東レ英ICIからのポリエステル繊維技術の導入と、帝国人造絹絲との共同導入

独占を捨てて競合と組んだのはなぜか——ライセンス料も商標も分け合った技術提携

時期 1957年2月
意思決定者(推定) 田代茂樹(会長)・袖山喜久雄 社長
論点 第二の合成繊維の技術導入と、国内競合との共同歩調
概要
1957年2月、東洋レーヨンが英ICIとポリエステル繊維の技術提携契約に調印した経営判断。同じ技術を求めていた競合の帝国人造絹絲(帝人)と2社同資格でライセンスを受け、ライセンス料もロイヤルティも両社合算とし、商標「テトロン」まで共通にした。会長の田代茂樹氏は交渉に先立ち、他社首脳に「東レは独占の意思は毛頭ない」と伝えていた。
背景
1951年のデュポン提携でナイロンを得た東洋レーヨンは、次の柱を決める必要があった。アクリル系はデュポンがライセンスを売る意向を示さず、残るポリエステル系のICIに向かう。だが交渉は進まず、同じ時期に帝人も同じ扉を叩いていた。
内容
1955年12月、ICIは両社に「両社同資格のライセンスを供与する」「ライセンス料は両社合計、ロイヤルティも両社合算でよい」と伝え、2社共同での導入を軸に交渉が進んだ。1957年2月7日、ICIのアレン取締役と袖山喜久雄社長、帝人の大屋晋三社長が契約書に調印した。
含意
1958年に三島工場でわが国初のポリエステル繊維の工業生産が始まり、1962年度には売上構成でテトロンが33%を占めてレーヨンは8%に落ちた。単独で特許を囲った1951年のナイロンとは対照的に、費用も名前も競合と分け合い、素材の市場そのものを立ち上げる側に回った提携であった。
筆者の見解

独占を捨てて素材を売る

「東レは独占の意思は毛頭ない」——田代茂樹氏がパリで競合各社の首脳に自ら告げた一言に、この提携の性格が表れている。1951年のデュポン提携では資本金の1.5倍にあたる前払金を単独で払い、ナイロンの特許を自社に囲った。今度は逆に、ライセンス料もロイヤルティも帝国人造絹絲と合算し、商標「テトロン」まで共通にした。名も知られていない素材は、一社で抱えても売り場が生まれない。二社で綿紡・毛紡との混紡から市場を起こす方が早いという読みが働いていたとみられる。

ただし、二社に絞る線引きを最後に決めたのはICI側の意向であり、田代氏の申し出がどこまで結果を動かしたのかは、本人の回想からは測れない。共同で買った技術にも制約は残り、特許の成立する国へはフィラメントもステープルも出せなかった。1963年に会社が「今後は単純に技術を売つてくれなくなる」と語り、鎌倉に30億円の基礎研究所を構えたのは、買った技術で立つ時代が長くは続かないと自ら見ていたからだといえる。東洋レーヨンが二度目に選び直したのは、どこから買うかではなく、誰と買うかという組み方であった。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

ナイロンの次に何を置くか

1951年のデュポン提携でナイロンを手にした東洋レーヨンにとって、次の問題は二本目の柱の選び方であった。1953年度の売上構成はレーヨンが62%、ナイロンは35%で、まだ人絹の会社である。会長の田代茂樹氏は、合成繊維の三本柱のうち残るアクリル系とポリエステル系のどちらを先にするかを決めねばならなかった。アクリル系はデュポンがライセンスを売る意向を持たないと分かり、英ICIのポリエステル系が残った[1][2]

1952年6月、東洋レーヨンはポリエステルを二番目の合成繊維事業として先行させると決めた。研究陣はレーヨンとナイロンに次ぐという意味でこれを「F-Ⅲ」と呼び、工業化研究を本格化させる。しわの回復力に優れ、短繊維を天然繊維やレーヨンと混ぜて紡いでも風合いを損なわない点が、衣料素材としての見どころであった。同年7月、社長の袖山喜久雄氏が欧米の化学繊維事情を視察する途中でICIを訪ね、技術導入の交渉を始めた[3]

同じ扉を叩いていた帝国人造絹絲

交渉は進まなかった。数回にわたって話を重ねても答えは出ず、しかも同じ時期に、国内で競い合う帝国人造絹絲が同じICIに技術提携を申し入れていた。帝人は1918年に設立されたわが国最初の人絹会社で、1955年3月時点の資本金は32億円、人絹糸の生産で全国の25%を占める。ただし事業は人絹・スフとアセテートにとどまり、合成繊維をまだ持たなかった。レーヨンの盟主にとって、ポリエステルは合繊での出遅れを一挙に埋める手であった[4][5]

日本の二社が同じ特許を競って求める構図は、売り手のICIから見れば足元を見る材料になりかねない。田代氏は1953年春、ロータリークラブと国際商工会議所の世界大会に出席する途中でロンドンのICIに立ち寄ったが、このときも話は進まなかった。ライセンスのオファーをようやく取りつけたのは、翌1954年、パリで開かれる第1回国際人造繊維会議に出席する直前のことで、最初の訪問から二年が過ぎていた[6]

決断

「独占の意思は毛頭ない」と競合に伝える

オファーを得た田代氏が次にとった行動は、権利を囲い込む方向ではなかった。パリの大会に出席していた日本の化繊各社の首脳のうち、テリレンに手を出しそうな二、三人に会い、東洋レーヨンには独占の意思が毛頭ないこと、できればライセンスの交渉を自分に任せてほしいことを話して、ほぼ了解を得たと本人が書き残している。結局、二社だけに譲渡するという最終的な線引きはICI側の意向で決まったが、その前に競合へ手の内を開いていた点は動かない[7]

潮目が変わったのは1955年12月8日である。ICIは東レと帝人の両社に対し、両社同資格でライセンスを供与する意思があり、ライセンス料は両社合計、ロイヤルティも両社合算でよいという意思表示を寄せた。従来に比べて緩和された条件であり、これを受けて二社が共同で技術を導入することを基本とする交渉が急速に進んだ。独占を諦める見返りに、導入の負担そのものが二社で分けられる形になっていた[8]

三社三氏の調印と、共通商標「テトロン」

1957年1月、ICIで繊維・プラスチックを担当するアレン取締役が来日した。東洋レーヨンの袖山喜久雄社長、帝人の大屋晋三社長を交えた三社三氏は、2月7日に契約書へ調印する。9日には政府から正式の認可書を得て、これをアレン氏に提示した11日を契約発効日とした。有価証券報告書の沿革も、1957年2月に「英国ICI社とポリエステル繊維の技術提携契約を締結」と記している[9][10]

共同はライセンスにとどまらなかった。1957年4月、東洋レーヨンは帝人と共同で新素材の商標名を公募する。「私に名前をつけて下さい」という広告は大きな反響を呼び、応募は10万通を超えた。審査会は「テトロン」を当選とし、以降、東洋レーヨンは「東レテトロン」、帝人は「帝人テトロン」を名乗って、それぞれに販売促進の広告を打った。競い合う二社が、同じ名前で同じ素材を売る体制がここで整った[11]

結果

三島工場と、混紡でつくった売り場

契約と並行して、東洋レーヨンは静岡県三島市と長泉村(現長泉町)にまたがる用地を選び、33万平方メートルを買収した。1957年5月に建設を始め、短繊維と長繊維の両設備は翌1958年1月に完工する。三島工場は1958年に生産へ入り、わが国で初めてポリエステル繊維の工業生産が始まった。続いて愛媛工場の構内でもポリエステル短繊維工場の建設に着工し、供給の裾野を広げにかかった[12][13]

売り方も新しかった。短繊維は綿紡績や毛紡績に販売し、混紡製品として市場へ浸透させる。長繊維は絹織物産地の機業場や染工場を育てて生産を委託し、品質管理と在庫の危険を自社で負う「チョップ品」として売る道を選んだ。自前の織布設備を持つより合理的で、生産と販売の系列が自然に広がっていく。田代氏は、ナイロンが当初三年間赤字を続けたのに対し、テトロンははじめから好成績をあげたと振り返っている[14][15]

主力の交代と、特許が引いた線

主力の製品はほどなく入れ替わった。ナイロンの売上比率は1957年度に70%でピークを打ち、翌年度からテトロンの量産が加わる。1962年度の売上構成はナイロン52%、テトロン33%となり、レーヨンは8%まで落ちた。1962年のダイヤモンドは「レーヨン撤退戦でも東洋レーヨンが独走[17]」と書いている。テトロンの原料と設備からはフィルムも生まれ、1959年に三島工場の一角で試験生産に入り、翌年3月に「ルミラー」と商標が決まった[16][18]

買った技術には線も引かれていた。1963年、東洋レーヨンは証券アナリスト向けの企業分析の場で、ナイロンもテトロンもデュポン・ICIの特許が成立している国へはフィラメントとステープルを輸出できず、織物や二次製品でしか出られないと説明している。テトロンの生産規模は帝人とともにデュポン・ICIに次ぐ世界第3位に達していたが、その糸を売れる国は特許が決めていた[19][20]

同じ場で会社は、ナイロンもテトロンも導入した技術であるとしたうえで、今後は単純に技術を売ってはくれなくなり、共同経営の合弁会社やクロスライセンスを求められるようになると述べている。そこで自力での技術開発が何よりも重要になったと述べ、1962年9月には鎌倉に30億円を投じて8万坪の基礎研究所を設けた。研究所関係には2,600人が働き、年間40億円の研究費が充てられていた[21][22]

出典・参考

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