第2章 年〜年

山洋電気:特別経理会社からの再建と日本初のAC・DCサーボモータ

1946年〜遊休設備の返還と戦時補償の打切り

1946年春、山洋電気は前橋工場の旧金井製糸分を金井源蔵氏へ、上田南工場を笠原組へ返還した。企業整備令と軍のあっせんで低廉に身売りした工場が平和産業へ戻ろうとしたためで、現物出資の各50万円が戻って合計100万円の減資となった。同じ年の8月、吉田内閣は戦時補償の打切りを声明する。10月の戦時補償特別措置法により、軍へ納めた製品の代金、軍からの前受金、戦災保険金の合計1,864万円を、戦時補償特別税として国へ返すことになった。当時の払込資本金は250万円にすぎない。資本金の9割切捨てと銀行借入金の棒引きで処理してなお約900万円の特別損失が残り、会社経理応急措置法の適用を受けて特別経理会社となった。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 4 戦後の苦悩」
    • [1]前橋工場の旧金井製糸分は金井源蔵へ、上田南工場は笠原組へ返還することとなり、この返還は昭和21年春に完了した
    • [2]企業整備令で閉鎖寸前に追いこまれ軍のあっせんで低廉な身売りをした工場は平和産業へ復帰しようとしたもので、現物出資の各50万円は戻されたため合計100万円の減資となった
    • [3]昭和21年8月、吉田内閣は戦時補償の打切りを声明し、10月に戦時補償特別措置法を公布して打切り範囲が決定した
    • [4]山洋では軍に納入した製品の代金、軍からの前受金、戦災保険金の合計1,864万円を、戦時補償特別税として国へ返還しなければならなくなった
    • [5]当時の山洋の払込資本金は250万円であり、1,864万円はこれに対してぼう大な金額であった
    • [6]返済方法として資本金の9割を切り捨て、銀行借入金も棒引きにする方法が取られ、指定銀行であった住友銀行と戦時金融金庫に多大な損害を与えたが、山洋にも約900万円の特別損失金が生じた
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「略年譜」
    • [7]昭和21年8月、軍需補償の打ち切りにより会社経理応急措置法にもとづく特別経理会社の適用を受けた

従業員の整理は敗戦の直後に始まっていた。1945年9月15日、山洋電気は平均3カ月分の退職金を払って4,500名を450名へ減らし、11月には一度全員を解雇したうえで約半数を再雇用した。残す者の選別にあたっては、どのようなメーカーへ形を変えるにしても必要なのは技術だという判断から、技術者を残す方針が取られた。1948年2月には前橋工場を閉鎖して上田工場へ統合した。前橋の従業員は約60名で、住み慣れた土地からの移住を嫌う者がほとんどであったという。1949年6月にはさらに3割を整理し、この時点の従業員は150名を割った。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 4 戦後の苦悩」
    • [8]敗戦と同時に遊休化した工場設備をかかえ従業員は5,000人をこえていたため、山本はまず人員整理から着手しなくては企業として生きる道がないとさとった
    • [9]昭和20年9月に平均3カ月分の退職金を支払って一気に500名に減員し、さらに11月には一応全員を解雇してその中から約半数を再雇傭した
    • [13]当時の前橋工場の従業員は約60人にすぎなかったが、永年住みなれた前橋から移住をきらう者がほとんどであった
    • [14]昭和24年6月、経営困難から合理化のために再度従業員の3割整理にふみきり、この時点での従業員は150人を割った
  • 野田経済 1962年11月19日号
    • [10]終戦からまる1カ月後の9月15日に9割の人員整理を実行し、4,500名の従業員を一挙に450名へ減らし、さらに間もなく450名を250名に減らした
    • [11]一番苦労したのは残す人間の人選であり、どのようなメーカーに形を変えるにしてもやはり一番必要なものは技術だと悟って技術者だけを残した
  • 電子工業月報 1968年「会社紹介 山洋電気株式会社」
    • [12]昭和23年、前橋工場を閉鎖し上田工場に統合した

敗戦から2年ほどの間、上田工場では廃材で自転車のスポークベルやアルミの杓子、缶切りを、前橋工場では安全かみそりをつくった。手持資材を売って給与を確保する状態が続き、1946年2月には毎日新聞社へ寄宿舎を27万円で、1947年12月には昭栄製糸へ上田工場の一部を90万円で、1948年2月には前橋工場の旧興国人絹パルプ分を100万円で売っている。活路は食糧増産政策から開いた。農漁業の機械化と電化が国の重要政策として進められ、山洋電気は農村向けの脱穀用単相反撥モータと漁船用無線機電源のコンバータへ戻った。1949年には脱穀用モータが統制の撤廃で競争激化に直面したが、代わって魚群探知機用のコンバータが伸び、12月に特別経理会社の指定を解除された。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 4 戦後の苦悩」
    • [15]昭和20年の終わりから21年へかけて、上田工場では廃材を利用して自転車のスポークベル、アルミの杓子、缶切り、前橋工場では安全かみそりといった雑品を手がけた
    • [17]売却した財産としては昭和21年2月の毎日新聞社にたいする寄宿舎27万円、22年12月の昭栄製糸にたいする上田工場の一部90万円、23年2月の西尾某にたいする前橋工場の旧興国人絹パルプ工場分100万円などがある
    • [18]物資の不足ことに食糧難は非常なもので、食糧の増産が国の重要政策とされて農漁業の機械化、電化が急速に進められた
    • [19]戦後一、二年の主な製品は漁船用無線機の電源としてのコンバータや、農村向けの脱穀用単相反撥モータであった
    • [20]昭和24年末から25年初めにかけて脱穀用単相電動機の売行きが農村の金詰まりとこの機種にたいする統制の撤廃による競争激化で苦しくなったが、かわって漁船用無線機電源の需要が活発となり、魚群探知機の需要も新しく抬頭した
    • [21]魚群探知機の電源用コンバーターがかなりの売上げをもたらして成績は上向き、昭和24年12月には特別経理会社の解除にこぎつけて最悪期を脱した
  • 証券アナリストジャーナル 1979年11月号(山本浩・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演要旨)
    • [16]戦後はナベ、カマや農業用モータなどを作ったが、早い時期に船舶の無線の電源を手掛けることにした
参考文献[1]-[21]
    • [1]前橋工場の旧金井製糸分は金井源蔵へ、上田南工場は笠原組へ返還することとなり、この返還は昭和21年春に完了した
    • [2]企業整備令で閉鎖寸前に追いこまれ軍のあっせんで低廉な身売りをした工場は平和産業へ復帰しようとしたもので、現物出資の各50万円は戻されたため合計100万円の減資となった
    • [3]昭和21年8月、吉田内閣は戦時補償の打切りを声明し、10月に戦時補償特別措置法を公布して打切り範囲が決定した
    • [4]山洋では軍に納入した製品の代金、軍からの前受金、戦災保険金の合計1,864万円を、戦時補償特別税として国へ返還しなければならなくなった
    • [5]当時の山洋の払込資本金は250万円であり、1,864万円はこれに対してぼう大な金額であった
    • [6]返済方法として資本金の9割を切り捨て、銀行借入金も棒引きにする方法が取られ、指定銀行であった住友銀行と戦時金融金庫に多大な損害を与えたが、山洋にも約900万円の特別損失金が生じた
    • [8]敗戦と同時に遊休化した工場設備をかかえ従業員は5,000人をこえていたため、山本はまず人員整理から着手しなくては企業として生きる道がないとさとった
    • [9]昭和20年9月に平均3カ月分の退職金を支払って一気に500名に減員し、さらに11月には一応全員を解雇してその中から約半数を再雇傭した
    • [13]当時の前橋工場の従業員は約60人にすぎなかったが、永年住みなれた前橋から移住をきらう者がほとんどであった
    • [14]昭和24年6月、経営困難から合理化のために再度従業員の3割整理にふみきり、この時点での従業員は150人を割った
    • [15]昭和20年の終わりから21年へかけて、上田工場では廃材を利用して自転車のスポークベル、アルミの杓子、缶切り、前橋工場では安全かみそりといった雑品を手がけた
    • [17]売却した財産としては昭和21年2月の毎日新聞社にたいする寄宿舎27万円、22年12月の昭栄製糸にたいする上田工場の一部90万円、23年2月の西尾某にたいする前橋工場の旧興国人絹パルプ工場分100万円などがある
    • [18]物資の不足ことに食糧難は非常なもので、食糧の増産が国の重要政策とされて農漁業の機械化、電化が急速に進められた
    • [19]戦後一、二年の主な製品は漁船用無線機の電源としてのコンバータや、農村向けの脱穀用単相反撥モータであった
    • [20]昭和24年末から25年初めにかけて脱穀用単相電動機の売行きが農村の金詰まりとこの機種にたいする統制の撤廃による競争激化で苦しくなったが、かわって漁船用無線機電源の需要が活発となり、魚群探知機の需要も新しく抬頭した
    • [21]魚群探知機の電源用コンバーターがかなりの売上げをもたらして成績は上向き、昭和24年12月には特別経理会社の解除にこぎつけて最悪期を脱した
    • [7]昭和21年8月、軍需補償の打ち切りにより会社経理応急措置法にもとづく特別経理会社の適用を受けた
    • [10]終戦からまる1カ月後の9月15日に9割の人員整理を実行し、4,500名の従業員を一挙に450名へ減らし、さらに間もなく450名を250名に減らした
    • [11]一番苦労したのは残す人間の人選であり、どのようなメーカーに形を変えるにしてもやはり一番必要なものは技術だと悟って技術者だけを残した
    • [12]昭和23年、前橋工場を閉鎖し上田工場に統合した
    • [16]戦後はナベ、カマや農業用モータなどを作ったが、早い時期に船舶の無線の電源を手掛けることにした

1950年〜第五次計画造船と電気通信省への進出

船舶無線機用電源の需要は、当初の漁船向けから大型の外航船向けへと移りつつあった。これを受けて山洋電気は1950年6月、主力の電源機種を小型から大型へ切り替える方針を固め、あわせて経営陣を組み直した。社長の山本秀雄氏の下で、専務に冬木松五郎氏、常務に渡辺平蔵氏、取締役に茂木連氏と郷末茂氏が就いた。大型化には設備を新しくし営業の範囲を広げることが欠かせず、とりわけ官公需をどう開くかが大きな課題になった。同じ年に始まった政府の財政融資による第五次計画造船は、内航貨物船が対象だった第四次までと違って外航適格船に絞られ、規模も大きかった。この計画が生んだ電源需要のうち、山洋電気は半ば近くを受け取った。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 5 再建をめざして」
    • [22]主製品であった船舶無線機用電源は、当初の漁船用から大型外航船用へと機種の移行する傾向がしだいに顕著となっていた
    • [23]まず主力電源機種を小型から大型へと移行する方針を決定した
    • [24]昭和25年6月、社長山本秀雄以下、冬木松五郎を専務取締役、渡辺平蔵を常務取締役とし、新たに茂木連と郷末茂を取締役に昇格させた
    • [25]そのために必要となるのは設備の更新と営業の間口をひろげることであり、とくに官公需はこれから是非とも開拓しなくてはならない大きなポイントであった
    • [26]財政融資による船舶の建造が計画造船であり、昭和22年に第一次が発足していらい、25年には第五次を迎えていた
    • [27]第四次までが内航貨物船であったのにたいして、第五次はもっぱら外航適格船であって非常に大規模な計画となった
    • [28]第五次計画造船関係の電源需要量の半ば近くを受注した
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「略年譜」
    • [29]昭和25年、第五次造船計画による船舶通信電源を受注した

陸上の通信では逓信省が大口需要者で、1949年に同省は郵政省と電気通信省へ分かれた。同じ年の10月、山洋電気は離島無線局用の7キロボルトアンペア交流発電機2台を大阪発動機製造経由で契約し、翌1950年には裸線搬送電信用の電動発電機4台を直接契約して、電気通信省の指定メーカーに登録された。以後は15、20、40、75、100キロボルトアンペアと容量を上げ、市内電話用の電動発電機へも受注機種を広げている。1952年に電気通信省が日本電信電話公社となると、市外通信線ではマイクロウェーブ多重通信と同軸ケーブル多重通信の実用化が始まった。山洋電気は山頂の中継局に置く無停電電源装置を担い、これは国鉄や電力会社の通信網にも使われた。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 5 再建をめざして」
    • [30]戦後の陸上通信機の大口需要は逓信省であったが、昭和24年に同省は郵政省と電気通信省とに分割された
    • [31]昭和24年10月に離島無線局用7KVA交流発電機2台を大阪発動機製造株式会社経由で契約し、この実績により翌25年に裸線搬送電信用電動発電機4台を直接契約して、電気通信省の指定メーカーとして登録されるきっかけとなった
    • [33]以後15KVA、20KVA、40KVA、75KVA、100KVAとしだいに大型のものを受注し、つづいて市内電話電源として各種の電動発電機へ受注機種を拡大した
    • [34]昭和27年に電気通信省が電電公社となり、最も大きな改革は市外通信線に無装荷ケーブルにかわりマイクロウェーブ多重通信と同軸ケーブルによる多重通信を実用化し始めたことで、第一回は東京〜大阪間10局の中継局を山頂に設けたものであった
  • 野田経済 1962年11月19日号
    • [32]戦後復興がはじまり、新しく発足した電電公社からも通信機用電源メーカーの指定があって事業がカムバックした
  • 証券アナリストジャーナル 1979年11月号(山本浩・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演要旨)
    • [35]昭和30年から始まった電電公社のマイクロウェーブの設定に伴い無停電電源装置を手掛け、これが国鉄や電力会社の通信網にも使われるようになって、30年から35年にかけて最高の需要があった

1953年、防衛力強化計画の始動を受けて、山洋電気は三菱電機や新中央工業とともに手廻発電機の試作コンクールへ応募した。山本秀雄氏は入賞すること自体を目的とせず、一位でなければ意味がないと技術陣に迫った。翌1954年1月のコンクールで一位に入り、GRC-9用手廻発電機を完成させている。海難時に救命艇へ積む緊急用無線機の電源にも同じ機種が求められ、法令で装備が定められた後の需要の大半を取った。陸上自衛隊向けのガソリン機関発電機でも、10社近い競争のなかで好成績を収めた。防衛庁からの大量受注に船舶用電源と魚群探知機用コンバータ、マイクロ波通信用の受注が重なり、1954年9月期に売上高は1億円を超えた。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 6 飛躍に備えて」
    • [36]防衛力強化計画が軌道に乗り出した昭和28年、山洋は三菱電機、新中央工業などとともに手廻発電機の試作コンクールに応募した
    • [37]山本は「入賞するのが目的ではない。一位で入賞するのでなければ意味がない」といって技術陣を激励した
    • [39]海難時のライフボートに装備する緊急用無線機の電源となる手廻発電機の開発も要求され、この装備が法令で決められた後の大量需要の大半を山洋が獲得した
    • [40]陸上自衛隊用の大型通信機の電源として2KW、3KW、5KW、10KWなどのガソリン機関発電機が要求され、製作コンクールでは10社ちかい競争会社のなかで山洋はいずれも優秀な成績をおさめた
    • [41]防衛庁からの大量受注に加え船舶用各種無線電源や魚群探知機用コンバータが続伸し、電電公社をはじめとするマイクロ波通信用の受注も大量で、昭和29年9月期には売上げ1億円の目標ラインを突破した
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「略年譜」
    • [38]昭和29年1月、自衛隊用手廻発電機の試作が完成し、コンクールで一位に入賞してGRC-9用手廻発電機を完成した
    • [42]昭和29年9月、売上高が1億円を超えた
参考文献[22]-[42]
    • [22]主製品であった船舶無線機用電源は、当初の漁船用から大型外航船用へと機種の移行する傾向がしだいに顕著となっていた
    • [23]まず主力電源機種を小型から大型へと移行する方針を決定した
    • [24]昭和25年6月、社長山本秀雄以下、冬木松五郎を専務取締役、渡辺平蔵を常務取締役とし、新たに茂木連と郷末茂を取締役に昇格させた
    • [25]そのために必要となるのは設備の更新と営業の間口をひろげることであり、とくに官公需はこれから是非とも開拓しなくてはならない大きなポイントであった
    • [26]財政融資による船舶の建造が計画造船であり、昭和22年に第一次が発足していらい、25年には第五次を迎えていた
    • [27]第四次までが内航貨物船であったのにたいして、第五次はもっぱら外航適格船であって非常に大規模な計画となった
    • [28]第五次計画造船関係の電源需要量の半ば近くを受注した
    • [30]戦後の陸上通信機の大口需要は逓信省であったが、昭和24年に同省は郵政省と電気通信省とに分割された
    • [31]昭和24年10月に離島無線局用7KVA交流発電機2台を大阪発動機製造株式会社経由で契約し、この実績により翌25年に裸線搬送電信用電動発電機4台を直接契約して、電気通信省の指定メーカーとして登録されるきっかけとなった
    • [33]以後15KVA、20KVA、40KVA、75KVA、100KVAとしだいに大型のものを受注し、つづいて市内電話電源として各種の電動発電機へ受注機種を拡大した
    • [34]昭和27年に電気通信省が電電公社となり、最も大きな改革は市外通信線に無装荷ケーブルにかわりマイクロウェーブ多重通信と同軸ケーブルによる多重通信を実用化し始めたことで、第一回は東京〜大阪間10局の中継局を山頂に設けたものであった
    • [29]昭和25年、第五次造船計画による船舶通信電源を受注した
    • [38]昭和29年1月、自衛隊用手廻発電機の試作が完成し、コンクールで一位に入賞してGRC-9用手廻発電機を完成した
    • [42]昭和29年9月、売上高が1億円を超えた
    • [32]戦後復興がはじまり、新しく発足した電電公社からも通信機用電源メーカーの指定があって事業がカムバックした
    • [35]昭和30年から始まった電電公社のマイクロウェーブの設定に伴い無停電電源装置を手掛け、これが国鉄や電力会社の通信網にも使われるようになって、30年から35年にかけて最高の需要があった
    • [36]防衛力強化計画が軌道に乗り出した昭和28年、山洋は三菱電機、新中央工業などとともに手廻発電機の試作コンクールに応募した
    • [37]山本は「入賞するのが目的ではない。一位で入賞するのでなければ意味がない」といって技術陣を激励した
    • [39]海難時のライフボートに装備する緊急用無線機の電源となる手廻発電機の開発も要求され、この装備が法令で決められた後の大量需要の大半を山洋が獲得した
    • [40]陸上自衛隊用の大型通信機の電源として2KW、3KW、5KW、10KWなどのガソリン機関発電機が要求され、製作コンクールでは10社ちかい競争会社のなかで山洋はいずれも優秀な成績をおさめた
    • [41]防衛庁からの大量受注に加え船舶用各種無線電源や魚群探知機用コンバータが続伸し、電電公社をはじめとするマイクロ波通信用の受注も大量で、昭和29年9月期には売上げ1億円の目標ラインを突破した

1955年〜サーボモータの試作研究と株式公開

1955年1月、山洋電気はサーボモータの試作研究を始めた。研究陣が米国の文献から自動制御の現状を探り、サーボモータ、シンクロ、リゾルバー、ステップモータといった回転機器が自動制御用の新しい構成部品になるとの見通しを立てて首脳陣へ提案し、即座に採用されたものである。これらの機種の必要性が国内で唱えられ出すのは1960年ごろで、着手はその5年前にあたる。船舶無線から陸上のマイクロ波無線へ移りながら通信用電源に主力を置いてきた会社が、装置の構成部品という別の分野へ踏み出した。電源は通信機へ電力を供給する製品だが、サーボモータは機械を動かす部品であり、売り先の産業ごと替える転換であった。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「略年譜」
    • [43]昭和30年1月、サーボモータの試作研究を開始した
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 6 飛躍に備えて」
    • [44]研究陣は海外とくに米国の文献から現状をさぐり、将来の動向としてサーボモータ、シンクロ、リゾルバー、ステップモータなどのサーボモータ類といわれる回転機器が自動制御用の新しいコンポーネントとして注目される機種だとの見とおしを立て、主脳陣に提案してこれが直ちに採用された
    • [45]これら機種の開発の必要性がわが国で唱えられ出したのは昭和35年ころからであり、山洋は早くも5年前からこれを予見して研究に着手していた
    • [46]船舶無線から陸上通信用のマイクロ波無線へと移行しながら通信用の電源機種に主力をおいてきた山洋が、ここではじめて自動制御装置用のコンポーネントという新しい分野へ第一歩を踏み出した

開発の原資は自己資金と国の補助金であった。1955年度に通商産業省の鉱工業技術試験研究補助金95万円を交流発電機と自動電圧調整器の超小型化で受け、1958年に160万円、1959年に107万円、1960年に100万円を、工作機械の数値制御に使う電気機械で受けている。着手してすぐ受注に結びつく性質のものではなく、先行投資というべき試作研究であった。一方、1955年に大同製鋼の提案で開発したホットトップ自動制御装置は、直ちに受注生産に入った。理研製鋼と協力し、二相サーボモータと磁気増幅器で電弧電圧を検出して電極を昇降させる装置で、同社から80セットを受注したのち、日本鋼管や八幡製鉄など大手製鉄各社に採用された。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 6 飛躍に備えて」
    • [47]研究費には通産省の補助金を受け、自己資金に加えた
    • [48]昭和30年度に「交流発電機およびその自動電圧調整器の超小型化」で鉱工業技術試験研究補助金95万円を受け、以降33年「工作機械の数値制御機構に使用する電気機械」160万円、34年107万円、35年100万円を受けて工作機械の自動制御用電動機の開発に取り組んだ
    • [49]これらは着手して直ぐ受注に結びつくといった試作ではなく、むしろ先行投資ともいうべき性質の試作研究であった
    • [50]昭和30年、大同製鋼からの提案で開発したホットトップ自動制御装置は直ちに受注生産に入り、高収益をあげた
    • [51]理研製鋼平井工場と協力し、二相サーボモータと磁気増幅器アクチュエータを用いて電弧電圧を検出し電極を昇降させる装置を開発して同社から80セットの大量受注を得たのち、日本製鋼所、日本鋼管、富士製鉄広畑、八幡製鉄など大手製鉄、特殊鋼メーカーに次々と採用された
  • 電子工業月報 1968年「会社紹介 山洋電気株式会社」
    • [52]自動制御装置としてホットトップ自動制御装置を製造しており、用途は製鋼用である

1960年、山洋電気はサーボモータとシンクロの量産に入った。試作の域を脱した年に、この機種の売上高は前年の倍となっている。同年6月に上田工場の主要部を火災で失って鉄骨で建て直し、11月には埼玉県川口市へ川口工場を新設した。12月には電子工業振興法にもとづき、日本開発銀行からサーボモータの開発資金として3,000万円の低利融資を受けた。1961年10月には米国IMC社と自動制御用電気機器の製造販売で提携する。1962年9月29日、総株数360万株のうち8パーセント強にあたる32万株を東京証券取引所第二部へ新規上場し、10月1日の倍額増資で資本金は1億6,000万円となった。1964年、山本秀雄氏が会長へ退き、長男の山本浩氏が社長に就任した。

  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「略年譜」
    • [53]昭和35年、サーボモータ、シンクロの量産に入った
    • [55]昭和35年6月に上田工場の主要部が火災により焼失して直ちに鉄骨にて再建し、同年11月に川口工場を新設した
    • [58]昭和36年10月に米国IMC社と業務提携した
    • [61]昭和37年、株式を東京証券取引所第二部に上場し、資本金1億6,000万円となった
    • [62]昭和39年、山本秀雄が会長に、山本浩が社長に就任した
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 6 飛躍に備えて」
    • [54]サーボモータが昭和35年からようやく試作の域を脱して大量生産の段階に入り、売上げは前年の倍増をみた
    • [57]電子工業振興法により日本開発銀行からサーボモータ開発資金として昭和35年12月に3,000万円の低利融資を受け、さらに39年12月にも第二次の4,000万円の融資に成功した
  • 山洋電気 有価証券報告書【沿革】
    • [56]1960年11月、埼玉県川口市に川口工場を新設した
  • 電子工業月報 1968年「会社紹介 山洋電気株式会社」
    • [59]米国IMC社と自動制御用電気機器サーボモータ、シンクロ等に関し製造販売の提携をした
  • 日本経済新報 1962年
    • [60]昭和37年10月1日に倍額増資を完了して8,000万円から1億6,000万円となり、9月29日に総株数360万株のうち8パーセント強にあたる32万株を東京第二部に新規上場した
  • 証券アナリストジャーナル 1979年11月号(山本浩・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演要旨)
    • [63]山本浩は昭和39年から山洋電気の2代目社長となった
参考文献[43]-[63]
    • [43]昭和30年1月、サーボモータの試作研究を開始した
    • [53]昭和35年、サーボモータ、シンクロの量産に入った
    • [55]昭和35年6月に上田工場の主要部が火災により焼失して直ちに鉄骨にて再建し、同年11月に川口工場を新設した
    • [58]昭和36年10月に米国IMC社と業務提携した
    • [61]昭和37年、株式を東京証券取引所第二部に上場し、資本金1億6,000万円となった
    • [62]昭和39年、山本秀雄が会長に、山本浩が社長に就任した
    • [44]研究陣は海外とくに米国の文献から現状をさぐり、将来の動向としてサーボモータ、シンクロ、リゾルバー、ステップモータなどのサーボモータ類といわれる回転機器が自動制御用の新しいコンポーネントとして注目される機種だとの見とおしを立て、主脳陣に提案してこれが直ちに採用された
    • [45]これら機種の開発の必要性がわが国で唱えられ出したのは昭和35年ころからであり、山洋は早くも5年前からこれを予見して研究に着手していた
    • [46]船舶無線から陸上通信用のマイクロ波無線へと移行しながら通信用の電源機種に主力をおいてきた山洋が、ここではじめて自動制御装置用のコンポーネントという新しい分野へ第一歩を踏み出した
    • [47]研究費には通産省の補助金を受け、自己資金に加えた
    • [48]昭和30年度に「交流発電機およびその自動電圧調整器の超小型化」で鉱工業技術試験研究補助金95万円を受け、以降33年「工作機械の数値制御機構に使用する電気機械」160万円、34年107万円、35年100万円を受けて工作機械の自動制御用電動機の開発に取り組んだ
    • [49]これらは着手して直ぐ受注に結びつくといった試作ではなく、むしろ先行投資ともいうべき性質の試作研究であった
    • [50]昭和30年、大同製鋼からの提案で開発したホットトップ自動制御装置は直ちに受注生産に入り、高収益をあげた
    • [51]理研製鋼平井工場と協力し、二相サーボモータと磁気増幅器アクチュエータを用いて電弧電圧を検出し電極を昇降させる装置を開発して同社から80セットの大量受注を得たのち、日本製鋼所、日本鋼管、富士製鉄広畑、八幡製鉄など大手製鉄、特殊鋼メーカーに次々と採用された
    • [54]サーボモータが昭和35年からようやく試作の域を脱して大量生産の段階に入り、売上げは前年の倍増をみた
    • [57]電子工業振興法により日本開発銀行からサーボモータ開発資金として昭和35年12月に3,000万円の低利融資を受け、さらに39年12月にも第二次の4,000万円の融資に成功した
    • [52]自動制御装置としてホットトップ自動制御装置を製造しており、用途は製鋼用である
    • [59]米国IMC社と自動制御用電気機器サーボモータ、シンクロ等に関し製造販売の提携をした
  • 山洋電気 有価証券報告書【沿革】
    • [56]1960年11月、埼玉県川口市に川口工場を新設した
  • 日本経済新報 1962年
    • [60]昭和37年10月1日に倍額増資を完了して8,000万円から1億6,000万円となり、9月29日に総株数360万株のうち8パーセント強にあたる32万株を東京第二部に新規上場した
    • [63]山本浩は昭和39年から山洋電気の2代目社長となった

1946年〜1964年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1949年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 9 n/a 0 9.8% n/a
1964年03月期 単体 8 ▲11.1% 0 7.6% n/a

出所:会社年鑑(1967年版)半期合算

出典・参考

9件
出典・参考
  • 山洋電気 有価証券報告書【沿革】
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 4 戦後の苦悩」
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「略年譜」
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 5 再建をめざして」
  • 信用と技術を誇る 山洋電気(ポケット社史、ダイヤモンド社、1969年)「一 四〇年のあゆみ 6 飛躍に備えて」
  • 証券アナリストジャーナル 1979年11月号(山本浩・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演要旨)
  • 野田経済 1962年11月19日号
  • 日本経済新報 1962年
  • 電子工業月報 1968年「会社紹介 山洋電気株式会社」

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