東レ三井物産による人絹事業への出資と、「三井」を冠さない東洋レーヨンの設立

商社が初めての製造事業に踏み出すとき、本家の名を貸すか、外すか——大正末の人絹をめぐる設計

時期 1926年1月
意思決定者(推定) 安川雄之助 三井物産常務取締役
論点 新産業への参入形態と社名
概要
1926年1月、三井物産は資本金1000万円の東洋レーヨンを設立した。物産にとって初めての製造事業でありながら、社名に「三井」を冠さず、工場は琵琶湖畔の石山に置いた。設備・技術・原料をいずれも欧州から集め、人造絹糸の国産化を図った創業の判断。
背景
人造絹糸は明治38年に日本へ輸入されて以来、需要も輸入量も増え続けていた。三井物産は1919年に英国コートールズ社製ビスコース糸の日本総代理店となり、売り手として市場の伸びを見ていた。ただし三井合名理事長の団琢磨氏はセルロイドでの失敗を抱え、企業化をなかなか許さなかった。
内容
安川雄之助常務取締役が中心となって1923年ごろから調査研究を進め、二年がかりで承諾を得た。設備はドイツのオスカー・コーホン社、技術者は英国・ドイツ・イタリアから30余名、敷地は最良質の水が得られる琵琶湖畔石山。社名から「三井」を外したのは、失敗した場合に三井家へ累を及ぼさないためであった。
含意
1927年8月に操業へ入り、1931年には全国生産の20%を占めるまで設備を広げた。1932年に初配当、翌年には増資と株式公開に至る。1938年には合成繊維の研究へ移り、1941年にナイロン6の合成に成功した。
筆者の見解

筆者の見方

安川雄之助氏は二年がかりで団琢磨氏を説き伏せておきながら、出来上がった会社の看板から「三井」を外した。許可を勝ち取ることと、失敗したときに本家へ累を及ぼさないことは、この人にとって別々に処理すべき課題だったとみられる。財界から「商人が手を出して成功したらお目にかかりたい」と言われる事業に、物産は初の製造業として1000万円を積み、名前だけを引き上げて送り出した。

三つの国から集めた技術者は着工早々に衝突し、技師長は自ら命を絶っている。最良のものを外から買い揃える設計は、買った先どうしが噛み合う保証まで含んではいなかった。それでも会社が続いたのは、1931年に全国生産の二割を占めるまで設備を積み増せる資本が背後にあったからで、看板を外したことと資金を出し続けたことは矛盾しない。三井が引き受けたのは名ではなく危険の側であったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

輸入が増え続けた糸を、売る側で見ていた

人造絹糸が世界で初めて生産されたのは19世紀末で、日本には明治38年には商品として入ってきていた。以来、国内の需要は増え、輸入量も増加の一途をたどる。三井物産がこの糸に関わったのは1919年、英国コートールズ社製のビスコース糸で日本総代理店を引き受けたときからであった。売り手として、市場が伸びていく速さを間近に見ていたことになる[1][2]

先行する帝国人造絹糸が本格的に利益を出したのは事業開始から七年目の1923年で、その後の三年間は需要の増加によって独占的な利益を得ていた。人絹が根を張れたのは、大正末になって生糸と綿糸の国内需要が飽和点に近づいたためでもある。値段が下がっても消費が伸びない段に入り、買い手が新しい繊維へ向かった。第一次大戦で外国人絹糸の輸入が途絶えたことは、きっかけの一つにすぎなかったと後年の産業史は整理している[3][4]

団琢磨氏の許可が下りるまで二年

それでも三井の内部で話は進まなかった。三井合名の理事長であった団琢磨氏はセルロイドでの失敗を抱えており、人絹工業の企業化をなかなか許可しなかった。物産の関係者は「三井家はもともと繊維工業から身を起こしたのに、同じ繊維界で新興有望の人絹に手を出さぬことはない」と説いてお百度を踏み、二年がかりでようやく承諾を得ている[5]

外からの目も冷ややかであった。財界の一部には「三井物産のごとき商人がこの事業に着手し、もし成功したらお目にかかりたい」と言う者もいた。商社が自ら物をつくることへの疑いである。安川雄之助常務取締役は1923年ごろから事業化のための本格的な調査研究を続けており、社内の説得と外の嘲笑の両方を抱えたまま、判断の材料を数年かけて揃えていた[6][7]

決断

別会社を立て、社名から「三井」を外す

1926年1月、東京日本橋の三井物産の社内で創立総会が開かれた。創立に尽くした安川雄之助氏が議長に推され、設立資本金は1000万円と決まる。物産にとって初めての製造事業でありながら、自社の一部門として抱えるのではなく、資本金を別に積んだ会社を新たに立てる形が選ばれた。同月12日の設立で、会長には安川氏が就いている[8][9]

社名に「三井」を入れなかったのも、同じ考えから出ている。のちに会社の側は、大正末期の創業期には人絹生産がかなりリスクのある事業と思われ、失敗した場合に三井家へ迷惑をかけることを予想して、あらかじめそれを避けようとしたのだと説明している。看板を貸さないことで、失敗したときの累を本家から切り離す設計であった。社内ではこの創業を、後年「今でいうベンチャービジネス」と振り返っている[10]

設備も技術も外から買い、立地は水で決める

事業の中身は、当時得られる最良のものを外から集める形で組まれた。設備はドイツのオスカー・コーホン社、技術は英国・ドイツ・イタリアの技術者30余名、原料は外国の優秀品による。工場の敷地は、最良質の水が得られる琵琶湖畔の石山と定めた。パルプを溶かして糸に固めるビスコース法では、水の質がそのまま糸の質に響く。物産の初めての製造事業にふさわしく、そのとき手に入る最高のものを揃えるという組み方であった[11][12]

三つの国から寄せ集めた技術者は、そのまま現場の混乱にもなった。1926年に本格的な建設へ入ると英国とドイツの技師の間で意見が衝突し、技師長であったイタリア人はノイローゼで自殺している。新産業について何の経験も持たないまま着手した代償が、操業より前の着工の段階から現れていた。会社はこの経緯を後年の社史に書き残している[13]

結果

操業から全国の二割へ

1926年4月に滋賀工場の建設へ着手し、翌1927年4月に人絹糸日産3トンの設備を完成、同年8月に初紡糸を行って操業に入った。製品は三井物産を代理店として11月から市場へ出る。ところがちょうどそのころ人絹各社が続々と創立され、国内の生産は加速度的に増えた。1929年からの不況では、数次にわたって生産制限が行われている[14][15]

東洋レーヨンは不況の回復に備えて設備を広げ続けた。1931年には人絹日産19.6トン、年間生産1000万ポンドとなり、全国生産の20%を占めるに至る。自社設計による国産機械への切り替えや工程の合理化で原価も下げた。1932年7月に初配当6分を行い、翌1933年7月には資本金を3000万円へ増やして株式を公開している[16]

人絹の会社が化学の会社へ渡るまで

拡張は続き、1937年には人絹日産81.9トン、スフ日産18.9トンの設備を持つに至った。創業からわずか10年余りでの到達である。創業の目的であった国産糸の自給体制を築くとともに、輸出による外貨の獲得もめざした。三井物産が総代理店として売っていた輸入糸を、自らつくって置き換える構図が、ここでひととおり完成している[17][18]

そして1938年10月には合成繊維の研究に着手し、1941年5月にナイロン6の合成と紡糸に成功する。戦後の1951年にはデュポン社と技術提携を結び、日本で初めてナイロンの原料と繊維の生産を始めた。琵琶湖畔で水を選んで人絹を紡いだ会社が化学の会社へ移っていく道筋は、外国の技術を買って産業を立ち上げるという設立時の型をそのままなぞっている[19]

出典・参考
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「東洋レーヨン」(1955年)
  • 日本産業史(日経文庫)第1巻 繊維「人絹-苦闘の果ての栄光」
  • 日経ビジネス 1984年8月6日号「強さの研究・東レ」

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