東レタイでの合弁2社の設立と、海外現地生産の開始

大口輸出先が輸入代替へ動くとき、輸出で守るか現地で作るか——1963年の合繊進出第1号

時期 1963年3月
意思決定者(推定) 森廣三郎 社長
論点 輸出市場の代替と海外現地生産
概要
1963年3月、東洋レーヨン(現・東レ)が現地資本との合弁でタイ東レ・テクスタイル・ミルズ(TTTM)を設立し、翌1964年4月に操業を始めた経営判断。同じ年に魚網用ナイロンの東レナイロンタイ(TNT)も設立しており、同社にとって初の海外合弁会社はこの2社であった。
背景
国内ではナイロンに新規参入が相次ぎ、増設を積み増す競争が値崩れを呼んでいた。一方、大口輸出先だったタイは国内産業の育成へ動き、1962年に産業投資奨励法を改めて所得税や設備輸入税の免除で外資を招いていた。
内容
資本金6000万バーツの合弁会社を設け、ポリエステルとレーヨンの混紡織物を現地で生産する。ねらいは輸出市場の代替に置かれ、当初は売上の9割以上がタイ国内向けであった。経営陣は日本側から8名を送り込んだ。
含意
作るものをレイヨンと決めてかかった読み違いから立ち上げは長く苦しみ、1989年の日経ビジネスに「苦節25年」と書かれた。それでも東南アジアに残した拠点群は、1980年代後半以降の東レの海外繊維事業を支える土台となった。
筆者の見解

早さと、畳まなかったこと

東レがタイに工場を建てた1963年は、日本の電機や自動車が海外生産へ動く前にあたる。輸出先が輸入代替へ向かったから現地で作る——理屈としては素直だが、当時の日本企業の相場観に照らせば相当に早い。しかもその早さは、作るものをレイヨンと決めてかかった読み違いとして最初の2年で露呈し、後年、別所弘基氏が手を着けたことが大きすぎ早すぎたと反省する結果につながった。早く動くことと正しく動くことは、この件では重ならなかったとみることができる。

ただ、この判断の値打ちは、早さより畳まなかったことにあるとみられる。1984年から1985年ごろの社内には売却して撤退すべきだという声があり、規模が大きく簡単には売れない事情も重なっていた。それでも坂元晃平氏は、東南アジアが繊維産業の基礎になると個人的には信じていたと述べている。累積赤字が資本金の3倍に膨らんだ拠点を持ち続けられたのは、輸出市場を失った先で自ら作るという1963年の理屈を、会社が降ろさなかったからだとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

増設でしか伸びない国内と、輸出で保っていたタイ

東洋レーヨンの主力であるナイロンには、1950年代後半から新規参入が相次いだ。ダイヤモンドは1965年に、"金の卵"ナイロンに新規企業者が続出し、先発の東レ、日レもこれに応戦して増設・増産を行った結果、成績が低下したと書いている。社長の森廣三郎氏も1963年の証券アナリスト協会の講演で、フル操業のため設備の増設をやらないと売上がふえない状態だと説明していた。国内で伸ばす手は増設に限られ、その増設が値崩れを呼んでいた[1][2]

一方、タイは東洋レーヨンにとって大口の輸出先であった。日本国内では合繊の主役を降りかけていたレーヨンが、タイ向け輸出ではなお全盛をほこっていた。そのタイが国内産業の育成へ動き、輸入で満たしてきた需要を現地生産へ置き換える方向を選ぶ。輸出を続けるかぎり、市場そのものが閉じる見通しであった。後年、副社長の坂元晃平氏は、大口輸出先だったタイが国内産業の育成を進めていたのに対応して、輸出市場代替の目的で進出した[4]と説明している[3]

タイ政府が用意した優遇と、送り出す側の事情

受け入れ側の制度も、ちょうど整えられていた。タイ政府は1962年に産業投資奨励法を改め、認可を受けた企業に5年間の所得税免税、技術者への枠外ビザ発行、工場建設用設備と生産設備の輸入税および営業税の免税を認めた。永久ビザは1国200人という枠つきであった。立ち上げに時間のかかる装置産業にとって、最初の5年を無税で走れる条件は小さくない。東レがタイで会社を設立するのは、この改正の翌年にあたる[5]

送り出す側にも理由があった。日経ビジネスは、賃金上昇のカーブが急になっていた日本企業が低賃金のアジアへ進出し始めたころだと書いている。ただし繊維の海外進出は、周到な戦略の産物ばかりではなかった。同誌は繊維産業を、わが国企業進出史で国内の過当競争をそのまま輸出した典型的な例と呼んでいる。国内で決着のつかない競争が、そのまま現地へ持ち込まれる。東レのタイ進出も、その流れの先頭に置かれていた[6]

決断

1963年3月、合繊進出第1号としての合弁2社

1963年3月、東洋レーヨンは現地資本との合弁でタイ東レ・テクスタイル・ミルズ(TTTM)を設立した。資本金は6000万バーツ、経営陣は日本側から8名、主要生産品目はポリエステルとレーヨンの混紡織物で、操業開始は翌1964年4月であった。社長には宇垣一雄氏が就いている。同じ1963年には魚網用ナイロンを手がける東レナイロンタイ(TNT)も設けており、同社にとって初の海外合弁会社は、この2社であった[7][8]

業界のなかでの早さは、後から見ても際立っていた。日経ビジネスは1989年に、東レの繊維部門の東南アジアへの進出は業界の中でも早く、なかでもタイが先鞭をつける格好になっていたと書いている。タイ国投資委員会事務局副長官のスタポーン・カビタノン氏も、東レは繊維産業の中で一番早くタイに進出してきた企業だと述べている。輸出で市場を作った会社が、その輸出先に自ら工場を建てるという順序であった[9][10]

レイヨンと決めてかかった読み違い

ただし、何を作るかの読みは外れた。当時のタイ向け輸出はレイヨンが中心で、輸出に代わる企業進出のねらいも流行のレイヨンと決めてかかっていた。ところが1年たつと流行はレイヨンからポリエステル、アクリルへ移り、TTTMは営業2年度で早くも設備の手直しに追い込まれる。東レ本社は綿密な市場調査を経ていた。それでも外れたところに、この進出の難しさが表れている[11]

誤りの所在は、進出の動機そのものにあった。海外事業部を経てバンコク駐在となった野辺二郎氏は、当時の海外進出のねらいは輸出市場の確保にあり、つまり輸出部的発想の誤りがあったと振り返る。繊維の流行を段階的に追う日本と違い、タイでは一挙に最先端の品目へ需要が動き、繊維産業が白紙の国であるだけに設備も最先端のもので装備できる身軽さがあった。発展途上国市場に共通した性質だと東レの側が理解するまでには、なお時間を要した[12][13]

結果

8年で投下資本を回収した子会社

読み違いを抱えて始まった会社は、それでも数字の上では早く立ち直った。設立から8年たった1971年度、TTTMは売上高1億5000万バーツ、税引後利益1900万バーツ、使用総資本2億9700万バーツとなり、配当率は25%であった。優遇期間の最後にあたる1968年度に20%の初配当を出し、1969年度と1970年度は30%を配っている。日経ビジネスは、本社からみて優等生子会社に育ち、投下資本はほとんど回収したと書いている[14]

タイの一件は、単発の海外投資では終わらなかった。1971年末の時点で日系進出繊維企業27社のうち8社が東レ系列で、同社はバンコクに現地法人8社を束ねる事務所を置いていた。これに先立つ1969年、常務取締役の子安太郎氏は証券アナリスト協会の講演で、海外の合弁会社は約20社あって海外投資利回りは8分近くになっており、開発途上国だけでなく先進国に対しても積極的に進出していきたいと述べている。タイで試した形が、会社の方針へ移っていた[15][16]

「苦節25年」と呼ばれた四半世紀

もっとも、東南アジア全体の収支は長く赤字であった。1974年に東レが出資して経営参加したラッキーテックスは、ベトナム特需の終わりと石油危機で業績が落ち、1982年度には資本金2億バーツの3倍近い5億8000万バーツの累積赤字を抱えた。海外繊維事業部長の別所弘基氏は、これまでに凄まじい赤字を垂れ流してきたと認め、手を着けたことが大きすぎ早すぎたと反省して人員を全体で3割以上削減したと振り返っている[17]

副社長の坂元晃平氏によれば、赤字が膨らんだ1984年から1985年ごろには社内に売却して撤退すべきだという声もあったが、規模が大きく簡単に売るわけにもいかず、東南アジアが繊維産業の基礎になると個人的には信じていたという。ラッキーテックスは1985年度に税引き前利益で黒字へ戻り、1987年7月に累積赤字を一掃、1989年2月末にタイ証券取引所へ株式を上場する。日経ビジネスがこの回復に付けた見出しは「苦節25年ようやく収穫期に」であった[18][19]

輸出市場の代替から、世界向けの生産基地へ

別所弘基氏は1989年に、10年以上前に投資してきた成果が実って今は収穫期に入ったと語った。東南アジア3国とイタリア、香港にある海外繊維部門12社15工場の売上高は同年3月期で約650億円、純利益で約110億円に達する見通しであった。事業の性格も1963年の当初とは変わっている。坂元晃平副社長は、1972年にラッキーテックスへ資本参加した時から、海外進出の考え方が全量輸出するための生産・加工基地へ変わったと述べている[20][21]

1998年の週刊東洋経済は、東レを世界最大のテキスタイル企業と記し、スーツ裏地などに使う生地「タフタ」やワイシャツ用の「ブロード」で世界シェア25%超を占めると伝えている。紡績から染色加工までを海外で子会社に持つ構えは他の合繊メーカーになく、繊維全体ではデュポンに次ぐ世界2位であった。同誌は東レの従業員の言葉として、国際事業のやり方・経験ではソニーやホンダにも負けないのに株式市場での評価は雲泥の差だという声も載せている[22][23]

出典・参考

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