旭化成 の歴史

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創業 1931年
創業者 野口遵
創業地 宮崎県延岡市
創業
1923年9月、日本窒素肥料の野口遵氏が宮崎県延岡にカザレー式アンモニア合成工場を設け、五ヶ瀬川の水力発電で得た安価な電力で硫安を量産した。同じアンモニアと電力から、1922年設立の旭絹織の人絹と火薬が派生している。1931年5月に資本金1,000万円で延岡アンモニア絹絲を設立し、旭化成はここに法的な起点を置く。1933年7月に日本ベンベルグ絹絲・旭絹織と合併して旭ベンベルグ絹絲、1943年に日本窒素火薬を吸収して日窒化学工業となり、1946年4月に日窒コンツェルンから分離独立して旭化成工業へ商号を改めた
決断
赤字を出す事業を持ったまま、次の事業を建て続けた。1961年に宮崎輝氏が社長へ就任し、繊維の合理化で確保した利益で新規事業の赤字を許す方針を掲げた。1968年7月には当時の売上高に匹敵する約1,000億円を水島の石油化学へ投じた。1972年にはALC建材のヘーベルを戸建てブランドへ仕立て、1980年からは原子力・電子・医薬へ広げている。ところが宮崎輝氏の急逝後、1993年に路線は反転し、食品・酒類を売却して選択と集中へ移った。31年の拡張と、それに続く収縮とが、現在の3事業を残した。
現況
売上で最大のマテリアルが、利益では3事業の最下位にある。2026年3月期の連結売上高3兆745億円のうちマテリアルは1兆3,062億円を占めるが、187億円の減損損失を計上してセグメント利益は683億円にとどまった。1972年に始めた住宅は売上1兆774億円で利益998億円、2012年の米ZOLL Medical Corporationの22.1億ドルでの買収を起点とするヘルスケアは売上6,641億円で利益835億円と、いずれもマテリアルを上回る。化学で得た資金を住宅と医療へ移した60年が、そのまま利益の並びに出ている。
競合
素材から住宅へ出た化学会社は2社あり、戸建てを自ら売ったのは旭化成だけである。積水化学工業が1971年にセキスイハイムをユニット工法で商品化したのに対し、旭化成は1972年にALCのヘーベルを戸建てブランドへ仕立て、直営の営業と長期保証で都市部の建て替え需要を取った。素材側では2016年に水島製造所のエチレンセンターを停止し、2024年11月にはタイのPTT Asahi Chemicalからの撤退を決めている。汎用品で競う領域を減らしながら住宅と医療の比率を上げたことが、化学会社としては例のない利益構成を作った。

創業ストーリー 日本窒素コンツェルンからの独立と延岡アンモニアを起点とする多角化の原型 (1923年〜)

アンモニアから肥料・繊維・火薬が派生する戦前の事業構造

初代社長の野口遵氏は、大正10年にイタリア人ルイギ・カザレー[1]の発明にかかるアンモニア合成法の特許を買収するため渡欧し[2]、1923年9月、日本窒素肥料は宮崎県延岡に硫安工場を建設してカザレー式アンモニア合成法による硫安の製造を始めた。自家用水力発電所の電力で水を電解して得る水素と空気中から分離した窒素[3]を直接合成する方式で、カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた歴史的実験であった。五ヶ瀬川の水力発電で得られる安定した電力供給が立地選定の決め手となり、1927年には硫安の年産が6万トンの水準に達し、国内最大級の硫安製造拠点へ成長した。野口氏はこの渡欧の際に人絹の将来性も見とおし、ドイツのグランツ・シュトッフ[4]社よりビスコースレーヨン糸製造法を導入して、1922年には旭絹織を設立し、1924年には大津に工場を完成して操業を始めた。[5]肥料と繊維を同時に立ち上げる経営構想を創業期から実行に移し、化学工業は水力電源の近くに展開するという立地論理が、延岡を旭化成の発祥の地に定めた背景にある。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]初代社長は野口遵氏。大正10年カザレー式特許買収のため渡欧(明治百年「これより先、大正一〇年野口遵氏がカザレー式特許買収のためヨーロッパに赴いた」)
    • [2]イタリア人ルイギ・カザレー発明のカザレー式アンモニア合成法の特許を買収(明治百年「イタリア人ルイギ・カザレーの発明にかかるカザレー式アンモニア合成法の特許を買収し」)
    • [3]自家用水力発電所の電力で水を電解して得る水素と空気中から分離した窒素を直接合成。カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた(明治百年「これは自家用水力発電所の電力を利用し、水を電解して得られる水素と空気中から分離する窒素を直接合成するもので、カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた歴史的実験であった」)
    • [4]渡欧時に人絹の将来性を見とおし、ドイツのグランツ・シュトッフ社よりビスコースレーヨン糸製造法を導入(明治百年「人絹の将来性を見とおし、ドイツのグランツ・シュトッフ社よりビスコースレーヨン糸製造法を導入」)
    • [5]大正13年(1924年)に大津工場を完成し操業開始(明治百年「同一三年には大津に工場を完成し操業を始めた」)

野口氏はアンモニアの高度利用の立場からキュプラ糸ベンベルグに着眼し、1929年にはドイツ[6]のベンベルグ社より技術を導入して日本ベンベルグ絹糸を設立した[7]。アンモニアの利用は合成硝酸から火薬工業への進出にも及び[8]、1930年には日本窒素火薬を設立している。1931年には延岡アンモニア絹糸を設立し[9]、この1931年が旭化成の公式な設立年である。1933年には延岡アンモニア絹糸が日本ベンベルグ絹糸と旭絹織の二社を合併[10]して旭ベンベルグ絹糸となり、1943年には日本窒素火薬を吸収合併して日窒化学工業が発足した。[11]アンモニアという一つの化学技術から肥料・化学繊維・火薬という複数の事業が派生し、一つの原料と技術を基盤に多様な事業を並べる構造は、戦前期にすでに形を整えていた。後年の旭化成の多角化経営は、この戦前の事業配置を引き継いでいる。技術と電力を中核資源として複数事業を派生させる発想は、創業者の野口遵氏の経営思想そのものだった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [6]キュプラ糸ベンベルグの技術はドイツのベンベルグ社より導入(明治百年「昭和四年ドイツベンベルグ社より技術を導入し日本ベンベルグ絹絲を設立」)
    • [8]1930年(昭和5年)日本窒素火薬を設立(明治百年「アンモニア利用は、さらに合成硝酸から火薬工業への進出となり、昭和五年日本窒素火薬を設立した」)
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [7]1929年4月 日本ベンベルグ絹絲株式会社(キュプラ繊維「ベンベルグ」を製造・販売)設立。明治百年は「昭和四年ドイツベンベルグ社より技術を導入し日本ベンベルグ絹絲を設立」と記す
    • [9]1931年5月21日 延岡アンモニア絹絲株式会社を設立(資本金1,000万円・現旭化成が法的連続性をもつ起点=公式設立)。明治百年も「昭和六年五月二一日延岡アンモニア(株)(これが同社の設立年月日である)」と記す
    • [10]1933年7月 延岡アンモニア絹絲が日本ベンベルグ絹絲・旭絹織を合併し旭ベンベルグ絹絲と改称(三社合併)。明治百年も「昭和八年日本ベンベルグ絹糸と旭絹織の二社を合併し旭ベンベルグ絹絲(株)となった」と記す
    • [11]1943年4月の合併後の社名は「日窒化学工業株式会社」(有報【沿革】「社名を日窒化学工業株式会社と改称」・系譜図も「日窒化学工業」・明治百年も「社名を日窒化学工業(株)と改めた」)。本文の「日本窒素化学工業」は一次資料の社名表記と不一致
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]初代社長は野口遵氏。大正10年カザレー式特許買収のため渡欧(明治百年「これより先、大正一〇年野口遵氏がカザレー式特許買収のためヨーロッパに赴いた」)
    • [2]イタリア人ルイギ・カザレー発明のカザレー式アンモニア合成法の特許を買収(明治百年「イタリア人ルイギ・カザレーの発明にかかるカザレー式アンモニア合成法の特許を買収し」)
    • [3]自家用水力発電所の電力で水を電解して得る水素と空気中から分離した窒素を直接合成。カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた(明治百年「これは自家用水力発電所の電力を利用し、水を電解して得られる水素と空気中から分離する窒素を直接合成するもので、カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた歴史的実験であった」)
    • [4]渡欧時に人絹の将来性を見とおし、ドイツのグランツ・シュトッフ社よりビスコースレーヨン糸製造法を導入(明治百年「人絹の将来性を見とおし、ドイツのグランツ・シュトッフ社よりビスコースレーヨン糸製造法を導入」)
    • [5]大正13年(1924年)に大津工場を完成し操業開始(明治百年「同一三年には大津に工場を完成し操業を始めた」)
    • [6]キュプラ糸ベンベルグの技術はドイツのベンベルグ社より導入(明治百年「昭和四年ドイツベンベルグ社より技術を導入し日本ベンベルグ絹絲を設立」)
    • [8]1930年(昭和5年)日本窒素火薬を設立(明治百年「アンモニア利用は、さらに合成硝酸から火薬工業への進出となり、昭和五年日本窒素火薬を設立した」)
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [7]1929年4月 日本ベンベルグ絹絲株式会社(キュプラ繊維「ベンベルグ」を製造・販売)設立。明治百年は「昭和四年ドイツベンベルグ社より技術を導入し日本ベンベルグ絹絲を設立」と記す
    • [9]1931年5月21日 延岡アンモニア絹絲株式会社を設立(資本金1,000万円・現旭化成が法的連続性をもつ起点=公式設立)。明治百年も「昭和六年五月二一日延岡アンモニア(株)(これが同社の設立年月日である)」と記す
    • [10]1933年7月 延岡アンモニア絹絲が日本ベンベルグ絹絲・旭絹織を合併し旭ベンベルグ絹絲と改称(三社合併)。明治百年も「昭和八年日本ベンベルグ絹糸と旭絹織の二社を合併し旭ベンベルグ絹絲(株)となった」と記す
    • [11]1943年4月の合併後の社名は「日窒化学工業株式会社」(有報【沿革】「社名を日窒化学工業株式会社と改称」・系譜図も「日窒化学工業」・明治百年も「社名を日窒化学工業(株)と改めた」)。本文の「日本窒素化学工業」は一次資料の社名表記と不一致

水俣を免れた巡り合わせと繊維頼みの限界

1945年の終戦後、GHQの財閥解体政策により日本窒素コンツェルンは複数の会社へ分割された。延岡の繊維・火薬事業を担っていた日窒化学工業は日本窒素本体から分離され[12]、1946年4月に財閥解体の趣旨にそって旭化成工業[13]という新商号で独立した。独立後は制限会社の指定、過度経済力集中排除法の適用、賠償指定、公職追放令による首脳部の交替といった試練[14]が続いたが、再建計画を進めて1949年には各部門の復元をほぼ完了した。水俣の工場はチッソへ引き継がれ、旭化成は後の水俣病の賠償問題を結果的に免れた。独立後も延岡は事業運営の中心地であり続け、1977年時点で延岡の社員数は7413名に達したと社史に記録がある。戦前の日窒系3工場のうち、水俣は戦後のチッソ、延岡は旭化成というかたちで分岐し、それぞれの戦後史を決定づけた。創業地への経営資源の集中は戦後も長期にわたり続き、旭化成という企業の組織文化を規定する特徴となった。

  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [12]改称前の社名は「日窒化学工業株式会社」(有報【沿革】1946.4「日窒化学工業株式会社は、社名を旭化成工業株式会社と改称」)。本文の「日本窒素化学工業」は一次資料の社名表記と不一致
    • [13]1946年4月 財閥解体の趣旨にそい社名を旭化成工業株式会社と改称(明治百年「戦後昭和二一年四月には財閥解体の趣旨にそい、社名を現在の旭化成工業(株)と改称し」・有報【沿革】1946.4 とも一致)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [14]戦後の試練(制限会社の指定・過度経済力集中排除法の適用・賠償指定・公職追放令による首脳部の交替)と1949年の各部門復元ほぼ完了(明治百年「制限会社の指定、過度経済力集中排除法の適用、賠償指定、公職追放令による同社首脳部の交替など多くの試練が続いたが、この再建計画は強力に進められ、昭和二四年には各部門の復元をほぼ完了した」)

1961年5月、合繊業界の状況は『供給過剰の恐れ・合繊業界・増設競争一段と激化』[引用元]として紙面に取り上げられた。ポリエステルの普及でレーヨン・ベンベルグの競争力は落ち、新規に立ち上げたアクリル繊維『カシミロン』でも大量の不良在庫が発生した[15]。売上高純利益率は1957年好調期の8.0%から1961年にはわずか1.3%まで下がり、社員の一時帰休を決める水準に追い込まれた。宮崎輝氏は後年、『私が社長になった1961年ごろから、ポリエステルなどの合成繊維が本格的に市場に出てきた。それをみて、レーヨンやベンベルクの化繊だけに頼っていたら、うちはやがてダメになると思ったんです』[引用元]と振り返る。[16]この繊維不況が宮崎氏の社長就任と多角化推進のきっかけとなった。

  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [15]アクリル繊維「カシミロン」は自社製品(1959年5月「カシミロン」本格製造開始)。明治百年は「昭和三〇年にはアクリル繊維に関し独自のすぐれた技術を確立し、商標名を『カシミロン』と命名し企業化、昭和三三年秋より市販を開始」と記し、テストプラントを延岡で完成後ただちに富士地区で本格工業生産に入ったとする
  • ダイヤモンド(1964年6月29日)
    • [16]宮崎輝氏のダイヤモンド1964年6月29日号での述懐
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [12]改称前の社名は「日窒化学工業株式会社」(有報【沿革】1946.4「日窒化学工業株式会社は、社名を旭化成工業株式会社と改称」)。本文の「日本窒素化学工業」は一次資料の社名表記と不一致
    • [13]1946年4月 財閥解体の趣旨にそい社名を旭化成工業株式会社と改称(明治百年「戦後昭和二一年四月には財閥解体の趣旨にそい、社名を現在の旭化成工業(株)と改称し」・有報【沿革】1946.4 とも一致)
    • [15]アクリル繊維「カシミロン」は自社製品(1959年5月「カシミロン」本格製造開始)。明治百年は「昭和三〇年にはアクリル繊維に関し独自のすぐれた技術を確立し、商標名を『カシミロン』と命名し企業化、昭和三三年秋より市販を開始」と記し、テストプラントを延岡で完成後ただちに富士地区で本格工業生産に入ったとする
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [14]戦後の試練(制限会社の指定・過度経済力集中排除法の適用・賠償指定・公職追放令による首脳部の交替)と1949年の各部門復元ほぼ完了(明治百年「制限会社の指定、過度経済力集中排除法の適用、賠償指定、公職追放令による同社首脳部の交替など多くの試練が続いたが、この再建計画は強力に進められ、昭和二四年には各部門の復元をほぼ完了した」)
  • ダイヤモンド(1964年6月29日)
    • [16]宮崎輝氏のダイヤモンド1964年6月29日号での述懐

売上に匹敵する1000億円を賭けた社運の一手

1961年に社長に就任した宮崎輝氏は、繊維不況下の取締役構成を刷新し、副社長と専務を同時に降格させる人事を断行して経営体制の若返りを図った。宮崎氏は当時を「繊維だけじゃ、とても食っていけんぞ、と。まあ旭化成は50年の歴史がありますが、先輩の遺産に安住して繁栄を謳歌した時代が長かった。配当は2割5分で株価が460円ぐらいしていた時代です。その時分からわたしは新しいことをやるべしと、しょっちゅう考えていましたよ」(ダイヤモンド 1964/6/29)と述懐している。[17]繊維事業の合理化で年間約70億円の安定利益を確保し、その範囲内で新規事業の赤字を許容する『健全な赤字部門』の経営方針を築いた。1968年7月には山陽石油化学を設立し[18]、当時の旭化成の売上高に匹敵する約1000億円を投じて水島コンビナートの建設に踏み切り、社運を賭ける経営判断を下した。

  • ダイヤモンド(1964年6月29日)
    • [17]宮崎氏のダイヤモンド1964年6月29日号での発言
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [18]1968年7月 山陽石油化学株式会社設立・水島地区で石油化学事業へ本格進出

石油化学事業への参入の前提には、合弁会社の旭ダウを通[19]じた樹脂事業の顧客基盤の先行構築があった。旭ダウは1969年時点でポリスチレン樹脂の国内シェア約40%を確保し、家電メーカーとの共同開発を通じて高収益を維持した。1982年には米ダウ・ケミカルとの合弁関係を解消し[20]、約420億円を投じて旭ダウを完全子会社化する決断を下し、原料から製品までの一貫した生産体制を築いた。宮崎氏は事業選択の要諦として『企業で大事なことは何を選ぶかということです。これで勝負がつきます。しかしその選ぶときはやはり将来性のあるものでなければならぬ。また、自分の実力の範囲でなければならぬ』[引用元]と語っている。[21]繊維以外の事業基盤を積み上げ、経営の軸を多角的な産業構造へ移す宮崎氏の経営手腕が、投資の成功を支える土台となった。

  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [19]旭ダウは1952年7月に米国ダウ・ケミカル社と合弁で設立(合成樹脂事業へ進出)
    • [20]1982年に旭ダウとの合弁関係を解消(有報【沿革】は1982年10月「旭ダウ株式会社を合併、合成樹脂事業を強化」と記載。系譜図も1982「旭化成が吸収合併」)
  • 化繊月報(1967年3月)
    • [21]宮崎氏の化繊月報1967年3月号での発言
  • ダイヤモンド(1964年6月29日)
    • [17]宮崎氏のダイヤモンド1964年6月29日号での発言
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [18]1968年7月 山陽石油化学株式会社設立・水島地区で石油化学事業へ本格進出
    • [19]旭ダウは1952年7月に米国ダウ・ケミカル社と合弁で設立(合成樹脂事業へ進出)
    • [20]1982年に旭ダウとの合弁関係を解消(有報【沿革】は1982年10月「旭ダウ株式会社を合併、合成樹脂事業を強化」と記載。系譜図も1982「旭化成が吸収合併」)
  • 化繊月報(1967年3月)
    • [21]宮崎氏の化繊月報1967年3月号での発言

ソ連技術の失敗から住宅・医療機器へ転換した実行速度

宮崎氏は1967年の取材で『日本で一番足らぬのは住ですな。衣食足りて礼節を知るといいますが、もう一つ住が足りませんな。日本は絶対に』[引用元]『私は壁、屋根、床、そのものずばりをつくる軽いコンクリートをつくる時代に入っていくと思います。これは将来のタネですよ。必ずこうなるのです』[引用元]と述べ、住宅・建材を次の柱に据える意思を明示していた。[22]住宅事業は1962年のソ連技術導入の失敗から出発した。ソ連から輸入したシリカリチートは建材として実用性に乏しい欠陥が判明し、累積赤字30億円を計上した。1965年にはドイツのALC技術へ切り替え、1967年には主力製品となる軽量気泡コンクリート『ヘーベル』の生産を開始した[23]。失敗から学び技術を素早く入れ替える経営手法が、住宅事業の立ち上げ期にはっきり表れた。

  • 化繊月報(1967年3月)
    • [22]宮崎氏の化繊月報1967年3月号での住宅・建材発言
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [23]1967年8月 軽量気泡コンクリート(ALC)「へーベル」を製造開始・建材事業へ本格進出

1972年には代理店方式を廃止して直販体制へ移行し、1974年には宮崎氏の秘書を長年務めた山口信夫氏が住宅事業部長に就任した。山口氏の就任以後の3年間で住宅事業の売上高は70億円から370億円へ約5倍に拡大した。首都圏の高級住宅市場に集中する高付加価値戦略を徹底した経営判断が、市場から評価された。医療機器事業は1974年に旭メディカル(現・旭化成メディカル)を設立し[24]、ベンベルグ繊維の研究過程で得た中空糸技術を人工腎臓のフィルター材に転用した[25]。参入から3年で黒字化を達成し、1982年には人工腎臓の国内シェア約30%で業界首位となった。1977年の合繊中間決算では旭化成を除く大手6社が経常赤字へ転落し、旭化成だけが32億5400万円の経常利益を計上した。『非繊維部門の売り上げが53%で、『合繊メーカー』というより、同社自身が『化学メーカー』を自認している』[引用元]との評価が定着した。

  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [24]1974年7月設立時の社名は「旭メディカル株式会社」(現・旭化成メディカル株式会社)。本文の「1974年に旭化成メディカルを設立」は設立時社名と不一致(timeline も「旭メディカルを設立」)
    • [25]1974年7月 人工腎臓を生産開始し医療機器事業へ進出
  • 化繊月報(1967年3月)
    • [22]宮崎氏の化繊月報1967年3月号での住宅・建材発言
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [23]1967年8月 軽量気泡コンクリート(ALC)「へーベル」を製造開始・建材事業へ本格進出
    • [24]1974年7月設立時の社名は「旭メディカル株式会社」(現・旭化成メディカル株式会社)。本文の「1974年に旭化成メディカルを設立」は設立時社名と不一致(timeline も「旭メディカルを設立」)
    • [25]1974年7月 人工腎臓を生産開始し医療機器事業へ進出

31年の拡張が急逝で30年の収縮へ反転する節目

宮崎輝氏は1961年から1992年までの31年間、代表取締役として旭化成の経営中枢に座り続けた。在任期間は戦後の日本化学産業でも指折りの長さだった。宮崎氏は信頼する人物に新規事業を任せる手法を採り、建材事業には黒田義久氏、住宅事業には山口信夫氏、東洋醸造には小川三男氏を配置した。東洋醸造で小川氏は酒類から医薬品への業態転換を主導し、売上高の50%を医薬品へ振り替えた。1992年1月には旭化成が東洋醸造を合併し、医薬品[26]の事業基盤を取り込んだ。宮崎氏は1983年の日経新聞『私の履歴書』連載の末尾に『これで継続できる』(日経新聞『私の履歴書』1983/12)[27]と記し、後継に引き継ぐべき事業群が揃ったとの認識を示していた。

  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [26]1992年1月 東洋醸造株式会社と合併(医薬・医療事業を強化、酒類事業へ進出)
  • 日本経済新聞「私の履歴書」(1983年12月)
    • [27]宮崎氏の日経新聞「私の履歴書」(1983年12月)の結語「これで継続できる」

宮崎氏の多角化経営は旭化成に繊維・石油化学・住宅・建材・医療機器・医薬品・食品・酒類[28]という8領域の事業基盤を残した。ただし撤退判断には消極的で、全社利益率の低さが後年の課題として残った。1992年4月に宮崎氏が出張先で急逝した直後、後任の弓倉礼一社長は経営資源の分散により効率が落ちているとの認識を示し、路線転換を表明した。拡大路線の限界は社内でもすでに広く認識されていたが、宮崎氏という存在そのものが方針転換を長期にわたり阻んでいた。31年の拡張から30年の収縮へ反転する節目だった。宮崎時代に仕込まれた事業群の大半は、その後の30年間で売却・停止の対象となり、残った柱だけが次の時代の収益基盤へ引き継がれた。

  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [28]繊維・石油化学・住宅・建材・医療機器・医薬品・食品・酒類の各事業への進出は有報【沿革】の各年記載(1935食品・1952合成樹脂・1967建材・1968石油化学・1972住宅・1974医療機器・1992医薬/酒類)と整合
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [26]1992年1月 東洋醸造株式会社と合併(医薬・医療事業を強化、酒類事業へ進出)
    • [28]繊維・石油化学・住宅・建材・医療機器・医薬品・食品・酒類の各事業への進出は有報【沿革】の各年記載(1935食品・1952合成樹脂・1967建材・1968石油化学・1972住宅・1974医療機器・1992医薬/酒類)と整合
  • 日本経済新聞「私の履歴書」(1983年12月)
    • [27]宮崎氏の日経新聞「私の履歴書」(1983年12月)の結語「これで継続できる」

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旭化成の沿革1922〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
旭絹織を設立
1923〜1961年日本窒素コンツェルンからの独立と延岡アンモニアを起点とする多角化の原型日本窒素が延岡工場を新設
延岡アンモニア絹絲を設立
食品事業に参入(グルタミン酸ソーダ)
日窒化学工業を発足(旭ベンベルグ絹糸と日本窒素火薬が合併)
日窒コンツェルンからの分離独立と旭化成工業への商号変更

1946年4月、日窒化学工業は財閥解体の趣旨にそって社名を旭化成工業と改め、日本窒素肥料を頂点とする日窒コンツェルンから切り離された。延岡に集まっていた繊維・火薬・化学品の事業を一社で抱えたまま、独立した会社として戦後を歩み始めた経営判断。

詳細を読む
★★★
片岡武修東京証券取引所に株式上場
片岡武修旭ダウを合弁で設立
片岡武修合成樹脂に参入
片岡武修事業部制を採用・多角化を本格化
片岡武修アクリル繊維「カシミロン」の製造開始
片岡武修「サランラップ」の製造開始
宮崎輝宮崎輝氏の社長就任と「健全な赤字部門」を柱とする多角化路線の始動

1961年、繊維不況とアクリル繊維『カシミロン』の採算悪化で収益が急落するなか、宮崎輝氏が旭化成工業の社長に就任し、繊維事業の利益の範囲内で新規事業の赤字を計画的に許容する『健全な赤字部門』の経営方針を掲げた経営判断。

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宮崎輝希望退職者を募集
1962〜1992年宮崎輝氏による1000億円石油化学投資と健全な赤字部門の経営哲学宮崎輝ALC「へーベル」の製造を開始★★
宮崎輝売上高に匹敵する1000億円を投じた水島の石油化学コンビナート建設

1960年代後半、旭化成工業の宮崎輝社長が、当時の売上高に匹敵する1000億円近い投資を伴う石油化学コンビナートの建設に踏み切り、岡山県水島地区でエチレンセンターの建設に着手した経営判断。リスクが大きすぎるという社内の反対論を常務会と全工場行脚で説き伏せ、通商産業省の指導を受けて競合の三菱化成工業との輪番制共同投資へ計画を組み替えて実現させた。

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宮崎輝山陽エチレンが年産35万トンのエチレンセンターを完成
宮崎輝ALC建材「ヘーベル」を戸建てブランドに仕立てた住宅事業参入

1972年9月、旭化成工業が軽量気泡コンクリート(ALC)『ヘーベル』を構造材とする戸建て住宅『ヘーベルハウス』の本格展開に踏み切り、同年11月に旭化成ホームズを設立して住宅産業へ参入した経営判断。宮崎輝社長が進めた多角化のなかでも、化学の技術系譜から外れた『飛び地』への参入であった。

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宮崎輝旭メディカルを設立・医療機器に参入★★
宮崎輝宮崎電子を設立しホール素子事業へ参入★★
宮崎輝「油漬け」体質の脱皮へ原子力・電子・医薬に賭けた第二次多角化

二度の石油危機で石油化学と合繊が『油漬け』の重荷に変わった1980年前後、宮崎輝社長がウラン濃縮・原子力発電から電子材料・医薬まで、脱石油の新規事業群へ相次いで投資する方針を打ち出した経営判断。繊維依存からの脱皮を果たした第一次多角化に続く、第二次の事業入れ替えであった。

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宮崎輝旭マイクロシステムを設立・半導体に参入
世古真臣吉野彰氏によるリチウムイオン電池の基本構造確立と特許戦略

旭化成の研究員だった吉野彰氏が、負極に炭素材料を用いるリチウムイオン電池の基本構造を確立して1985年から86年にかけて特許を出願し、2019年にノーベル化学賞を受賞するに至った研究開発と特許戦略。

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弓倉礼一東洋醸造と合併★★
1993〜2023年選択と集中からヘルスケアM&Aへの大転換と60年サイクルの帰結山本一元「拡大」路線からの転換と食品・酒類事業の売却

1992年、31年間旭化成を率いた宮崎輝氏が急逝したことを契機に、後任の弓倉礼一氏、続く山本一元氏の経営陣は『拡大』路線からの転換に着手した。部門別バランスシートの導入とROE経営への転換を通じて非中核事業の整理を進め、1999年から2003年にかけて食品・酒類事業を段階的に売却した。

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山本一元商号を旭化成に変更
山本一元焼酎・低アルコール飲料事業を譲渡★★
蛭田史郎持株会社制に移行
藤原健嗣米ZOLL Medical Corporationの22.1億ドルでの買収とクリティカルケア事業への参入

2012年3月12日、旭化成が米国の救命救急医療機器大手ZOLL Medical Corporationを、米国子会社の下に設立した買収目的子会社による株式公開買付けと現金対価の合併により、1株93米ドル・総額約22.1億米ドルで買収すると発表した経営判断。藤原健嗣社長のもと、医薬と医療機器に次ぐ第3の領域としてクリティカルケア(救命救急医療)に参入した。

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浅野敏雄Polyporeを買収(セパレーター)
浅野敏雄子会社・旭化成建材の杭打ちデータ偽装と全国自主調査による開示

2014年11月、横浜市のマンション『パークシティLaLa横浜』で住民が建物の傾きに気づいたことを発端に、子会社・旭化成建材による杭打ち工事データの改ざんが発覚した。旭化成グループは過去10年に手掛けた3000件超の杭工事を自ら全件調査し、結果を公表する道を選んだ。

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浅野敏雄水島の自社エチレンセンターの停止と、西日本3社によるエチレン集約への参加

2010年5月31日、旭化成が岡山県倉敷市の水島地区で三菱化学とエチレンセンターを統合する共同出資会社の設立に基本合意し、2014年2月には2基を三菱設備1基へ集約して自社設備を廃棄することで合意した経営判断。1972年に自社で完成させた分解炉は2016年2月に停止し、2026年には三井化学・三菱ケミカルとの西日本3社集約で出資比率10%の位置へ退いた。

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小堀秀毅Sage Automotiveを買収
小堀秀毅Veloxis medicalsを買収
工藤幸四郎Forcus関連5社を買収(住宅)
工藤幸四郎非注力事業を売却
工藤幸四郎スウェーデンCalliditas Therapeuticsを買収★★
出典・参考
  • 旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • ダイヤモンド(1964年6月29日)
  • 日本経済新聞「私の履歴書」(1983年12月)
  • 化繊月報(1967年3月)

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