業員の限界近くまで上げ、隠れた問題点を表面化させて毎日改善する手法で[10]、後の低価格量産体質の土台となった。
生産の海外移転は国内の人員削減を伴い、労働組合との対立は20年に及んだ。この間の1976年、株式の額面変更のため形式上の存続会社と合併し[11]、本店を大阪府大東市に移した。1980年にはドイツ・ハンブルクに欧州の販売拠点FUNAI[12] ELECTRIC TRADING(EUROPE)を設立した。事業の顔ぶれも動き続けた。ビデオカメラ、レーザーディスク、エアコンなど参入と撤退を繰り返し、一度は高いシェアを取っても大手ブランド品と低価格のアジア製品に挟まれて退く経験を重ねた。
プラザ合意後の円高が進んだ1987年、船井電機は創業以来の輸出専業を転換し、家庭用製パン器とVTRで国内市場に参入した。[13]NIES(新興工業経済群)製品に競り勝つ低価格が注目を集め『ジャパNIES』と呼ばれ、1989年上半期には据え置き型VTRで国内シェア7%を取ったとされた。[14]しかし参入直後に現金問屋や通信販売業者へ製品を流して家電量販店から締め出される失敗を犯し、ハイファイ機など高級機種へ需要が移ると価格一本やりの限界も表れた。1990年6月期の国内売上高は当初見込みの200億円から150億〜170億円へ下方修正され、国内比率30[15]%を掲げた中期計画は事実上見直しに追い込まれた。
1992年6月期には欧州のダンピング課税を受けて英国工場[16]を閉鎖し、売上高は前年比25%減、経常利益は85%減と赤字寸前まで落ち込んだ。VTRの生産は中国・東莞へ、テレビデオ(テレビ・VTR一体型)はマレーシアへ移し、1992年3月には広東省での委託加工を担う嘉財実業有限公司を香港に設立した。[17]部品も香港の調達センター経由で金額の9割以上をドル建てで調達し、1995年までにエアコンを除く白物家電から撤退した[18]。1992年発売のテレビデオ『画2マン』シリーズは実売5万円を切る価格で量販店の売れ筋となり、1993年6月期の経常利益は前期比8倍近い23億円へ回復[19]した。
次の柱はプリンターであった。AV機器で培ったメカトロニクス技術をもとに1990年代半ばからインクジェットプリンターの研究開発に着手し、米IBMから分離独立したプリンター専業のレックスマーク・インターナショナルと組んだ。[20]1997年6月に発売された船井製の第1号機『1100』は、大手3社の最安機が200ドル前後の市場に、同等の印刷性能で100ドルを切る価格で登場し、2年余りで約480[21]万台を出荷するインクジェットプリンター史上最大のヒット機種となった。1996年6月期から4期連続の増収増益となり、製品の9割を中国・マレーシアで生産し販売の8[22]割を北米が占める収益構造が固まった。
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|---|---|---|---|---|
| 1951〜1998年ミシン卸から輸出専業メーカーへ——円高と労使対立が鍛えた低価格量産 | 資本金20百万円にて船井電機を設立 | ★ | ||
| 生産会社として中国船井電機を設立 | ★ | |||
| 変動相場制移行を機とした海外工場建設と生産の国外移転 1971年のニクソンショックと1973年の変動相場制移行でドル建て輸出が打撃を受けたことを受け、船井哲良社長が為替対策として海外への工場進出を本格化させ、台湾・シンガポール・ドイツ・イギリスへ生産と販売の拠点を広げた判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 形式上の存続会社と合併 | ★ | |||
| 本社を移転 | ★ | |||
| ドイツ ハンブルグに販売拠点としてFUNAI ELECTRIC TRADING(EUROPE)GmbHを設立 | ★ | |||
| 東京支店を開設 | ★ | |||
| 輸出専業からの転換——製パン器とVTRによる国内市場参入 1987年2月に家庭用製パン器、3月にVTRを商品化し、1961年の設立以来続けてきた輸出専業を改めて国内市場へ参入した判断。1991年に国内売上比率30%という中期計画を掲げた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 輸出専業から国内市場に参入 | ★★ | |||
| 嘉財実業有限公司を設立 | ★ | |||
| 船井電機とフナイ販売のサービス部門を分離 | ★ | |||
| 船井サービスを設立 | ★ | |||
| 1999〜2007年大証上場から北米席巻へ——ウォルマートと「フナイの方程式」の絶頂期 | 大阪証券取引所市場第二部に株式を上場 | ★ | ||
| 東京証券取引所市場第一部に株式上場、並びに大阪証券取引所市場第一部に指定 | ★ | |||
| 破綻した米エマーソンのブランド使用権取得とウォルマート専用供給体制 1999年11月の感謝祭セールでウォルマートの信頼を得た船井電機が、同社向けの専用ブランドとして、1993年に経営破綻した米家電老舗エマーソンの商標使用権を取得し、直接納入による供給体制を築いた判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 船井軽機工業を吸収合併 | ★ | |||
| タイ ナコンラーチャシーマーに生産拠点としてFUNAI(THAILAND)CO.,LTD.を設立 | ★ | |||
| 船井哲良 | ポーランド・ルブシュに FUNAI ELECTRIC(POLSKA)Sp.z o.o. を設立 | ★ | ||
| 林朝則 | インド 販売拠点としてFunai India Private Limitedを設立 | ★ | ||
| 林朝則 | 中国 生産拠点として中山船井電機有限公司を設立 | ★ | ||
| 上村義一 | フィリピン バタンガスに生産拠点としてFunai Electric Philippines Inc.を設立 | ★ | ||
| 上村義一 | Lexmark International, Inc. からインクジェットプリンタ子会社の全株式を取得 | ★★ | ||
| 林朝則 | メキシコ ティファナに生産拠点としてFunai Manufacturing,S.A.DE C.V.を設立 | ★ | ||
| 2018〜2025年出版社によるLBO買収から破産へ——「世界のFUNAI」の終幕 | 船越秀明 | 歯科用CT機器の開発・販売会社であるプレキシオンの全株式取得 | ★★ |
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事実根拠:出所(船井電機)