山洋電気 の歴史

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創業 1927年
創業者 山本秀雄
創業地 東京都港区
創業
1927年8月、33歳の山本秀雄氏が東京・土橋の一室で山洋商会を興し、電気機器の輸入販売を始めた。東北帝国大学で八木秀次博士の無線電信の講義を聴いた技術者で、大企業が扱う大型機や汎用機を避け、人のやらない専門領域を選ぶことを独立前から条件にしていた。1932年6月に東池袋の金陽社工場を取得し、同年11月に山洋商会特殊電機製作所と名づけて、漁業用無線機向けの直流高圧発電機を第一号製品とする。1936年12月に株式会社山洋商会が発足し、1942年4月には商事部門を分離して商号を山洋電気へ改めた。1944年12月に軍需会社の指定を受け、従業員は1942年の450名から4,500名へ増えたが、翌1945年4月の空襲で本社工場ほか18棟を焼失し、生産能力の約半分を失った。
決断
最大の顧客が回転機を捨てた年に、次の主力になる回転機を作り始めた。1963年春、電電公社が電源の静止型への移行を基本方針に据える。総売上の50パーセントを作る上田工場は、その半ばが公社の受注だった。同年12月に研究部を技術開発部へ改め、1964年2月に静止型製品の第一号を納めた。並行して1965年秋、提携先の米IMC社の薄型冷却ファンを改良した国産品の生産を東京工場で始めた。厚さ38ミリのこの製品はSan Aceと名づけられ、1979年に国内シェア30パーセントを確保する。同じ時期にステッピングモータが米IBMに採用され、生産の95パーセント以上がIBM向けとなる。静止型は電源として作り、行き場を失った回転機を冷却と位置決めへ移したことが、現在の3つのカンパニーを分けた。
現況
売上の4割に満たない冷却ファンが、営業利益の4分の3を生んでいる。2026年3月期の連結売上収益1,073億円の内訳は、冷却ファンのサンエースカンパニーが408億円、サーボとステッピングのモーションが375億円、電源とアンプのエレクトロニクスカンパニーが232億円である。セグメント利益はサンエースの81億円が、モーションの12億円とエレクトロニクスの11億円を大きく上回る。創業の商売だった電源が、現在は3つで最も小さい。生成AI向けサーバの冷却需要が伸び、2025年度第4四半期のサンエースの受注は133億円に達した。売り先は日本652億円、北米233億円。データセンターで電力が最大の制約になったことが、装置の内側で熱を逃がす部品を、社内で最も利益を出す事業へ変えた。
競合
同じ社内に、値決めのできる事業とできない事業が並んでいる。数値制御工作機械では1972年ごろ、NC装置で高いシェアと高い利益率を同時に保った一社が世界の90数パーセントを占めていた。従来の油圧パルス方式に優るDC駆動方式が米国で開発されると、国内のコンピュータ業界がそのシェアを崩そうとして採用を促し、山洋電気もこの流れで製品を作り込んで1973年の石油ショック後の業績を支えた。それでもモーションの2026年3月期のセグメント利益率は3.3パーセントにとどまり、20.1パーセントの冷却ファンに及ばない。冷却ファンは顧客名こそ開示していないが、複数の大手サーバメーカーと取引があり、中国のGPUサーバにも採用される。系列に属さない立場は、モータでは規模の不足として残り、冷却ファンでは供給先を選ばずに済む条件として働いた。
長期業績の推移 1962〜2026年
山洋電気:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 山本秀雄が選んだ無線通信用電源と特殊電機製作所 (1927年〜)

創業ストーリー(1)

八木秀次の講義から山洋商会の創業へ

創業者の山本秀雄氏は1894年11月21日、内務省土木技師の次男として岩手県盛岡市に生まれ、東北帝国大学工学専門部電気科に進んだ[1]。進路を決めたのは、ロンドン留学から帰国したばかりの八木秀次博士による無線電信の講義である[2]。当時の無線機用電源は明電舎の高周波交流発電機がある程度で、質量とも外国製品が圧倒的であった[3]。大企業が手がける大型機器や汎用機器では勝負にならず、人のやらない専門領域を狙う[4]。しかも将来性を大きく約束された領域でなければならない[5]。学生時代からのこの条件に、黎明期の無線は重なった[6]。卒業後は横浜の貿易商社である安部幸兵衛商店の電気機械部に入り、1年で退いて小型発電機メーカーの精電舎へ取締役支配人として移った[7]。営業と製造の双方を実地で覚えたうえで独立するという段取りであった[8]

    • [1]山本秀雄は1894年11月21日、内務省土木技師武之進の次男として岩手県盛岡市に生まれ、東北帝国大学工学専門部電気科に進学した
    • [2]大正6年、東北帝大で受けた八木秀次博士の無線通信に関する講義が、山本秀雄に無線部門で仕事をするという念願を刻んだ
    • [3]当時、無線機電源の国産品はわずかな明電舎製の高周波交流発電機があるのみで、他は質量ともに微々たるものにすぎず、外国製品が圧倒的であった
    • [4]山本は「大企業の手がけるような大型機器や大量生産を必要とする汎用機器では話にならない。人のやらない新しい専門領域を狙わなくてはいけない」と考えていた
    • [5]山本は狙う領域について「しかも将来性を大きく約束された領域でなければならない」と考えていた
    • [6]漠然たる野心を抱く学生山本に確固とした針路を与えたのは、八木秀次博士の無線電信に関する講義であった
    • [7]山本秀雄は卒業と同時に横浜の貿易商社である安部幸兵衛商店の電気機械部に入社し、大正8年8月に精電舎の取締役支配人となった
    • [8]セールスエンジニアの仕事は、独立する日にそなえて営業面の実務を覚えるという狙いであった

独立は1927年8月、33歳のときである[9]。退職金にわずかな貯金を足しただけの資金で山洋商会を興し、新橋に近い土橋付近の一室を借りて、数名の従業員と電気機器の輸入販売を始めた[10]。主力商品は精電舎時代に販路を開いたナショナルカーボンの炭素棒で、これが利益の大半を生んだ[11]。1929年初めには営業所を丸の内の昭和ビルへ移し、東洋無線から受注した漁船用無線機の電源を日光電機に下請けさせて納める取引に力を入れた[12]。12ボルトから1,000ボルトまでの低圧小容量の直流発電機にすぎなかったが、通信用電源の専門メーカーをめざす山本秀雄氏にとっては利益以上の意味を持つ経験となった[13]

    • [9]山洋商会は昭和2年8月、33歳の青年山本秀雄の独力で創業された
    • [10]個人経営の山洋商会は退職金にわずかな貯金を加えた資金でスタートし、営業所は新橋に近い土橋付近の一部を借り受け、わずか数名の従業員で電気機器の輸入販売を開始した
    • [11]精電舎時代に販路を開拓したナショナルカーボンの炭素棒が利益の主要な源泉であった
    • [12]昭和4年初めには営業所を丸の内の昭和ビルに移し、東洋無線から受注した漁船用無線機電源を日光電機を下請工場につかって製作した
    • [13]12ボルトから1,000ボルトまでの低圧小容量の直流発電機ながら、通信用電源の専門メーカーを期する山本にとって利益以上によい経験となった
    • [1]山本秀雄は1894年11月21日、内務省土木技師武之進の次男として岩手県盛岡市に生まれ、東北帝国大学工学専門部電気科に進学した
    • [2]大正6年、東北帝大で受けた八木秀次博士の無線通信に関する講義が、山本秀雄に無線部門で仕事をするという念願を刻んだ
    • [3]当時、無線機電源の国産品はわずかな明電舎製の高周波交流発電機があるのみで、他は質量ともに微々たるものにすぎず、外国製品が圧倒的であった
    • [4]山本は「大企業の手がけるような大型機器や大量生産を必要とする汎用機器では話にならない。人のやらない新しい専門領域を狙わなくてはいけない」と考えていた
    • [5]山本は狙う領域について「しかも将来性を大きく約束された領域でなければならない」と考えていた
    • [6]漠然たる野心を抱く学生山本に確固とした針路を与えたのは、八木秀次博士の無線電信に関する講義であった
    • [7]山本秀雄は卒業と同時に横浜の貿易商社である安部幸兵衛商店の電気機械部に入社し、大正8年8月に精電舎の取締役支配人となった
    • [8]セールスエンジニアの仕事は、独立する日にそなえて営業面の実務を覚えるという狙いであった
    • [9]山洋商会は昭和2年8月、33歳の青年山本秀雄の独力で創業された
    • [10]個人経営の山洋商会は退職金にわずかな貯金を加えた資金でスタートし、営業所は新橋に近い土橋付近の一部を借り受け、わずか数名の従業員で電気機器の輸入販売を開始した
    • [11]精電舎時代に販路を開拓したナショナルカーボンの炭素棒が利益の主要な源泉であった
    • [12]昭和4年初めには営業所を丸の内の昭和ビルに移し、東洋無線から受注した漁船用無線機電源を日光電機を下請工場につかって製作した
    • [13]12ボルトから1,000ボルトまでの低圧小容量の直流発電機ながら、通信用電源の専門メーカーを期する山本にとって利益以上によい経験となった
創業ストーリー(2)

東池袋の町工場と製品第一号の直流高圧発電機

メーカーへ移るには工場が要る。1930年、山本秀雄氏は炭素棒の売り込みで歩くさなかに東北大学工学専門部の級友だった冬木松五郎氏と再会し、経営への参加を誘った[14]。冬木松五郎氏は勤め先の奥村電機が不況で京都工場を閉じたところで、ほとんど即座に応じた[15]。1931年5月、芝区芝浦三丁目に約100平方メートルの木造平屋を借りて移り[16]、翌1932年6月には東池袋の巣鴨拘置所に隣接する金陽社工場を5,000円で買収した[17]。借地660平方メートルに工場330平方メートル、事務所66平方メートルの規模である[18]。下請けに使っていた日光電機の従業員十数名と設備をそのまま移し、メーカーとして操業を始めた[19]

    • [14]昭和5年、ナショナルカーボン炭素棒の売り込みに歩いていた山本は仙台時代の旧友冬木松五郎に再会し、念願の工場を持つ計画を打ち明けて経営参加を誘った
    • [15]冬木松五郎は東北大学工学専門部電気科を卒業後に奥村電機へ入社したが、同社は不況のため京都工場の閉鎖に追い込まれ、東京へ転属していた
    • [16]昭和6年5月、100平方メートルほどの木造平屋建てながら芝区芝浦三丁目に手ごろな家屋を探して移転した
    • [17]昭和7年6月、現在の東池袋の巣鴨拘置所に隣接する金陽社工場を、値引交渉の末に5,000円で入手した
    • [18]敷地は借地ながら660平方メートルあり、建坪は工場330平方メートル、事務所66平方メートルであった
    • [19]前から下請工場として使っていた日光電機の経営者以下全従業員十数名と工場設備を、そっくりここに移転した

同年11月1日、この町工場は山洋商会特殊電機製作所と名づけられた[20]。大手が扱う大型機種や汎用機種を避け、特殊な技術と用途の製品で開拓者になるという方針が、そのまま工場の名に置かれている[21]。製品第一号は東洋無線と日本無線から受注した漁業用無線機の電源で、機種は直流高圧発電機であった[22]。この分野を手がけていたのは当時、明電舎ほか数社にすぎない[23]。国産では最高水準の製品にあたる[24]。1934年にはソ連向けの電弧溶接機用直流発電機36台を受注し、試作機を短納期で仕上げるため山本秀雄氏みずから未明まで工場で監督にあたった[25]。翌1935年、陸軍航空本部から探照灯用の5キロワット直流発電機の試作を命じられ、同本部の指定工場として登録された[26]

1936年12月31日、個人経営を改めて株式会社山洋商会が発足した[27]。資本金は50万円の全額払込みで、経営陣は専務取締役に山本秀雄氏、取締役に冬木松五郎氏と海保龍吉氏、監査役に杉崎治三郎氏と山本文雄氏という顔ぶれであった[28]。主力はコンバータとインバータ、すなわち通信用電源である[29]。ただし需要の内訳は民需から離れつつあった。航空機・船艇・車輌用の無線機電源が軍需として増え始めており[30]、翌1937年7月の日華事変の勃発とともに、経済が準戦時体制から戦時体制へ移るにつれ、軍需は山洋商会にとって最大の要因となった[31]

    • [27]昭和11年12月31日、個人経営から法人組織に変更して株式会社としての新しいスタート台に立った
    • [28]資本金は50万円全額払込ずみで、経営陣は専務取締役山本秀雄、取締役冬木松五郎、同海保龍吉、監査役杉崎治三郎、同山本文雄であった
    • [29]当時主力をおいた製品は通信用電源であり、機種は回転型コンバータならびにインバータであった
    • [30]日華事変勃発の直前という情勢のなかで、これらは民需よりも軍需製品として、航空機、船艇、車輌用の無線機電源の需要がにわかに増大しはじめた
    • [31]昭和12年7月に日華事変が勃発し、経済が準戦時体制から戦時体制へと移行するにつれ、軍需は山洋にとっていよいよ強い要因となって行った
    • [14]昭和5年、ナショナルカーボン炭素棒の売り込みに歩いていた山本は仙台時代の旧友冬木松五郎に再会し、念願の工場を持つ計画を打ち明けて経営参加を誘った
    • [15]冬木松五郎は東北大学工学専門部電気科を卒業後に奥村電機へ入社したが、同社は不況のため京都工場の閉鎖に追い込まれ、東京へ転属していた
    • [16]昭和6年5月、100平方メートルほどの木造平屋建てながら芝区芝浦三丁目に手ごろな家屋を探して移転した
    • [17]昭和7年6月、現在の東池袋の巣鴨拘置所に隣接する金陽社工場を、値引交渉の末に5,000円で入手した
    • [18]敷地は借地ながら660平方メートルあり、建坪は工場330平方メートル、事務所66平方メートルであった
    • [19]前から下請工場として使っていた日光電機の経営者以下全従業員十数名と工場設備を、そっくりここに移転した
    • [20]昭和7年11月1日、工場を山洋商会特殊電機製作所と命名し、通信用電源の専門メーカーとしてのイメージを広くアピールする体制をとった
    • [21]大手メーカーと競合する大型機種や大量生産を必要とする汎用機種を避け、特殊な技術を必要とする製品、特殊な用途の製品で開拓者たろうとの意欲が工場の命名にこめられた
    • [22]最初に生み出した製品は、東洋無線、日本無線から受注した漁業用無線機の電源で、機種は直流高圧発電機であった
    • [25]昭和9年にソ連向けの電弧溶接機用直流発電機36台を受注し、試作機であるうえに納期が短かったため、経営者山本みずから未明まで工場で監督に当たった
    • [23]当時、無線機用電源を手がけていたのは山洋のほかに明電舎がある程度だった
    • [24]山洋商会が製品第一号として送り出した直流高圧発電機は当時のトップレベルの国産品であった
    • [26]昭和10年、陸軍航空本部から探照灯用の5キロワット直流発電機の試作を命じられ、その結果、陸軍航空本部指定工場として登録された
    • [27]昭和11年12月31日、個人経営から法人組織に変更して株式会社としての新しいスタート台に立った
    • [28]資本金は50万円全額払込ずみで、経営陣は専務取締役山本秀雄、取締役冬木松五郎、同海保龍吉、監査役杉崎治三郎、同山本文雄であった
    • [29]当時主力をおいた製品は通信用電源であり、機種は回転型コンバータならびにインバータであった
    • [30]日華事変勃発の直前という情勢のなかで、これらは民需よりも軍需製品として、航空機、船艇、車輌用の無線機電源の需要がにわかに増大しはじめた
    • [31]昭和12年7月に日華事変が勃発し、経済が準戦時体制から戦時体制へと移行するにつれ、軍需は山洋にとっていよいよ強い要因となって行った
創業ストーリー(3)

軍需会社指定と従業員4,500名への膨張

海軍が航空機を戦略に組み込むと、船舶用電源で先行していた山洋商会に無線機用電源の試作依頼が回ってきた[32]。重量制限の厳しい仕様であったが、海軍から技術将校を迎えて予想より早く試作を終え、結果は上々であった[33]。まもなく陸軍からも依頼が入り、航空機用電源はエンジンのスターターや車輪の引き込みまで担うようになって、工場は繁忙に転じた[34]。人材の補充も続いた。1938年に海軍少将の服部正計氏を顧問に迎え、翌1939年には陸軍大佐の赤羽祐之氏を迎え、いずれも後に取締役として経営に加わっている[35]。1940年には逓信省電気試験所から茂木連氏を迎え、以後の技術陣の中心とした[36]

    • [32]昭和12年に日支事変が勃発すると同時に、ようやく航空機を戦略に使用しはじめた海軍から、航空機の無線機用電源の試作依頼が舞い込んできた
    • [33]航空機用電源はむずかしい重量制限がついていたが、海軍から優秀な技術将校を迎えるなどして予想外に早く試作品を完成し、その結果は上々だった
    • [34]まもなく陸軍からも依頼がきて、航空機用電源は無線機用だけでなくエンジン・スターター、車輪引込み用も兼ねるものが要求され、技術と工場は急速に繁忙を迎えた
    • [35]昭和13年に海軍少将服部正計を顧問に迎え、翌14年には陸軍大佐赤羽祐之を顧問に迎え入れ、いずれものちに取締役として経営に参加した
    • [36]昭和15年に逓信省電気試験所から茂木連を迎え、以後技術陣の中心的存在として長く活躍した

1942年4月、商事部門を切り離したうえで商号を山洋電気に改め、資本金を200万円へ増やした[37]。分離した商事部門は山洋工業として残った[38]。生産の場も東京だけでは足りない。1943年から陸軍航空本部の勧めで長野県上田市の北方に16万5,000平方メートルの用地を確保して工場建設に入り、翌年2月に上田北工場として操業を始めた[39]。同年8月には上田市内の笠原組の製糸工場を、9月には前橋市の金井製糸と興国人絹パルプの工場を買収した[40]。企業整備令で軍需転換を強いられた地方の製糸工場が、軍のあっせんで次々に軍需工場へ変わっていた時期である[41]

    • [37]昭和17年4月、商事部門を切り離して独立させるとともに山洋電気と改称し、資本金200万円とした
    • [38]分離した商事部門は、電機製品の販売と電気工事で業界に知られる山洋工業である
    • [39]陸軍航空本部東京監督長のすすめで長野県上田市の北方に16万5,000平方メートルの土地を確保し、工場を建設して上田北工場として操業を開始した
    • [40]昭和18年8月に上田市内にあった笠原組上田工場を買収して上田南工場とし、翌9月には前橋市の金井製糸とこれに隣接する興国人絹パルプ前橋工場も買収して前橋工場とした
    • [41]当時は企業整備令によって不要不急の平和産業は軍需転換を強制され、地方に散在する紡績工場は格好の対象として軍のあっせんによりぞくぞくと軍需工場に転換していった

1944年12月、山洋電気は軍需会社の指定を受け、資本金は400万円となった[42]。1942年に450名だった従業員は1年半で10倍の4,500名に達し、当時の全需要量の3分の1にあたる電源を生産する立場にあった[43]。膨張は空襲で断ち切られる。1945年4月13日未明の東京大空襲で、本社工場・事務所・倉庫・青年学校・従業員宿舎など18棟が焼夷弾の直撃を受けて全焼した[44]。被害は建物・機械・材料・製品で約3,000万円、生産能力の約半分が失われた[45]。焼失の責任を追及する憲兵に対し、山本秀雄氏は消火にあたった従業員をむしろ賞め、不可抗力であったと主張して譲らず、留置を延ばされている[46]

    • [32]昭和12年に日支事変が勃発すると同時に、ようやく航空機を戦略に使用しはじめた海軍から、航空機の無線機用電源の試作依頼が舞い込んできた
    • [33]航空機用電源はむずかしい重量制限がついていたが、海軍から優秀な技術将校を迎えるなどして予想外に早く試作品を完成し、その結果は上々だった
    • [34]まもなく陸軍からも依頼がきて、航空機用電源は無線機用だけでなくエンジン・スターター、車輪引込み用も兼ねるものが要求され、技術と工場は急速に繁忙を迎えた
    • [43]昭和17年時の従業員450名は1年半の間に10倍の4,500名に急膨張した
    • [35]昭和13年に海軍少将服部正計を顧問に迎え、翌14年には陸軍大佐赤羽祐之を顧問に迎え入れ、いずれものちに取締役として経営に参加した
    • [36]昭和15年に逓信省電気試験所から茂木連を迎え、以後技術陣の中心的存在として長く活躍した
    • [37]昭和17年4月、商事部門を切り離して独立させるとともに山洋電気と改称し、資本金200万円とした
    • [38]分離した商事部門は、電機製品の販売と電気工事で業界に知られる山洋工業である
    • [39]陸軍航空本部東京監督長のすすめで長野県上田市の北方に16万5,000平方メートルの土地を確保し、工場を建設して上田北工場として操業を開始した
    • [40]昭和18年8月に上田市内にあった笠原組上田工場を買収して上田南工場とし、翌9月には前橋市の金井製糸とこれに隣接する興国人絹パルプ前橋工場も買収して前橋工場とした
    • [41]当時は企業整備令によって不要不急の平和産業は軍需転換を強制され、地方に散在する紡績工場は格好の対象として軍のあっせんによりぞくぞくと軍需工場に転換していった
    • [44]昭和20年4月13日未明の東京大空襲で、本社工場、事務所、倉庫、青年学校、従業員宿舎など合計18棟が大量の焼夷弾の直撃を受けて全焼した
    • [45]この空襲の被害は建物、機械、材料、半製品、製品等で計約3,000万円にのぼり、会社の生産能力の約半分が失われた
    • [46]焼失責任を追及する憲兵に向かって、山本は焼夷弾の雨の中で消火活動に身を挺した従業員たちをかえって賞めたたえ、焼失が不可抗力であったことを強硬に主張して譲らなかったため、留置拘束が延ばされた
    • [42]昭和19年12月、軍需会社の指定を受け、資本金400万円となった
創業ストーリー(4)

五千人の人員整理と戦時補償打切り

終戦の時点で山洋電気が抱えていたのは、遊休化した生産設備と5,000人を超える従業員であった[47]。1945年9月、平均3か月分の退職金を払って一気に500名へ減らし、11月にはいったん全員を解雇したうえで、そのうち約半数を再雇用した[48]。人選の基準は明確だった。どのようなメーカーに姿を変えるにせよ最も必要なのは技術だと判断し、技術者を残したのである[49]。同じ時期に東芝では人員整理に反対する55日間のストライキが起きており、敗戦直後に大量整理を終えた山洋電気の処理は早い[50]。金井製糸と笠原組からは工場返還の要求が出て、前橋工場の一部と上田南工場を返し、現物出資の100万円が減資となった[51]

    • [47]敗戦の時点では遊休化した工場設備をかかえ、従業員は5,000人をこえていた
    • [48]昭和20年9月に平均3カ月分の退職金を支払って一気に500名に減員し、さらに11月には一応全員を解雇して、その中から約半数を再雇用した
    • [50]東芝では翌21年の人員整理にあたり反対する従業員の55日ストが起きており、山洋が敗戦直後にいち早く人員の大整理を終えたのは早業であった
    • [51]金井製糸、笠原組から工場返還の要求が出され、前橋工場の旧金井製糸分と上田南工場を返還し、現物出資の各50万円は戻さず合計100万円の減資となった
    • [49]どういう人間を残すかで一番苦労したが、これからどのようなメーカーに形を変えるにしても一番必要なものは技術だと悟り、技術者だけを残した

本社の再出発は1945年12月、元パイロット万年筆の工場を41万円で買い取ったところから始まる[52]。空襲で内部は全焼し、鉄筋コンクリートの外郭と床だけが残る建物で、窓ガラスを入れ直すのに20万円を要した[53]。仕事は小型電動機の修理程度しかなく、上田工場では廃材で自転車のスポークやベル、前橋工場では安全かみそりといった雑品を手がけた[54]。手持ち資材を売って給料を確保する状態が続いたが、山本秀雄氏は財産を売り払っても従業員の給料だけは確保するという方針を通した[55]。活路は食糧増産策から開けた。農漁村向けの脱穀用単相モータと、漁船用無線機の電源である[56]。創業時の第一号製品と同じ品目からの再出発であった[57]

    • [52]昭和20年12月初旬、元パイロット万年筆の工場を41万円で入手して本社工場を移転した
    • [53]空襲で内部は全焼し、鉄筋コンクリートの外部やフロアだけが残っていたもので、窓ガラスだけの整備に20万円がかかった
    • [54]需要は皆無に近く主な仕事は小型電動機の修理だけで、上田工場では廃材を利用して自転車のスポーク、ベル、前橋工場では安全かみそりといった雑品を手がけた
    • [55]社長は「財産を売り払っても、従業員の給料だけは確保する」とつねに語っていたと渡辺元専務が回想している
    • [56]食糧の増産が国の重要政策とされて農漁業の機械化、電化が進められ、戦後1、2年の主な製品は漁船用無線機の電源としてのコンバータや、農村向けの脱穀用単相誘導モータであった
    • [57]昭和7年に最初の町工場から送り出した製品第一号もやはり漁船用無線機の電源であり、戦後の再出発もまた漁船用無線電源から開始された

最も重い負担は補償の打切りである。1946年8月に吉田内閣が軍需補償の打切りを声明し、10月の戦時補償特別措置法で範囲が確定すると、山洋電気は軍への納入代金・前受金・戦災保険金の合計1,864万円を戦時補償特別税として国へ返さねばならなくなった[58]。当時の払込資本金250万円に対して7倍を超える金額であった[59]。返済は資本金の9割を切り捨て、銀行借入金を棒引きにする方法で処理し、山洋電気にも約900万円の特別損失が生じた[60]。会社経理応急措置法の適用を受けた特別経理会社として、事業継続に必要な部分だけを新勘定に移して再出発したのが1946年夏である[61]。指定が解けたのは1949年12月であった[62]

    • [58]昭和21年8月に吉田内閣が軍需補償の打切りを声明し、10月に戦時補償特別措置法を公布して打切り範囲が決定した結果、山洋は軍に納入した製品の代金、軍からの前受金、戦災保険金の合計1,864万円を戦時補償特別税として国へ返還しなければならなくなった
    • [59]当時の山洋の払込資本金250万円にたいする1,864万円はぼう大な金額であった
    • [60]返済方法として資本金の9割を切り捨て、銀行借入金を棒引きにする方法が取られ、結局は山洋としても約900万円の特別損失金を生ずることとなった
    • [61]会社経理応急措置法の適用を受けざるを得ず、特別経理会社として企業活動の継続に必要な部分だけを新勘定として再出発したのが昭和21年夏である
    • [62]昭和24年12月には特別経理会社の解除にまでこぎつけ、ようやく最悪期を脱することができた
    • [47]敗戦の時点では遊休化した工場設備をかかえ、従業員は5,000人をこえていた
    • [48]昭和20年9月に平均3カ月分の退職金を支払って一気に500名に減員し、さらに11月には一応全員を解雇して、その中から約半数を再雇用した
    • [50]東芝では翌21年の人員整理にあたり反対する従業員の55日ストが起きており、山洋が敗戦直後にいち早く人員の大整理を終えたのは早業であった
    • [51]金井製糸、笠原組から工場返還の要求が出され、前橋工場の旧金井製糸分と上田南工場を返還し、現物出資の各50万円は戻さず合計100万円の減資となった
    • [52]昭和20年12月初旬、元パイロット万年筆の工場を41万円で入手して本社工場を移転した
    • [53]空襲で内部は全焼し、鉄筋コンクリートの外部やフロアだけが残っていたもので、窓ガラスだけの整備に20万円がかかった
    • [54]需要は皆無に近く主な仕事は小型電動機の修理だけで、上田工場では廃材を利用して自転車のスポーク、ベル、前橋工場では安全かみそりといった雑品を手がけた
    • [55]社長は「財産を売り払っても、従業員の給料だけは確保する」とつねに語っていたと渡辺元専務が回想している
    • [56]食糧の増産が国の重要政策とされて農漁業の機械化、電化が進められ、戦後1、2年の主な製品は漁船用無線機の電源としてのコンバータや、農村向けの脱穀用単相誘導モータであった
    • [57]昭和7年に最初の町工場から送り出した製品第一号もやはり漁船用無線機の電源であり、戦後の再出発もまた漁船用無線電源から開始された
    • [58]昭和21年8月に吉田内閣が軍需補償の打切りを声明し、10月に戦時補償特別措置法を公布して打切り範囲が決定した結果、山洋は軍に納入した製品の代金、軍からの前受金、戦災保険金の合計1,864万円を戦時補償特別税として国へ返還しなければならなくなった
    • [59]当時の山洋の払込資本金250万円にたいする1,864万円はぼう大な金額であった
    • [60]返済方法として資本金の9割を切り捨て、銀行借入金を棒引きにする方法が取られ、結局は山洋としても約900万円の特別損失金を生ずることとなった
    • [61]会社経理応急措置法の適用を受けざるを得ず、特別経理会社として企業活動の継続に必要な部分だけを新勘定として再出発したのが昭和21年夏である
    • [62]昭和24年12月には特別経理会社の解除にまでこぎつけ、ようやく最悪期を脱することができた
    • [49]どういう人間を残すかで一番苦労したが、これからどのようなメーカーに形を変えるにしても一番必要なものは技術だと悟り、技術者だけを残した
創業ストーリー(5)

船舶用電源から電気通信省の指定メーカーへ

再建の転機は造船から来た。戦時補償の打切りで海運業が壊滅状態にあったため、政府は財政融資で船舶の建造を助成する計画造船を進めており、1950年に始まった第五次は外航適格船を対象とする大規模な計画であった[63]。大型船舶用の無線機電源へ機種を移していた山洋電気は、この第五次計画造船に関わる電源需要の半ば近くを、目立った競合もなく受注した[64]。戦時中に蓄積した技術がここで初めて十分に生きた[65]。折しも朝鮮戦争による特需と輸出の激増で電機業界の在庫は一掃され、造船業界も欧米各国の軍備拡張にともなう船舶需要で活況を呈していた[66]。実績は官公需の開拓にも波及し、電気通信省・海上保安庁・警察予備隊からの受注が視野に入った[67]

    • [63]戦後の海運業は戦時補償の打切りで壊滅同然となっており、政府は資金を融資して再建を助成する計画造船を進め、昭和25年の第五次はもっぱら外航適格船を対象とする大規模な計画となった
    • [64]第五次計画造船関係の電源需要量の半ば近くを、さしたる競合もなく受注できた
    • [65]戦時中に蓄積された「腕の山洋」の高度の技術が、ここではじめてフルに活用された
    • [66]朝鮮戦争の勃発による特需の発生と輸出の激増であらゆる産業が活況を呈し、電機業界でもたちまち在庫は一掃され、造船業界は欧米各国の軍備拡張にともなう船舶需要の急伸で未曽有の活況を呈した
    • [67]この実績で山洋の定評は一段と高まり、電気通信省、海上保安庁、警察予備隊などから相当の受注を期待できる見通しがついた

船舶用電源の山は1957年ごろで、以後は船の主発電機が交流化して直流機種の需要が落ちた[68]。代わって伸びたのが陸上部門である。1949年10月に大阪発動機製造を経由して鹿島無線局用の交流発電機を納め、その実績で1950年には搬送電信用電源を直接契約し、電気通信省の指定メーカーとして登録された[69]。1952年に電気通信省が電電公社となると、マイクロ波多重通信の実用化が始まる[70]。1953年10月、山洋電気はダイハツ工業の申し入れを受けて、時価1,000万円の未知の製品を自費で試作する決断をした[71]。提出した資料が公社を動かし、1956年に北海道4局分を受注、以後10年にわたり毎年10台前後の納入が続いた[72]。官公需は全受注量の42パーセントを占めるまでになった[73]

    • [68]船舶無線機用電源がピークを示したのは昭和32年ごろで、以後は船舶の主発電機が交流化されはじめたため直流機種であった山洋製品への需要は減退して行った
    • [69]昭和24年10月に鹿島無線局用交流発電機2台を大阪発動機製造経由で契約し、この実績によって翌25年に搬送電信用電源を直接契約でき、これが電気通信省に指定メーカーとして登録されるきっかけとなった
    • [70]昭和27年に電気通信省が電電公社となり、マイクロ波による多重通信の実用化が始まった
    • [71]山洋がダイハツ工業の提携申し入れをうけて試作に踏み切ったのは昭和28年10月で、時価1,000万円という未知の製品を自費で試作するには重大な決意が必要であった
    • [72]試作による資料提出は公社を動かし、昭和31年に北海道4局分の受注を山洋が窓口になって契約でき、以後毎年10台前後を10年間受注しつづけることになった
    • [73]官公需は電電公社をはじめとして全受注量の42パーセントを占めるまでになった

もう一つの陸上需要は防衛だった。講和条約後の防衛力強化策で警察予備隊向け無線機電源の引き合いが増え、なかでも手廻発電機は試作と大量受注が続いた[74]。1952年1月に自衛隊用手廻発電機の試作を終え[75]、1953年秋から設計・試作したGRC-9用手廻発電機は翌年1月のコンクールで優勝した[76]。陸上自衛隊向けには2キロワットから10キロワットまでのガソリン機関発電機が求められ、10社近くが競った製作コンクールでいずれも優秀な成績を収めて以後の防衛庁からの受注を有利に運んだ[77]。海から陸へ、山洋電気は針路を変えた[78]

    • [63]戦後の海運業は戦時補償の打切りで壊滅同然となっており、政府は資金を融資して再建を助成する計画造船を進め、昭和25年の第五次はもっぱら外航適格船を対象とする大規模な計画となった
    • [64]第五次計画造船関係の電源需要量の半ば近くを、さしたる競合もなく受注できた
    • [65]戦時中に蓄積された「腕の山洋」の高度の技術が、ここではじめてフルに活用された
    • [66]朝鮮戦争の勃発による特需の発生と輸出の激増であらゆる産業が活況を呈し、電機業界でもたちまち在庫は一掃され、造船業界は欧米各国の軍備拡張にともなう船舶需要の急伸で未曽有の活況を呈した
    • [67]この実績で山洋の定評は一段と高まり、電気通信省、海上保安庁、警察予備隊などから相当の受注を期待できる見通しがついた
    • [68]船舶無線機用電源がピークを示したのは昭和32年ごろで、以後は船舶の主発電機が交流化されはじめたため直流機種であった山洋製品への需要は減退して行った
    • [69]昭和24年10月に鹿島無線局用交流発電機2台を大阪発動機製造経由で契約し、この実績によって翌25年に搬送電信用電源を直接契約でき、これが電気通信省に指定メーカーとして登録されるきっかけとなった
    • [70]昭和27年に電気通信省が電電公社となり、マイクロ波による多重通信の実用化が始まった
    • [71]山洋がダイハツ工業の提携申し入れをうけて試作に踏み切ったのは昭和28年10月で、時価1,000万円という未知の製品を自費で試作するには重大な決意が必要であった
    • [72]試作による資料提出は公社を動かし、昭和31年に北海道4局分の受注を山洋が窓口になって契約でき、以後毎年10台前後を10年間受注しつづけることになった
    • [73]官公需は電電公社をはじめとして全受注量の42パーセントを占めるまでになった
    • [74]講和条約による防衛力強化政策から台頭した警察予備隊用の無線機電源の需要のなかで注目されるのは、手廻発電機の試作とひきつづく大量受注であった
    • [77]陸上自衛隊用として2キロワット、3キロワット、5キロワット、10キロワットなどのガソリン機関発電機が要求され、10社ちかい競争会社のなか山洋はいずれも優秀な成績をおさめて以後の防衛庁からの受注を有利に導いた
    • [78]こうして山洋はしだいに海から陸へと針路を変えはじめた
    • [75]昭和27年1月、自衛隊用手廻発電機の試作が完成した
    • [76]昭和28年秋から設計、試作をはじめた陸上自衛隊のGRC-9手廻発電機は、翌年1月のコンクールでみごと優勝した
創業ストーリー(6)

サーボモータへの先行投資と東証二部への公開

山洋電気は通信用電源の外側に賭けた。研究陣が米国の文献から動向を探り、サーボモータ・シンクロ・リゾルバー・ステップモータといった回転機器が自動制御の新しい部品として重要になるという見通しを立て、首脳陣に提案してただちに試作研究へ入ったのが1955年である[79]。この分野の必要性が日本で唱えられ出すのは1960年ごろで、山洋電気はおよそ5年早く着手していた[80]。研究課長として三相サーボモータや直流タコジェネレータの試作研究を率いたのは、1949年入社の大木創氏である[81]。研究には通産省の鉱工業技術試験研究補助金が1955年度から毎年つき、工作機械の数値制御に使う電気機械の開発に充てられた[82]

    • [79]研究陣は海外とくに米国の文献から現状をさぐり、サーボモータ、シンクロ、リゾルバー、ステップモータなどが自動制御用の新しいコンポーネントとして注目される機種であるとの見通しを立て、首脳陣に提案してこれが採用されると早速試作研究にとりかかった
    • [80]これら機種の開発の必要性がわが国で唱えられ出したのは昭和35年ごろからで、山洋は約5年前からこれを予見して研究に着手していた
    • [81]大木創は昭和16年に東京工大を卒業し24年に山洋へ入社、研究課長になるとただちに三相サーボモータ、直流タコジェネレータの試作研究をはじめ、さらに磁気増幅器を開発した
    • [82]昭和30年度に鉱工業技術試験研究補助金75万円を受けたのを皮切りに、33年「工作機械の数値制御機構に使用する電気機械」160万円、34年107万円、35年100万円と補助金を受け、工作機械の自動制御用電動機の開発に取り組んだ

先行投資はすぐには実らない。ホットトップ自動制御装置は1955年に大同製鋼の提案で開発してただちに受注生産に入り、理研製鋼から80セットの大量受注を得たが[83]、サーボモータが試作の域を脱して量産段階に入ったのは1960年である[84]。同年、日本開発銀行からサーボモータ開発資金として3,000万円の低利融資を受け、1964年12月にも第二次の4,000万円を得た[85]。生産の受け皿として1960年11月に埼玉県川口市へ川口工場を新設し[86]、1962年には米国IMC社と自動制御用電気機器の製造販売で提携して、サーボモータ類の米国市場への販路を開いた[87]

1962年10月に資本金を8,000万円から1億6,000万円へ倍額増資し、同年9月29日、総株数360万株のうち32万株を東京証券取引所市場第二部へ公開した[88]。売り出し価格は150円で、初日から人気を集めて335円をつけた[89]。当時の株主数はわずか97名、本社は東京都豊島区巣鴨6-1349にあった[90]。売上構成は通信用電源31.2パーセント、自動制御装置30.0パーセント、一般回転機16.5パーセント、自動制御用回転機14.1パーセントで、通信用電源の市場占有率は50パーセントに達していた[91]。そして1964年11月、創業者の山本秀雄氏が社長を退いて会長となり、長男の山本浩氏が2代目社長を継いだ[92]

    • [88]昭和37年10月1日に倍額増資を完了して8,000万円から1億6,000万円となり、9月29日に総株数360万株のうち8パーセント強にあたる32万株を東京第二部に新規上場した
    • [89]売り出し価格は1株につき150円だったが、初日から人気をよび335円がらみをつけた
    • [90]本社は東京都豊島区巣鴨6の1349、代表者は社長山本秀雄、株主数は97名(7月現在)であった
    • [91]主要製品の売上比率は通信用電源31.2パーセント、自動制御用回転機14.1パーセント、自動制御装置30.0パーセント、一般回転機16.5パーセント、その他8.0パーセントで、通信用電源の市場占有率は50パーセントと高い
    • [92]昭和39年11月、創業者山本秀雄が社長を退陣して会長に就任し、長男浩が二代目社長を継ぐことになった
    • [79]研究陣は海外とくに米国の文献から現状をさぐり、サーボモータ、シンクロ、リゾルバー、ステップモータなどが自動制御用の新しいコンポーネントとして注目される機種であるとの見通しを立て、首脳陣に提案してこれが採用されると早速試作研究にとりかかった
    • [80]これら機種の開発の必要性がわが国で唱えられ出したのは昭和35年ごろからで、山洋は約5年前からこれを予見して研究に着手していた
    • [81]大木創は昭和16年に東京工大を卒業し24年に山洋へ入社、研究課長になるとただちに三相サーボモータ、直流タコジェネレータの試作研究をはじめ、さらに磁気増幅器を開発した
    • [82]昭和30年度に鉱工業技術試験研究補助金75万円を受けたのを皮切りに、33年「工作機械の数値制御機構に使用する電気機械」160万円、34年107万円、35年100万円と補助金を受け、工作機械の自動制御用電動機の開発に取り組んだ
    • [83]昭和30年に大同製鋼からの提案で開発したホットトップ自動制御装置は直ちに受注生産に入り、理研製鋼から80セットの大量受注を得た
    • [84]サーボモータが昭和35年からようやく試作の域を脱して大量生産の段階に入り、売上げは前年の倍増をみた
    • [85]電子工業振興法により日本開発銀行からサーボモータ開発資金として昭和35年12月に3,000万円の低利融資を受け、さらに39年12月にも第二次の4,000万円の融資に成功した
  • 山洋電気 有価証券報告書【沿革】
    • [86]1960年11月、埼玉県川口市に川口工場を新設した
    • [87]昭和37年に米国IMC社と自動制御用電気機器サーボモータ、シンクロ等に関し製造販売の提携をした
    • [88]昭和37年10月1日に倍額増資を完了して8,000万円から1億6,000万円となり、9月29日に総株数360万株のうち8パーセント強にあたる32万株を東京第二部に新規上場した
    • [89]売り出し価格は1株につき150円だったが、初日から人気をよび335円がらみをつけた
    • [90]本社は東京都豊島区巣鴨6の1349、代表者は社長山本秀雄、株主数は97名(7月現在)であった
    • [91]主要製品の売上比率は通信用電源31.2パーセント、自動制御用回転機14.1パーセント、自動制御装置30.0パーセント、一般回転機16.5パーセント、その他8.0パーセントで、通信用電源の市場占有率は50パーセントと高い
    • [92]昭和39年11月、創業者山本秀雄が社長を退陣して会長に就任し、長男浩が二代目社長を継ぐことになった

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沿革年表 1927〜2026年

山洋電気の沿革1927〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1927〜1945年山本秀雄が選んだ無線通信用電源と特殊電機製作所山本秀雄が電気部品の輸入販売業として山洋商会を創立★★★
東京都豊島区西巣鴨に山洋商会特殊電機製作所を開設★★
株式会社に組織変更、商号を株式会社山洋商会に★★
商号を山洋電気に変更★★
上田南工場と前橋工場を開設
長野県上田市に上田北工場を新設★★
戦災により本社・東京工場が全焼★★
本社・東京工場を東京都豊島区巣鴨に移転
1946〜1964年特別経理会社からの再建と第五次計画造船の受注上田南工場を上田北工場へ併合
前橋工場を閉鎖し上田工場へ併合
AC・DCサーボモータを日本で初めて製品化★★★
埼玉県川口市に川口工場を新設
東京証券取引所市場第二部に上場
1965〜1984年薄型ファン「San Ace」とIBM向けステッピングモータ冷却ファンのブランド San Ace を立ち上げ★★★
東京工場を上田・川口の両工場へ移転
上田事業所塩田工場を新設
上田事業所築地工場を新設
上田事業所青木工場を新設
1985〜2026年横沢新二郎の社長就任から社内カンパニー制へ初の海外子会社 SANYO DENKI EUROPE をフランスに設立★★
上田事業所富士山工場を新設
山本茂生SANYO DENKI AMERICA をアメリカに設立
山本茂生上田事業所にテクノロジーセンターを開設
山本茂生AUTOMATION INTELLIGENCE を買収
山本茂生生産子会社の山洋電気テクノサービスを設立
山本茂生川口事業所を上田事業所に統廃合★★
山本茂生SANYO DENKI PHILIPPINES を設立し海外生産を開始★★
山本茂生上田事業所神川工場を新設
山本茂生山洋工業を完全子会社化
山本茂生中山市山洋电气有限公司を中国に設立
山本茂生東京証券取引所市場第一部に指定
山本茂生SANYO DENKI PHILIPPINES にテクノロジーセンターを開設
児玉展全上田事業所テクノロジーセンターに新棟を開設
児玉展全東京証券取引所の市場区分の見直しによりプライム市場に移行
児玉展全社内カンパニー制を導入★★★
児玉展全SANYO DENKI VIETNAM をベトナムに設立
出典・参考 12件

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