第1章 年〜年

山洋電気:山本秀雄の山洋商会創立と特殊電機製作所

1927年〜八木秀次の講義から山洋商会の創業へ

無線を仕事に選ばせたのは、ロンドンでの留学を終えて戻った直後の八木秀次博士が行った無線電信の講義であった。講義を受けたのは東北帝国大学工学専門部電気科に進んでいた創業者の山本秀雄氏で、1894年11月21日に内務省土木技師の次男として岩手県盛岡市で生まれている。当時、無線機用の電源は国産では明電舎の高周波交流発電機がある程度にとどまり、質でも量でも外国製が大きく勝っていた。山本氏は学生のころから、大企業の手がける大型機器や汎用機器では勝負にならないとして他人が手を出さない専門領域を狙い、しかもそれが先々大きく伸びると見込める分野であることを条件にしていた。黎明期の無線は、この条件に合っていた。卒業すると横浜の貿易商社である安部幸兵衛商店の電気機械部に入ったが1年で辞め、小型発電機メーカーの精電舎に取締役支配人として転じた。独立に先立って、営業と製造の両方を現場で身につけておく手順であった。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 1 無線通信用電源の草分け」
    • [1]大正6年、東北帝大で受けた八木秀次博士の無線通信に関する講義が、山本秀雄に無線部門で仕事をするという念願を刻んだ
    • [2]山本秀雄は1894年11月21日、内務省土木技師武之進の次男として岩手県盛岡市に生まれ、東北帝国大学工学専門部電気科に進学した
    • [3]当時、無線機電源の国産品はわずかな明電舎製の高周波交流発電機があるのみで、他は質量ともに微々たるものにすぎず、外国製品が圧倒的であった
    • [4]山本は「大企業の手がけるような大型機器や大量生産を必要とする汎用機器では話にならない。人のやらない新しい専門領域を狙わなくてはいけない」と考えていた
    • [5]山本は狙う領域について「しかも将来性を大きく約束された領域でなければならない」と考えていた
    • [6]漠然たる野心を抱く学生山本に確固とした針路を与えたのは、八木秀次博士の無線電信に関する講義であった
    • [7]山本秀雄は卒業と同時に横浜の貿易商社である安部幸兵衛商店の電気機械部に入社し、大正8年8月に精電舎の取締役支配人となった
    • [8]セールスエンジニアの仕事は、独立する日にそなえて営業面の実務を覚えるという狙いであった

独立は1927年8月、33歳のときである。退職金にわずかな貯金を足しただけの資金で山洋商会を興し、新橋に近い土橋付近の一室を借りて、数名の従業員と電気機器の輸入販売を開始した。主力商品は精電舎時代に販路を開拓したナショナルカーボンの炭素棒で、これが利益の大半を生んだ。1929年初めには営業所を丸の内の昭和ビルへ移し、東洋無線から受注した漁船用無線機の電源を日光電機に下請けさせて納める取引に力を入れた。12ボルトから1,000ボルトまでの低圧小容量の直流発電機にすぎなかったが、通信用電源の専門メーカーをめざす山本秀雄氏にとっては利益以上の意味を持つ経験となった。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 1 無線通信用電源の草分け」
    • [9]山洋商会は昭和2年8月、33歳の青年山本秀雄の独力で創業された
    • [10]個人経営の山洋商会は退職金にわずかな貯金を加えた資金でスタートし、営業所は新橋に近い土橋付近の一部を借り受け、わずか数名の従業員で電気機器の輸入販売を開始した
    • [11]精電舎時代に販路を開拓したナショナルカーボンの炭素棒が利益の主要な源泉であった
    • [12]昭和4年初めには営業所を丸の内の昭和ビルに移し、東洋無線から受注した漁船用無線機電源を日光電機を下請工場につかって製作した
    • [13]12ボルトから1,000ボルトまでの低圧小容量の直流発電機ながら、通信用電源の専門メーカーを期する山本にとって利益以上によい経験となった

山洋商会が電気器具材料の輸入販売から始まったのは、工場を買う資金が手元になかったためである。この時期の商いは、商社として得た口銭を工場の資金に回す段取りの上にあった。国産で代わりの利かない米国ナショナルカーボン社のカーボン刷子は精電舎時代に販路を開いた商品で、重電の芝浦製作所・明電舎・日立製作所・三菱電機・富士電機に納めたほか、化学会社や電鉄会社にも買い手を広げた。同業の利昌洋行が1931年末に東京営業所を畳むと、その営業権をすべて引き取り、スイスの重電機部品メーカーであるハーフェライト社の製品の取り扱いに乗り出した。富士電機に三相の誘導電動機の在庫があると耳にしたときは、数十台をまとめて安値で買い取った。大森に新工場を建設中だった東京瓦斯電気工業へこれを安く売り込み、短い期間で売り切っている。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 1 無線通信用電源の草分け」
    • [14]独立に当たって可能な方法は、外国製品の輸入販売で少しずつ工場を手に入れるための資金を蓄積することであった
    • [16]取扱商品は依然ナショナルカーボン刷子が主力であり、これを芝浦、日立、三菱、富士、明電舎等の重電各社へ納入し、また化学会社や電鉄会社へも販路を開いて行った
    • [17]昭和6年末、同業者であった利昌洋行(大阪)の東京営業所閉鎖にさいし、その営業権の一切を譲り受けて、スイスの重電機部品メーカーであるハーフェライト社の製品を重電各社と中小の電機メーカーへ販売した
    • [18]三相式誘導電動機が富士電機に在庫しているとの情報を得て、再三交渉した結果、数十台を一括して安く入手し、大森に新工場建設計画をもっていた東京瓦斯電気工業へ低価格で売り込んで短期間に捌ききった
  • 電子工業月報 1968年「会社紹介 山洋電気株式会社」
    • [15]山洋電気の事業は昭和2年8月に山本秀雄が山洋商会を設立し電気器具材料の輸入販売を始めたことにより創業され、昭和7年10月に東京都豊島区西巣鴨へ小型電気機械および配電盤の製造工場を新設して電気機械メーカーとして発足した
参考文献[1]-[18]
    • [1]大正6年、東北帝大で受けた八木秀次博士の無線通信に関する講義が、山本秀雄に無線部門で仕事をするという念願を刻んだ
    • [2]山本秀雄は1894年11月21日、内務省土木技師武之進の次男として岩手県盛岡市に生まれ、東北帝国大学工学専門部電気科に進学した
    • [3]当時、無線機電源の国産品はわずかな明電舎製の高周波交流発電機があるのみで、他は質量ともに微々たるものにすぎず、外国製品が圧倒的であった
    • [4]山本は「大企業の手がけるような大型機器や大量生産を必要とする汎用機器では話にならない。人のやらない新しい専門領域を狙わなくてはいけない」と考えていた
    • [5]山本は狙う領域について「しかも将来性を大きく約束された領域でなければならない」と考えていた
    • [6]漠然たる野心を抱く学生山本に確固とした針路を与えたのは、八木秀次博士の無線電信に関する講義であった
    • [7]山本秀雄は卒業と同時に横浜の貿易商社である安部幸兵衛商店の電気機械部に入社し、大正8年8月に精電舎の取締役支配人となった
    • [8]セールスエンジニアの仕事は、独立する日にそなえて営業面の実務を覚えるという狙いであった
    • [9]山洋商会は昭和2年8月、33歳の青年山本秀雄の独力で創業された
    • [10]個人経営の山洋商会は退職金にわずかな貯金を加えた資金でスタートし、営業所は新橋に近い土橋付近の一部を借り受け、わずか数名の従業員で電気機器の輸入販売を開始した
    • [11]精電舎時代に販路を開拓したナショナルカーボンの炭素棒が利益の主要な源泉であった
    • [12]昭和4年初めには営業所を丸の内の昭和ビルに移し、東洋無線から受注した漁船用無線機電源を日光電機を下請工場につかって製作した
    • [13]12ボルトから1,000ボルトまでの低圧小容量の直流発電機ながら、通信用電源の専門メーカーを期する山本にとって利益以上によい経験となった
    • [14]独立に当たって可能な方法は、外国製品の輸入販売で少しずつ工場を手に入れるための資金を蓄積することであった
    • [16]取扱商品は依然ナショナルカーボン刷子が主力であり、これを芝浦、日立、三菱、富士、明電舎等の重電各社へ納入し、また化学会社や電鉄会社へも販路を開いて行った
    • [17]昭和6年末、同業者であった利昌洋行(大阪)の東京営業所閉鎖にさいし、その営業権の一切を譲り受けて、スイスの重電機部品メーカーであるハーフェライト社の製品を重電各社と中小の電機メーカーへ販売した
    • [18]三相式誘導電動機が富士電機に在庫しているとの情報を得て、再三交渉した結果、数十台を一括して安く入手し、大森に新工場建設計画をもっていた東京瓦斯電気工業へ低価格で売り込んで短期間に捌ききった
    • [15]山洋電気の事業は昭和2年8月に山本秀雄が山洋商会を設立し電気器具材料の輸入販売を始めたことにより創業され、昭和7年10月に東京都豊島区西巣鴨へ小型電気機械および配電盤の製造工場を新設して電気機械メーカーとして発足した

1930年〜東池袋の町工場と製品第一号の直流高圧発電機

メーカーへ移るには工場が要る。1930年、山本秀雄氏は炭素棒の売り込みで歩くさなかに東北大学工学専門部の級友だった冬木松五郎氏と再会し、経営への参加を誘った。冬木松五郎氏は勤め先の奥村電機が不況で京都工場を閉鎖したところで、ほとんど即座に応じた。1931年5月、芝区芝浦三丁目に約100平方メートルの木造平屋を借りて移り、翌1932年6月には東池袋の巣鴨拘置所に隣接する金陽社工場を5,000円で買収した。借地660平方メートルに工場330平方メートル、事務所66平方メートルの規模である。下請けに使っていた日光電機の従業員十数名と設備をそのまま移し、メーカーとして操業を開始した。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 1 無線通信用電源の草分け」
    • [19]昭和5年、ナショナルカーボン炭素棒の売り込みに歩いていた山本は仙台時代の旧友冬木松五郎に再会し、念願の工場を持つ計画を打ち明けて経営参加を誘った
    • [20]冬木松五郎は東北大学工学専門部電気科を卒業後に奥村電機へ入社したが、同社は不況のため京都工場の閉鎖に追い込まれ、東京へ転属していた
    • [21]昭和6年5月、100平方メートルほどの木造平屋建てながら芝区芝浦三丁目に手ごろな家屋を探して移転した
    • [22]昭和7年6月、現在の東池袋の巣鴨拘置所に隣接する金陽社工場を、値引交渉の末に5,000円で入手した
    • [23]敷地は借地ながら660平方メートルあり、建坪は工場330平方メートル、事務所66平方メートルであった
    • [24]前から下請工場として使っていた日光電機の経営者以下全従業員十数名と工場設備を、そっくりここに移転した

同年11月1日、この町工場は山洋商会特殊電機製作所と名づけられた。大手が扱う大型機種や汎用機種を避け、特殊な技術と用途の製品で開拓者になるという方針が、そのまま工場の名に置かれている。製品第一号は東洋無線と日本無線から受注した漁業用無線機の電源で、機種は直流高圧発電機であった。この分野を手がけていたのは当時、明電舎ほか数社にすぎない。国産では最高水準の製品にあたる。1934年にはソ連向けの電弧溶接機用直流発電機36台を受注し、試作機を短納期で仕上げるため山本秀雄氏みずから未明まで工場で監督にあたった。翌1935年、陸軍航空本部から探照灯用の5キロワット直流発電機の試作を命じられ、同本部の指定工場として登録された。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 1 無線通信用電源の草分け」
    • [25]昭和7年11月1日、工場を山洋商会特殊電機製作所と命名し、通信用電源の専門メーカーとしてのイメージを広くアピールする体制をとった
    • [26]大手メーカーと競合する大型機種や大量生産を必要とする汎用機種を避け、特殊な技術を必要とする製品、特殊な用途の製品で開拓者たろうとの意欲が工場の命名にこめられた
    • [27]最初に生み出した製品は、東洋無線、日本無線から受注した漁業用無線機の電源で、機種は直流高圧発電機であった
    • [30]昭和9年にソ連向けの電弧溶接機用直流発電機36台を受注し、試作機であるうえに納期が短かったため、経営者山本みずから未明まで工場で監督に当たった
  • 野田経済 1962年11月19日号
    • [28]当時、無線機用電源を手がけていたのは山洋のほかに明電舎がある程度だった
    • [29]山洋商会が製品第一号として送り出した直流高圧発電機は当時のトップレベルの国産品であった
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 2 株式会社山洋商会の誕生」
    • [31]昭和10年、陸軍航空本部から探照灯用の5キロワット直流発電機の試作を命じられ、その結果、陸軍航空本部指定工場として登録された

1936年12月31日、個人経営を改めて株式会社山洋商会が発足した。資本金は50万円の全額払込みで、経営陣は専務取締役に山本秀雄氏、取締役に冬木松五郎氏と海保龍吉氏、監査役に杉崎治三郎氏と山本文雄氏という顔ぶれであった。主力はコンバータとインバータ、すなわち通信用電源である。ただし需要の内訳は民需から離れつつあった。航空機・船艇・車輌用の無線機電源が軍需として増え始めており、翌1937年7月の日華事変の勃発とともに、経済が準戦時体制から戦時体制へ移るにつれ、軍需は山洋商会にとって最大の要因となった。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 2 株式会社山洋商会の誕生」
    • [32]昭和11年12月31日、個人経営から法人組織に変更して株式会社としての新しいスタート台に立った
    • [33]資本金は50万円全額払込ずみで、経営陣は専務取締役山本秀雄、取締役冬木松五郎、同海保龍吉、監査役杉崎治三郎、同山本文雄であった
    • [34]当時主力をおいた製品は通信用電源であり、機種は回転型コンバータならびにインバータであった
    • [35]日華事変勃発の直前という情勢のなかで、これらは民需よりも軍需製品として、航空機、船艇、車輌用の無線機電源の需要がにわかに増大しはじめた
    • [36]昭和12年7月に日華事変が勃発し、経済が準戦時体制から戦時体制へと移行するにつれ、軍需は山洋にとっていよいよ強い要因となって行った
参考文献[19]-[36]
    • [19]昭和5年、ナショナルカーボン炭素棒の売り込みに歩いていた山本は仙台時代の旧友冬木松五郎に再会し、念願の工場を持つ計画を打ち明けて経営参加を誘った
    • [20]冬木松五郎は東北大学工学専門部電気科を卒業後に奥村電機へ入社したが、同社は不況のため京都工場の閉鎖に追い込まれ、東京へ転属していた
    • [21]昭和6年5月、100平方メートルほどの木造平屋建てながら芝区芝浦三丁目に手ごろな家屋を探して移転した
    • [22]昭和7年6月、現在の東池袋の巣鴨拘置所に隣接する金陽社工場を、値引交渉の末に5,000円で入手した
    • [23]敷地は借地ながら660平方メートルあり、建坪は工場330平方メートル、事務所66平方メートルであった
    • [24]前から下請工場として使っていた日光電機の経営者以下全従業員十数名と工場設備を、そっくりここに移転した
    • [25]昭和7年11月1日、工場を山洋商会特殊電機製作所と命名し、通信用電源の専門メーカーとしてのイメージを広くアピールする体制をとった
    • [26]大手メーカーと競合する大型機種や大量生産を必要とする汎用機種を避け、特殊な技術を必要とする製品、特殊な用途の製品で開拓者たろうとの意欲が工場の命名にこめられた
    • [27]最初に生み出した製品は、東洋無線、日本無線から受注した漁業用無線機の電源で、機種は直流高圧発電機であった
    • [30]昭和9年にソ連向けの電弧溶接機用直流発電機36台を受注し、試作機であるうえに納期が短かったため、経営者山本みずから未明まで工場で監督に当たった
    • [28]当時、無線機用電源を手がけていたのは山洋のほかに明電舎がある程度だった
    • [29]山洋商会が製品第一号として送り出した直流高圧発電機は当時のトップレベルの国産品であった
    • [31]昭和10年、陸軍航空本部から探照灯用の5キロワット直流発電機の試作を命じられ、その結果、陸軍航空本部指定工場として登録された
    • [32]昭和11年12月31日、個人経営から法人組織に変更して株式会社としての新しいスタート台に立った
    • [33]資本金は50万円全額払込ずみで、経営陣は専務取締役山本秀雄、取締役冬木松五郎、同海保龍吉、監査役杉崎治三郎、同山本文雄であった
    • [34]当時主力をおいた製品は通信用電源であり、機種は回転型コンバータならびにインバータであった
    • [35]日華事変勃発の直前という情勢のなかで、これらは民需よりも軍需製品として、航空機、船艇、車輌用の無線機電源の需要がにわかに増大しはじめた
    • [36]昭和12年7月に日華事変が勃発し、経済が準戦時体制から戦時体制へと移行するにつれ、軍需は山洋にとっていよいよ強い要因となって行った

1938年〜軍需会社指定と従業員4,500名への膨張

海軍が航空機を戦略に組み込むと、船舶用電源で先行していた山洋商会に無線機用電源の試作依頼が回ってきた。重量制限の厳しい仕様であったが、海軍から技術将校を迎えて予想より早く試作を終え、結果は上々であった。まもなく陸軍からも依頼が入り、航空機用電源はエンジンのスターターや車輪の引き込みまで担うようになって、工場は繁忙に転じた。人材の補充も続いた。1938年に海軍少将の服部正計氏を顧問に迎え、翌1939年には陸軍大佐の赤羽祐之氏を迎え、いずれも後に取締役として経営に加わっている。1940年には逓信省電気試験所から茂木連氏を迎え、以後の技術陣の中心とした。

  • 野田経済 1962年11月19日号
    • [37]昭和12年に日支事変が勃発すると同時に、ようやく航空機を戦略に使用しはじめた海軍から、航空機の無線機用電源の試作依頼が舞い込んできた
    • [38]航空機用電源はむずかしい重量制限がついていたが、海軍から優秀な技術将校を迎えるなどして予想外に早く試作品を完成し、その結果は上々だった
    • [39]まもなく陸軍からも依頼がきて、航空機用電源は無線機用だけでなくエンジン・スターター、車輪引込み用も兼ねるものが要求され、技術と工場は急速に繁忙を迎えた
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 2 株式会社山洋商会の誕生」
    • [40]昭和13年に海軍少将服部正計を顧問に迎え、翌14年には陸軍大佐赤羽祐之を顧問に迎え入れ、いずれものちに取締役として経営に参加した
    • [41]昭和15年に逓信省電気試験所から茂木連を迎え、以後技術陣の中心的存在として長く活躍した

1942年4月、商事部門を切り離したうえで商号を山洋電気に改め、資本金を200万円へ増やした。分離した商事部門は山洋工業として残った。生産の場も東京だけでは足りない。1943年から陸軍航空本部の勧めで長野県上田市の北方に16万5,000平方メートルの用地を確保して工場建設に入り、翌年2月に上田北工場として操業を開始した。同年8月には上田市内の笠原組の製糸工場を、9月には前橋市の金井製糸と興国人絹パルプの工場を買収した。企業整備令で軍需転換を強いられた地方の製糸工場が、軍のあっせんで次々に軍需工場へ変わっていた時期である。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 3 軍需会社として」
    • [42]昭和17年4月、商事部門を切り離して独立させるとともに山洋電気と改称し、資本金200万円とした
    • [43]分離した商事部門は、電機製品の販売と電気工事で業界に知られる山洋工業である
    • [44]陸軍航空本部東京監督長のすすめで長野県上田市の北方に16万5,000平方メートルの土地を確保し、工場を建設して上田北工場として操業を開始した
    • [45]昭和18年8月に上田市内にあった笠原組上田工場を買収して上田南工場とし、翌9月には前橋市の金井製糸とこれに隣接する興国人絹パルプ前橋工場も買収して前橋工場とした
    • [46]当時は企業整備令によって不要不急の平和産業は軍需転換を強制され、地方に散在する紡績工場は格好の対象として軍のあっせんによりぞくぞくと軍需工場に転換していった

1944年12月、山洋電気は軍需会社の指定を受け、資本金は400万円となった。1942年に450名だった従業員は1年半で10倍の4,500名に達し、当時の全需要量の3分の1にあたる電源を生産する立場にあった。膨張は空襲で断ち切られる。1945年4月13日未明の東京大空襲で、本社工場・事務所・倉庫・青年学校・従業員宿舎など18棟が焼夷弾の直撃を受けて全焼した。被害は建物・機械・材料・製品で約730万円、生産能力の約半分が失われた。焼失の責任を追及する憲兵に対し、山本秀雄氏は焼夷弾の雨のなかで消火にあたった従業員をむしろ賞め、不可抗力であるとの立場を譲らなかったため、留置を延ばされている。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「略年譜」
    • [47]昭和19年12月、軍需会社の指定を受け、資本金400万円となった
  • 野田経済 1962年11月19日号
    • [48]昭和17年時の従業員450名は1年半の間に10倍の4,500名に急膨張した
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 3 軍需会社として」
    • [49]昭和20年4月13日未明の東京大空襲で、本社工場、事務所、倉庫、青年学校、従業員宿舎など合計18棟が大量の焼夷弾の直撃を受けて全焼した
    • [50]この空襲の被害は建物、機械、材料、半製品、製品等で計約730万円にのぼり、会社の生産能力の約半分が失われた
    • [51]焼失責任を追及する憲兵に向かって、山本は焼夷弾の雨の中で消火活動に身を挺した従業員たちをかえって賞めたたえ、焼失が不可抗力であったことを強硬に主張して譲らなかったため、留置拘束が延ばされた
参考文献[37]-[51]
    • [37]昭和12年に日支事変が勃発すると同時に、ようやく航空機を戦略に使用しはじめた海軍から、航空機の無線機用電源の試作依頼が舞い込んできた
    • [38]航空機用電源はむずかしい重量制限がついていたが、海軍から優秀な技術将校を迎えるなどして予想外に早く試作品を完成し、その結果は上々だった
    • [39]まもなく陸軍からも依頼がきて、航空機用電源は無線機用だけでなくエンジン・スターター、車輪引込み用も兼ねるものが要求され、技術と工場は急速に繁忙を迎えた
    • [48]昭和17年時の従業員450名は1年半の間に10倍の4,500名に急膨張した
    • [40]昭和13年に海軍少将服部正計を顧問に迎え、翌14年には陸軍大佐赤羽祐之を顧問に迎え入れ、いずれものちに取締役として経営に参加した
    • [41]昭和15年に逓信省電気試験所から茂木連を迎え、以後技術陣の中心的存在として長く活躍した
    • [42]昭和17年4月、商事部門を切り離して独立させるとともに山洋電気と改称し、資本金200万円とした
    • [43]分離した商事部門は、電機製品の販売と電気工事で業界に知られる山洋工業である
    • [44]陸軍航空本部東京監督長のすすめで長野県上田市の北方に16万5,000平方メートルの土地を確保し、工場を建設して上田北工場として操業を開始した
    • [45]昭和18年8月に上田市内にあった笠原組上田工場を買収して上田南工場とし、翌9月には前橋市の金井製糸とこれに隣接する興国人絹パルプ前橋工場も買収して前橋工場とした
    • [46]当時は企業整備令によって不要不急の平和産業は軍需転換を強制され、地方に散在する紡績工場は格好の対象として軍のあっせんによりぞくぞくと軍需工場に転換していった
    • [49]昭和20年4月13日未明の東京大空襲で、本社工場、事務所、倉庫、青年学校、従業員宿舎など合計18棟が大量の焼夷弾の直撃を受けて全焼した
    • [50]この空襲の被害は建物、機械、材料、半製品、製品等で計約730万円にのぼり、会社の生産能力の約半分が失われた
    • [51]焼失責任を追及する憲兵に向かって、山本は焼夷弾の雨の中で消火活動に身を挺した従業員たちをかえって賞めたたえ、焼失が不可抗力であったことを強硬に主張して譲らなかったため、留置拘束が延ばされた
    • [47]昭和19年12月、軍需会社の指定を受け、資本金400万円となった

出典・参考

6件
出典・参考
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 1 無線通信用電源の草分け」
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 2 株式会社山洋商会の誕生」
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 3 軍需会社として」
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「略年譜」
  • 野田経済 1962年11月19日号
  • 電子工業月報 1968年「会社紹介 山洋電気株式会社」

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