船井電機変動相場制移行を機とした海外工場建設と生産の国外移転
ドル建て輸出の会社が円高に耐えるには——船井電機は工場そのものを国外へ動かした
- 概要
- 1971年のニクソンショックと1973年の変動相場制移行でドル建て輸出が打撃を受けたことを受け、船井哲良社長が為替対策として海外への工場進出を本格化させ、台湾・シンガポール・ドイツ・イギリスへ生産と販売の拠点を広げた判断。
- 背景
- 船井電機は1961年の設立時から製品をほとんど国内で売らず、米欧の大手メーカーや流通業者へのOEM供給に徹する輸出専業であった。取引はドル建てで、円高がそのまま採算を削る構造にあった。
- 内容
- 沖縄に続いて台湾・シンガポール・ドイツ・イギリスへ工場を置き、国内は7工場・製造部門1650人の体制を縮小した。1976年には幹部約100人をトヨタグループの工場へ研修に出し、そこから独自の生産方式FPSが生まれた。
- 含意
- 進出先の多くは後に閉鎖・縮小され、清算に伴う特別損失も計上された。試行錯誤の末に中国とマレーシアへ集約した生産体制が、1990年代後半の高収益と北米での低価格量産を支えた。
為替から逃げるのではなく、為替の外へ出る
この判断の中心にあるのは、円高を価格転嫁や高付加価値化でしのぐのではなく、原価の発生する場所そのものを国外へ移したことにある。値札の安さで取引を得ていた会社にとって、値上げは取引先を失うことと同義であった。だとすれば残る道は、賃金の低い国へ組立を移し、部材の調達と売買の建て値をドル圏に揃えて、為替の振れが通り抜けにくい構造を作ることだけであった。海外市場向けの輸出と海外子会社からの仕入がともにドル建てで、差額分しか為替の影響を受けないという後年の説明は、その到達点を端的に示している。
ただ、その道のりは20年を超える長さで、台湾もシンガポールも英国も無錫も、いったん建てて畳んだ末の集約であった。国内では労使の対立が法廷に持ち込まれ、決着まで同じ20年を要している。撤退のたびに特別損失を計上しながら、生産方式の改善だけは各拠点に持ち回りで移植し続けた点に、この会社の粘りがうかがえる。もっとも、為替の外へ出た構造は、その後は中国という一つの生産地への依存として現れた。低価格の量産に最適化した体制が、次の技術世代でも同じ強さを保てるのか——1990年代末の高収益の裏には、その問いがすでに置かれていたとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
ドル建て一本の輸出専業メーカー
船井電機は1961年8月、船井軽機工業のラジオ部門を分離するかたちで大阪市生野区に設立された。設立の2年前から輸出用トランジスタラジオを手掛けていたため、会社の発足と同時に量産と輸出の体制が動いていた。製品を国内でほとんど売らず、GEやフィリップスといった米欧の大手電機メーカー、シアーズ・ローバックなどの大手流通業者へのOEM供給に徹し、「低価格、安定した品質、納期の正確さ」の3点を取引の武器とした。海外進出も早く、1960年に米軍統治下の沖縄へ最初の拠点を置いている[1][2]。
この商売のかたちは、為替をそのまま損益に通す構造でもあった。輸出も海外子会社からの仕入もほぼ米ドル建てで、円が上がれば手取りが目減りする。1971年8月のニクソンショックによる円高は、ドル建て輸出に頼る船井電機を直撃した。船井哲良社長は後年、この時期からの20年余りを振り返って、国際競争力を失えば輸出メーカーはたちまち潰れるという危機感のもとで自力で生き残る道を探し続け、一時は1ドル60円の水準にも耐える体制を検討したと語っている[3]。
国内7工場・1650人という重さ
当時の生産は国内に集まっていた。1960年代の船井電機は国内に7工場を構え、製造部門だけで1650人を抱えていた。人件費が上がり円が切り上がれば、この体制のまま低価格のOEMを続けることは難しくなる。1964年には広島県深安郡(現福山市)に生産子会社の中国船井電機を設けるなど、国内の生産能力をむしろ増やしてきた会社にとって、生産をどこに置くかという問いは経営の中心へ移った[4][5]。
円高への向き合い方には、値上げ、原価低減、製品の高級化といった選択肢もあった。ただ、船井電機の取引先は米欧の量販店と大手メーカーであり、値札の安さそのものが取引の条件になっていた。品質と納期を保ったまま値段を下げ続けるには、原価のうち人件費の比重が高い組立工程を、賃金の低い国へ移すほかない。1971年以降の円高のたびに業績が振れる経験を重ねたことが、生産の海外移転という判断を押し出した[6]。
決断
工場を国外へ動かす
1973年2月に日本が変動相場制へ移行すると、船井社長は為替対策として海外への工場進出を本格化させた。沖縄に続いて台湾へ工場を置き、さらにシンガポール、ドイツ、イギリスへと生産と販売の拠点を広げた。国内工場の生産をそのまま持ち出すのではなく、進出先ごとに人を集めて立ち上げ、うまくいかなければ閉じるという試行を重ねている。船井社長自身、海外のどこにでも工場を作れば業績に結びつくわけではないと述べ、この時期を試行錯誤の連続として振り返った[7]。
販売の拠点も同じ時期に前へ出た。1980年6月にはドイツ・ハンブルクへ欧州の販売拠点FUNAI ELECTRIC TRADING(EUROPE)GmbHを設立し、欧州向けの窓口を現地に置いた。生産を海外へ移せば、部材の調達も為替の建て値も現地の通貨圏で完結させやすくなる。本社と海外子会社の取引をすべて米ドル建てに揃え、輸出入の差額分だけが為替変動を受ける形に近づけたことが、後年の収益の安定につながった[8][9]。
トヨタ研修から生まれた生産方式と、20年の労使対立
移転と同時に、作り方そのものにも手が入った。円高に苦しむさなかの1976年、船井社長は幹部社員約100人をトヨタグループの工場へ3カ月間の研修に送り出した。かんばん方式を持ち帰った幹部たちは、これを家電の組立ラインに合わせて作り替えた。ラインの速度をあえて作業員の限界近くまで上げ、止まった箇所から隠れた不良や無駄を洗い出して毎日改善する——のちにFPS(フナイ・プロダクション・システム)と呼ばれる方式である。研修を率いた安村元彬氏は、日野のラインにはやり抜かなければ会社がなくなるという危機感が満ちていたと回想している[10][11]。
国内側の縮小は、そのまま労使の対立になった。生産の海外移転に伴う人員削減をめぐって労働組合との争いは法廷に持ち込まれ、決着まで20年に及んだ。1960年代に7工場・1650人だった製造部門が3工場・約300人になったのは1990年代初めであり、判断から結果までに20年近くを要した計算になる。船井社長は後年、輸出専業として出発した会社が変動相場制移行を受けてリストラに着手し、組合との対立を経ながら改革を続けた結果、スリムな経営体質が身についたと語っている[12][13]。
結果
撤退の連続を経て中国・マレーシアへ集約
広げた拠点の多くは、そのまま残らなかった。欧州ではビデオがダンピング課税の対象に指定され、1992年に英国工場が閉鎖に追い込まれた。台湾とシンガポールの工場も閉鎖し、中国・無錫の合弁会社は資本金を放棄して撤退している。これらの整理に伴う海外子会社の清算損などは特別損失として計上され、売上高や経常利益が伸びる一方で当期純利益が落ち込む期が続いた。処理を終えた1998年6月期に、船井電機の連結決算はようやく素の姿に戻った[14][15]。
残ったのは、中国の3工場とマレーシアという構えであった。1992年3月に香港へ設けた嘉財実業有限公司が広東省での委託加工を担い、部品も香港の調達センターを通じて金額の9割以上を米ドル建てで買い付ける仕組みが整った。1999年2月の会社説明会で船井社長は、海外生産比率も輸出比率も9割に達し、国内生産は1割にすぎないと説明している。同じ1999年6月期の連結は営業利益率8.7%、ROE40.7%で、松下電器産業やシャープを上回る収益性を示した。工場を動かし続けた四半世紀の到達点であった[16][17]。
- 日経ビジネス 1990年3月12日号「船井電機 国内市場で発揮できない『強さ』」
- 日経ビジネス 1999年11月15日号「船井電機 プリンター絶好調、ROE40%の優良企業」
- 証券アナリストジャーナル 1999年3月号(船井電機 会社説明会・船井哲良社長)
- 週刊東洋経済 2002年1月19日号「特集 不屈の経営者21人の神髄 船井電機 船井哲良社長」
- 週刊東洋経済 2002年12月14日号「特集 船井電機の選択 世界最強のAV家電 アジア勢に勝ち続ける理由」
- 週刊東洋経済 2006年9月23日号「ビジネスリポート 北米家電市場の“覇者”船井電機 常勝『フナイの方程式』液晶テレビで初の試練」
- 船井電機 有価証券報告書【沿革】