創業者の山本秀雄氏は1894年11月21日、内務省土木技師の次男として岩手県盛岡市に生まれ、東北帝国大学工学専門部電気科に進んだ[1]。進路を決めたのは、ロンドン留学から帰国したばかりの八木秀次博士による無線電信の講義である[2]。当時の無線機用電源は明電舎の高周波交流発電機がある程度で、質量とも外国製品が圧倒的であった[3]。大企業が手がける大型機器や汎用機器では勝負にならず、人のやらない専門領域を狙う[4]。しかも将来性を大きく約束された領域でなければならない[5]。学生時代からのこの条件に、黎明期の無線は重なった[6]。卒業後は横浜の貿易商社である安部幸兵衛商店の電気機械部に入り、1年で退いて小型発電機メーカーの精電舎へ取締役支配人として移った[7]。営業と製造の双方を実地で覚えたうえで独立するという段取りであった[8]。
独立は1927年8月、33歳のときである[9]。退職金にわずかな貯金を足しただけの資金で山洋商会を興し、新橋に近い土橋付近の一室を借りて、数名の従業員と電気機器の輸入販売を始めた[10]。主力商品は精電舎時代に販路を開いたナショナルカーボンの炭素棒で、これが利益の大半を生んだ[11]。1929年初めには営業所を丸の内の昭和ビルへ移し、東洋無線から受注した漁船用無線機の電源を日光電機に下請けさせて納める取引に力を入れた[12]。12ボルトから1,000ボルトまでの低圧小容量の直流発電機にすぎなかったが、通信用電源の専門メーカーをめざす山本秀雄氏にとっては利益以上の意味を持つ経験となった[13]。
メーカーへ移るには工場が要る。1930年、山本秀雄氏は炭素棒の売り込みで歩くさなかに東北大学工学専門部の級友だった冬木松五郎氏と再会し、経営への参加を誘った[14]。冬木松五郎氏は勤め先の奥村電機が不況で京都工場を閉じたところで、ほとんど即座に応じた[15]。1931年5月、芝区芝浦三丁目に約100平方メートルの木造平屋を借りて移り[16]、翌1932年6月には東池袋の巣鴨拘置所に隣接する金陽社工場を5,000円で買収した[17]。借地660平方メートルに工場330平方メートル、事務所66平方メートルの規模である[18]。下請けに使っていた日光電機の従業員十数名と設備をそのまま移し、メーカーとして操業を始めた[19]。
同年11月1日、この町工場は山洋商会特殊電機製作所と名づけられた[20]。大手が扱う大型機種や汎用機種を避け、特殊な技術と用途の製品で開拓者になるという方針が、そのまま工場の名に置かれている[21]。製品第一号は東洋無線と日本無線から受注した漁業用無線機の電源で、機種は直流高圧発電機であった[22]。この分野を手がけていたのは当時、明電舎ほか数社にすぎない[23]。国産では最高水準の製品にあたる[24]。1934年にはソ連向けの電弧溶接機用直流発電機36台を受注し、試作機を短納期で仕上げるため山本秀雄氏みずから未明まで工場で監督にあたった[25]。翌1935年、陸軍航空本部から探照灯用の5キロワット直流発電機の試作を命じられ、同本部の指定工場として登録された[26]。
1936年12月31日、個人経営を改めて株式会社山洋商会が発足した[27]。資本金は50万円の全額払込みで、経営陣は専務取締役に山本秀雄氏、取締役に冬木松五郎氏と海保龍吉氏、監査役に杉崎治三郎氏と山本文雄氏という顔ぶれであった[28]。主力はコンバータとインバータ、すなわち通信用電源である[29]。ただし需要の内訳は民需から離れつつあった。航空機・船艇・車輌用の無線機電源が軍需として増え始めており[30]、翌1937年7月の日華事変の勃発とともに、経済が準戦時体制から戦時体制へ移るにつれ、軍需は山洋商会にとって最大の要因となった[31]。
海軍が航空機を戦略に組み込むと、船舶用電源で先行していた山洋商会に無線機用電源の試作依頼が回ってきた[32]。重量制限の厳しい仕様であったが、海軍から技術将校を迎えて予想より早く試作を終え、結果は上々であった[33]。まもなく陸軍からも依頼が入り、航空機用電源はエンジンのスターターや車輪の引き込みまで担うようになって、工場は繁忙に転じた[34]。人材の補充も続いた。1938年に海軍少将の服部正計氏を顧問に迎え、翌1939年には陸軍大佐の赤羽祐之氏を迎え、いずれも後に取締役として経営に加わっている[35]。1940年には逓信省電気試験所から茂木連氏を迎え、以後の技術陣の中心とした[36]。
1942年4月、商事部門を切り離したうえで商号を山洋電気に改め、資本金を200万円へ増やした[37]。分離した商事部門は山洋工業として残った[38]。生産の場も東京だけでは足りない。1943年から陸軍航空本部の勧めで長野県上田市の北方に16万5,000平方メートルの用地を確保して工場建設に入り、翌年2月に上田北工場として操業を始めた[39]。同年8月には上田市内の笠原組の製糸工場を、9月には前橋市の金井製糸と興国人絹パルプの工場を買収した[40]。企業整備令で軍需転換を強いられた地方の製糸工場が、軍のあっせんで次々に軍需工場へ変わっていた時期である[41]。
1944年12月、山洋電気は軍需会社の指定を受け、資本金は400万円となった[42]。1942年に450名だった従業員は1年半で10倍の4,500名に達し、当時の全需要量の3分の1にあたる電源を生産する立場にあった[43]。膨張は空襲で断ち切られる。1945年4月13日未明の東京大空襲で、本社工場・事務所・倉庫・青年学校・従業員宿舎など18棟が焼夷弾の直撃を受けて全焼した[44]。被害は建物・機械・材料・製品で約3,000万円、生産能力の約半分が失われた[45]。焼失の責任を追及する憲兵に対し、山本秀雄氏は消火にあたった従業員をむしろ賞め、不可抗力であったと主張して譲らず、留置を延ばされている[46]。
終戦の時点で山洋電気が抱えていたのは、遊休化した生産設備と5,000人を超える従業員であった[47]。1945年9月、平均3か月分の退職金を払って一気に500名へ減らし、11月にはいったん全員を解雇したうえで、そのうち約半数を再雇用した[48]。人選の基準は明確だった。どのようなメーカーに姿を変えるにせよ最も必要なのは技術だと判断し、技術者を残したのである[49]。同じ時期に東芝では人員整理に反対する55日間のストライキが起きており、敗戦直後に大量整理を終えた山洋電気の処理は早い[50]。金井製糸と笠原組からは工場返還の要求が出て、前橋工場の一部と上田南工場を返し、現物出資の100万円が減資となった[51]。
本社の再出発は1945年12月、元パイロット万年筆の工場を41万円で買い取ったところから始まる[52]。空襲で内部は全焼し、鉄筋コンクリートの外郭と床だけが残る建物で、窓ガラスを入れ直すのに20万円を要した[53]。仕事は小型電動機の修理程度しかなく、上田工場では廃材で自転車のスポークやベル、前橋工場では安全かみそりといった雑品を手がけた[54]。手持ち資材を売って給料を確保する状態が続いたが、山本秀雄氏は財産を売り払っても従業員の給料だけは確保するという方針を通した[55]。活路は食糧増産策から開けた。農漁村向けの脱穀用単相モータと、漁船用無線機の電源である[56]。創業時の第一号製品と同じ品目からの再出発であった[57]。
最も重い負担は補償の打切りである。1946年8月に吉田内閣が軍需補償の打切りを声明し、10月の戦時補償特別措置法で範囲が確定すると、山洋電気は軍への納入代金・前受金・戦災保険金の合計1,864万円を戦時補償特別税として国へ返さねばならなくなった[58]。当時の払込資本金250万円に対して7倍を超える金額であった[59]。返済は資本金の9割を切り捨て、銀行借入金を棒引きにする方法で処理し、山洋電気にも約900万円の特別損失が生じた[60]。会社経理応急措置法の適用を受けた特別経理会社として、事業継続に必要な部分だけを新勘定に移して再出発したのが1946年夏である[61]。指定が解けたのは1949年12月であった[62]。
再建の転機は造船から来た。戦時補償の打切りで海運業が壊滅状態にあったため、政府は財政融資で船舶の建造を助成する計画造船を進めており、1950年に始まった第五次は外航適格船を対象とする大規模な計画であった[63]。大型船舶用の無線機電源へ機種を移していた山洋電気は、この第五次計画造船に関わる電源需要の半ば近くを、目立った競合もなく受注した[64]。戦時中に蓄積した技術がここで初めて十分に生きた[65]。折しも朝鮮戦争による特需と輸出の激増で電機業界の在庫は一掃され、造船業界も欧米各国の軍備拡張にともなう船舶需要で活況を呈していた[66]。実績は官公需の開拓にも波及し、電気通信省・海上保安庁・警察予備隊からの受注が視野に入った[67]。
船舶用電源の山は1957年ごろで、以後は船の主発電機が交流化して直流機種の需要が落ちた[68]。代わって伸びたのが陸上部門である。1949年10月に大阪発動機製造を経由して鹿島無線局用の交流発電機を納め、その実績で1950年には搬送電信用電源を直接契約し、電気通信省の指定メーカーとして登録された[69]。1952年に電気通信省が電電公社となると、マイクロ波多重通信の実用化が始まる[70]。1953年10月、山洋電気はダイハツ工業の申し入れを受けて、時価1,000万円の未知の製品を自費で試作する決断をした[71]。提出した資料が公社を動かし、1956年に北海道4局分を受注、以後10年にわたり毎年10台前後の納入が続いた[72]。官公需は全受注量の42パーセントを占めるまでになった[73]。
もう一つの陸上需要は防衛だった。講和条約後の防衛力強化策で警察予備隊向け無線機電源の引き合いが増え、なかでも手廻発電機は試作と大量受注が続いた[74]。1952年1月に自衛隊用手廻発電機の試作を終え[75]、1953年秋から設計・試作したGRC-9用手廻発電機は翌年1月のコンクールで優勝した[76]。陸上自衛隊向けには2キロワットから10キロワットまでのガソリン機関発電機が求められ、10社近くが競った製作コンクールでいずれも優秀な成績を収めて以後の防衛庁からの受注を有利に運んだ[77]。海から陸へ、山洋電気は針路を変えた[78]。
山洋電気は通信用電源の外側に賭けた。研究陣が米国の文献から動向を探り、サーボモータ・シンクロ・リゾルバー・ステップモータといった回転機器が自動制御の新しい部品として重要になるという見通しを立て、首脳陣に提案してただちに試作研究へ入ったのが1955年である[79]。この分野の必要性が日本で唱えられ出すのは1960年ごろで、山洋電気はおよそ5年早く着手していた[80]。研究課長として三相サーボモータや直流タコジェネレータの試作研究を率いたのは、1949年入社の大木創氏である[81]。研究には通産省の鉱工業技術試験研究補助金が1955年度から毎年つき、工作機械の数値制御に使う電気機械の開発に充てられた[82]。
先行投資はすぐには実らない。ホットトップ自動制御装置は1955年に大同製鋼の提案で開発してただちに受注生産に入り、理研製鋼から80セットの大量受注を得たが[83]、サーボモータが試作の域を脱して量産段階に入ったのは1960年である[84]。同年、日本開発銀行からサーボモータ開発資金として3,000万円の低利融資を受け、1964年12月にも第二次の4,000万円を得た[85]。生産の受け皿として1960年11月に埼玉県川口市へ川口工場を新設し[86]、1962年には米国IMC社と自動制御用電気機器の製造販売で提携して、サーボモータ類の米国市場への販路を開いた[87]。
1962年10月に資本金を8,000万円から1億6,000万円へ倍額増資し、同年9月29日、総株数360万株のうち32万株を東京証券取引所市場第二部へ公開した[88]。売り出し価格は150円で、初日から人気を集めて335円をつけた[89]。当時の株主数はわずか97名、本社は東京都豊島区巣鴨6-1349にあった[90]。売上構成は通信用電源31.2パーセント、自動制御装置30.0パーセント、一般回転機16.5パーセント、自動制御用回転機14.1パーセントで、通信用電源の市場占有率は50パーセントに達していた[91]。そして1964年11月、創業者の山本秀雄氏が社長を退いて会長となり、長男の山本浩氏が2代目社長を継いだ[92]。
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|---|---|---|---|---|
| 1927〜1945年山本秀雄が選んだ無線通信用電源と特殊電機製作所 | 山本秀雄が電気部品の輸入販売業として山洋商会を創立 | ★★★ | ||
| 東京都豊島区西巣鴨に山洋商会特殊電機製作所を開設 | ★★ | |||
| 株式会社に組織変更、商号を株式会社山洋商会に | ★★ | |||
| 商号を山洋電気に変更 | ★★ | |||
| 上田南工場と前橋工場を開設 | ★ | |||
| 長野県上田市に上田北工場を新設 | ★★ | |||
| 戦災により本社・東京工場が全焼 | ★★ | |||
| 本社・東京工場を東京都豊島区巣鴨に移転 | ★ | |||
| 1946〜1964年特別経理会社からの再建と第五次計画造船の受注 | 上田南工場を上田北工場へ併合 | ★ | ||
| 前橋工場を閉鎖し上田工場へ併合 | ★ | |||
| AC・DCサーボモータを日本で初めて製品化 | ★★★ | |||
| 埼玉県川口市に川口工場を新設 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 1965〜1984年薄型ファン「San Ace」とIBM向けステッピングモータ | 冷却ファンのブランド San Ace を立ち上げ | ★★★ | ||
| 東京工場を上田・川口の両工場へ移転 | ★ | |||
| 上田事業所塩田工場を新設 | ★ | |||
| 上田事業所築地工場を新設 | ★ | |||
| 上田事業所青木工場を新設 | ★ | |||
| 1985〜2026年横沢新二郎の社長就任から社内カンパニー制へ | 初の海外子会社 SANYO DENKI EUROPE をフランスに設立 | ★★ | ||
| 上田事業所富士山工場を新設 | ★ | |||
| 山本茂生 | SANYO DENKI AMERICA をアメリカに設立 | ★ | ||
| 山本茂生 | 上田事業所にテクノロジーセンターを開設 | ★ | ||
| 山本茂生 | AUTOMATION INTELLIGENCE を買収 | ★ | ||
| 山本茂生 | 生産子会社の山洋電気テクノサービスを設立 | ★ | ||
| 山本茂生 | 川口事業所を上田事業所に統廃合 | ★★ | ||
| 山本茂生 | SANYO DENKI PHILIPPINES を設立し海外生産を開始 | ★★ | ||
| 山本茂生 | 上田事業所神川工場を新設 | ★ | ||
| 山本茂生 | 山洋工業を完全子会社化 | ★ | ||
| 山本茂生 | 中山市山洋电气有限公司を中国に設立 | ★ | ||
| 山本茂生 | 東京証券取引所市場第一部に指定 | ★ | ||
| 山本茂生 | SANYO DENKI PHILIPPINES にテクノロジーセンターを開設 | ★ | ||
| 児玉展全 | 上田事業所テクノロジーセンターに新棟を開設 | ★ | ||
| 児玉展全 | 東京証券取引所の市場区分の見直しによりプライム市場に移行 | ★ | ||
| 児玉展全 | 社内カンパニー制を導入 | ★★★ | ||
| 児玉展全 | SANYO DENKI VIETNAM をベトナムに設立 | ★ |
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事実根拠:出所(山洋電気)