山洋電気 の歴史

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創業 1927年
創業者 山本秀雄
創業地 東京都港区
創業 1927年8月、33歳の山本秀雄氏が東京・土橋の一室で山洋商会を興し、電気機器の
1927年8月、33歳の山本秀雄氏が東京・土橋の一室で山洋商会を興し、電気機器の輸入販売を開始した。東北帝国大学で八木秀次博士の無線電信の講義を聴いた技術者で、大企業が扱う大型機や汎用機を避け、人のやらない専門領域を選ぶことを独立前から条件にしていた。1932年6月に東池袋の金陽社工場を取得し、同年11月に山洋商会特殊電機製作所と名づけて、漁業用無線機向けの直流高圧発電機を第一号製品とする。1936年12月に株式会社山洋商会が発足し、1942年4月には商事部門を分離して商号を山洋電気へ改めた。1944年12月に軍需会社の指定を受け、従業員は1942年の450名から4,500名へ増えたが、翌1945年4月の空襲で本社工場ほか18棟を焼失し、生産能力の約半分を失った。
決断 最大の顧客が回転機を捨てた年に、次の主力になる回転機を作り始めた。1963年春、
最大の顧客が回転機を捨てた年に、次の主力になる回転機を作り始めた。1963年春、電電公社が電源の静止型への移行を基本方針に据える。総売上の50パーセントを作る上田工場は、その半ばが公社の受注だった。同年12月に研究部を技術開発部へ改め、1964年2月に静止型製品の第一号を納めた。並行して1965年秋、提携先の米IMC社の薄型冷却ファンを改良した国産品の生産を東京工場で始めた。厚さ38ミリのこの製品はSan Aceと名づけられ、1979年に国内シェア30パーセントを確保する。同じ時期にステッピングモータが米IBMに採用され、生産の95パーセント以上がIBM向けとなる。静止型は電源として作り、行き場を失った回転機を冷却と位置決めへ移したことが、現在の3つのカンパニーを分けた。
現況 売上の4割に満たない冷却ファンが、営業利益の4分の3を生んでいる。2026年3月
売上の4割に満たない冷却ファンが、営業利益の4分の3を生んでいる。2026年3月期の連結売上収益1,073億円の内訳は、冷却ファンのサンエースカンパニーが408億円、サーボとステッピングのモーションが375億円、電源とアンプのエレクトロニクスカンパニーが232億円である。セグメント利益はサンエースの81億円が、モーションの12億円とエレクトロニクスの11億円を大きく上回る。創業の商売だった電源が、現在は3つで最も小さい。生成AI向けサーバの冷却需要が伸び、2025年度第4四半期のサンエースの受注は133億円に達した。売り先は日本652億円、北米233億円。データセンターで電力が最大の制約になったことが、装置の内側で熱を逃がす部品を、社内で最も利益を出す事業へ変えた。
競合 同じ社内に、値決めのできる事業とできない事業が並んでいる。数値制御工作機械では1
同じ社内に、値決めのできる事業とできない事業が並んでいる。数値制御工作機械では1972年ごろ、NC装置で高いシェアと高い利益率を同時に保った一社が世界の90数パーセントを占めていた。従来の油圧パルス方式に優るDC駆動方式が米国で開発されると、国内のコンピュータ業界がそのシェアを崩そうとして採用を促し、山洋電気もこの流れで製品を作り込んで1973年の石油ショック後の業績を支えた。それでもモーションの2026年3月期のセグメント利益率は3.3パーセントにとどまり、20.1パーセントの冷却ファンに及ばない。冷却ファンは顧客名こそ開示していないが、複数の大手サーバメーカーと取引があり、中国のGPUサーバにも採用される。系列に属さない立場は、モータでは規模の不足として残り、冷却ファンでは供給先を選ばずに済む条件として働いた。
長期業績の推移 1962〜2026年
山洋電気:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
2002年3月期〜2026年3月期

第1章 1927年〜 山本秀雄が選んだ無線通信用電源と特殊電機製作所

1927年〜八木秀次の講義から山洋商会の創業へ

無線を仕事に選ばせたのは、ロンドンでの留学を終えて戻った直後の八木秀次博士が行った無線電信の講義であった。講義を受けたのは東北帝国大学工学専門部電気科に進んでいた創業者の山本秀雄氏で、1894年11月21日に内務省土木技師の次男として岩手県盛岡市で生まれている。当時、無線機用の電源は国産では明電舎の高周波交流発電機がある程度にとどまり、質でも量でも外国製が大きく勝っていた。山本氏は学生のころから、大企業の手がける大型機器や汎用機器では勝負にならないとして他人が手を出さない専門領域を狙い、しかもそれが先々大きく伸びると見込める分野であることを条件にしていた。黎明期の無線は、この条件に合っていた。卒業すると横浜の貿易商社である安部幸兵衛商店の電気機械部に入ったが1年で辞め、小型発電機メーカーの精電舎に取締役支配人として転じた。独立に先立って、営業と製造の両方を現場で身につけておく手順であった。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 1 無線通信用電源の草分け」
    • [1]大正6年、東北帝大で受けた八木秀次博士の無線通信に関する講義が、山本秀雄に無線部門で仕事をするという念願を刻んだ
    • [2]山本秀雄は1894年11月21日、内務省土木技師武之進の次男として岩手県盛岡市に生まれ、東北帝国大学工学専門部電気科に進学した
    • [3]当時、無線機電源の国産品はわずかな明電舎製の高周波交流発電機があるのみで、他は質量ともに微々たるものにすぎず、外国製品が圧倒的であった
    • [4]山本は「大企業の手がけるような大型機器や大量生産を必要とする汎用機器では話にならない。人のやらない新しい専門領域を狙わなくてはいけない」と考えていた
    • [5]山本は狙う領域について「しかも将来性を大きく約束された領域でなければならない」と考えていた
    • [6]漠然たる野心を抱く学生山本に確固とした針路を与えたのは、八木秀次博士の無線電信に関する講義であった
    • [7]山本秀雄は卒業と同時に横浜の貿易商社である安部幸兵衛商店の電気機械部に入社し、大正8年8月に精電舎の取締役支配人となった
    • [8]セールスエンジニアの仕事は、独立する日にそなえて営業面の実務を覚えるという狙いであった

独立は1927年8月、33歳のときである。退職金にわずかな貯金を足しただけの資金で山洋商会を興し、新橋に近い土橋付近の一室を借りて、数名の従業員と電気機器の輸入販売を開始した。主力商品は精電舎時代に販路を開拓したナショナルカーボンの炭素棒で、これが利益の大半を生んだ。1929年初めには営業所を丸の内の昭和ビルへ移し、東洋無線から受注した漁船用無線機の電源を日光電機に下請けさせて納める取引に力を入れた。12ボルトから1,000ボルトまでの低圧小容量の直流発電機にすぎなかったが、通信用電源の専門メーカーをめざす山本秀雄氏にとっては利益以上の意味を持つ経験となった。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 1 無線通信用電源の草分け」
    • [9]山洋商会は昭和2年8月、33歳の青年山本秀雄の独力で創業された
    • [10]個人経営の山洋商会は退職金にわずかな貯金を加えた資金でスタートし、営業所は新橋に近い土橋付近の一部を借り受け、わずか数名の従業員で電気機器の輸入販売を開始した
    • [11]精電舎時代に販路を開拓したナショナルカーボンの炭素棒が利益の主要な源泉であった
    • [12]昭和4年初めには営業所を丸の内の昭和ビルに移し、東洋無線から受注した漁船用無線機電源を日光電機を下請工場につかって製作した
    • [13]12ボルトから1,000ボルトまでの低圧小容量の直流発電機ながら、通信用電源の専門メーカーを期する山本にとって利益以上によい経験となった

山洋商会が電気器具材料の輸入販売から始まったのは、工場を買う資金が手元になかったためである。この時期の商いは、商社として得た口銭を工場の資金に回す段取りの上にあった。国産で代わりの利かない米国ナショナルカーボン社のカーボン刷子は精電舎時代に販路を開いた商品で、重電の芝浦製作所・明電舎・日立製作所・三菱電機・富士電機に納めたほか、化学会社や電鉄会社にも買い手を広げた。同業の利昌洋行が1931年末に東京営業所を畳むと、その営業権をすべて引き取り、スイスの重電機部品メーカーであるハーフェライト社の製品の取り扱いに乗り出した。富士電機に三相の誘導電動機の在庫があると耳にしたときは、数十台をまとめて安値で買い取った。大森に新工場を建設中だった東京瓦斯電気工業へこれを安く売り込み、短い期間で売り切っている。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 1 無線通信用電源の草分け」
    • [14]独立に当たって可能な方法は、外国製品の輸入販売で少しずつ工場を手に入れるための資金を蓄積することであった
    • [16]取扱商品は依然ナショナルカーボン刷子が主力であり、これを芝浦、日立、三菱、富士、明電舎等の重電各社へ納入し、また化学会社や電鉄会社へも販路を開いて行った
    • [17]昭和6年末、同業者であった利昌洋行(大阪)の東京営業所閉鎖にさいし、その営業権の一切を譲り受けて、スイスの重電機部品メーカーであるハーフェライト社の製品を重電各社と中小の電機メーカーへ販売した
    • [18]三相式誘導電動機が富士電機に在庫しているとの情報を得て、再三交渉した結果、数十台を一括して安く入手し、大森に新工場建設計画をもっていた東京瓦斯電気工業へ低価格で売り込んで短期間に捌ききった
  • 電子工業月報 1968年「会社紹介 山洋電気株式会社」
    • [15]山洋電気の事業は昭和2年8月に山本秀雄が山洋商会を設立し電気器具材料の輸入販売を始めたことにより創業され、昭和7年10月に東京都豊島区西巣鴨へ小型電気機械および配電盤の製造工場を新設して電気機械メーカーとして発足した
参考文献[1]-[18]
    • [1]大正6年、東北帝大で受けた八木秀次博士の無線通信に関する講義が、山本秀雄に無線部門で仕事をするという念願を刻んだ
    • [2]山本秀雄は1894年11月21日、内務省土木技師武之進の次男として岩手県盛岡市に生まれ、東北帝国大学工学専門部電気科に進学した
    • [3]当時、無線機電源の国産品はわずかな明電舎製の高周波交流発電機があるのみで、他は質量ともに微々たるものにすぎず、外国製品が圧倒的であった
    • [4]山本は「大企業の手がけるような大型機器や大量生産を必要とする汎用機器では話にならない。人のやらない新しい専門領域を狙わなくてはいけない」と考えていた
    • [5]山本は狙う領域について「しかも将来性を大きく約束された領域でなければならない」と考えていた
    • [6]漠然たる野心を抱く学生山本に確固とした針路を与えたのは、八木秀次博士の無線電信に関する講義であった
    • [7]山本秀雄は卒業と同時に横浜の貿易商社である安部幸兵衛商店の電気機械部に入社し、大正8年8月に精電舎の取締役支配人となった
    • [8]セールスエンジニアの仕事は、独立する日にそなえて営業面の実務を覚えるという狙いであった
    • [9]山洋商会は昭和2年8月、33歳の青年山本秀雄の独力で創業された
    • [10]個人経営の山洋商会は退職金にわずかな貯金を加えた資金でスタートし、営業所は新橋に近い土橋付近の一部を借り受け、わずか数名の従業員で電気機器の輸入販売を開始した
    • [11]精電舎時代に販路を開拓したナショナルカーボンの炭素棒が利益の主要な源泉であった
    • [12]昭和4年初めには営業所を丸の内の昭和ビルに移し、東洋無線から受注した漁船用無線機電源を日光電機を下請工場につかって製作した
    • [13]12ボルトから1,000ボルトまでの低圧小容量の直流発電機ながら、通信用電源の専門メーカーを期する山本にとって利益以上によい経験となった
    • [14]独立に当たって可能な方法は、外国製品の輸入販売で少しずつ工場を手に入れるための資金を蓄積することであった
    • [16]取扱商品は依然ナショナルカーボン刷子が主力であり、これを芝浦、日立、三菱、富士、明電舎等の重電各社へ納入し、また化学会社や電鉄会社へも販路を開いて行った
    • [17]昭和6年末、同業者であった利昌洋行(大阪)の東京営業所閉鎖にさいし、その営業権の一切を譲り受けて、スイスの重電機部品メーカーであるハーフェライト社の製品を重電各社と中小の電機メーカーへ販売した
    • [18]三相式誘導電動機が富士電機に在庫しているとの情報を得て、再三交渉した結果、数十台を一括して安く入手し、大森に新工場建設計画をもっていた東京瓦斯電気工業へ低価格で売り込んで短期間に捌ききった
    • [15]山洋電気の事業は昭和2年8月に山本秀雄が山洋商会を設立し電気器具材料の輸入販売を始めたことにより創業され、昭和7年10月に東京都豊島区西巣鴨へ小型電気機械および配電盤の製造工場を新設して電気機械メーカーとして発足した

1930年〜東池袋の町工場と製品第一号の直流高圧発電機

メーカーへ移るには工場が要る。1930年、山本秀雄氏は炭素棒の売り込みで歩くさなかに東北大学工学専門部の級友だった冬木松五郎氏と再会し、経営への参加を誘った。冬木松五郎氏は勤め先の奥村電機が不況で京都工場を閉鎖したところで、ほとんど即座に応じた。1931年5月、芝区芝浦三丁目に約100平方メートルの木造平屋を借りて移り、翌1932年6月には東池袋の巣鴨拘置所に隣接する金陽社工場を5,000円で買収した。借地660平方メートルに工場330平方メートル、事務所66平方メートルの規模である。下請けに使っていた日光電機の従業員十数名と設備をそのまま移し、メーカーとして操業を開始した。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 1 無線通信用電源の草分け」
    • [19]昭和5年、ナショナルカーボン炭素棒の売り込みに歩いていた山本は仙台時代の旧友冬木松五郎に再会し、念願の工場を持つ計画を打ち明けて経営参加を誘った
    • [20]冬木松五郎は東北大学工学専門部電気科を卒業後に奥村電機へ入社したが、同社は不況のため京都工場の閉鎖に追い込まれ、東京へ転属していた
    • [21]昭和6年5月、100平方メートルほどの木造平屋建てながら芝区芝浦三丁目に手ごろな家屋を探して移転した
    • [22]昭和7年6月、現在の東池袋の巣鴨拘置所に隣接する金陽社工場を、値引交渉の末に5,000円で入手した
    • [23]敷地は借地ながら660平方メートルあり、建坪は工場330平方メートル、事務所66平方メートルであった
    • [24]前から下請工場として使っていた日光電機の経営者以下全従業員十数名と工場設備を、そっくりここに移転した

同年11月1日、この町工場は山洋商会特殊電機製作所と名づけられた。大手が扱う大型機種や汎用機種を避け、特殊な技術と用途の製品で開拓者になるという方針が、そのまま工場の名に置かれている。製品第一号は東洋無線と日本無線から受注した漁業用無線機の電源で、機種は直流高圧発電機であった。この分野を手がけていたのは当時、明電舎ほか数社にすぎない。国産では最高水準の製品にあたる。1934年にはソ連向けの電弧溶接機用直流発電機36台を受注し、試作機を短納期で仕上げるため山本秀雄氏みずから未明まで工場で監督にあたった。翌1935年、陸軍航空本部から探照灯用の5キロワット直流発電機の試作を命じられ、同本部の指定工場として登録された。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 1 無線通信用電源の草分け」
    • [25]昭和7年11月1日、工場を山洋商会特殊電機製作所と命名し、通信用電源の専門メーカーとしてのイメージを広くアピールする体制をとった
    • [26]大手メーカーと競合する大型機種や大量生産を必要とする汎用機種を避け、特殊な技術を必要とする製品、特殊な用途の製品で開拓者たろうとの意欲が工場の命名にこめられた
    • [27]最初に生み出した製品は、東洋無線、日本無線から受注した漁業用無線機の電源で、機種は直流高圧発電機であった
    • [30]昭和9年にソ連向けの電弧溶接機用直流発電機36台を受注し、試作機であるうえに納期が短かったため、経営者山本みずから未明まで工場で監督に当たった
  • 野田経済 1962年11月19日号
    • [28]当時、無線機用電源を手がけていたのは山洋のほかに明電舎がある程度だった
    • [29]山洋商会が製品第一号として送り出した直流高圧発電機は当時のトップレベルの国産品であった
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 2 株式会社山洋商会の誕生」
    • [31]昭和10年、陸軍航空本部から探照灯用の5キロワット直流発電機の試作を命じられ、その結果、陸軍航空本部指定工場として登録された

1936年12月31日、個人経営を改めて株式会社山洋商会が発足した。資本金は50万円の全額払込みで、経営陣は専務取締役に山本秀雄氏、取締役に冬木松五郎氏と海保龍吉氏、監査役に杉崎治三郎氏と山本文雄氏という顔ぶれであった。主力はコンバータとインバータ、すなわち通信用電源である。ただし需要の内訳は民需から離れつつあった。航空機・船艇・車輌用の無線機電源が軍需として増え始めており、翌1937年7月の日華事変の勃発とともに、経済が準戦時体制から戦時体制へ移るにつれ、軍需は山洋商会にとって最大の要因となった。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 2 株式会社山洋商会の誕生」
    • [32]昭和11年12月31日、個人経営から法人組織に変更して株式会社としての新しいスタート台に立った
    • [33]資本金は50万円全額払込ずみで、経営陣は専務取締役山本秀雄、取締役冬木松五郎、同海保龍吉、監査役杉崎治三郎、同山本文雄であった
    • [34]当時主力をおいた製品は通信用電源であり、機種は回転型コンバータならびにインバータであった
    • [35]日華事変勃発の直前という情勢のなかで、これらは民需よりも軍需製品として、航空機、船艇、車輌用の無線機電源の需要がにわかに増大しはじめた
    • [36]昭和12年7月に日華事変が勃発し、経済が準戦時体制から戦時体制へと移行するにつれ、軍需は山洋にとっていよいよ強い要因となって行った
参考文献[19]-[36]
    • [19]昭和5年、ナショナルカーボン炭素棒の売り込みに歩いていた山本は仙台時代の旧友冬木松五郎に再会し、念願の工場を持つ計画を打ち明けて経営参加を誘った
    • [20]冬木松五郎は東北大学工学専門部電気科を卒業後に奥村電機へ入社したが、同社は不況のため京都工場の閉鎖に追い込まれ、東京へ転属していた
    • [21]昭和6年5月、100平方メートルほどの木造平屋建てながら芝区芝浦三丁目に手ごろな家屋を探して移転した
    • [22]昭和7年6月、現在の東池袋の巣鴨拘置所に隣接する金陽社工場を、値引交渉の末に5,000円で入手した
    • [23]敷地は借地ながら660平方メートルあり、建坪は工場330平方メートル、事務所66平方メートルであった
    • [24]前から下請工場として使っていた日光電機の経営者以下全従業員十数名と工場設備を、そっくりここに移転した
    • [25]昭和7年11月1日、工場を山洋商会特殊電機製作所と命名し、通信用電源の専門メーカーとしてのイメージを広くアピールする体制をとった
    • [26]大手メーカーと競合する大型機種や大量生産を必要とする汎用機種を避け、特殊な技術を必要とする製品、特殊な用途の製品で開拓者たろうとの意欲が工場の命名にこめられた
    • [27]最初に生み出した製品は、東洋無線、日本無線から受注した漁業用無線機の電源で、機種は直流高圧発電機であった
    • [30]昭和9年にソ連向けの電弧溶接機用直流発電機36台を受注し、試作機であるうえに納期が短かったため、経営者山本みずから未明まで工場で監督に当たった
    • [28]当時、無線機用電源を手がけていたのは山洋のほかに明電舎がある程度だった
    • [29]山洋商会が製品第一号として送り出した直流高圧発電機は当時のトップレベルの国産品であった
    • [31]昭和10年、陸軍航空本部から探照灯用の5キロワット直流発電機の試作を命じられ、その結果、陸軍航空本部指定工場として登録された
    • [32]昭和11年12月31日、個人経営から法人組織に変更して株式会社としての新しいスタート台に立った
    • [33]資本金は50万円全額払込ずみで、経営陣は専務取締役山本秀雄、取締役冬木松五郎、同海保龍吉、監査役杉崎治三郎、同山本文雄であった
    • [34]当時主力をおいた製品は通信用電源であり、機種は回転型コンバータならびにインバータであった
    • [35]日華事変勃発の直前という情勢のなかで、これらは民需よりも軍需製品として、航空機、船艇、車輌用の無線機電源の需要がにわかに増大しはじめた
    • [36]昭和12年7月に日華事変が勃発し、経済が準戦時体制から戦時体制へと移行するにつれ、軍需は山洋にとっていよいよ強い要因となって行った

1938年〜軍需会社指定と従業員4,500名への膨張

海軍が航空機を戦略に組み込むと、船舶用電源で先行していた山洋商会に無線機用電源の試作依頼が回ってきた。重量制限の厳しい仕様であったが、海軍から技術将校を迎えて予想より早く試作を終え、結果は上々であった。まもなく陸軍からも依頼が入り、航空機用電源はエンジンのスターターや車輪の引き込みまで担うようになって、工場は繁忙に転じた。人材の補充も続いた。1938年に海軍少将の服部正計氏を顧問に迎え、翌1939年には陸軍大佐の赤羽祐之氏を迎え、いずれも後に取締役として経営に加わっている。1940年には逓信省電気試験所から茂木連氏を迎え、以後の技術陣の中心とした。

  • 野田経済 1962年11月19日号
    • [37]昭和12年に日支事変が勃発すると同時に、ようやく航空機を戦略に使用しはじめた海軍から、航空機の無線機用電源の試作依頼が舞い込んできた
    • [38]航空機用電源はむずかしい重量制限がついていたが、海軍から優秀な技術将校を迎えるなどして予想外に早く試作品を完成し、その結果は上々だった
    • [39]まもなく陸軍からも依頼がきて、航空機用電源は無線機用だけでなくエンジン・スターター、車輪引込み用も兼ねるものが要求され、技術と工場は急速に繁忙を迎えた
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 2 株式会社山洋商会の誕生」
    • [40]昭和13年に海軍少将服部正計を顧問に迎え、翌14年には陸軍大佐赤羽祐之を顧問に迎え入れ、いずれものちに取締役として経営に参加した
    • [41]昭和15年に逓信省電気試験所から茂木連を迎え、以後技術陣の中心的存在として長く活躍した

1942年4月、商事部門を切り離したうえで商号を山洋電気に改め、資本金を200万円へ増やした。分離した商事部門は山洋工業として残った。生産の場も東京だけでは足りない。1943年から陸軍航空本部の勧めで長野県上田市の北方に16万5,000平方メートルの用地を確保して工場建設に入り、翌年2月に上田北工場として操業を開始した。同年8月には上田市内の笠原組の製糸工場を、9月には前橋市の金井製糸と興国人絹パルプの工場を買収した。企業整備令で軍需転換を強いられた地方の製糸工場が、軍のあっせんで次々に軍需工場へ変わっていた時期である。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 3 軍需会社として」
    • [42]昭和17年4月、商事部門を切り離して独立させるとともに山洋電気と改称し、資本金200万円とした
    • [43]分離した商事部門は、電機製品の販売と電気工事で業界に知られる山洋工業である
    • [44]陸軍航空本部東京監督長のすすめで長野県上田市の北方に16万5,000平方メートルの土地を確保し、工場を建設して上田北工場として操業を開始した
    • [45]昭和18年8月に上田市内にあった笠原組上田工場を買収して上田南工場とし、翌9月には前橋市の金井製糸とこれに隣接する興国人絹パルプ前橋工場も買収して前橋工場とした
    • [46]当時は企業整備令によって不要不急の平和産業は軍需転換を強制され、地方に散在する紡績工場は格好の対象として軍のあっせんによりぞくぞくと軍需工場に転換していった

1944年12月、山洋電気は軍需会社の指定を受け、資本金は400万円となった。1942年に450名だった従業員は1年半で10倍の4,500名に達し、当時の全需要量の3分の1にあたる電源を生産する立場にあった。膨張は空襲で断ち切られる。1945年4月13日未明の東京大空襲で、本社工場・事務所・倉庫・青年学校・従業員宿舎など18棟が焼夷弾の直撃を受けて全焼した。被害は建物・機械・材料・製品で約730万円、生産能力の約半分が失われた。焼失の責任を追及する憲兵に対し、山本秀雄氏は焼夷弾の雨のなかで消火にあたった従業員をむしろ賞め、不可抗力であるとの立場を譲らなかったため、留置を延ばされている。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「略年譜」
    • [47]昭和19年12月、軍需会社の指定を受け、資本金400万円となった
  • 野田経済 1962年11月19日号
    • [48]昭和17年時の従業員450名は1年半の間に10倍の4,500名に急膨張した
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 3 軍需会社として」
    • [49]昭和20年4月13日未明の東京大空襲で、本社工場、事務所、倉庫、青年学校、従業員宿舎など合計18棟が大量の焼夷弾の直撃を受けて全焼した
    • [50]この空襲の被害は建物、機械、材料、半製品、製品等で計約730万円にのぼり、会社の生産能力の約半分が失われた
    • [51]焼失責任を追及する憲兵に向かって、山本は焼夷弾の雨の中で消火活動に身を挺した従業員たちをかえって賞めたたえ、焼失が不可抗力であったことを強硬に主張して譲らなかったため、留置拘束が延ばされた
参考文献[37]-[51]
    • [37]昭和12年に日支事変が勃発すると同時に、ようやく航空機を戦略に使用しはじめた海軍から、航空機の無線機用電源の試作依頼が舞い込んできた
    • [38]航空機用電源はむずかしい重量制限がついていたが、海軍から優秀な技術将校を迎えるなどして予想外に早く試作品を完成し、その結果は上々だった
    • [39]まもなく陸軍からも依頼がきて、航空機用電源は無線機用だけでなくエンジン・スターター、車輪引込み用も兼ねるものが要求され、技術と工場は急速に繁忙を迎えた
    • [48]昭和17年時の従業員450名は1年半の間に10倍の4,500名に急膨張した
    • [40]昭和13年に海軍少将服部正計を顧問に迎え、翌14年には陸軍大佐赤羽祐之を顧問に迎え入れ、いずれものちに取締役として経営に参加した
    • [41]昭和15年に逓信省電気試験所から茂木連を迎え、以後技術陣の中心的存在として長く活躍した
    • [42]昭和17年4月、商事部門を切り離して独立させるとともに山洋電気と改称し、資本金200万円とした
    • [43]分離した商事部門は、電機製品の販売と電気工事で業界に知られる山洋工業である
    • [44]陸軍航空本部東京監督長のすすめで長野県上田市の北方に16万5,000平方メートルの土地を確保し、工場を建設して上田北工場として操業を開始した
    • [45]昭和18年8月に上田市内にあった笠原組上田工場を買収して上田南工場とし、翌9月には前橋市の金井製糸とこれに隣接する興国人絹パルプ前橋工場も買収して前橋工場とした
    • [46]当時は企業整備令によって不要不急の平和産業は軍需転換を強制され、地方に散在する紡績工場は格好の対象として軍のあっせんによりぞくぞくと軍需工場に転換していった
    • [49]昭和20年4月13日未明の東京大空襲で、本社工場、事務所、倉庫、青年学校、従業員宿舎など合計18棟が大量の焼夷弾の直撃を受けて全焼した
    • [50]この空襲の被害は建物、機械、材料、半製品、製品等で計約730万円にのぼり、会社の生産能力の約半分が失われた
    • [51]焼失責任を追及する憲兵に向かって、山本は焼夷弾の雨の中で消火活動に身を挺した従業員たちをかえって賞めたたえ、焼失が不可抗力であったことを強硬に主張して譲らなかったため、留置拘束が延ばされた
    • [47]昭和19年12月、軍需会社の指定を受け、資本金400万円となった

第2章 1946年〜 特別経理会社からの再建と自動制御への転換

1946年〜遊休設備の返還と戦時補償の打切り

1946年春、山洋電気は前橋工場の旧金井製糸分を金井源蔵氏へ、上田南工場を笠原組へ返還した。企業整備令と軍のあっせんで低廉に身売りした工場が平和産業へ戻ろうとしたためで、現物出資の各50万円が戻って合計100万円の減資となった。同じ年の8月、吉田内閣は戦時補償の打切りを声明する。10月の戦時補償特別措置法により、軍へ納めた製品の代金、軍からの前受金、戦災保険金の合計1,864万円を、戦時補償特別税として国へ返すことになった。当時の払込資本金は250万円にすぎない。資本金の9割切捨てと銀行借入金の棒引きで処理してなお約900万円の特別損失が残り、会社経理応急措置法の適用を受けて特別経理会社となった。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 4 戦後の苦悩」
    • [52]前橋工場の旧金井製糸分は金井源蔵へ、上田南工場は笠原組へ返還することとなり、この返還は昭和21年春に完了した
    • [53]企業整備令で閉鎖寸前に追いこまれ軍のあっせんで低廉な身売りをした工場は平和産業へ復帰しようとしたもので、現物出資の各50万円は戻されたため合計100万円の減資となった
    • [54]昭和21年8月、吉田内閣は戦時補償の打切りを声明し、10月に戦時補償特別措置法を公布して打切り範囲が決定した
    • [55]山洋では軍に納入した製品の代金、軍からの前受金、戦災保険金の合計1,864万円を、戦時補償特別税として国へ返還しなければならなくなった
    • [56]当時の山洋の払込資本金は250万円であり、1,864万円はこれに対してぼう大な金額であった
    • [57]返済方法として資本金の9割を切り捨て、銀行借入金も棒引きにする方法が取られ、指定銀行であった住友銀行と戦時金融金庫に多大な損害を与えたが、山洋にも約900万円の特別損失金が生じた
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「略年譜」
    • [58]昭和21年8月、軍需補償の打ち切りにより会社経理応急措置法にもとづく特別経理会社の適用を受けた

従業員の整理は敗戦の直後に始まっていた。1945年9月15日、山洋電気は平均3カ月分の退職金を払って4,500名を450名へ減らし、11月には一度全員を解雇したうえで約半数を再雇用した。残す者の選別にあたっては、どのようなメーカーへ形を変えるにしても必要なのは技術だという判断から、技術者を残す方針が取られた。1948年2月には前橋工場を閉鎖して上田工場へ統合した。前橋の従業員は約60名で、住み慣れた土地からの移住を嫌う者がほとんどであったという。1949年6月にはさらに3割を整理し、この時点の従業員は150名を割った。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 4 戦後の苦悩」
    • [59]敗戦と同時に遊休化した工場設備をかかえ従業員は5,000人をこえていたため、山本はまず人員整理から着手しなくては企業として生きる道がないとさとった
    • [60]昭和20年9月に平均3カ月分の退職金を支払って一気に500名に減員し、さらに11月には一応全員を解雇してその中から約半数を再雇傭した
    • [64]当時の前橋工場の従業員は約60人にすぎなかったが、永年住みなれた前橋から移住をきらう者がほとんどであった
    • [65]昭和24年6月、経営困難から合理化のために再度従業員の3割整理にふみきり、この時点での従業員は150人を割った
  • 野田経済 1962年11月19日号
    • [61]終戦からまる1カ月後の9月15日に9割の人員整理を実行し、4,500名の従業員を一挙に450名へ減らし、さらに間もなく450名を250名に減らした
    • [62]一番苦労したのは残す人間の人選であり、どのようなメーカーに形を変えるにしてもやはり一番必要なものは技術だと悟って技術者だけを残した
  • 電子工業月報 1968年「会社紹介 山洋電気株式会社」
    • [63]昭和23年、前橋工場を閉鎖し上田工場に統合した

敗戦から2年ほどの間、上田工場では廃材で自転車のスポークベルやアルミの杓子、缶切りを、前橋工場では安全かみそりをつくった。手持資材を売って給与を確保する状態が続き、1946年2月には毎日新聞社へ寄宿舎を27万円で、1947年12月には昭栄製糸へ上田工場の一部を90万円で、1948年2月には前橋工場の旧興国人絹パルプ分を100万円で売っている。活路は食糧増産政策から開いた。農漁業の機械化と電化が国の重要政策として進められ、山洋電気は農村向けの脱穀用単相反撥モータと漁船用無線機電源のコンバータへ戻った。1949年には脱穀用モータが統制の撤廃で競争激化に直面したが、代わって魚群探知機用のコンバータが伸び、12月に特別経理会社の指定を解除された。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 4 戦後の苦悩」
    • [66]昭和20年の終わりから21年へかけて、上田工場では廃材を利用して自転車のスポークベル、アルミの杓子、缶切り、前橋工場では安全かみそりといった雑品を手がけた
    • [68]売却した財産としては昭和21年2月の毎日新聞社にたいする寄宿舎27万円、22年12月の昭栄製糸にたいする上田工場の一部90万円、23年2月の西尾某にたいする前橋工場の旧興国人絹パルプ工場分100万円などがある
    • [69]物資の不足ことに食糧難は非常なもので、食糧の増産が国の重要政策とされて農漁業の機械化、電化が急速に進められた
    • [70]戦後一、二年の主な製品は漁船用無線機の電源としてのコンバータや、農村向けの脱穀用単相反撥モータであった
    • [71]昭和24年末から25年初めにかけて脱穀用単相電動機の売行きが農村の金詰まりとこの機種にたいする統制の撤廃による競争激化で苦しくなったが、かわって漁船用無線機電源の需要が活発となり、魚群探知機の需要も新しく抬頭した
    • [72]魚群探知機の電源用コンバーターがかなりの売上げをもたらして成績は上向き、昭和24年12月には特別経理会社の解除にこぎつけて最悪期を脱した
  • 証券アナリストジャーナル 1979年11月号(山本浩・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演要旨)
    • [67]戦後はナベ、カマや農業用モータなどを作ったが、早い時期に船舶の無線の電源を手掛けることにした
参考文献[52]-[72]
    • [52]前橋工場の旧金井製糸分は金井源蔵へ、上田南工場は笠原組へ返還することとなり、この返還は昭和21年春に完了した
    • [53]企業整備令で閉鎖寸前に追いこまれ軍のあっせんで低廉な身売りをした工場は平和産業へ復帰しようとしたもので、現物出資の各50万円は戻されたため合計100万円の減資となった
    • [54]昭和21年8月、吉田内閣は戦時補償の打切りを声明し、10月に戦時補償特別措置法を公布して打切り範囲が決定した
    • [55]山洋では軍に納入した製品の代金、軍からの前受金、戦災保険金の合計1,864万円を、戦時補償特別税として国へ返還しなければならなくなった
    • [56]当時の山洋の払込資本金は250万円であり、1,864万円はこれに対してぼう大な金額であった
    • [57]返済方法として資本金の9割を切り捨て、銀行借入金も棒引きにする方法が取られ、指定銀行であった住友銀行と戦時金融金庫に多大な損害を与えたが、山洋にも約900万円の特別損失金が生じた
    • [59]敗戦と同時に遊休化した工場設備をかかえ従業員は5,000人をこえていたため、山本はまず人員整理から着手しなくては企業として生きる道がないとさとった
    • [60]昭和20年9月に平均3カ月分の退職金を支払って一気に500名に減員し、さらに11月には一応全員を解雇してその中から約半数を再雇傭した
    • [64]当時の前橋工場の従業員は約60人にすぎなかったが、永年住みなれた前橋から移住をきらう者がほとんどであった
    • [65]昭和24年6月、経営困難から合理化のために再度従業員の3割整理にふみきり、この時点での従業員は150人を割った
    • [66]昭和20年の終わりから21年へかけて、上田工場では廃材を利用して自転車のスポークベル、アルミの杓子、缶切り、前橋工場では安全かみそりといった雑品を手がけた
    • [68]売却した財産としては昭和21年2月の毎日新聞社にたいする寄宿舎27万円、22年12月の昭栄製糸にたいする上田工場の一部90万円、23年2月の西尾某にたいする前橋工場の旧興国人絹パルプ工場分100万円などがある
    • [69]物資の不足ことに食糧難は非常なもので、食糧の増産が国の重要政策とされて農漁業の機械化、電化が急速に進められた
    • [70]戦後一、二年の主な製品は漁船用無線機の電源としてのコンバータや、農村向けの脱穀用単相反撥モータであった
    • [71]昭和24年末から25年初めにかけて脱穀用単相電動機の売行きが農村の金詰まりとこの機種にたいする統制の撤廃による競争激化で苦しくなったが、かわって漁船用無線機電源の需要が活発となり、魚群探知機の需要も新しく抬頭した
    • [72]魚群探知機の電源用コンバーターがかなりの売上げをもたらして成績は上向き、昭和24年12月には特別経理会社の解除にこぎつけて最悪期を脱した
    • [58]昭和21年8月、軍需補償の打ち切りにより会社経理応急措置法にもとづく特別経理会社の適用を受けた
    • [61]終戦からまる1カ月後の9月15日に9割の人員整理を実行し、4,500名の従業員を一挙に450名へ減らし、さらに間もなく450名を250名に減らした
    • [62]一番苦労したのは残す人間の人選であり、どのようなメーカーに形を変えるにしてもやはり一番必要なものは技術だと悟って技術者だけを残した
    • [63]昭和23年、前橋工場を閉鎖し上田工場に統合した
    • [67]戦後はナベ、カマや農業用モータなどを作ったが、早い時期に船舶の無線の電源を手掛けることにした

1950年〜第五次計画造船と電気通信省への進出

船舶無線機用電源の需要は、当初の漁船向けから大型の外航船向けへと重心を移しつつあった。これを受けて山洋電気は1950年6月、主力の電源機種を小型から大型へ切り替える方針を固め、あわせて経営陣を組み直した。社長の山本秀雄氏の下で、専務に冬木松五郎氏、常務に渡辺平蔵氏、取締役に茂木連氏と郷末茂氏が就いた。大型化には設備を新しくし営業の範囲を広げることが欠かせず、とりわけ官公需をどう開くかが大きな課題になった。同じ年に始まった政府の財政融資による第五次計画造船は、内航貨物船が対象だった第四次までと違って外航適格船に絞られ、規模も大きかった。この計画が生んだ電源需要のうち、山洋電気は半ば近くを受け取った。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 5 再建をめざして」
    • [73]主製品であった船舶無線機用電源は、当初の漁船用から大型外航船用へと機種の移行する傾向がしだいに顕著となっていた
    • [74]まず主力電源機種を小型から大型へと移行する方針を決定した
    • [75]昭和25年6月、社長山本秀雄以下、冬木松五郎を専務取締役、渡辺平蔵を常務取締役とし、新たに茂木連と郷末茂を取締役に昇格させた
    • [76]そのために必要となるのは設備の更新と営業の間口をひろげることであり、とくに官公需はこれから是非とも開拓しなくてはならない大きなポイントであった
    • [77]財政融資による船舶の建造が計画造船であり、昭和22年に第一次が発足していらい、25年には第五次を迎えていた
    • [78]第四次までが内航貨物船であったのにたいして、第五次はもっぱら外航適格船であって非常に大規模な計画となった
    • [79]第五次計画造船関係の電源需要量の半ば近くを受注した
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「略年譜」
    • [80]昭和25年、第五次造船計画による船舶通信電源を受注した

陸上の通信では逓信省が大口需要者で、1949年に同省は郵政省と電気通信省へ分かれた。同じ年の10月、山洋電気は離島無線局用の7キロボルトアンペア交流発電機2台を大阪発動機製造経由で契約し、翌1950年には裸線搬送電信用の電動発電機4台を直接契約して、電気通信省の指定メーカーに登録された。以後は15、20、40、75、100キロボルトアンペアと容量を上げ、市内電話用の電動発電機へも受注機種を広げている。1952年に電気通信省が日本電信電話公社となると、市外通信線ではマイクロウェーブ多重通信と同軸ケーブル多重通信の実用化が始まった。山洋電気は山頂の中継局に置く無停電電源装置を担い、これは国鉄や電力会社の通信網にも使われた。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 5 再建をめざして」
    • [81]戦後の陸上通信機の大口需要は逓信省であったが、昭和24年に同省は郵政省と電気通信省とに分割された
    • [82]昭和24年10月に離島無線局用7KVA交流発電機2台を大阪発動機製造株式会社経由で契約し、この実績により翌25年に裸線搬送電信用電動発電機4台を直接契約して、電気通信省の指定メーカーとして登録されるきっかけとなった
    • [84]以後15KVA、20KVA、40KVA、75KVA、100KVAとしだいに大型のものを受注し、つづいて市内電話電源として各種の電動発電機へ受注機種を拡大した
    • [85]昭和27年に電気通信省が電電公社となり、最も大きな改革は市外通信線に無装荷ケーブルにかわりマイクロウェーブ多重通信と同軸ケーブルによる多重通信を実用化し始めたことで、第一回は東京〜大阪間10局の中継局を山頂に設けたものであった
  • 野田経済 1962年11月19日号
    • [83]戦後復興がはじまり、新しく発足した電電公社からも通信機用電源メーカーの指定があって事業がカムバックした
  • 証券アナリストジャーナル 1979年11月号(山本浩・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演要旨)
    • [86]昭和30年から始まった電電公社のマイクロウェーブの設定に伴い無停電電源装置を手掛け、これが国鉄や電力会社の通信網にも使われるようになって、30年から35年にかけて最高の需要があった

1953年、防衛力強化計画の始動を受けて、山洋電気は三菱電機や新中央工業とともに手廻発電機の試作コンクールへ応募した。山本秀雄氏は入賞すること自体を目的とせず、一位でなければ意味がないと技術陣に迫った。翌1954年1月のコンクールで一位に入り、GRC-9用手廻発電機を完成させている。海難時に救命艇へ積む緊急用無線機の電源にも同じ機種が求められ、法令で装備が定められた後の需要の大半を取った。陸上自衛隊向けのガソリン機関発電機でも、10社近い競争のなかで好成績を収めた。防衛庁からの大量受注に船舶用電源と魚群探知機用コンバータ、マイクロ波通信用の受注が重なり、1954年9月期に売上高は1億円を超えた。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 6 飛躍に備えて」
    • [87]防衛力強化計画が軌道に乗り出した昭和28年、山洋は三菱電機、新中央工業などとともに手廻発電機の試作コンクールに応募した
    • [88]山本は「入賞するのが目的ではない。一位で入賞するのでなければ意味がない」といって技術陣を激励した
    • [90]海難時のライフボートに装備する緊急用無線機の電源となる手廻発電機の開発も要求され、この装備が法令で決められた後の大量需要の大半を山洋が獲得した
    • [91]陸上自衛隊用の大型通信機の電源として2KW、3KW、5KW、10KWなどのガソリン機関発電機が要求され、製作コンクールでは10社ちかい競争会社のなかで山洋はいずれも優秀な成績をおさめた
    • [92]防衛庁からの大量受注に加え船舶用各種無線電源や魚群探知機用コンバータが続伸し、電電公社をはじめとするマイクロ波通信用の受注も大量で、昭和29年9月期には売上げ1億円の目標ラインを突破した
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「略年譜」
    • [89]昭和29年1月、自衛隊用手廻発電機の試作が完成し、コンクールで一位に入賞してGRC-9用手廻発電機を完成した
    • [93]昭和29年9月、売上高が1億円を超えた
参考文献[73]-[93]
    • [73]主製品であった船舶無線機用電源は、当初の漁船用から大型外航船用へと機種の移行する傾向がしだいに顕著となっていた
    • [74]まず主力電源機種を小型から大型へと移行する方針を決定した
    • [75]昭和25年6月、社長山本秀雄以下、冬木松五郎を専務取締役、渡辺平蔵を常務取締役とし、新たに茂木連と郷末茂を取締役に昇格させた
    • [76]そのために必要となるのは設備の更新と営業の間口をひろげることであり、とくに官公需はこれから是非とも開拓しなくてはならない大きなポイントであった
    • [77]財政融資による船舶の建造が計画造船であり、昭和22年に第一次が発足していらい、25年には第五次を迎えていた
    • [78]第四次までが内航貨物船であったのにたいして、第五次はもっぱら外航適格船であって非常に大規模な計画となった
    • [79]第五次計画造船関係の電源需要量の半ば近くを受注した
    • [81]戦後の陸上通信機の大口需要は逓信省であったが、昭和24年に同省は郵政省と電気通信省とに分割された
    • [82]昭和24年10月に離島無線局用7KVA交流発電機2台を大阪発動機製造株式会社経由で契約し、この実績により翌25年に裸線搬送電信用電動発電機4台を直接契約して、電気通信省の指定メーカーとして登録されるきっかけとなった
    • [84]以後15KVA、20KVA、40KVA、75KVA、100KVAとしだいに大型のものを受注し、つづいて市内電話電源として各種の電動発電機へ受注機種を拡大した
    • [85]昭和27年に電気通信省が電電公社となり、最も大きな改革は市外通信線に無装荷ケーブルにかわりマイクロウェーブ多重通信と同軸ケーブルによる多重通信を実用化し始めたことで、第一回は東京〜大阪間10局の中継局を山頂に設けたものであった
    • [80]昭和25年、第五次造船計画による船舶通信電源を受注した
    • [89]昭和29年1月、自衛隊用手廻発電機の試作が完成し、コンクールで一位に入賞してGRC-9用手廻発電機を完成した
    • [93]昭和29年9月、売上高が1億円を超えた
    • [83]戦後復興がはじまり、新しく発足した電電公社からも通信機用電源メーカーの指定があって事業がカムバックした
    • [86]昭和30年から始まった電電公社のマイクロウェーブの設定に伴い無停電電源装置を手掛け、これが国鉄や電力会社の通信網にも使われるようになって、30年から35年にかけて最高の需要があった
    • [87]防衛力強化計画が軌道に乗り出した昭和28年、山洋は三菱電機、新中央工業などとともに手廻発電機の試作コンクールに応募した
    • [88]山本は「入賞するのが目的ではない。一位で入賞するのでなければ意味がない」といって技術陣を激励した
    • [90]海難時のライフボートに装備する緊急用無線機の電源となる手廻発電機の開発も要求され、この装備が法令で決められた後の大量需要の大半を山洋が獲得した
    • [91]陸上自衛隊用の大型通信機の電源として2KW、3KW、5KW、10KWなどのガソリン機関発電機が要求され、製作コンクールでは10社ちかい競争会社のなかで山洋はいずれも優秀な成績をおさめた
    • [92]防衛庁からの大量受注に加え船舶用各種無線電源や魚群探知機用コンバータが続伸し、電電公社をはじめとするマイクロ波通信用の受注も大量で、昭和29年9月期には売上げ1億円の目標ラインを突破した

1955年〜サーボモータの試作研究と株式公開

1955年1月、山洋電気はサーボモータの試作研究を始めた。研究陣が米国の文献から自動制御の現状を探り、サーボモータ、シンクロ、リゾルバー、ステップモータといった回転機器が自動制御用の新しい構成部品になるとの見通しを立てて首脳陣へ提案し、即座に採用されたものである。これらの機種の必要性が国内で唱えられ出すのは1960年ごろで、着手はその5年前にあたる。船舶無線から陸上のマイクロ波無線へ移りながら通信用電源に主力を置いてきた会社が、装置の構成部品という別の分野へ踏み出した。電源は通信機へ電力を供給する製品だが、サーボモータは機械を動かす部品であり、売り先の産業ごと替える転換であった。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「略年譜」
    • [94]昭和30年1月、サーボモータの試作研究を開始した
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 6 飛躍に備えて」
    • [95]研究陣は海外とくに米国の文献から現状をさぐり、将来の動向としてサーボモータ、シンクロ、リゾルバー、ステップモータなどのサーボモータ類といわれる回転機器が自動制御用の新しいコンポーネントとして注目される機種だとの見とおしを立て、主脳陣に提案してこれが直ちに採用された
    • [96]これら機種の開発の必要性がわが国で唱えられ出したのは昭和35年ころからであり、山洋は早くも5年前からこれを予見して研究に着手していた
    • [97]船舶無線から陸上通信用のマイクロ波無線へと移行しながら通信用の電源機種に主力をおいてきた山洋が、ここではじめて自動制御装置用のコンポーネントという新しい分野へ第一歩を踏み出した

開発の原資は自己資金と国の補助金であった。1955年度に通商産業省の鉱工業技術試験研究補助金95万円を交流発電機と自動電圧調整器の超小型化で受け、1958年に160万円、1959年に107万円、1960年に100万円を、工作機械の数値制御に使う電気機械で受けている。着手してすぐ受注に結びつく性質のものではなく、先行投資というべき試作研究であった。一方、1955年に大同製鋼の提案で開発したホットトップ自動制御装置は、直ちに受注生産に入った。理研製鋼と協力し、二相サーボモータと磁気増幅器で電弧電圧を検出して電極を昇降させる装置で、同社から80セットを受注したのち、日本鋼管や八幡製鉄など大手製鉄各社に採用された。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 6 飛躍に備えて」
    • [98]研究費には通産省の補助金を受け、自己資金に加えた
    • [99]昭和30年度に「交流発電機およびその自動電圧調整器の超小型化」で鉱工業技術試験研究補助金95万円を受け、以降33年「工作機械の数値制御機構に使用する電気機械」160万円、34年107万円、35年100万円を受けて工作機械の自動制御用電動機の開発に取り組んだ
    • [100]これらは着手して直ぐ受注に結びつくといった試作ではなく、むしろ先行投資ともいうべき性質の試作研究であった
    • [101]昭和30年、大同製鋼からの提案で開発したホットトップ自動制御装置は直ちに受注生産に入り、高収益をあげた
    • [102]理研製鋼平井工場と協力し、二相サーボモータと磁気増幅器アクチュエータを用いて電弧電圧を検出し電極を昇降させる装置を開発して同社から80セットの大量受注を得たのち、日本製鋼所、日本鋼管、富士製鉄広畑、八幡製鉄など大手製鉄、特殊鋼メーカーに次々と採用された
  • 電子工業月報 1968年「会社紹介 山洋電気株式会社」
    • [103]自動制御装置としてホットトップ自動制御装置を製造しており、用途は製鋼用である

1960年、山洋電気はサーボモータとシンクロの量産に入った。試作の域を脱した年に、この機種の売上高は前年の倍となっている。同年6月に上田工場の主要部を火災で失って鉄骨で建て直し、11月には埼玉県川口市へ川口工場を新設した。12月には電子工業振興法にもとづき、日本開発銀行からサーボモータの開発資金として3,000万円の低利融資を受けた。1961年10月には米国IMC社と自動制御用電気機器の製造販売で提携する。1962年9月29日、総株数360万株のうち8パーセント強にあたる32万株を東京証券取引所第二部へ新規上場し、10月1日の倍額増資で資本金は1億6,000万円となった。1964年、山本秀雄氏が会長へ退き、長男の山本浩氏が社長に就任した。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「略年譜」
    • [104]昭和35年、サーボモータ、シンクロの量産に入った
    • [106]昭和35年6月に上田工場の主要部が火災により焼失して直ちに鉄骨にて再建し、同年11月に川口工場を新設した
    • [109]昭和36年10月に米国IMC社と業務提携した
    • [112]昭和37年、株式を東京証券取引所第二部に上場し、資本金1億6,000万円となった
    • [113]昭和39年、山本秀雄が会長に、山本浩が社長に就任した
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 6 飛躍に備えて」
    • [105]サーボモータが昭和35年からようやく試作の域を脱して大量生産の段階に入り、売上げは前年の倍増をみた
    • [108]電子工業振興法により日本開発銀行からサーボモータ開発資金として昭和35年12月に3,000万円の低利融資を受け、さらに39年12月にも第二次の4,000万円の融資に成功した
  • 山洋電気 有価証券報告書【沿革】
    • [107]1960年11月、埼玉県川口市に川口工場を新設した
  • 電子工業月報 1968年「会社紹介 山洋電気株式会社」
    • [110]米国IMC社と自動制御用電気機器サーボモータ、シンクロ等に関し製造販売の提携をした
  • 日本経済新報 1962年
    • [111]昭和37年10月1日に倍額増資を完了して8,000万円から1億6,000万円となり、9月29日に総株数360万株のうち8パーセント強にあたる32万株を東京第二部に新規上場した
  • 証券アナリストジャーナル 1979年11月号(山本浩・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演要旨)
    • [114]山本浩は昭和39年から山洋電気の2代目社長となった
参考文献[94]-[114]
    • [94]昭和30年1月、サーボモータの試作研究を開始した
    • [104]昭和35年、サーボモータ、シンクロの量産に入った
    • [106]昭和35年6月に上田工場の主要部が火災により焼失して直ちに鉄骨にて再建し、同年11月に川口工場を新設した
    • [109]昭和36年10月に米国IMC社と業務提携した
    • [112]昭和37年、株式を東京証券取引所第二部に上場し、資本金1億6,000万円となった
    • [113]昭和39年、山本秀雄が会長に、山本浩が社長に就任した
    • [95]研究陣は海外とくに米国の文献から現状をさぐり、将来の動向としてサーボモータ、シンクロ、リゾルバー、ステップモータなどのサーボモータ類といわれる回転機器が自動制御用の新しいコンポーネントとして注目される機種だとの見とおしを立て、主脳陣に提案してこれが直ちに採用された
    • [96]これら機種の開発の必要性がわが国で唱えられ出したのは昭和35年ころからであり、山洋は早くも5年前からこれを予見して研究に着手していた
    • [97]船舶無線から陸上通信用のマイクロ波無線へと移行しながら通信用の電源機種に主力をおいてきた山洋が、ここではじめて自動制御装置用のコンポーネントという新しい分野へ第一歩を踏み出した
    • [98]研究費には通産省の補助金を受け、自己資金に加えた
    • [99]昭和30年度に「交流発電機およびその自動電圧調整器の超小型化」で鉱工業技術試験研究補助金95万円を受け、以降33年「工作機械の数値制御機構に使用する電気機械」160万円、34年107万円、35年100万円を受けて工作機械の自動制御用電動機の開発に取り組んだ
    • [100]これらは着手して直ぐ受注に結びつくといった試作ではなく、むしろ先行投資ともいうべき性質の試作研究であった
    • [101]昭和30年、大同製鋼からの提案で開発したホットトップ自動制御装置は直ちに受注生産に入り、高収益をあげた
    • [102]理研製鋼平井工場と協力し、二相サーボモータと磁気増幅器アクチュエータを用いて電弧電圧を検出し電極を昇降させる装置を開発して同社から80セットの大量受注を得たのち、日本製鋼所、日本鋼管、富士製鉄広畑、八幡製鉄など大手製鉄、特殊鋼メーカーに次々と採用された
    • [105]サーボモータが昭和35年からようやく試作の域を脱して大量生産の段階に入り、売上げは前年の倍増をみた
    • [108]電子工業振興法により日本開発銀行からサーボモータ開発資金として昭和35年12月に3,000万円の低利融資を受け、さらに39年12月にも第二次の4,000万円の融資に成功した
    • [103]自動制御装置としてホットトップ自動制御装置を製造しており、用途は製鋼用である
    • [110]米国IMC社と自動制御用電気機器サーボモータ、シンクロ等に関し製造販売の提携をした
  • 山洋電気 有価証券報告書【沿革】
    • [107]1960年11月、埼玉県川口市に川口工場を新設した
  • 日本経済新報 1962年
    • [111]昭和37年10月1日に倍額増資を完了して8,000万円から1億6,000万円となり、9月29日に総株数360万株のうち8パーセント強にあたる32万株を東京第二部に新規上場した
    • [114]山本浩は昭和39年から山洋電気の2代目社長となった

第3章 1965-1987 (気が向いたら執筆します!) 冷却ファンSan Aceの立ち上げと、上田事業所の工場群の新設

第4章 1988-2026 (気が向いたら執筆します!) 欧米子会社とフィリピン生産、東証一部指定から社内カンパニー制へ

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歴史年表 1927〜2026年

山洋電気の沿革1927〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1927〜1945年山本秀雄が選んだ無線通信用電源と特殊電機製作所山本秀雄が電気部品の輸入販売業として山洋商会を創立★★★
東京都豊島区西巣鴨に山洋商会特殊電機製作所を開設★★
株式会社に組織変更、商号を株式会社山洋商会に★★
商号を山洋電気に変更★★
上田南工場と前橋工場を開設★
長野県上田市に上田北工場を新設★★
戦災により本社・東京工場が全焼★★
本社・東京工場を東京都豊島区巣鴨に移転★
1946〜1964年特別経理会社からの再建と自動制御への転換上田南工場を上田北工場へ併合★
前橋工場を閉鎖し上田工場へ併合★
AC・DCサーボモータを日本で初めて製品化★★★
埼玉県川口市に川口工場を新設★
東京証券取引所市場第二部に上場★
1965〜1987年冷却ファンSan Aceの立ち上げと、上田事業所の工場群の新設冷却ファンのブランド San Ace を立ち上げ★★★
東京工場を上田・川口の両工場へ移転★
上田事業所塩田工場を新設★
上田事業所築地工場を新設★
上田事業所青木工場を新設★
1988〜2026年欧米子会社とフィリピン生産、東証一部指定から社内カンパニー制へ初の海外子会社 SANYO DENKI EUROPE をフランスに設立★★
上田事業所富士山工場を新設★
山本茂生SANYO DENKI AMERICA をアメリカに設立★
山本茂生上田事業所にテクノロジーセンターを開設★
山本茂生AUTOMATION INTELLIGENCE を買収★
山本茂生生産子会社の山洋電気テクノサービスを設立★
山本茂生川口事業所を上田事業所に統廃合★★
山本茂生SANYO DENKI PHILIPPINES を設立し海外生産を開始★★
山本茂生上田事業所神川工場を新設★
山本茂生山洋工業を完全子会社化★
山本茂生中山市山洋电气有限公司を中国に設立★
山本茂生東京証券取引所市場第一部に指定★
山本茂生SANYO DENKI PHILIPPINES にテクノロジーセンターを開設★
児玉展全上田事業所テクノロジーセンターに新棟を開設★
児玉展全東京証券取引所の市場区分の見直しによりプライム市場に移行★
児玉展全社内カンパニー制を導入★★★
児玉展全SANYO DENKI VIETNAM をベトナムに設立★
出典・参考 12件
出典・参考
  • 山洋電気 有価証券報告書【沿革】
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 1 無線通信用電源の草分け」
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 2 株式会社山洋商会の誕生」
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 3 軍需会社として」
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「略年譜」
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 4 戦後の苦悩」
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 5 再建をめざして」
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 6 飛躍に備えて」
  • 証券アナリストジャーナル 1979年11月号(山本浩・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演要旨)
  • 野田経済 1962年11月19日号
  • 日本経済新報 1962年
  • 電子工業月報 1968年「会社紹介 山洋電気株式会社」

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