1946年6月、馬渕健一氏は香川県高松市で関西理科研究所を創立し、小型モーターの開発に入った[1]。翌1947年には、直流モーターとして世界で初めて界磁にマグネットを用いた小型マグネットモーターを完成させ、主に教材用の模型モーターとして売り出した[2]。当時の玩具や模型の動力はゼンマイであり、巻き直すたびに手が止まった。電池とマグネットモーターの組み合わせはその手間を消し、関西理科研究所の製品はそのゼンマイに代わる動力として玩具・模型の分野へ入り込み[3]、以後の需要はこの用途から生まれた。馬渕健一氏は1984年の講演で、創業から30年にわたり直流マイクロモーターの専門メーカーとして、より良い製品をより安く安定的に供給することを掲げ、製品の開発・改良と生産合理化に努めてきたと述べている[4]。
1954年1月18日、東京都葛飾区に東京科学工業を設立し、小型マグネットモーターの本格的な製造と販売を始めた[5]。葛飾を選んだのは、当時の玩具・模型メーカーがこの一帯に集中していたためである[6]。1940年代の終わりから1950年代にかけて玩具・模型は輸出品として急速に増え、当初から製品を玩具・模型向けに売っていた東京科学工業は、業容を短期間で広げるとともに、玩具・模型業界に対する小型マグネットモーターの供給元として定着した[7]。玩具の一部として製品が海外へ渡ったことで、海外の玩具・模型メーカーにも早くから知られ、直接の輸出も始まった[8]。
機能を足すときは別会社を立てた。1955年8月には部品製造を目的とする日本科工を設立し[9]、同じ月に自動巻線機を自社で開発して生産力の増強とコスト低減を実現した[10]。1957年9月には輸出専門商社として馬渕商事を設立[11]。同社は1969年3月にマブチ国際通商へ商号を変え、1972年12月に本体へ吸収合併された[12]。モーターを作る機械を自分で作るという方針はこの時期に始まり、自動巻線機をはじめとする主要な生産機器は、以後も自社で開発・改良・製作した[13]。生産ラインの自動化と省力化は、この自社製の機器を土台にして進んだ[14]。
モーターの完成品と部品は、東京科学工業と日本科工という別々の法人が担っていた。分かれていた会社を束ね直したのは1958年である。増加する需要に対応する管理体制を確立するため、同年8月4日に馬渕工業を新たに設立し、東京科学工業と日本科工の営業を引き継いだ[15]。マブチモーターが法人として数えるのは、この馬渕工業の設立である[16]。商号はその後も動き、1959年4月に馬渕工業から東京科学へ、1971年3月には東京科学からマブチモーターへ変わって[17]、設立から13年をかけて創業者の姓を冠した社名に落ち着いた。
登記上の法人は、事業の履歴とは別に動いた。1963年10月1日には、株式額面変更のため東京科学が高松木材を存続会社として吸収合併された[18]。高松木材は1926年3月13日に設立された別会社であり、この合併によって登記上の設立日は大正期まで遡る[19]。ただし実質上の存続会社は被合併会社である東京科学のほうで、1987年の新規上場会社紹介も合併期日以前の記載は東京科学のものを載せている[20]。会社概要が掲げる設立日は1954年1月18日、公式の創業年は1946年であり[21]、会社の登記と事業の連続は、同じ年を指していない。有価証券報告書の沿革は1958年8月の馬渕工業設立から書き起こしており、高松木材との合併には触れていない[22]。
もう一つ、この時期に借入をしないという原則が固まった。原則は数字にそのまま出て、1985年12月期の株主資本比率は87.0%、借入金はゼロ、現金預金は123億500万円に達した[23]。1984年の設備投資計画も、同社単体で35億円、グループ全体で80億円にとどまった[24]。手元資金の厚さは、後年の海外進出を自己資金だけで進める条件になった。
1963年、会社は分裂の一歩手前まで進んだ。馬渕健一社長の派手な営業活動と度を越した接待に反発した幹部数人が、社長を外した新会社を設立する計画を進め、材料費を実際の価格より高く買い取った形にして差額をプールしていた[25]。事実を社員から知らされた弟の馬渕隆一専務は兄に伝え、以後は連日深夜2時、3時まで2人で話し合った[26]。相談を受けた社外の人物は、別会社設立に関わっている者を排除すれば会社はつぶれるとして、話し合いによる解決を勧めた[27]。当時、馬渕隆一専務はモーターの生産技術と研究開発を担い、取引先を広げようと駆け回る兄の馬渕健一社長とともに会社を支えていた[28]。
幹部6〜7人が抜けることは織り込めても、現場の課長・係長クラスまで関わっていれば業務は完全に止まる[29]。馬渕隆一専務は正攻法を選んだ。課長以下の中堅社員を集めて別会社設立の動きを話し始めたところ反応がなく、関与が現場まで広がっていることを察した[30]。それでも隠さずに全てを語ると、事実を打ち明ける者や涙を流して非を認める者が現れ、今後のマブチについて腹を割った話し合いの場になった[31]。処分は分けて、首謀者だった幹部数人には会社を去ってもらい、課長・係長級には責任のあるポストを任せた[32]。この1カ月で馬渕隆一専務の体重は10キログラム減った[33]。
騒動の後、馬渕隆一専務は取引先との接待を一切やめ、より良い物をできるだけ安く提供することだけを経営の理念に据えた[34]。理念を実現する手段として選んだのが海外生産である[35]。労働集約的なモーター生産では労働コストを抑えれば大幅なコストダウンが可能になるため、国内で部品の標準化と生産ラインの単純化を進めて生産システムをマニュアル化し、海外の未熟練労働者でもそのまま扱える形にしてから丸ごと移す方法をとった[36]。海外生産シフトは、騒動の翌1964年に始動し[37]、1970年代のうちに海外生産比率は半分を超えた[38]。
1964年2月、香港九龍新蒲崗三祝街に萬寶至實業有限公司を全額出資で設立し、小型マグネットモーターの製造と販売を始めた[39]。香港を選んだのは、人件費が安いうえに欧米諸国からの特恵関税を享受できたためである[40]。当時は1ドル360円の固定相場にあり、日本で作っても十分に通用した[41]。海外工場で組み立てるモーターの精密部品はすべて日本から供給し、品質は国内で握った[42]。設立から20年後の1984年、香港の年商は200億円、従業員は800人に達した[43]。香港は組み立てだけの拠点ではなく、自社製品に加えて関係会社の製品を仕入れ、香港地場と海外へ広く販売する役割も担った[44]。
国内で作っても売れる時期に海外へ出た理由を、馬渕隆一氏は潮の満ち引きにたとえて説明している[45]。潮が満ちていれば海底のガラクタは見えないが、引いたときに片づけておかなければ次の満ち潮でまた見えなくなる。日本で生産しても通用する時代に海外で作り始めるのは潮が満ちた状態での作業にあたり、それでも底をきれいにしておくという考え方だった[46]。顧客から安くしろと言われてから動くのではなく、常に価格を追求するのが理想だとも述べた[47]。海外に工場を建てるのは大変だったが、そのこと自体が勉強になり、その時の経験があるからこそ他の国でも同じことができるとも語っている[48]。
生産の海外移管と並行して、販売の拠点も現地へ置いた。1965年3月に米国ニューヨーク市へ駐在事務所を開設し[49]、翌1966年4月には西独フランクフルト市に欧州駐在事務所を設けて、現地顧客の需要に直接応える窓口とした[50]。商社を介さない直接販売が増え、新規の需要先の開拓も進んだ[51]。国内では1965年3月に千葉県松戸市の松戸工場が完成し[52]、後に本社機能が移る土地に生産の足場ができた。香港では1976年に基湾工場を増設し、生産の拡充と国際競争力の強化にあてた[53]。建物面積は5,000平方メートル、従業員は400人を数えた[54]。
1960年代にはシェーバーやドライヤーなどの家電分野へ入り[55]、1969年12月には台湾台北市に50%出資の合弁会社である華淵電機工業を設立して、香港に次ぐ生産拠点を置いた[56]。国内の並びも変え、1971年3月に商号をマブチモーターへ変更した[57]。本社機能は同年7月に千葉県松戸市へ移り[58]、1974年3月にはモーターシャフト生産のマブチ精工を群馬県館林市に置いた[59]。
1977年1月に電子ガバナー内蔵型モーターを開発し、カセットテレコやホームステレオの新市場へ入った[60]。
1977年1月には、ニューヨーク駐在事務所を販売子会社のマブチアメリカコーポレーションへ改組[61]。1979年8月には台湾高雄市の楠梓加工出口区に全額出資の萬寶至馬達を設立し、製造だけを担わせた[62]。高雄はその後も拡張を続け、1984年には建物面積3万6,000平方メートル、従業員3,100人とマブチグループ最大の規模になった[63]。1979年12月期の売上高は154億円[64]、用途別では音響・映像が伸びる一方、玩具・模型は占有率90%を超えて成熟していた[65]。高雄は機能を生産に絞り、製品は東京本社と香港へ輸出した[66]。
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|---|---|---|---|---|
| 1946〜1963年高松の馬蹄型マグネットモーターから玩具用動力へ | 馬渕工業として設立し小型モーターの生産販売を開始 | ★★ | ||
| 商号を東京科学に変更 | ★ | |||
| 1964〜1979年香港生産と1960年代後半に選んだ標準化 | 香港に萬寶至實業有限公司を設立し海外生産を開始 | ★★★ | ||
| 千葉県松戸市に松戸工場が完成 | ★ | |||
| 台湾の華淵電機工業に資本参加 | ★★ | |||
| 商号をマブチモーターに変更 | ★★ | |||
| 千葉県松戸市に本社機能を移転 | ★ | |||
| 群馬県館林市にマブチ精工を設立 | ★ | |||
| 台湾高雄市に萬寶至馬達を設立 | ★ | |||
| 1980〜1993年1987年の大連進出と国内量産の打ち切り | 株式を店頭登録により公開 | ★★ | ||
| 馬渕隆一 | 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 馬渕隆一 | 中国大連に万宝至馬達大連有限公司を設立 | ★★★ | ||
| 馬渕隆一 | 東京証券取引所市場第一部に指定替え | ★ | ||
| 馬渕隆一 | シンガポールにマブチモーターシンガポールを設立 | ★ | ||
| 馬渕隆一 | 小型モーターの国内量産を終了し全量海外生産に移行 | ★★★ | ||
| 馬渕隆一 | 千葉県印旛郡に技術研究所が完成 | ★ | ||
| 馬渕隆一 | 中国江蘇省に華淵電機(江蘇)を設立 | ★ | ||
| 1994〜2026年音響から自動車電装へ移した主力と3つのM | 馬渕隆一 | 中国広東省に東莞万宝至電機設備製造を設立 | ★ | |
| 馬渕隆一 | 中国大連に万宝至馬達瓦房店を設立 | ★ | ||
| 馬渕隆一 | ベトナムにマブチモーターベトナムを設立 | ★★ | ||
| 馬渕隆一 | 中国上海市に万宝至馬達(上海)を設立 | ★ | ||
| 馬渕隆一 | マブチ精工を吸収合併 | ★ | ||
| 亀井愼二 | ベトナムダナン市にマブチモーターダナンを設立 | ★ | ||
| 亀井愼二 | 中国東莞にモーター研究開発センターを設立 | ★ | ||
| 大越博雄 | ドイツフランクフルト市に研究開発センターを設立 | ★ | ||
| 大越博雄 | タイにマブチモータータイランドを設立 | ★ | ||
| 大越博雄 | スイスのエレクトロマグエスエーの全株式を取得 | ★★ | ||
| 谷口真一 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 谷口真一 | マブチモーターオーケンの全株式を取得 | ★★ | ||
| 高橋徹 | マブチオービーギアシステムの全株式を取得 | ★★ | ||
| 高橋徹 | マブチモーターマイクロテックの全株式を取得 | ★ | ||
| 高橋徹 | マブチモーターNPMの株式を取得 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(マブチモーター)