1950年に二井製作所の大阪営業所と草津工場を切り離して設立された関西二井製作所が起源。
1956年にアルミニウム電解コンデンサの製造を始め、2012年には世界初のV2Hシステム「EVパワー・ステーション」を発売した。大手の系列に属さないコンデンサメーカーで、売上の半分を海外が占める。
二井製作所は大正期に創業し、輸入に依存していた電話機用ペーパーコンデンサの国産化を先駆けたメーカーだった。戦後は管球ラジオ用の製品に転換し、1947〜1948年には生産が需要に追いつかない好況を迎えた。同族経営のもとで経理の管理は次第に緩み、大規模な設備拡張の発注が資金繰りの破綻を招いた。給料の遅配が続いて一時は労働組合が経営を管理し、需要の減少から草津工場の閉鎖が議題に上った。草津の従業員の職場を残すため会社を東西に分け、1950年8月に大阪営業所と草津工場を切り出して関西二井製作所を設立した。設立時の資本金は300万円で、東京に残った二井製作所とは別の会社として再出発した。
分離から1年を経ても経営は改善せず、平井嘉一郎氏が経営を引き受けた1951年7月末には給料の遅配が5か月半に延びていた。分離した時点の遅配は3か月で、1年の間に状態はさらに悪化した。資本金300万円の会社が、売れる見込みのない製品を約1,000万円も在庫に抱えていた。給料を待たされた従業員は80数名に上り、平井嘉一郎氏はまず経営の立て直しを最初の目標に据えた。平井嘉一郎氏はもともとコンデンサの製造に携わった人物ではなく、業界のトップ会社に育てる意欲を持って経営を引き受けたと振り返った。業界の外から来た経営者だったことが、同業の既成概念に縛られない判断を可能にしたとみられる。
平井嘉一郎氏が経営を引き受けた当時、アルミを月3トン以上使うペーパーコンデンサメーカーは倒産するというジンクスが業界にあった。月3トンは売上高で月1,000万円に当たり、大手の帝国コンデンサ・高梨製作所・日本蓄電器も月1,200〜1,300万円にとどまった。帝国コンデンサは東京電力、日本蓄電器は関西電力の子会社で、同業の多くは電力会社の系列に庇護を求めた。平井嘉一郎氏は系列に入れば親会社に支配され、自主性と従業員の意欲を失うと考えた。関西財界の知人と銀行の協力を得て、独立のまま大手3社並みの規模を目標に据えた。1961年8月時点の大株主は京都・富士・三和の各銀行が10,000株ずつで、役員の持株が45.6%を占めた。
関西二井製作所の工場は工業標準化を進め、1955年10月に大阪通産局長賞を受けた。翌1956年10月には工業標準化実施優良工場として、通商産業省の工業技術院から院長賞を受賞した。平井嘉一郎氏が遅配と在庫を抱えた会社の経営を引き受けた1951年7月から、5年あまりでの受賞だった。品質の評価は技術の供与にも広がり、1959年1月にはインドのEIC社と技術指導の契約を結び、製造の技術を海外へ供与する立場に立った。1968年までにソ連・インド・香港・台湾・韓国へ技術指導を行い、製品を米RCA社などへ輸出した。公的な表彰は、無名の後発メーカーが国内外の取引先に品質を示す裏付けになったのだろう。
関西二井製作所は1956年7月に京都工場を新設し、アルミニウム電解コンデンサの製造を始めた。平井嘉一郎氏は『人間は生ある限りいつかは死ぬが、企業は永遠の生命をもたねばならない』という経営理念を掲げた。この理念に照らし、ペーパーコンデンサの専業では成長に必ず限界が来ると判断して電解への進出を決めた。電解の量産が安定した後の1961年には、セラミック・タンタル・フィルムの各コンデンサにも進出した。品種を段階的に増やした結果、関西二井製作所の社名は業態に合わなくなり、1961年に日本コンデンサ工業へ改称した。新しい品種の量産を一つずつ固めてから次へ進む順序が、総合コンデンサメーカーへの道筋を決めたと推察される。
1956年に関西二井製作所の電解進出が報じられると、電解コンデンサの市価は一挙に2割下がった。平井嘉一郎氏はこれを先発による後発参入の阻止とみて、価格でも技術でも国内では競争が成り立たないと判断した。そこで対米輸出に販路を求め、米RCA社から品質が良ければ数量の制限なく引き取るという約束を得た。一度に数百万円の返品を受けた時期もあり、輸出の立ち上げには困難が続いた。輸出先は米国からEEC諸国にも広がり、1964年6月には認定基準で最高の100点を得て輸出貢献企業に認定された。平井嘉一郎氏は後年、シェア争いで無配に転じた同業を挙げて、輸出に販路を求めた判断を適切だったと振り返った。
関西二井製作所は1957年4月に営業部門を分離し、関西二井販売を設立した。京都工場の電解コンデンサが加わり、扱う品種がペーパーと電解の2系統に広がった翌年の分離だった。関西二井販売はのちにニチコン販売と改称し、1963年版の会社年鑑では全製品の販売窓口として記載された。1969年時点のニチコン販売は資本金2,000万円の全額出資子会社で、平井嘉一郎氏は自社の営業部に当たる存在と説明した。プラント輸出と同業他社向けを除く全製品が、ニチコン販売を通じて市場に出された。製造は工場、販売は子会社と役割を分けたことで、品種と販路が増えても工場は生産の管理に専念できたと思われる。
電解コンデンサの量産が安定すると、関西二井製作所は1959年9月に京都府亀岡市で仮工場を開設した。翌1960年10月には亀岡の本工場が竣工し、主要工場は草津・京都・亀岡の3か所になった。1960年3月期の売上高は10億円に達し、1961年3月末の従業員は1,578名と1951年7月の80数名から約1,500名増えた。亀岡の完成に続き、1961年にはセラミック・タンタル・フィルムの各コンデンサの生産を始めた。同じ1961年4月には諏訪工場を新設し、社名を日本コンデンサ工業に改めた。亀岡までの3工場体制は、次の品種拡大と改称を受け止める生産の足場として整えられたと考えられる。
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事実根拠:出所(ニチコン)