ヒロセ電機 の歴史

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創業 1937年
創業者 広瀬銈三
創業地 東京都赤坂区
創業
1937年8月、広瀬銈三氏が東京市赤坂区榎坂町で広瀬商会を創立した。電気絶縁物と通信機部品の製造を目的とし、軍需と民需の境が曖昧だった戦前の通信機部品市場への参入から始まっている。1945年4月には戦時疎開のため神奈川県足柄下郡湯河原町に初の自社工場を設け、1948年6月に株式会社広瀬商会製作所へ改組、同年10月にこの湯河原工場で丸形・角形・同軸コネクタの生産を始めた。1959年に防衛庁と米軍規格の認定を受け、1965年には日本電信電話公社のボタン電話用コネクタへ採用されて、1967年5月期に年間売上高10億円を超える。1963年8月に社名をヒロセ電機株式会社へ改めた。
決断
品目も資本も外へ開かず、コネクタ一品で通した。1972年12月、外資の出資を受けないまま東証二部へ上場した。当時の販売高は業界2位・シェア15.9%で、上位5社のうち4社が外資との合弁か技術提携であるなか、純国産のメーカーは同社だけだった。1980年9月には米国現地法人を設立して海外拠点網を始め、以後は取引先の電機メーカーが生産と設計を海外へ移すのに合わせ、販売会社を先に置いてから生産拠点を続ける順序で拠点網を広げている。1985年に設立した韓国合弁は2010年12月から持分を段階的に取得し、2015年1月に完全子会社化を終えた。外資との提携を選ばずに資本を公開市場から取ったことが、製品の仕様と価格を決める裁量を自社に残した。
現況
営業利益率20%を保ちながら、稼ぐ先をスマートフォンから広げ直している。2026年3月期の連結売上収益は2,112億円、営業利益430億円、純利益331億円といずれも過去最高で、多極コネクタが売上1,858億円・営業利益367億円、同軸コネクタが183億円・58億円を占めた。無借金で自己資本比率80%超の財務のもと、2024年3月に盛岡の東北アドバンスト・テクノロジーセンター、6月に郡山の新工場、12月にヒロセコリアの精密センター新棟と、生産と開発の拠点を続けて更新している。スマートフォン1台あたりの実装密度で伸ばした収益を車載電動化・産業機器・データセンターへ移す作業が、2025年6月に就任した鎌形伸社長の課題として残った。
競合
上位5社のうち外資の資本も技術も入れなかったのは、ヒロセ電機だけだった。1973年1月、酒井秀樹社長は日本証券アナリスト協会で、米国の上位7社がすべて日本へ入り、日本側にも日本電気・古河電工・住友電工が並ぶと説明している。そのうえで、大手電機でも自主技術ではコネクタを生産できず、日本電気が子会社の日本航空電子工業を設立して技術を導入したのに対し、納入率では自社が上回ると述べた。その日本航空電子工業が2017年に日本電気の公開買付けで親会社を持つ会社になった一方、ヒロセ電機は無借金のまま製品の仕様を自社で決める位置に残っている。
ヒロセ電機:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 戦前創業の広瀬商会から戦後コネクタ専業メーカーへの転身 (1937年〜)

1937年──広瀬銈三氏による創業

1937年8月、東京市赤坂区榎坂町において、初代社長・広瀬銈三氏が広瀬商会を創立した[1][2]。設立目的は『電気絶縁物並びに通信機部品の製造販売』[引用元][3]、戦前の通信機器産業(陸軍・海軍向け通信機部品、民間放送機器部品)の中核部品としての電気絶縁物・通信機部品が出発点である。日中戦争開始直後の時期で、軍需と民需の境界が曖昧だった戦前期の通信機部品市場における新規参入が、ヒロセ電機の創業の出発点となった。広瀬家による同族経営の起点でもある。

  • ヒロセ電機 有価証券報告書【沿革】
    • [1]創業者は初代社長・広瀬銈三
    • [2]創業時の社名は広瀬商会、所在地は東京市赤坂区榎坂町
    • [3]1937年8月 初代社長・広瀬銈三が東京市赤坂区榎坂町で広瀬商会を創立(電気絶縁物並びに通信機部品の製造販売)

1945年4月、神奈川県足柄下郡湯河原町に湯河原工場を設置した。これは初の自社工場で[4]、戦時下の物資統制と空襲被害を避けるための地方分散型の生産拠点配置である。終戦後の1948年6月、株式会社組織に改め社名を株式会社広瀬商会製作所と称し、本社を東京都大田区に設置した[5]。創業11年で株式会社化を経て、戦後の電子機器産業(ラジオ受信機・テレビ受信機・通信機器)の急成長期に対応する組織形態を整えた。同年10月には湯河原工場で丸形・角形・同軸コネクタの生産を開始[6]、戦後のコネクタ事業の出発点となった。

  • ヒロセ電機 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1945年4月 神奈川県足柄下郡湯河原町に湯河原工場を設置(初の自社工場)
    • [5]1948年6月 株式会社組織に改め社名を株式会社広瀬商会製作所とし本社を東京都大田区に設置
    • [6]1948年10月 湯河原工場で丸形・角形・同軸コネクタの生産を開始(コネクタ事業の出発点)
  • ヒロセ電機 有価証券報告書【沿革】
    • [1]創業者は初代社長・広瀬銈三
    • [2]創業時の社名は広瀬商会、所在地は東京市赤坂区榎坂町
    • [3]1937年8月 初代社長・広瀬銈三が東京市赤坂区榎坂町で広瀬商会を創立(電気絶縁物並びに通信機部品の製造販売)
    • [4]1945年4月 神奈川県足柄下郡湯河原町に湯河原工場を設置(初の自社工場)
    • [5]1948年6月 株式会社組織に改め社名を株式会社広瀬商会製作所とし本社を東京都大田区に設置
    • [6]1948年10月 湯河原工場で丸形・角形・同軸コネクタの生産を開始(コネクタ事業の出発点)

コネクタ専業メーカーへの転身

戦後の高度成長期にあたる1953年2月、本社を東京都品川区に移転[7]、1954年7月には東京都大田区に下丸子工場を新設して生産能力を増強した[8]。1963年8月、社名をヒロセ電機株式会社に改称し、現社名が確立[9]された。創業26年で『広瀬商会』から『ヒロセ電機』への商号統一を完了し、戦前期の創業社名からコネクタ専業メーカーとしてのブランドを整えた。

  • ヒロセ電機 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1953年2月 本社を東京都品川区に移転
    • [8]1954年7月 東京都大田区に下丸子工場を新設
    • [9]1963年8月 社名をヒロセ電機株式会社に改称(現社名の確立)

1966年12月の東京都品川区大崎工場新設[10]、1967年6月の横浜市港北区菊名工場新設[11]を経て、1970年代の半導体・電子機器産業の成長期に重ねて、コネクタ専業メーカーとしての国内生産体制を整えた。1972年12月、東京証券取引所市場第二部に上場し[12]、創業35年で公開市場への移行を完了した。

  • ヒロセ電機 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1966年12月 東京都品川区に大崎工場を新設
    • [11]1967年6月 横浜市港北区に菊名工場を新設
    • [12]1972年12月 東京証券取引所市場第二部に上場
  • ヒロセ電機 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1953年2月 本社を東京都品川区に移転
    • [8]1954年7月 東京都大田区に下丸子工場を新設
    • [9]1963年8月 社名をヒロセ電機株式会社に改称(現社名の確立)
    • [10]1966年12月 東京都品川区に大崎工場を新設
    • [11]1967年6月 横浜市港北区に菊名工場を新設
    • [12]1972年12月 東京証券取引所市場第二部に上場

防衛庁認定とボタン電話用コネクタによる飛躍

創業後はまず通信機器の電源用に使う丸形コネクタの開発に成功し、続いて機器内部用の角形コネクタ、高周波用の同軸コネクタへと製品系列を広げた。1959年には同社のコネクタが防衛庁および米軍規格の認定を受け[13]、1963年に独自開発した『ミニコン1300シリーズ』が欧米製コネクタと比べて遜色ないと評価され[14]、専業メーカーとしての技術的地位を固めた。同シリーズは1965年に日本電信電話公社のボタン電話用コネクタへ採用されて量産体制が整い[15]、1966年からは公社認定メーカー3社の一角としてボタン電話専用コネクタの納入を開始、これを契機に売上は急増し、1967年5月期には年間売上高10億円を突破した[16]

  • 証券(東京証券取引所総務部)1972年12月号(24巻12号)
    • [13]1959年(昭和34年)同社コネクタが防衛庁および米軍規格の認定を取得
    • [14]1963年(昭和38年)独自開発の「ミニコン1300シリーズ」が欧米製コネクタと遜色ないと評価
    • [16]1966年(昭和41年)公社認定メーカー3社の一角でボタン電話専用コネクタ納入開始→1967年5月期に年間売上高10億円突破
  • 証券アナリストジャーナル(日本証券アナリスト協会)1973年2月号(11巻2号)
    • [15]1965年(昭和40年)ミニコン1300シリーズが日本電信電話公社のボタン電話用コネクタに採用され量産体制を確立

1967年には電子計算機需要をにらんで国産初のプリント基板用コネクタを自社技術で開発し、これが1969年の卓上計算機ブームに合致して業績を飛躍させた[17]。1968年にはメキシコ五輪向けの通信衛星インテルサット3号計画に同社の同軸コネクタ(HRM)が大量採用され[18]、製品の優秀性が国際的に示された。同年8月には米国チェリー社とアジア地域を含む国内販売代理店契約を結び[19]、コネクタ以外の製品としてマイクロスイッチの販売も始めた。こうして通信・計測から計算機まで用途を広げ、コネクタ専業メーカーとしての事業基盤を確立した。

  • 証券(東京証券取引所総務部)1972年12月号(24巻12号)
    • [17]1967年(昭和42年)国産初のプリント基板用コネクタを自社開発→1969年(昭和44年)卓上計算機ブームで業績飛躍
    • [18]1968年(昭和43年)メキシコ五輪向け通信衛星インテルサット3号計画に同社の同軸コネクタ(HRM)が大量採用
    • [19]1968年8月 米国チェリー社とアジア地域を含む国内販売代理店契約を締結しマイクロスイッチ販売を開始

1971年5月(昭和46年)、創業者で初代社長の広瀬銈三が死去し[20]、創業家による同族経営は次代へ引き継がれた。1972年12月の東証二部上場の前後で、同社は産業用コネクタを主力とし、売上の大半を直接受注によって日本電信電話公社・日本電気・松下通信工業・三菱電機・日立製作所など大手電機向けに納めていた[21]。コネクタ業界での販売高は第2位・シェア15.9%で、上位[22]5社のうち4社が外資との合弁や技術提携であるなか、同社は唯一の純国産メーカーであった。下丸子・菊名・大崎・湯河原の4工場を構え、従業員は1972年5[23]月期末で628人を数えた。

  • 証券アナリストジャーナル(日本証券アナリスト協会)1973年2月号(11巻2号)
    • [20]1971年5月(昭和46年)創業者で初代社長の広瀬銈三が死去
  • 証券(東京証券取引所総務部)1972年12月号(24巻12号)
    • [21]主要販売先は日本電信電話公社・日本電気・松下通信工業・三菱電機・日立製作所など大手電機(直接受注中心)
    • [22]コネクタ業界販売高2位・シェア15.9%、上位5社で唯一の純国産メーカー
    • [23]下丸子・菊名・大崎・湯河原の4工場、従業員628人(1972年5月期末)
  • 証券(東京証券取引所総務部)1972年12月号(24巻12号)
    • [13]1959年(昭和34年)同社コネクタが防衛庁および米軍規格の認定を取得
    • [14]1963年(昭和38年)独自開発の「ミニコン1300シリーズ」が欧米製コネクタと遜色ないと評価
    • [16]1966年(昭和41年)公社認定メーカー3社の一角でボタン電話専用コネクタ納入開始→1967年5月期に年間売上高10億円突破
    • [17]1967年(昭和42年)国産初のプリント基板用コネクタを自社開発→1969年(昭和44年)卓上計算機ブームで業績飛躍
    • [18]1968年(昭和43年)メキシコ五輪向け通信衛星インテルサット3号計画に同社の同軸コネクタ(HRM)が大量採用
    • [19]1968年8月 米国チェリー社とアジア地域を含む国内販売代理店契約を締結しマイクロスイッチ販売を開始
    • [21]主要販売先は日本電信電話公社・日本電気・松下通信工業・三菱電機・日立製作所など大手電機(直接受注中心)
    • [22]コネクタ業界販売高2位・シェア15.9%、上位5社で唯一の純国産メーカー
    • [23]下丸子・菊名・大崎・湯河原の4工場、従業員628人(1972年5月期末)
  • 証券アナリストジャーナル(日本証券アナリスト協会)1973年2月号(11巻2号)
    • [15]1965年(昭和40年)ミニコン1300シリーズが日本電信電話公社のボタン電話用コネクタに採用され量産体制を確立
    • [20]1971年5月(昭和46年)創業者で初代社長の広瀬銈三が死去

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ヒロセ電機の沿革1937〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1937〜1973年戦前創業の広瀬商会から戦後コネクタ専業メーカーへの転身広瀬銈三氏が東京市赤坂区に広瀬商会を創立
電気絶縁物と通信機部品の製造販売を開始
湯河原工場を新設
組織に改め社名を広瀬商会製作所と称し本社を設置
湯河原工場で丸形・角形・同軸コネクタの生産を開始★★
本社を移転
下丸子工場を新設
社名をヒロセ電機に商号変更
大崎工場を新設
菊名工場を新設
外資と組まない純国産コネクタ専業のまま東証二部へ上場

1972年12月、ヒロセ電機が東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した経営判断。上場の意思は1970年に固まり、創業者の広瀬銈三氏の病中に社長を代行していた酒井秀樹氏が主導した。創業から35年、株式会社への改組から24年が経っていた。

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★★★
1974〜2010年海外展開と東証一部昇格──コネクタ専業の世界化東北ヒロセ電機を設立
米国現地法人の設立から始めた海外拠点網の構築

1980年9月に米国現地法人ヒロセエレクトリック(U.S.A.),INC.を設立し、以後30年余りにわたって韓国・欧州・東南アジア・中国・インドへ拠点を継ぎ足していった一連の判断。単年の出来事ではなく、1980年代から2010年代にかけて面として固まった海外戦略にあたる。

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★★★
東京証券取引所市場第一部に上場
韓国大徳産業との合弁でヒロセコリアを設立
西独にヒロセエレクトリックGmbHを設立
ヒロセエレクトリックマレーシアSdn.Bhd.を設立
一関工場を新設
中華民国に台廣電子股份有限公司を設立
中村達朗一関ヒロセ電機を設立
中村達朗P.T.ヒロセエレクトリックインドネシアを設立
中村達朗廣瀬香港有限公司を設立
中村達朗広瀬電機(東莞)有限公司を設立
中村達朗博瀬電機貿易(上海)有限公司を設立
中村達朗ヒロセエレクトリックヨーロッパB.V.を設立
中村達朗広瀬電機(蘇州)有限公司を設立
中村達朗ヒロセエレクトリックシンガポール Ptd Ltdを設立
中村達朗29年続いた韓国合弁ヒロセコリアの段階的な買い増しと完全子会社化

2010年12月にヒロセコリアの株式25%を追加取得して出資比率を75%とし連結子会社化、2012年11月に約22%(計約97%)、2015年1月に約3%を買い増して100%子会社とした一連の判断。1985年10月に韓国の大徳産業と設立した合弁は、29年を経て完全子会社となった。

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★★★
2011〜2025年スマートフォン依存からの分散と外部社長就任中村達朗新総合拠点・横浜センターを新設
石井和徳ヒロセエレクトリックインドPvt Ltdを設立
石井和徳ヒロセエレクトリックマーケティングマレーシアSdn Bhdを設立
石井和徳本社を移転し横浜センターを本社に商号変更
石井和徳東北アドバンスト・テクノロジーセンターを設立
石井和徳工場を新設し郡山ヒロセ電機を移転
石井和徳ヒロセコリアに精密センター新棟を設立
出典・参考
  • ヒロセ電機 有価証券報告書【沿革】
  • 証券(東京証券取引所総務部)1972年12月号(24巻12号)
  • 証券アナリストジャーナル(日本証券アナリスト協会)1973年2月号(11巻2号)

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