この判断の中心にあるのは、円高を価格転嫁や高付加価値化でしのぐのではなく、原価の発生する場所そのものを国外へ移したことにある。値札の安さで取引を得ていた会社にとって、値上げは取引先を失うことと同義であった。だとすれば残る道は、賃金の低い国へ組立を移し、部材の調達と売買の建て値をドル圏に揃えて、為替の振れが通り抜けにくい構造を作ることだけであった。海外市場向けの輸出と海外子会社からの仕入がともにドル建てで、差額分しか為替の影響を受けないという後年の説明は、その到達点を端的に示している。
ただ、その道のりは20年を超える長さで、台湾もシンガポールも英国も無錫も、いったん建てて畳んだ末の集約であった。国内では労使の対立が法廷に持ち込まれ、決着まで同じ20年を要している。撤退のたびに特別損失を計上しながら、生産方式の改善だけは各拠点に持ち回りで移植し続けた点に、この会社の粘りがうかがえる。もっとも、為替の外へ出た構造は、その後は中国という一つの生産地への依存として現れた。低価格の量産に最適化した体制が、次の技術世代でも同じ強さを保てるのか——1990年代末の高収益の裏には、その問いがすでに置かれていたと推察される。