安川雄之助氏は二年がかりで団琢磨氏を説き伏せておきながら、出来上がった会社の看板から"三井"を外した。許可を勝ち取ることと、失敗したときに本家へ累を及ぼさないことは、この人にとって別々に処理すべき課題だったと推察される。商人が手を出して成功したらお目にかかりたいと財界から言われる事業に、物産は初の製造業として1000万円を積み、名前だけを引き上げて送り出した。
三つの国から集めた技術者は着工早々に衝突し、技師長は自ら命を絶っている。最良のものを外から買い揃える設計は、買った先どうしが噛み合う保証まで含んではいなかった。それでも会社が続いたのは、1931年に全国生産の二割を占めるまで設備を積み増せる資本が背後にあったからで、看板を外したことと資金を出し続けたことは矛盾しない。三井が引き受けたのは名ではなく危険であったといえる。