メイコー香港・中国広東省を拠点とする海外生産への移行
円高で受注を失った国内専業メーカーが、なぜ顧客より先に生産を中国へ移したか
- 概要
- 1998年8月に香港へ名幸電子香港有限公司を、同年12月に中国広東省南沙地区へ名幸電子(番禺南沙)有限公司を設立し、2001年1月に広州工場の操業を始めた経営判断。国内5工場体制の専業メーカーが、生産そのものを中国へ移した。
- 背景
- 1985年のプラザ合意後の円高で顧客の生産が海外へ移り、メイコーは創業来初の赤字を計上していた。国内に工場を置いたまま円高と国内コストにさらされる状態が、1990年代を通じて続いた。
- 内容
- 香港法人は海外メーカーとの取引拡大と資材調達を担い、同年12月には現地基板メーカーのサンティス社と合弁で中国投資目的の名幸亞洲有限公司も設けた。広東省南沙の製造法人は、生産能力の拡大と生産コストの引き下げを目的として設立された。
- 含意
- 広州工場は2004年3月に第二工場を完成させ、2005年7月には湖北省武漢へ第二の製造法人を置いた。海外売上高比率は2005年3月期の32.5%から2006年3月期に36.2%へ上がり、2025年3月期にはベトナムの有形固定資産が648億円と国内を上回る規模に達している。
出ていく側に回るということ
1985年の円高で同社が失ったのは注文であって、技術でも設備でもなかった。顧客の工場が海を渡っただけで、国内に残った基板メーカーは仕事の届かない場所に立たされる。1998年の香港・広東省への進出は、その経験に対する13年越しの答えにあたる。取引と調達の窓口を香港に置き、量産の工場を南沙に建て、稼働まで2年を待つという運びには、値段だけを追って出ていく身軽さとは違う重さがうかがえる。
興味深いのは、同じ判断が二度繰り返された点である。中国の生産が主力になった直後の2007年、同社はベトナムに次の会社を作った。広州で確立した、現地スタッフを日本で育てて工場を任せるという運営の型が、そのままハノイへ移されている。移すのは設備ではなく運営の型だと考えれば、拠点が中国からベトナムへ動いても失われるものは少ない。2025年3月期にベトナムの有形固定資産が中国の2.5倍になった数字は、その積み重ねの現在地を示している。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
顧客が先に出ていった10年
メイコーが海外に生産を持つ前に、顧客のほうが日本を出ていた。1985年のプラザ合意後の急速な円高で家電各社の生産が海外へ移り、国内の基板メーカーには注文が届かなくなる。創業10周年を迎えた同社は受注が激減して創業来初の赤字を計上し、取引先だけでなく競合他社にも発注を頼み込む状況に追い込まれた。名屋佑一郎社長は創業50年を振り返って、この時期が最も苦しかったと語っている[1]。
それでも1990年代の同社は国内で工場を足し続けた。1990年6月に福島工場を新設し、1991年4月に商号を株式会社メイコーへ改める。1997年11月には山形工場の敷地内にビルドアップ新工法による基板製造の建屋を新築した。神奈川・山形・福島に生産を並べ、層数と工法で付加価値を上げる作り方であり、為替の水準そのものへの答えにはなっていなかった[2]。
為替に振られない作り方を探す
1990年代後半の同社は、国内で高い工法を磨きながら、価格では顧客の海外調達先と比べられていた。基板は最終製品の中核機能を構成する部品で、顧客であるセットメーカーの業界動向が受注をそのまま左右する。顧客の工場が中国と東南アジアへ動いたあとで日本にだけ生産を置く限り、輸送と為替の分だけ不利が残った[3]。
同社のIR担当者は後年、中国進出のねらいを「為替変動に左右されない経営」の実現と説明している。円高のたびに国内受注が細る構造から抜けるには、顧客の隣で作るしかない。1998年時点で中国に工場を持つ日本のプリント配線板メーカーは多くなく、同業他社に先駆けた進出にあたった[4]。
決断
香港に二つの法人を置く
1998年8月、メイコーは海外メーカーとの取引の拡大と資材の調達等を目的として、香港に名幸電子香港有限公司を設立した。工場ではなく、商流と調達の窓口である。同年12月には中国への投資を目的として、現地基板メーカーのサンティス社と合弁で香港に名幸亞洲有限公司を設けた。中国本土へ資本を入れる前に、取引・調達・投資の三つの機能を香港側に置いた組み立てであった[5]。
香港法人の設立は、1997年11月にビルドアップ新工法の建屋を国内に建てた9カ月後にあたる。国内では工法を上げ、海外では取引と調達の足場を作るという二方向の投資が同時に進んでいた。高い工法を国内で立ち上げ、量産の場を海外に置くという後年の分業は、この年に形をとりはじめた[6]。
広東省南沙に工場を持つ
1998年12月、中国広東省南沙地区にプリント配線板の製造を目的として名幸電子(番禺南沙)有限公司(現・名幸電子(広州南沙)有限公司)を設立した。有価証券報告書は、この現地法人の設立目的を「生産能力の拡大と生産コストの引き下げ」と記している。国内工場の補助ではなく、量産をそこへ移すための会社であった。工場の操業開始は2001年1月で、設立から2年余りを建設に充てている[7]。
立ち上げの方法にも特徴があった。同社は広州工場の立ち上げから、現地スタッフを日本へ派遣してものづくりを学ばせ、帰国後に工場の運営にあたらせるという循環を続けている。海外工場の運営を現地スタッフに任せる体制はこの積み重ねの成果で、後年のベトナムでの新工場建設にも用いられた。設備を移すだけでなく、運営者を現地で育てる前提が最初から置かれていた[8]。
結果
広州から武漢へ、5年で主力が動く
広州工場は2001年1月の稼働後、需要の増加に合わせて2004年3月に第二工場を完成させ、2006年3月期には第二工場の第二ラインを本格稼働させて月産20万平方メートル体制を組んだ。さらに生産能力を広げるため、2005年7月に湖北省武漢市へ名幸電子(武漢)有限公司を設立し、2006年6月に武漢工場を完成させている。2006年3月期の連結従業員数は5,853名で、前期から1,821名増えた。増員のほとんどは広州と武漢の製造工程であった[9][10]。
数字にも表れた。海外売上高比率は2005年3月期の32.5%から2006年3月期に36.2%へ上がり、連結売上高は同期に503億円へ届いている。中国生産を持たなかった時期の同社は国内5工場の受注に業績を委ねていたが、進出から7年で売上の3分の1超が海外の顧客からのものになった。中国での操業に伴う為替・法制・衛生上のリスクは、この時期から有価証券報告書の事業等のリスクに列挙されている[11]。
中国からベトナムへ、もう一度動かす
中国生産が軌道に乗った2007年1月、同社はベトナムハノイ市にMeiko Electronics Vietnam Co. Ltd.を設立した。2009年4月にEMS工場、2011年11月にPCB工場が稼働し、2014年8月にはハノイでMeiko Electronics Thang Long Co. Ltd.を設立している。1998年に中国へ移したときと同じ理屈が、10年足らずで次の国にも適用された[12]。
2025年3月期の有形固定資産は、ベトナムが648億円で日本の388億円・中国の257億円を上回った。顧客所在地別の売上高では日本746億円に対しベトナム421億円・中国345億円・米国248億円が並ぶ。2024年には米国の対中関税強化を見越した「脱中国」需要の受け皿としてベトナム工場が評価され、株価は2023年末比で2倍を超えた。中国へ先に出た会社が、次は中国以外を持つ会社として選ばれている[13][14]。
- メイコー 有価証券報告書【沿革】
- メイコー 有価証券報告書(2006年3月期)【対処すべき課題】【事業等のリスク】
- メイコー 有価証券報告書(2006年3月期)【従業員の状況】
- メイコー 有価証券報告書(2006年3月期・連結)【海外売上高】
- メイコー 有価証券報告書(2025年3月期・連結)【セグメント情報等】
- メイコー 統合報告書2025(MEIKO corporate report 2025)
- 東京海上アセットマネジメント スポットレポート(2025年3月)
- 日本経済新聞(2024年12月)「プリント基板のメイコー、株価2倍の快進撃 脱中国で先見の明」