無線を仕事に選ばせたのは、ロンドンでの留学を終えて戻った直後の八木秀次博士が行った無線電信の講義であった。講義を受けたのは東北帝国大学工学専門部電気科に進んでいた創業者の山本秀雄氏で、1894年11月21日に内務省土木技師の次男として岩手県盛岡市で生まれている。当時、無線機用の電源は国産では明電舎の高周波交流発電機がある程度にとどまり、質でも量でも外国製が大きく勝っていた。山本氏は学生のころから、大企業の手がける大型機器や汎用機器では勝負にならないとして他人が手を出さない専門領域を狙い、しかもそれが先々大きく伸びると見込める分野であることを条件にしていた。黎明期の無線は、この条件に合っていた。卒業すると横浜の貿易商社である安部幸兵衛商店の電気機械部に入ったが1年で辞め、小型発電機メーカーの精電舎に取締役支配人として転じた。独立に先立って、営業と製造の両方を現場で身につけておく手順であった。
独立は1927年8月、33歳のときである。退職金にわずかな貯金を足しただけの資金で山洋商会を興し、新橋に近い土橋付近の一室を借りて、数名の従業員と電気機器の輸入販売を開始した。主力商品は精電舎時代に販路を開拓したナショナルカーボンの炭素棒で、これが利益の大半を生んだ。1929年初めには営業所を丸の内の昭和ビルへ移し、東洋無線から受注した漁船用無線機の電源を日光電機に下請けさせて納める取引に力を入れた。12ボルトから1,000ボルトまでの低圧小容量の直流発電機にすぎなかったが、通信用電源の専門メーカーをめざす山本秀雄氏にとっては利益以上の意味を持つ経験となった。
山洋商会が電気器具材料の輸入販売から始まったのは、工場を買う資金が手元になかったためである。この時期の商いは、商社として得た口銭を工場の資金に回す段取りの上にあった。国産で代わりの利かない米国ナショナルカーボン社のカーボン刷子は精電舎時代に販路を開いた商品で、重電の芝浦製作所・明電舎・日立製作所・三菱電機・富士電機に納めたほか、化学会社や電鉄会社にも買い手を広げた。同業の利昌洋行が1931年末に東京営業所を畳むと、その営業権をすべて引き取り、スイスの重電機部品メーカーであるハーフェライト社の製品の取り扱いに乗り出した。富士電機に三相の誘導電動機の在庫があると耳にしたときは、数十台をまとめて安値で買い取った。大森に新工場を建設中だった東京瓦斯電気工業へこれを安く売り込み、短い期間で売り切っている。
メーカーへ移るには工場が要る。1930年、山本秀雄氏は炭素棒の売り込みで歩くさなかに東北大学工学専門部の級友だった冬木松五郎氏と再会し、経営への参加を誘った。冬木松五郎氏は勤め先の奥村電機が不況で京都工場を閉鎖したところで、ほとんど即座に応じた。1931年5月、芝区芝浦三丁目に約100平方メートルの木造平屋を借りて移り、翌1932年6月には東池袋の巣鴨拘置所に隣接する金陽社工場を5,000円で買収した。借地660平方メートルに工場330平方メートル、事務所66平方メートルの規模である。下請けに使っていた日光電機の従業員十数名と設備をそのまま移し、メーカーとして操業を開始した。
同年11月1日、この町工場は山洋商会特殊電機製作所と名づけられた。大手が扱う大型機種や汎用機種を避け、特殊な技術と用途の製品で開拓者になるという方針が、そのまま工場の名に置かれている。製品第一号は東洋無線と日本無線から受注した漁業用無線機の電源で、機種は直流高圧発電機であった。この分野を手がけていたのは当時、明電舎ほか数社にすぎない。国産では最高水準の製品にあたる。1934年にはソ連向けの電弧溶接機用直流発電機36台を受注し、試作機を短納期で仕上げるため山本秀雄氏みずから未明まで工場で監督にあたった。翌1935年、陸軍航空本部から探照灯用の5キロワット直流発電機の試作を命じられ、同本部の指定工場として登録された。
1936年12月31日、個人経営を改めて株式会社山洋商会が発足した。資本金は50万円の全額払込みで、経営陣は専務取締役に山本秀雄氏、取締役に冬木松五郎氏と海保龍吉氏、監査役に杉崎治三郎氏と山本文雄氏という顔ぶれであった。主力はコンバータとインバータ、すなわち通信用電源である。ただし需要の内訳は民需から離れつつあった。航空機・船艇・車輌用の無線機電源が軍需として増え始めており、翌1937年7月の日華事変の勃発とともに、経済が準戦時体制から戦時体制へ移るにつれ、軍需は山洋商会にとって最大の要因となった。
海軍が航空機を戦略に組み込むと、船舶用電源で先行していた山洋商会に無線機用電源の試作依頼が回ってきた。重量制限の厳しい仕様であったが、海軍から技術将校を迎えて予想より早く試作を終え、結果は上々であった。まもなく陸軍からも依頼が入り、航空機用電源はエンジンのスターターや車輪の引き込みまで担うようになって、工場は繁忙に転じた。人材の補充も続いた。1938年に海軍少将の服部正計氏を顧問に迎え、翌1939年には陸軍大佐の赤羽祐之氏を迎え、いずれも後に取締役として経営に加わっている。1940年には逓信省電気試験所から茂木連氏を迎え、以後の技術陣の中心とした。
1942年4月、商事部門を切り離したうえで商号を山洋電気に改め、資本金を200万円へ増やした。分離した商事部門は山洋工業として残った。生産の場も東京だけでは足りない。1943年から陸軍航空本部の勧めで長野県上田市の北方に16万5,000平方メートルの用地を確保して工場建設に入り、翌年2月に上田北工場として操業を開始した。同年8月には上田市内の笠原組の製糸工場を、9月には前橋市の金井製糸と興国人絹パルプの工場を買収した。企業整備令で軍需転換を強いられた地方の製糸工場が、軍のあっせんで次々に軍需工場へ変わっていた時期である。
1944年12月、山洋電気は軍需会社の指定を受け、資本金は400万円となった。1942年に450名だった従業員は1年半で10倍の4,500名に達し、当時の全需要量の3分の1にあたる電源を生産する立場にあった。膨張は空襲で断ち切られる。1945年4月13日未明の東京大空襲で、本社工場・事務所・倉庫・青年学校・従業員宿舎など18棟が焼夷弾の直撃を受けて全焼した。被害は建物・機械・材料・製品で約730万円、生産能力の約半分が失われた。焼失の責任を追及する憲兵に対し、山本秀雄氏は焼夷弾の雨のなかで消火にあたった従業員をむしろ賞め、不可抗力であるとの立場を譲らなかったため、留置を延ばされている。
1946年春、山洋電気は前橋工場の旧金井製糸分を金井源蔵氏へ、上田南工場を笠原組へ返還した。企業整備令と軍のあっせんで低廉に身売りした工場が平和産業へ戻ろうとしたためで、現物出資の各50万円が戻って合計100万円の減資となった。同じ年の8月、吉田内閣は戦時補償の打切りを声明する。10月の戦時補償特別措置法により、軍へ納めた製品の代金、軍からの前受金、戦災保険金の合計1,864万円を、戦時補償特別税として国へ返すことになった。当時の払込資本金は250万円にすぎない。資本金の9割切捨てと銀行借入金の棒引きで処理してなお約900万円の特別損失が残り、会社経理応急措置法の適用を受けて特別経理会社となった。
従業員の整理は敗戦の直後に始まっていた。1945年9月15日、山洋電気は平均3カ月分の退職金を払って4,500名を450名へ減らし、11月には一度全員を解雇したうえで約半数を再雇用した。残す者の選別にあたっては、どのようなメーカーへ形を変えるにしても必要なのは技術だという判断から、技術者を残す方針が取られた。1948年2月には前橋工場を閉鎖して上田工場へ統合した。前橋の従業員は約60名で、住み慣れた土地からの移住を嫌う者がほとんどであったという。1949年6月にはさらに3割を整理し、この時点の従業員は150名を割った。
敗戦から2年ほどの間、上田工場では廃材で自転車のスポークベルやアルミの杓子、缶切りを、前橋工場では安全かみそりをつくった。手持資材を売って給与を確保する状態が続き、1946年2月には毎日新聞社へ寄宿舎を27万円で、1947年12月には昭栄製糸へ上田工場の一部を90万円で、1948年2月には前橋工場の旧興国人絹パルプ分を100万円で売っている。活路は食糧増産政策から開いた。農漁業の機械化と電化が国の重要政策として進められ、山洋電気は農村向けの脱穀用単相反撥モータと漁船用無線機電源のコンバータへ戻った。1949年には脱穀用モータが統制の撤廃で競争激化に直面したが、代わって魚群探知機用のコンバータが伸び、12月に特別経理会社の指定を解除された。
船舶無線機用電源の需要は、当初の漁船向けから大型の外航船向けへと重心を移しつつあった。これを受けて山洋電気は1950年6月、主力の電源機種を小型から大型へ切り替える方針を固め、あわせて経営陣を組み直した。社長の山本秀雄氏の下で、専務に冬木松五郎氏、常務に渡辺平蔵氏、取締役に茂木連氏と郷末茂氏が就いた。大型化には設備を新しくし営業の範囲を広げることが欠かせず、とりわけ官公需をどう開くかが大きな課題になった。同じ年に始まった政府の財政融資による第五次計画造船は、内航貨物船が対象だった第四次までと違って外航適格船に絞られ、規模も大きかった。この計画が生んだ電源需要のうち、山洋電気は半ば近くを受け取った。
陸上の通信では逓信省が大口需要者で、1949年に同省は郵政省と電気通信省へ分かれた。同じ年の10月、山洋電気は離島無線局用の7キロボルトアンペア交流発電機2台を大阪発動機製造経由で契約し、翌1950年には裸線搬送電信用の電動発電機4台を直接契約して、電気通信省の指定メーカーに登録された。以後は15、20、40、75、100キロボルトアンペアと容量を上げ、市内電話用の電動発電機へも受注機種を広げている。1952年に電気通信省が日本電信電話公社となると、市外通信線ではマイクロウェーブ多重通信と同軸ケーブル多重通信の実用化が始まった。山洋電気は山頂の中継局に置く無停電電源装置を担い、これは国鉄や電力会社の通信網にも使われた。
1953年、防衛力強化計画の始動を受けて、山洋電気は三菱電機や新中央工業とともに手廻発電機の試作コンクールへ応募した。山本秀雄氏は入賞すること自体を目的とせず、一位でなければ意味がないと技術陣に迫った。翌1954年1月のコンクールで一位に入り、GRC-9用手廻発電機を完成させている。海難時に救命艇へ積む緊急用無線機の電源にも同じ機種が求められ、法令で装備が定められた後の需要の大半を取った。陸上自衛隊向けのガソリン機関発電機でも、10社近い競争のなかで好成績を収めた。防衛庁からの大量受注に船舶用電源と魚群探知機用コンバータ、マイクロ波通信用の受注が重なり、1954年9月期に売上高は1億円を超えた。
1955年1月、山洋電気はサーボモータの試作研究を始めた。研究陣が米国の文献から自動制御の現状を探り、サーボモータ、シンクロ、リゾルバー、ステップモータといった回転機器が自動制御用の新しい構成部品になるとの見通しを立てて首脳陣へ提案し、即座に採用されたものである。これらの機種の必要性が国内で唱えられ出すのは1960年ごろで、着手はその5年前にあたる。船舶無線から陸上のマイクロ波無線へ移りながら通信用電源に主力を置いてきた会社が、装置の構成部品という別の分野へ踏み出した。電源は通信機へ電力を供給する製品だが、サーボモータは機械を動かす部品であり、売り先の産業ごと替える転換であった。
開発の原資は自己資金と国の補助金であった。1955年度に通商産業省の鉱工業技術試験研究補助金95万円を交流発電機と自動電圧調整器の超小型化で受け、1958年に160万円、1959年に107万円、1960年に100万円を、工作機械の数値制御に使う電気機械で受けている。着手してすぐ受注に結びつく性質のものではなく、先行投資というべき試作研究であった。一方、1955年に大同製鋼の提案で開発したホットトップ自動制御装置は、直ちに受注生産に入った。理研製鋼と協力し、二相サーボモータと磁気増幅器で電弧電圧を検出して電極を昇降させる装置で、同社から80セットを受注したのち、日本鋼管や八幡製鉄など大手製鉄各社に採用された。
1960年、山洋電気はサーボモータとシンクロの量産に入った。試作の域を脱した年に、この機種の売上高は前年の倍となっている。同年6月に上田工場の主要部を火災で失って鉄骨で建て直し、11月には埼玉県川口市へ川口工場を新設した。12月には電子工業振興法にもとづき、日本開発銀行からサーボモータの開発資金として3,000万円の低利融資を受けた。1961年10月には米国IMC社と自動制御用電気機器の製造販売で提携する。1962年9月29日、総株数360万株のうち8パーセント強にあたる32万株を東京証券取引所第二部へ新規上場し、10月1日の倍額増資で資本金は1億6,000万円となった。1964年、山本秀雄氏が会長へ退き、長男の山本浩氏が社長に就任した。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/6516/company.json https://the-shashi.com/api/6516/history.json https://the-shashi.com/api/6516/ceo.json https://the-shashi.com/api/6516/financials.json https://the-shashi.com/api/6516/financials/segment.json https://the-shashi.com/api/6516/financials/pl.json https://the-shashi.com/api/6516/financials/cf.json https://the-shashi.com/api/6516/financials/bs.json https://the-shashi.com/api/6516/financials/employee.json https://the-shashi.com/api/6516/financials/stock.json https://the-shashi.com/api/6516/financials.csv https://the-shashi.com/api/6516/financials_history.csv | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1927〜1945年山本秀雄が選んだ無線通信用電源と特殊電機製作所 | 山本秀雄が電気部品の輸入販売業として山洋商会を創立 | ★★★ | ||
| 東京都豊島区西巣鴨に山洋商会特殊電機製作所を開設 | ★★ | |||
| 株式会社に組織変更、商号を株式会社山洋商会に | ★★ | |||
| 商号を山洋電気に変更 | ★★ | |||
| 上田南工場と前橋工場を開設 | ★ | |||
| 長野県上田市に上田北工場を新設 | ★★ | |||
| 戦災により本社・東京工場が全焼 | ★★ | |||
| 本社・東京工場を東京都豊島区巣鴨に移転 | ★ | |||
| 1946〜1964年特別経理会社からの再建と自動制御への転換 | 上田南工場を上田北工場へ併合 | ★ | ||
| 前橋工場を閉鎖し上田工場へ併合 | ★ | |||
| AC・DCサーボモータを日本で初めて製品化 | ★★★ | |||
| 埼玉県川口市に川口工場を新設 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 1965〜1987年冷却ファンSan Aceの立ち上げと、上田事業所の工場群の新設 | 冷却ファンのブランド San Ace を立ち上げ | ★★★ | ||
| 東京工場を上田・川口の両工場へ移転 | ★ | |||
| 上田事業所塩田工場を新設 | ★ | |||
| 上田事業所築地工場を新設 | ★ | |||
| 上田事業所青木工場を新設 | ★ | |||
| 1988〜2026年欧米子会社とフィリピン生産、東証一部指定から社内カンパニー制へ | 初の海外子会社 SANYO DENKI EUROPE をフランスに設立 | ★★ | ||
| 上田事業所富士山工場を新設 | ★ | |||
| 山本茂生 | SANYO DENKI AMERICA をアメリカに設立 | ★ | ||
| 山本茂生 | 上田事業所にテクノロジーセンターを開設 | ★ | ||
| 山本茂生 | AUTOMATION INTELLIGENCE を買収 | ★ | ||
| 山本茂生 | 生産子会社の山洋電気テクノサービスを設立 | ★ | ||
| 山本茂生 | 川口事業所を上田事業所に統廃合 | ★★ | ||
| 山本茂生 | SANYO DENKI PHILIPPINES を設立し海外生産を開始 | ★★ | ||
| 山本茂生 | 上田事業所神川工場を新設 | ★ | ||
| 山本茂生 | 山洋工業を完全子会社化 | ★ | ||
| 山本茂生 | 中山市山洋电气有限公司を中国に設立 | ★ | ||
| 山本茂生 | 東京証券取引所市場第一部に指定 | ★ | ||
| 山本茂生 | SANYO DENKI PHILIPPINES にテクノロジーセンターを開設 | ★ | ||
| 児玉展全 | 上田事業所テクノロジーセンターに新棟を開設 | ★ | ||
| 児玉展全 | 東京証券取引所の市場区分の見直しによりプライム市場に移行 | ★ | ||
| 児玉展全 | 社内カンパニー制を導入 | ★★★ | ||
| 児玉展全 | SANYO DENKI VIETNAM をベトナムに設立 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(山洋電気)