創業者福田孝氏の次兄福田正氏は、1925年春に千葉県印旛郡大森町の小学校を出て上京し、東京市本郷区の河西医療電機製作所へ丁稚として入った[1]。約10か月で退き、電気メスなどの医療機器を製造・修理する酒井医療に移って12年在籍する[2]。酒井医療は東京帝国大学医学部に出入りし、横須賀の海軍病院や横浜の航空隊の病院へも器械を納めていた[3]。取引先には風雲堂が扱うシーメンス社製の真空管式心電計が据えられており、修理でドイツへ送れば何年かかるか分からない当時、心電計を直せる会社は国内で酒井医療だけであった[4]。福田正氏は初めて見る機種を四方からレントゲンで撮影し、内部を調べてから修理に取りかかった[5]。
福田正氏は酒井信正社長の支援を受けて第一外国語学校と夜学の神田電機学校に通い、東京帝国大学の日野氏の指導のもとで真空管式心電計の開発に着手した[6]。1935年に完成した器械へ日野氏はエレクールという名を与え、一般にはこれが最初の国産心電計とされる[7]。同年、福田正氏は24歳で独立して福田電機製作所を設立し、自ら試作した可搬式臨床用心電計の製造・販売を始めた[8]。弟の福田孝氏は1932年から3年間勤めた風雲堂を退き、兄の求めに応じて福田電機製作所へ移る[9]。神田電機学校へ通いながら4年間、心電計の構造と製作を兄から習った[10]。
1939年、兄弟の間に経営の考え方の違いが生じ、福田孝氏は福田電機製作所を退き[11]、同年7月、東京都文京区に福田特殊医療電気製作所を創業した[12]。日中戦争から太平洋戦争にかけて心電計を細々と造っていたのは、横河電機、福田電機製作所、アイカ、酒井医療、そして福田特殊医療電気製作所であった[13]。戦時下で材料も加工業者も確保しにくくなり、1942年から事業は休業状態に入る[14]。福田孝氏は応召と召集解除を経て伊藤超短波に迎えられて心電計を製造したが、1945年3月の東京大空襲で同社は事業の継続が困難になり、自身の家も焼けた[15]。
福田孝氏は疎開先の千葉県印旛郡大森町の実家で終戦を迎えた[16]。休業に入る際、生産再開の日に備えて心電計の主要部品を約100台分、実家へ移してあった[17]。1945年の秋の終わりに東京へ本拠を構える決心をし、戦前は倉庫として使っていた文京区湯島新花町の土地へ、外壁をトタン板とする建坪15坪ほどの家を焼け残りの材料で建てる[18]。1946年の初めから変圧器や眼科治療器の製造の合間に心電計の研究を再開し、実家の部品を新花町へ運び込んだ[19]。足りない資材はジャンク屋を回り、進駐軍や日本軍の放出品のビスやナットを安値で買い集めて組み合わせた[20]。
組み上げた心電計を背負い、戦前から世話になっていた医師の紹介で医療機関を訪ねた[21]。戦災で心電計を焼いた大学や医療機関は多く、世情が落ち着くにつれて買ってくれる医院や大学が現れる[22]。1947年から1948年ごろには、福田特殊医療電気製作所でも心電計は造れば売れる状況になった[23]。この時期に製作へ加わっていたのは、福田孝氏と実弟の福田量治氏、それに見習い工2人を合わせた4人である[24]。資金繰りに困った古い取引先から心電図撮影用のオシロペーパーを1万本近く引き取り、値の戻った時期に売って収益も上げた[25]。
事業を広げるには製造設備を拡張して量産へ移り、心電計の性能を高める必要があり、そのための資金が足りなかった[26]。福田孝氏は日本興業銀行の本店中小企業部へ出向いて設備資金の融資を申し入れたが、融資対象は株式会社以上であるとして断られる[27]。1948年7月6日、資本金60万円で株式会社福田電機製作所を設立し、本社を住居兼工場の文京区湯島新花町79番地に置いて、福田孝氏が代表取締役社長に就いた[28]。1949年9月、興銀中小企業部は設備資金100万円の融資を決めた[29]。福田孝社長はトタン張りの工場に隣接してモルタル2階建ての事務所兼工場を増築し、同年12月には社員が20名近くになった[30]。
1950年6月、株式会社福田電機製作所は福田エレクトロ製作へ商号を変更した[31]。心電計が当時エレクトロ・カルディオグラフ、通称エレクトロと呼ばれていたことにちなむ社名で、医療機器のうち心電計の研究開発・製造・販売を専門とする方針を掲げるものだった[32]。翌7月には40万円の増資を決め、資本金は100万円となる[33]。納品では社員がユーザーの希望する場所へ赴いて取扱説明と試験をしたうえで引き渡し、納入後も迅速なアフターサービスに応じた[34]。1950年には厚生省の発注で国立病院・国立療養所へ1要素心電計A-1型41台を初めて一括納入した[35]。
1951年、慶応大学医学部の笹本浩氏がニューヨークで購入してきた熱ペン直記式心電計を福田孝社長に見せた[36]。撮影式は記録したフィルムを暗室で現像しなければ読めないのに対し、熱ペン直記式は現像の手間を省いて記録中も直接波形を見られる[37]。福田孝社長は世界の心電計が撮影式から直記式へ移りつつあると察知し、笹本浩氏が持ち帰ったベックリー社製を手本として、1951年8月に国産で初めて熱ペン直記式心電計の製造に成功する[38]。この機種はRS-1型と呼ばれ、試験的に数台が造られて笹本浩氏ほかの医療機関へ納入された[39]。波形の再現性が低いという議論もあり、技術陣を総動員した改良を重ねて、1953年に電源を内蔵した型を開発し本格生産に入った[40]。
福田孝社長は撮影式の3倍の価格である熱ペン直記式に社運を賭け、東京だけに営業部員を置く売り方を改めて営業拠点の全国展開に踏み切った[41]。1953年4月に大阪営業所を設け、同年7月に福岡、9月に札幌、1955年5月に仙台と続く[42]。営業所長を東京から送る余裕はなく、福田孝社長が営業部門の責任者を帯同して現地に赴き、午前は不動産業者の案内で候補地を視察して場所を決め、午後は求人広告の応募者を面接して採用を決めた[43]。1957年には小型軽量のRS-13型とRS-15型を発売し、1958年3月期の売上高は1億9,945万円、当期利益は651万円と創業以来の記録になった[44]。
福田孝社長が心電計の製造と販売にあたった20年で悟ったのは、製品と製作技術を持つ会社が伸び悩む原因は販売力の弱さにあるという一点であった[45]。1958年3月20日、福田エレクトロ製作は販売部門を切り離し、福田エレクトロ総販売を設立した[46]。資本金600万円は全額が製作側の出資、本社は東京都文京区弓町2丁目34番地、社長は福田孝社長の兼務である[47]。発足時の拠点は、支店へ昇格させた大阪と仙台、それに札幌・新潟・金沢・名古屋・福岡の各営業所であった[48]。製作側の販売部門にいた従業員は、勤続年数・退職金・有給休暇・賃金の条件をそのままに移籍した[49]。
営業拠点は、望ましい立地と販売スタッフを確保できた土地に置いた[50]。それが叶わない土地では、地元で器械を扱う店と共同出資で販売会社を作るか、地元の代理店に名称を改めてもらったうえで販売代理店の契約を結んだ[51]。1958年3月から1960年10月までに、広島・岡山・弘前・宇都宮・高松・京都・米子・鹿児島・熊本・秋田・松山・宇部・長崎に営業所が開き、福岡営業所は支店へ昇格[52]。売上高は1958年3月期の1億9945万円から1961年3月期に4億3129万円へと約2.1倍になり、1962年3月期には7億8519万円に達し[53]、利益額も651万円から5465万円へ約8倍に膨らんだ[54]。
1960年10月、会社は商号を福田エレクトロへ改め、本店を文京区本郷へ移した[55]。統合を促した事情は四つあり[56]、営業拠点の全国への配置がほぼ整ったこと、製作から総販売、営業所を経てユーザーへ届く流通経路を福田エレクトロから営業所を経てユーザーへ届く形に縮めたほうが効率がよいこと、両社の人員が重複し始めたこと、そして製作が製造担当者だけの集団になったことであった[57]。2社が並立する限り、製品在庫と収益の計算が曖昧になるという欠点も抱えていた[58]。1960年9月30日、福田エレクトロ総販売の臨時株主総会は、債権・債務を含む一切の営業を福田エレクトロ製作へ譲渡する件を満場一致で可決[59]。同年10月14日には、福田エレクトロ製作の臨時株主総会が本店の移転と商号の変更を承認した[60]。
1960年9月13日午前10時、バス2台が本社の玄関前に着いた[61]。降りてきたのは東京国税局の査察官で、総勢120人ほどが令状を示して社内へなだれこみ、各階の見取り図を手にどの部署にも人を配した[62]。同じ日、全国各地の営業所と、社長・全取締役・監査役・営業所長の自宅にも捜索が入り、調査に当たった査察官は総勢250名ほどにのぼった[63]。容疑は、近い将来に売れると見込んで抱えていた2千数百台の製品在庫について、その評価額が過小であり、過少申告にあたるというものであった[64]。心電計の販売はテスト使用や不良品の交換のために売上を上回る在庫を抱えて回すのが常で、この商いの形が裏目に出た[65]。帳簿などの書類はすべて段ボール箱に詰めて押収され、夕方には事務室に何も残らなかった[66]。
査察の事情聴取と取り調べで心労が重なり、福田孝社長の不眠症は高じた[67]。発病は1961年春で、社員と観に行ったシネラマの巨大な画面に圧倒されてその場に倒れた[68]。翌1962年春には神経症で入院し、以後2年間、経営の第一線を離れた[69]。後継者はおらず、留守は非常勤取締役の長兄、福田瀞氏が預かったが、事業全般を統括できる幹部は社内にいなかった[70]。管理の目が届かなくなった各地の営業所ではセールスマンの管理が緩み、追徴金の支払いに充てるため本社が安値で供給した製品を売り捌いた販売会社には、余剰資金が滞留した[71]。1964年3月期に7億6338万円と8051万円だった売上高と純利益は、翌1965年3月期に4億901万円と1764万円へ落ちこんだ[72]。
1963年秋、伊東で療養する福田孝社長のもとを幹部社員が何度も訪ね、会社への復帰を求めた[73]。1964年初春に出勤した福田孝社長が帳簿を集めて調べると、売上高の落ちよりも利益の低下が著しく、資金繰りはそれに輪をかけて悪化していた[74]。求めれば融資を惜しまなかった銀行も、不況の只中で申し込みに応じず、借入金の返済を求めるばかりであった[75]。会社は手持ちの株券や電話債券まで換金し、次々に迫る手形の決済に充てた[76]。1964年11月30日に復刊した社内報で、福田孝社長は全社員に向けた檄を発表[77]。入金のない売上に課税される内部売上を消すため、1966年1月に割賦制度を始め、日本勧業銀行と東海銀行との提携で、無担保・保証人なし・融資限度額300万円のフクダメディカルローンを開いた[78]。年間売上高が過去最高の9億8884万円に届いたのは、1969年3月期であった[79]。
査察は、製品在庫を本社に集めるほど未実現の利益に課税されるという教訓を残した[80]。在庫を各地の販売会社へ分ければ、それぞれが在庫に応じて納税し、負担は応分で済む[81]。1962年7月、会社は大阪支店を近畿販売として独立させ[82]、以後、名古屋・西部・北海道・東北・広島・四国・岡山と、支店を次々に販売会社へ変えた[83]。狙いはもう一つあり、各地に育った人材へ経営を任せ、成果に見合う報酬と地位を約束することであった[84]。1967年9月には東京販売を本社へ吸収して東京支社とし、全国49の医科大学のうち11校と1万1000件の医療施設を抱える東京市場に本社が直接あたった[85]。1965年10月、福田孝社長は西独のシュワルツァー社と、単要素心電計を除く全製品の日本市場での独占販売について3年間の業務提携を結び、自社商品7割・仕入商品3割を目安に他社製品も自前の販売網へ乗せた[86]。
合併の糸口は融資の紹介であった[87]。フクダ医療電機は1968年頃から本郷3丁目に本社ビルの用地を取得しており、福田統治社長はその資金の一部を商工組合中央金庫から借りようと、取引の深い実兄の福田孝社長へ紹介を頼んだ[88]。両社はともに心電計を主力とし、世間はエレクトロとカナフクと呼び分けていた[89]。両社長の母スエは会社を一つにするよう願い、1968年に世を去った[90]。1969年2月、上野池之端の料亭での対面の別れぎわに、福田孝社長のほうから合併を持ちかけた[91]。同年4月、両社から4名ずつを出す合併推進委員会が発足し、7月16日に合併契約書へ調印[92]。10月1日、資本金6580万円の福田エレクトロと資本金5000万円のフクダ医療電機が対等合併し、資本金1億1580万円のフクダ電子が生まれた[93][94]。
合併後にまず手をつけたのは、本社と工場の一本化であった[95]。本社は旧フクダ医療電機が本郷3丁目に建てたビルに置き、旧福田エレクトロの本社建物は本郷事業所に回した[96]。1970年8月には本郷事業所に鉄筋コンクリート3階建て2棟を増築して延床面積を約2084平方メートルとし、全生産設備と全技術陣をここへ集めた[97]。生産施設を広い土地へ集めるため、千葉県開発公社の誘致に応じて1967年12月に印旛郡白井町の工業団地へ約3万928平方メートルの敷地を購入していた[98]。1972年3月、総床面積1420平方メートルの鉄筋鉄骨平屋1棟を着工し、白井事業所は1973年6月7日に完成[99]。1974年12月12日には、生産と開発を担う本郷事業所を全額出資の別会社として独立させた[100]。1975年3月期の売上高は46億2627万円、純利益は4800万円であった[101]。
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|---|---|---|---|---|
| 1939〜1958年心電計一機種に賭けた創業と国産初の直記式開発 | 福田孝が東京都文京区に福田特殊医療電気製作所を創業 | ★★ | ||
| 福田孝 | 資本金60万円で株式会社福田電機製作所に改組 | ★★ | ||
| 福田孝 | 福田エレクトロ製作に商号変更 | ★ | ||
| 福田孝 | 国産初の直記式心電計を開発 | ★★★ | ||
| 福田孝 | 大阪営業所を皮切りに営業拠点の全国展開を開始 | ★★ | ||
| 1959〜1975年心電計を売る自前の網を全国に敷き、危機を越えて合併へ | 福田孝 | 福田エレクトロに商号変更、文京区本郷に本店移転 | ★ | |
| 福田孝 | 福田エレクトロ近畿販売を設立、以後全国に販売会社を設立 | ★★ | ||
| 福田孝 | オールトランジスタの心電計を開発 | ★ | ||
| 福田孝 | フクダ医療電機との合併でフクダ電子に商号変更 | ★★★ | ||
| 福田孝 | 千葉県白井町に新工場の白井事業所を建設 | ★★ | ||
| 1976〜1991年病院に張り付く販売網へ、提携商品と自社製品を次々に載せる | 福田孝 | 心電図自動解析システムを国内で初めて開発 | ★★ | |
| 福田孝 | 日本証券業協会東京地区協会に店頭登録 | ★ | ||
| 福田孝太郎 | 非心臓循環器系製品の拡販へフクダ電子中部特器を設立 | ★★ | ||
| 福田孝太郎 | 創業50周年記念事業で福田記念医療技術振興財団を設立 | ★ | ||
| 1992〜2026年病院に張り付いた販売網を患者の家まで延ばす | 福田孝太郎 | 在宅酸素事業をフクダバイタルテックで開始 | ★★★ | |
| 福田孝太郎 | 中国・北京の合弁会社で医用機器の製造販売を開始 | ★★ | ||
| 福田孝太郎 | 酸素濃縮器の専門販売会社を全国に設立 | ★★ | ||
| 福田孝太郎 | 米国シアトルに子会社を設立、製品の製造を開始 | ★★ | ||
| 福田孝太郎 | 睡眠時無呼吸症候群事業をフクダライフテックで開始 | ★★ | ||
| 福田孝太郎 | 血圧脈波検査装置の自社開発・販売を開始 | ★★ | ||
| 福田孝太郎 | 在宅人工呼吸療法事業をフクダライフテックで開始 | ★★ | ||
| 福田孝太郎 | AEDの普及啓発活動を本格化 | ★★ | ||
| 福田孝太郎 | エフアンドエルの吸収合併でレンタル事業を開始 | ★★ | ||
| 福田孝太郎 | ジャスダック証券取引所に株式を上場 | ★ | ||
| 福田孝太郎 | 千葉市蘇我球技場の命名権を取得 | ★ | ||
| 福田孝太郎 | フランスとスイスのKontron Medicalを子会社化 | ★★ | ||
| 福田孝太郎 | 安全性試験センターを白井事業所に建設 | ★ | ||
| 白井大治郎 | アトミック産業を株式交換により完全子会社化 | ★ | ||
| 白井大治郎 | オムロンコーリンを買収し子会社化 | ★★★ | ||
| 白井大治郎 | 東京証券取引所スタンダード市場に移行 | ★ | ||
| 白井大治郎 | 千葉県白井市の白井事業所を建替竣工 | ★★ |
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事実根拠:出所(フクダ電子)