1937年8月、東京市赤坂区榎坂町において、初代社長・広瀬銈三氏が広瀬商会を創立した[1][2]。設立目的は『電気絶縁物並びに通信機部品の製造販売』[引用元]で[3]、戦前の通信機器産業(陸軍・海軍向け通信機部品、民間放送機器部品)の中核部品としての電気絶縁物・通信機部品が出発点である。日中戦争開始直後の時期で、軍需と民需の境界が曖昧だった戦前期の通信機部品市場における新規参入が、ヒロセ電機の創業の出発点となった。広瀬家による同族経営の起点でもある。
1945年4月、神奈川県足柄下郡湯河原町に湯河原工場を設置した。これは初の自社工場で[4]、戦時下の物資統制と空襲被害を避けるための地方分散型の生産拠点配置である。終戦後の1948年6月、株式会社組織に改め社名を株式会社広瀬商会製作所と称し、本社を東京都大田区に設置した[5]。創業11年で株式会社化を経て、戦後の電子機器産業(ラジオ受信機・テレビ受信機・通信機器)の急成長期に対応する組織形態を整えた。同年10月には湯河原工場で丸形・角形・同軸コネクタの生産を開始[6]、戦後のコネクタ事業の出発点となった。
戦後の高度成長期にあたる1953年2月、本社を東京都品川区に移転[7]、1954年7月には東京都大田区に下丸子工場を新設して生産能力を増強した[8]。1963年8月、社名をヒロセ電機株式会社に改称し、現社名が確立[9]された。創業26年で『広瀬商会』から『ヒロセ電機』への商号統一を完了し、戦前期の創業社名からコネクタ専業メーカーとしてのブランドを整えた。
1966年12月の東京都品川区大崎工場新設[10]、1967年6月の横浜市港北区菊名工場新設[11]を経て、1970年代の半導体・電子機器産業の成長期に重ねて、コネクタ専業メーカーとしての国内生産体制を整えた。1972年12月、東京証券取引所市場第二部に上場し[12]、創業35年で公開市場への移行を完了した。
創業後はまず通信機器の電源用に使う丸形コネクタの開発に成功し、続いて機器内部用の角形コネクタ、高周波用の同軸コネクタへと製品系列を広げた。1959年には同社のコネクタが防衛庁および米軍規格の認定を受け[13]、1963年に独自開発した『ミニコン1300シリーズ』が欧米製コネクタと比べて遜色ないと評価され[14]、専業メーカーとしての技術的地位を固めた。同シリーズは1965年に日本電信電話公社のボタン電話用コネクタへ採用されて量産体制が整い[15]、1966年からは公社認定メーカー3社の一角としてボタン電話専用コネクタの納入を開始、これを契機に売上は急増し、1967年5月期には年間売上高10億円を突破した[16]。
1967年には電子計算機需要をにらんで国産初のプリント基板用コネクタを自社技術で開発し、これが1969年の卓上計算機ブームに合致して業績を飛躍させた[17]。1968年にはメキシコ五輪向けの通信衛星インテルサット3号計画に同社の同軸コネクタ(HRM)が大量採用され[18]、製品の優秀性が国際的に示された。同年8月には米国チェリー社とアジア地域を含む国内販売代理店契約を結び[19]、コネクタ以外の製品としてマイクロスイッチの販売も始めた。こうして通信・計測から計算機まで用途を広げ、コネクタ専業メーカーとしての事業基盤を確立した。
1971年5月(昭和46年)、創業者で初代社長の広瀬銈三が死去し[20]、創業家による同族経営は次代へ引き継がれた。1972年12月の東証二部上場の前後で、同社は産業用コネクタを主力とし、売上の大半を直接受注によって日本電信電話公社・日本電気・松下通信工業・三菱電機・日立製作所など大手電機向けに納めていた[21]。コネクタ業界での販売高は第2位・シェア15.9%で、上位[22]5社のうち4社が外資との合弁や技術提携であるなか、同社は唯一の純国産メーカーであった。下丸子・菊名・大崎・湯河原の4工場を構え、従業員は1972年5[23]月期末で628人を数えた。
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|---|---|---|---|---|
| 1937〜1973年戦前創業の広瀬商会から戦後コネクタ専業メーカーへの転身 | 広瀬銈三氏が東京市赤坂区に広瀬商会を創立 | ★ | ||
| 電気絶縁物と通信機部品の製造販売を開始 | ★ | |||
| 湯河原工場を新設 | ★ | |||
| 組織に改め社名を広瀬商会製作所と称し本社を設置 | ★ | |||
| 湯河原工場で丸形・角形・同軸コネクタの生産を開始 | ★★ | |||
| 本社を移転 | ★ | |||
| 下丸子工場を新設 | ★ | |||
| 社名をヒロセ電機に商号変更 | ★ | |||
| 大崎工場を新設 | ★ | |||
| 菊名工場を新設 | ★ | |||
| 外資と組まない純国産コネクタ専業のまま東証二部へ上場 1972年12月、ヒロセ電機が東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した経営判断。上場の意思は1970年に固まり、創業者の広瀬銈三氏の病中に社長を代行していた酒井秀樹氏が主導した。創業から35年、株式会社への改組から24年が経っていた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 1974〜2010年海外展開と東証一部昇格──コネクタ専業の世界化 | 東北ヒロセ電機を設立 | ★ | ||
| 米国現地法人の設立から始めた海外拠点網の構築 1980年9月に米国現地法人ヒロセエレクトリック(U.S.A.),INC.を設立し、以後30年余りにわたって韓国・欧州・東南アジア・中国・インドへ拠点を継ぎ足していった一連の判断。単年の出来事ではなく、1980年代から2010年代にかけて面として固まった海外戦略にあたる。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部に上場 | ★ | |||
| 韓国大徳産業との合弁でヒロセコリアを設立 | ★ | |||
| 西独にヒロセエレクトリックGmbHを設立 | ★ | |||
| ヒロセエレクトリックマレーシアSdn.Bhd.を設立 | ★ | |||
| 一関工場を新設 | ★ | |||
| 中華民国に台廣電子股份有限公司を設立 | ★ | |||
| 中村達朗 | 一関ヒロセ電機を設立 | ★ | ||
| 中村達朗 | P.T.ヒロセエレクトリックインドネシアを設立 | ★ | ||
| 中村達朗 | 廣瀬香港有限公司を設立 | ★ | ||
| 中村達朗 | 広瀬電機(東莞)有限公司を設立 | ★ | ||
| 中村達朗 | 博瀬電機貿易(上海)有限公司を設立 | ★ | ||
| 中村達朗 | ヒロセエレクトリックヨーロッパB.V.を設立 | ★ | ||
| 中村達朗 | 広瀬電機(蘇州)有限公司を設立 | ★ | ||
| 中村達朗 | ヒロセエレクトリックシンガポール Ptd Ltdを設立 | ★ | ||
| 中村達朗 | 29年続いた韓国合弁ヒロセコリアの段階的な買い増しと完全子会社化 2010年12月にヒロセコリアの株式25%を追加取得して出資比率を75%とし連結子会社化、2012年11月に約22%(計約97%)、2015年1月に約3%を買い増して100%子会社とした一連の判断。1985年10月に韓国の大徳産業と設立した合弁は、29年を経て完全子会社となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2011〜2025年スマートフォン依存からの分散と外部社長就任 | 中村達朗 | 新総合拠点・横浜センターを新設 | ★ | |
| 石井和徳 | ヒロセエレクトリックインドPvt Ltdを設立 | ★ | ||
| 石井和徳 | ヒロセエレクトリックマーケティングマレーシアSdn Bhdを設立 | ★ | ||
| 石井和徳 | 本社を移転し横浜センターを本社に商号変更 | ★ | ||
| 石井和徳 | 東北アドバンスト・テクノロジーセンターを設立 | ★ | ||
| 石井和徳 | 工場を新設し郡山ヒロセ電機を移転 | ★ | ||
| 石井和徳 | ヒロセコリアに精密センター新棟を設立 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(ヒロセ電機)