メイコー両面板専業から多層プリント配線板への進出

創業5年目の名幸電子工業は、なぜ多層プレス機を据えて層数の階段を上ったか

時期 1980年12月
意思決定者(推定) 名屋佑一郎 社長
論点 製品構成の高度化と生産設備投資
概要
1980年12月、名幸電子工業(現メイコー)が多層プレス機を導入し、多層プリント配線板の製造を始めた経営判断。創業時から扱ってきた両面板(配線層数2)に対し、内層にも回路を持つ層数3以上の製品へ踏み込んだ。
背景
1975年の創業以来、同社は両面板の販売を中心に伸び、1979年に流行したゲーム機向け基板の受注で生産を広げていた。一方で電子機器の側では1970年代のうちに多層基板が使われはじめ、層数を増やせない基板メーカーは扱える機器が限られる状況にあった。
内容
1980年9月に神奈川県綾瀬市の新本社事務所・工場を新設して設計から最終製品までの一貫生産体制を敷き、その3カ月後に多層プレス機を据えた。1978年に自社専用の基板検査機を開発しており、設計・製造・検査を社内に置いたうえで工程を一段積み増した。
含意
層数を上げる投資は以後も繰り返され、1997年11月にはビルドアップ新工法の建屋を山形工場に建てた。2025年3月期の売上高2,068億円を支えるAIサーバー向け高多層基板まで、1980年の多層プレス機はその最初の一段にあたる。
筆者の見解

設備で決まる受注の範囲

プリント配線板の会社にとって、層数は品質の等級ではなく、受けられる仕事の範囲そのものにあたる。両面板しか作れない工場には、内層に配線を通した機器の図面は届かない。1980年の名幸電子工業は、ゲーム基板の注文が伸びている最中に、まだ注文の来ていない層のための機械を買った。両面板の需要が続くかどうかを読んだのではなく、届く図面の種類を自分で広げにいった判断とみることができる。

この選び方は以後も反復された。1997年のビルドアップ建屋、2005年の宮城工場新棟、そして近年のAIサーバー向け高多層基板まで、投資の対象は毎回「まだ主力ではない層」に置かれている。1985年の円高で受注が消えたときに残ったのが、車載という次の用途への見立てであったことも同じ性格を示している。設備を先に持つ会社は、市況が変わるたびに製品構成の側から立ち直る余地を持つ。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

両面板一本で伸びた創業4年

名幸電子工業は1975年11月、神奈川県綾瀬市で設立された。設立の目的はプリント配線板の製造及び販売で、創業時に売ったのは両面板であった。創業者の名屋佑一郎氏は1973年に技術者として昭和無線工業(現SMK)へ入り、基板の開発に携わるなかで当時の先端品であった両面基板の需要拡大を見込んで独立を決めた。1974年に自宅の庭の10坪ほどの小屋を整えて基板のパターン設計と製造を始め、翌年これを法人にした[1][2]

1979年に国内で流行したシューティングゲーム「スペースインベーダー」向けのゲーム基板が受注を押し上げ、創業4年目の同社は生産を広げた。層数2の両面板のままでも注文が伸びる時期であった。ただし電子機器の側では、1970年代のうちに薄型電卓や携帯型カセットプレーヤーで多層基板が使われはじめており、層数を増やせない基板メーカーが引き受けられる機器はしだいに狭まっていた[3][4]

多層板という工程の重さ

多層プリント配線板は層数3以上を指し、あらかじめ内部に配線を形成した銅張積層板から作る。両面板が表裏2層の配線をスルーホールでつなぐだけで済むのに対し、多層板ではプリプレグと銅箔を重ねて高温高圧をかけ、一体化させる積層プレスの工程が要る。設備を買わずに層数を上げる道はなく、専用の多層プレス機を持つかどうかが、そのまま扱える製品の範囲を決めていた[5]

1980年9月、同社は綾瀬市に新本社事務所と工場を新設し、設計から最終製品までをつなぐ一貫生産体制を確立した。すでに1978年4月には電子応用機器製品の開発を目的とするシステム開発部を置き、同年10月には基板の最終検査工程用の自社専用検査機を自前で開発している。設計・製造・検査を外に出さず社内に置いた構えが、工程をもう一段積み増す余地を残していた[6][7]

決断

新工場の3カ月後に据えた多層プレス機

1980年12月、名幸電子工業は多層プレス機を導入し、多層板の製造を始めた。新本社事務所・工場の新設からわずか3カ月後にあたる。一貫生産体制を敷いた同じ敷地に、両面板では使わない積層の工程を足した形である。創業から5年、社員数十人規模の非上場企業が、両面板の受注が伸びている最中に次の層へ設備を入れた点に、この判断の性格が表れている[8][9]

多層化と並んで、同社は自社開発の幅も広げた。1981年12月には世界で初めてマルチビデオプロセッサーを開発[10]している。基板を受注生産するだけでなく、検査機や電子応用機器を自ら設計する部隊を抱えたことで、顧客の求める層数・精度に自社の工程を合わせる余地が生まれた。多層プレス機の導入は、この技術を自前で持つという方針の設備面での現れにあたる。

層数で品揃えを埋める

多層板に入った翌々年の1982年3月、同社は片面プリント配線板の製造を目的にマルチテック(現メイコーテック)を設立した。上を伸ばすと同時に、量産品である片面板を別法人に置いて下も押さえた構えである。1982年9月にはコスミック、コモドールジャパンと合弁でプリント配線板製造会社の山形名幸電子(現山形メイコー)を設立し、東北に生産を分けた[11]

片面・両面・多層を層数で並べ、設計と検査機を自社に持つという構成は、この2年ほどで固まった。以後の設備投資も、拠点を増やす方向と層数を上げる方向の二つに整理できる。1984年8月の本社工場増築、1990年6月の福島工場新設が前者にあたり、1997年11月のビルドアップ新工法の建屋新築が後者にあたる[12]

結果

円高が試した製品構成

多層化から5年後の1985年、同社は創業10周年を迎えた直後にプラザ合意後の急速な円高に見舞われた。顧客の生産が海外へ移り受注が激減し、創業来はじめての赤字を計上する。取引先だけでなく競合他社にも発注を頼み込むほどの状況で、名屋佑一郎社長は創業50年を振り返ってこの時期が最も苦しかったと語っている。層数を上げても、顧客が日本にいなくなる事態までは吸収できなかった[13]

立て直しを支えたのは、家庭用ゲーム機向けの受注と、車載向け基板の将来性への着目であった。どちらも層数と信頼性の要求が上がる用途で、両面板だけを持つ会社では取りにくい仕事にあたる。1980年に据えた多層プレス機は、赤字の年に売上を作る設備としてではなく、次に何を受けられるかを決める設備として効いた[14]

多層から高多層へ

層数を上げる投資はその後も続いた。1997年11月、山形工場の敷地内にビルドアップ新工法による基板製造の建屋を新築する。ビルドアップ多層板は、多層板の表面に絶縁層・微細なビア・配線を一層ずつ積み上げて作るもので、高密度配線が求められる機器では主流の構造にあたる。2006年3月期には宮城工場の新工場棟が竣工し、エニーレイヤースタック構造ビルドアップ基板やモジュール基板の量産体制が整った[15][16]

2025年3月期の連結売上高は2,068億円に達し、AIサーバー向けの部品内蔵基板や高周波、高密度高多層基板が同社の技術革新の例として挙げられている。売上高は2005年に500億円、2017年に1,000億円、2024年に2,000億円を超えた。層数3以上へ移った1980年12月の一手から数えて、45年で扱う層数も売上の桁も変わった[17][18]

出典・参考

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