三菱樹脂光学式ビデオディスク事業への24億円投資と、三菱商事との共同出資会社の設立

成熟した塩ビパイプに代わる事業をどこに求めるか——創業以来初の三桁設備投資

時期 1989年7月
意思決定者(推定) 村松寿久 社長
論点 成熟した主力事業に代わる新規事業の育成
概要
主力の塩ビパイプが年率2%の成長にとどまるなか、三菱樹脂が1989年度の設備投資100億円のうち24億円を光学式ビデオディスク(LD)事業へ振り向け、三菱商事との共同出資で1990年2月をめどに生産・販売会社を設立すると決めた投資。三桁の設備投資は創業以来初であった。
背景
1982年、三菱総合研究所など外部スタッフも交えた新商品探索プロジェクトチームを組み、1年かけて電子関連事業、なかでもメモリーメディアを進出分野に絞った。1985年に始めたICカードは1989年3月期に約100億円を売ったものの、原価の約6割を占めるICを外部から買い、代理店に納入するだけの立場に置かれて利幅が限られていた。
内容
1989年度に減価償却費の2倍近い100億円の設備投資を計画し、うち24億円をLDへ充てた。三菱商事との共同出資会社で月産10万枚を30万枚へ引き上げ、総額30億円のうち24億円を三菱樹脂が負担する。原資は5年間で510億円を集めた転換社債・ワラント債で、1989年3月期に金融収支が初めて黒字となり、自己資本比率も初めて20%を超えていた。
含意
代理店の先へ出られないICカードの構造から抜けるため、生産と販売を自ら持つ形を選んだ。ただし1995年3月期に2000億円、のちに1994年度に2000億円と掲げた売上目標に対し、2002年3月期の連結売上高は1631億円にとどまった。
筆者の見解

買う側に回った会社が、売る側へ出るということ

「危険を冒さなければ柱となる大きな事業は見つからない」——村松寿久社長がLDへの投資を語ったこの言葉は、ICカードで学んだことの裏返しであったとみられる。原価の約6割を占めるICを半導体メーカーから買い、ソフトを外部のゲームソフト会社に頼り、代理店へ納入するだけの位置に置かれれば、100億円を売っても利幅は残らない。生産と販売を自ら持つ会社を三菱商事と作り、創業以来初の三桁投資を充てたのは、その位置から抜け出すための手であった。

ただ、抜け出した先にあったのも、外部への依存を残す事業であった。LDを離陸させるには、ICカードと同じくソフトの力が問われる。しかも記録メディアの規格は短命で、同社は8インチ・5インチのフロッピー用ジャケットを相次いで生産中止へ追い込まれてもいる。それでもなお記録メディアに柱を求めたのは、年率2%の塩ビパイプを前に選べる道が多くなかったからだといえる。2000億円に届かなかった一事をもって、1982年の絞り込みを甘い判断と片づけることはできない。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

年率2%の塩ビパイプ

石油危機による落ち込みからようやく回復し始めた1982年、三菱樹脂は三菱総合研究所など外部のスタッフも交えて「新商品探索プロジェクトチーム」を組み、1年をかけて今後進出すべき事業分野を検討した。絞り込まれたのは、精密射出成型といった自社の基盤技術を生かせて、しかも2ケタ成長が続いている分野——電子関連事業、なかでもメモリーメディアであった。ICカード、光磁気ディスク、フロッピーディスク(FD)のケースなどが具体案として挙がった[1]

動機は主力事業の頭打ちにあった。村松寿久社長は「主力事業の一つである塩ビパイプがすでに成熟期を迎えており、今年もわずか年率2%の成長しか見込めない。電子産業のような成長産業に乗っていかないと、会社として成長し続けていくことはできない」と説明している。参入先をメモリーに絞ったのは、多くの企業が開発に取り組んでいたCPU内蔵型では実用化に時間がかかりそうで、樹脂加工メーカーにはメモリーだけのほうがとっつきやすいという読みによる[2][3]

ICカードの100億円と、その中身

電子分野への進出は、まずICカードの形をとった。1985年7月、家庭用パソコンMSXに照準を合わせたICカード利用型のゲームソフトを発売したが、パソコンの性能とカードの記憶容量に限界があり、速さのあるゲームを作れずに1年で撤退した。復活は1987年10月、日本電気ホームエレクトロニクスがゲーム機「PCエンジン」の記憶媒体に三菱樹脂製ICカードを標準装備すると決めたときであった。ゲーム用ICカードの売上高は1989年3月期に約100億円へ達した[4]

もっとも、この100億円は利幅の薄い100億円であった。カード原価の約6割を占めるICは半導体メーカーから買わねばならず、ソフトは外部のゲームソフト会社に全面的に頼る。代理店へ注文のカードを納入するだけの立場に置かれ、手元に残る利幅は限られた。FD関連事業も、8インチに次いで5インチ用の生産中止が近づき、3.5インチへの移行はVTRカセット用設備の転用という偶然でしのいだ。規格が変われば設備ごと置き去りにされる商売であった[5][6]

決断

創業以来初の三桁設備投資

1989年度、三菱樹脂は減価償却費の2倍近い100億円の設備投資を計画し、そのうち24億円を光学式ビデオディスク(LD)事業へ充てた。三桁の設備投資は創業以来初めてであった。1990年2月をめどに三菱商事と共同出資でLDの生産・販売会社を設立し、月間10万枚の生産能力を30万枚へ拡大する。総額30億円のうち24億円を三菱樹脂が負担し、残りを三菱商事が出資する形をとった[7][8]

素地はあった。1987年4月から業務用カラオケのLDを日立製作所へOEM供給しており、生産の実績は積んでいる。新会社では三菱商事が手掛けてきたCDの販売網も使える。村松社長は「がまん、がまんで最低10年かけないと新しい事業は育たない。しかも、危険を冒さなければ柱となる大きな事業は見つからない。LDにかけてみたい」と述べた。ICカードで代理店の先へ出られなかった経験が、生産と販売を自ら持つ会社という形に表れている[9][10]

三桁を可能にした財務改善

この規模の投資を可能にしたのは、財務体質の改善であった。5年間にわたって低コストの転換社債やワラント債を発行し、邦貨額にして510億円を調達、割高な銀行からの借入金を減らした。その結果、慢性的に続いていた金融収支は1989年3月期に初めて黒字へ転じた。株式への転換権の行使も急ピッチで進み、株式数は同期に2億株を超え、自己資本比率は初めて20%を上回った[11]

手元流動性は前期で450億円弱、平均月商の3.8倍にあたる。東野元貞経理部長は「100億円規模の設備投資なら今後2、3年は資金調達に慌てる必要はない」と説明した。ただ、新規事業そのものはまだ稼いでいない。1989年3月期の新規事業の売上高合計は132.6億円と全売上高の約1割を占めたが、収支はほぼ均衡したままで、ICカードを除けばFDカセットが20億円、LD事業は10億円弱にとどまっていた[12][13]

結果

掲げた2000億円

三菱樹脂が描いていたのは、新商品部門の拡充によって1995年3月期に売上高2000億円、営業利益率5%へ届く姿であった。1990年6月に村松寿久社長の後を継いだ浜辺正剛社長も、1994年度に売上高2000億円、営業利益100億円、新商品の売上高比率15%以上という目標を掲げた。浜辺社長は製品別の7事業部を需要分野ごとの4事業本部へ再編し、長浜・平塚両工場の研究部を本社直轄の研究所へ格上げして企画研究本部を新設した[14][15]

掲げた2000億円に、三菱樹脂は届かなかった。有価証券報告書で遡れる最も古い2002年3月期の連結売上高は1631億円で、目標に置いた1994年度から8年を経てなお2000億円に達していない。ただ、1982年に絞り込んだ電子関連という方角そのものは残り、2007年3月期には情報電子分野が売上高551億円、営業利益46億円を計上している。狙った分野は当たり、その中でどの製品に懸けるかで見込みが外れたとみることができる[16][17]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1989年7月17日号「三菱樹脂の大黒柱作り ビデオディスクに大型投資」
  • 日経ビジネス 1991年5月6日号「新社長登場 浜辺正剛氏(三菱樹脂)率先垂範、「まず行動」の社風づくり」
  • 三菱樹脂 有価証券報告書(2002年3月期・連結)
  • 三菱樹脂 有価証券報告書(2007年3月期・連結)

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