初代社長の野口遵氏は、大正10年にイタリア人ルイギ・カザレー[1]の発明にかかるアンモニア合成法の特許を買収するため渡欧し[2]、1923年9月、日本窒素肥料は宮崎県延岡に硫安工場を建設してカザレー式アンモニア合成法による硫安の製造を始めた。自家用水力発電所の電力で水を電解して得る水素と空気中から分離した窒素[3]を直接合成する方式で、カザレー法の最初の工業化として世界の注目をあびた歴史的実験であった。五ヶ瀬川の水力発電で得られる安定した電力供給が立地選定の決め手となり、1927年には硫安の年産が6万トンの水準に達し、国内最大級の硫安製造拠点へ成長した。野口氏はこの渡欧の際に人絹の将来性も見とおし、ドイツのグランツ・シュトッフ[4]社よりビスコースレーヨン糸製造法を導入して、1922年には旭絹織を設立し、1924年には大津に工場を完成して操業を始めた。[5]肥料と繊維を同時に立ち上げる経営構想を創業期から実行に移し、化学工業は水力電源の近くに展開するという立地論理が、延岡を旭化成の発祥の地に定めた背景にある。
野口氏はアンモニアの高度利用の立場からキュプラ糸ベンベルグに着眼し、1929年にはドイツ[6]のベンベルグ社より技術を導入して日本ベンベルグ絹糸を設立した[7]。アンモニアの利用は合成硝酸から火薬工業への進出にも及び[8]、1930年には日本窒素火薬を設立している。1931年には延岡アンモニア絹糸を設立し[9]、この1931年が旭化成の公式な設立年である。1933年には延岡アンモニア絹糸が日本ベンベルグ絹糸と旭絹織の二社を合併[10]して旭ベンベルグ絹糸となり、1943年には日本窒素火薬を吸収合併して日窒化学工業が発足した。[11]アンモニアという一つの化学技術から肥料・化学繊維・火薬という複数の事業が派生し、一つの原料と技術を基盤に多様な事業を並べる構造は、戦前期にすでに形を整えていた。後年の旭化成の多角化経営は、この戦前の事業配置を引き継いでいる。技術と電力を中核資源として複数事業を派生させる発想は、創業者の野口遵氏の経営思想そのものだった。
1945年の終戦後、GHQの財閥解体政策により日本窒素コンツェルンは複数の会社へ分割された。延岡の繊維・火薬事業を担っていた日窒化学工業は日本窒素本体から分離され[12]、1946年4月に財閥解体の趣旨にそって旭化成工業[13]という新商号で独立した。独立後は制限会社の指定、過度経済力集中排除法の適用、賠償指定、公職追放令による首脳部の交替といった試練[14]が続いたが、再建計画を進めて1949年には各部門の復元をほぼ完了した。水俣の工場はチッソへ引き継がれ、旭化成は後の水俣病の賠償問題を結果的に免れた。独立後も延岡は事業運営の中心地であり続け、1977年時点で延岡の社員数は7413名に達したと社史に記録がある。戦前の日窒系3工場のうち、水俣は戦後のチッソ、延岡は旭化成というかたちで分岐し、それぞれの戦後史を決定づけた。創業地への経営資源の集中は戦後も長期にわたり続き、旭化成という企業の組織文化を規定する特徴となった。
1961年5月、合繊業界の状況は『供給過剰の恐れ・合繊業界・増設競争一段と激化』[引用元]として紙面に取り上げられた。ポリエステルの普及でレーヨン・ベンベルグの競争力は落ち、新規に立ち上げたアクリル繊維『カシミロン』でも大量の不良在庫が発生した[15]。売上高純利益率は1957年好調期の8.0%から1961年にはわずか1.3%まで下がり、社員の一時帰休を決める水準に追い込まれた。宮崎輝氏は後年、『私が社長になった1961年ごろから、ポリエステルなどの合成繊維が本格的に市場に出てきた。それをみて、レーヨンやベンベルクの化繊だけに頼っていたら、うちはやがてダメになると思ったんです』[引用元]と振り返る。[16]この繊維不況が宮崎氏の社長就任と多角化推進のきっかけとなった。
1961年に社長に就任した宮崎輝氏は、繊維不況下の取締役構成を刷新し、副社長と専務を同時に降格させる人事を断行して経営体制の若返りを図った。宮崎氏は当時を「繊維だけじゃ、とても食っていけんぞ、と。まあ旭化成は50年の歴史がありますが、先輩の遺産に安住して繁栄を謳歌した時代が長かった。配当は2割5分で株価が460円ぐらいしていた時代です。その時分からわたしは新しいことをやるべしと、しょっちゅう考えていましたよ」(ダイヤモンド 1964/6/29)と述懐している。[17]繊維事業の合理化で年間約70億円の安定利益を確保し、その範囲内で新規事業の赤字を許容する『健全な赤字部門』の経営方針を築いた。1968年7月には山陽石油化学を設立し[18]、当時の旭化成の売上高に匹敵する約1000億円を投じて水島コンビナートの建設に踏み切り、社運を賭ける経営判断を下した。
石油化学事業への参入の前提には、合弁会社の旭ダウを通[19]じた樹脂事業の顧客基盤の先行構築があった。旭ダウは1969年時点でポリスチレン樹脂の国内シェア約40%を確保し、家電メーカーとの共同開発を通じて高収益を維持した。1982年には米ダウ・ケミカルとの合弁関係を解消し[20]、約420億円を投じて旭ダウを完全子会社化する決断を下し、原料から製品までの一貫した生産体制を築いた。宮崎氏は事業選択の要諦として『企業で大事なことは何を選ぶかということです。これで勝負がつきます。しかしその選ぶときはやはり将来性のあるものでなければならぬ。また、自分の実力の範囲でなければならぬ』[引用元]と語っている。[21]繊維以外の事業基盤を積み上げ、経営の軸を多角的な産業構造へ移す宮崎氏の経営手腕が、投資の成功を支える土台となった。
宮崎氏は1967年の取材で『日本で一番足らぬのは住ですな。衣食足りて礼節を知るといいますが、もう一つ住が足りませんな。日本は絶対に』[引用元]『私は壁、屋根、床、そのものずばりをつくる軽いコンクリートをつくる時代に入っていくと思います。これは将来のタネですよ。必ずこうなるのです』[引用元]と述べ、住宅・建材を次の柱に据える意思を明示していた。[22]住宅事業は1962年のソ連技術導入の失敗から出発した。ソ連から輸入したシリカリチートは建材として実用性に乏しい欠陥が判明し、累積赤字30億円を計上した。1965年にはドイツのALC技術へ切り替え、1967年には主力製品となる軽量気泡コンクリート『ヘーベル』の生産を開始した[23]。失敗から学び技術を素早く入れ替える経営手法が、住宅事業の立ち上げ期にはっきり表れた。
1972年には代理店方式を廃止して直販体制へ移行し、1974年には宮崎氏の秘書を長年務めた山口信夫氏が住宅事業部長に就任した。山口氏の就任以後の3年間で住宅事業の売上高は70億円から370億円へ約5倍に拡大した。首都圏の高級住宅市場に集中する高付加価値戦略を徹底した経営判断が、市場から評価された。医療機器事業は1974年に旭メディカル(現・旭化成メディカル)を設立し[24]、ベンベルグ繊維の研究過程で得た中空糸技術を人工腎臓のフィルター材に転用した[25]。参入から3年で黒字化を達成し、1982年には人工腎臓の国内シェア約30%で業界首位となった。1977年の合繊中間決算では旭化成を除く大手6社が経常赤字へ転落し、旭化成だけが32億5400万円の経常利益を計上した。『非繊維部門の売り上げが53%で、『合繊メーカー』というより、同社自身が『化学メーカー』を自認している』[引用元]との評価が定着した。
宮崎輝氏は1961年から1992年までの31年間、代表取締役として旭化成の経営中枢に座り続けた。在任期間は戦後の日本化学産業でも指折りの長さだった。宮崎氏は信頼する人物に新規事業を任せる手法を採り、建材事業には黒田義久氏、住宅事業には山口信夫氏、東洋醸造には小川三男氏を配置した。東洋醸造で小川氏は酒類から医薬品への業態転換を主導し、売上高の50%を医薬品へ振り替えた。1992年1月には旭化成が東洋醸造を合併し、医薬品[26]の事業基盤を取り込んだ。宮崎氏は1983年の日経新聞『私の履歴書』連載の末尾に『これで継続できる』(日経新聞『私の履歴書』1983/12)[27]と記し、後継に引き継ぐべき事業群が揃ったとの認識を示していた。
宮崎氏の多角化経営は旭化成に繊維・石油化学・住宅・建材・医療機器・医薬品・食品・酒類[28]という8領域の事業基盤を残した。ただし撤退判断には消極的で、全社利益率の低さが後年の課題として残った。1992年4月に宮崎氏が出張先で急逝した直後、後任の弓倉礼一社長は経営資源の分散により効率が落ちているとの認識を示し、路線転換を表明した。拡大路線の限界は社内でもすでに広く認識されていたが、宮崎氏という存在そのものが方針転換を長期にわたり阻んでいた。31年の拡張から30年の収縮へ反転する節目だった。宮崎時代に仕込まれた事業群の大半は、その後の30年間で売却・停止の対象となり、残った柱だけが次の時代の収益基盤へ引き継がれた。
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|---|---|---|---|---|
| 旭絹織を設立 | ★ | |||
| 1923〜1961年日本窒素コンツェルンからの独立と延岡アンモニアを起点とする多角化の原型 | 日本窒素が延岡工場を新設 | ★ | ||
| 延岡アンモニア絹絲を設立 | ★ | |||
| 食品事業に参入(グルタミン酸ソーダ) | ★ | |||
| 日窒化学工業を発足(旭ベンベルグ絹糸と日本窒素火薬が合併) | ★ | |||
| 日窒コンツェルンからの分離独立と旭化成工業への商号変更 1946年4月、日窒化学工業は財閥解体の趣旨にそって社名を旭化成工業と改め、日本窒素肥料を頂点とする日窒コンツェルンから切り離された。延岡に集まっていた繊維・火薬・化学品の事業を一社で抱えたまま、独立した会社として戦後を歩み始めた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 片岡武修 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 片岡武修 | 旭ダウを合弁で設立 | ★ | ||
| 片岡武修 | 合成樹脂に参入 | ★ | ||
| 片岡武修 | 事業部制を採用・多角化を本格化 | ★ | ||
| 片岡武修 | アクリル繊維「カシミロン」の製造開始 | ★ | ||
| 片岡武修 | 「サランラップ」の製造開始 | ★ | ||
| 宮崎輝 | 宮崎輝氏の社長就任と「健全な赤字部門」を柱とする多角化路線の始動 1961年、繊維不況とアクリル繊維『カシミロン』の採算悪化で収益が急落するなか、宮崎輝氏が旭化成工業の社長に就任し、繊維事業の利益の範囲内で新規事業の赤字を計画的に許容する『健全な赤字部門』の経営方針を掲げた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 宮崎輝 | 希望退職者を募集 | ★ | ||
| 1962〜1992年宮崎輝氏による1000億円石油化学投資と健全な赤字部門の経営哲学 | 宮崎輝 | ALC「へーベル」の製造を開始 | ★★ | |
| 宮崎輝 | 売上高に匹敵する1000億円を投じた水島の石油化学コンビナート建設 1960年代後半、旭化成工業の宮崎輝社長が、当時の売上高に匹敵する1000億円近い投資を伴う石油化学コンビナートの建設に踏み切り、岡山県水島地区でエチレンセンターの建設に着手した経営判断。リスクが大きすぎるという社内の反対論を常務会と全工場行脚で説き伏せ、通商産業省の指導を受けて競合の三菱化成工業との輪番制共同投資へ計画を組み替えて実現させた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 宮崎輝 | 山陽エチレンが年産35万トンのエチレンセンターを完成 | ★ | ||
| 宮崎輝 | ALC建材「ヘーベル」を戸建てブランドに仕立てた住宅事業参入 1972年9月、旭化成工業が軽量気泡コンクリート(ALC)『ヘーベル』を構造材とする戸建て住宅『ヘーベルハウス』の本格展開に踏み切り、同年11月に旭化成ホームズを設立して住宅産業へ参入した経営判断。宮崎輝社長が進めた多角化のなかでも、化学の技術系譜から外れた『飛び地』への参入であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 宮崎輝 | 旭メディカルを設立・医療機器に参入 | ★★ | ||
| 宮崎輝 | 宮崎電子を設立しホール素子事業へ参入 | ★★ | ||
| 宮崎輝 | 「油漬け」体質の脱皮へ原子力・電子・医薬に賭けた第二次多角化 二度の石油危機で石油化学と合繊が『油漬け』の重荷に変わった1980年前後、宮崎輝社長がウラン濃縮・原子力発電から電子材料・医薬まで、脱石油の新規事業群へ相次いで投資する方針を打ち出した経営判断。繊維依存からの脱皮を果たした第一次多角化に続く、第二次の事業入れ替えであった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 宮崎輝 | 旭マイクロシステムを設立・半導体に参入 | ★ | ||
| 世古真臣 | 吉野彰氏によるリチウムイオン電池の基本構造確立と特許戦略 旭化成の研究員だった吉野彰氏が、負極に炭素材料を用いるリチウムイオン電池の基本構造を確立して1985年から86年にかけて特許を出願し、2019年にノーベル化学賞を受賞するに至った研究開発と特許戦略。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 弓倉礼一 | 東洋醸造と合併 | ★★ | ||
| 1993〜2023年選択と集中からヘルスケアM&Aへの大転換と60年サイクルの帰結 | 山本一元 | 「拡大」路線からの転換と食品・酒類事業の売却 1992年、31年間旭化成を率いた宮崎輝氏が急逝したことを契機に、後任の弓倉礼一氏、続く山本一元氏の経営陣は『拡大』路線からの転換に着手した。部門別バランスシートの導入とROE経営への転換を通じて非中核事業の整理を進め、1999年から2003年にかけて食品・酒類事業を段階的に売却した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 山本一元 | 商号を旭化成に変更 | ★ | ||
| 山本一元 | 焼酎・低アルコール飲料事業を譲渡 | ★★ | ||
| 蛭田史郎 | 持株会社制に移行 | ★ | ||
| 藤原健嗣 | 米ZOLL Medical Corporationの22.1億ドルでの買収とクリティカルケア事業への参入 2012年3月12日、旭化成が米国の救命救急医療機器大手ZOLL Medical Corporationを、米国子会社の下に設立した買収目的子会社による株式公開買付けと現金対価の合併により、1株93米ドル・総額約22.1億米ドルで買収すると発表した経営判断。藤原健嗣社長のもと、医薬と医療機器に次ぐ第3の領域としてクリティカルケア(救命救急医療)に参入した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 浅野敏雄 | Polyporeを買収(セパレーター) | ★ | ||
| 浅野敏雄 | 子会社・旭化成建材の杭打ちデータ偽装と全国自主調査による開示 2014年11月、横浜市のマンション『パークシティLaLa横浜』で住民が建物の傾きに気づいたことを発端に、子会社・旭化成建材による杭打ち工事データの改ざんが発覚した。旭化成グループは過去10年に手掛けた3000件超の杭工事を自ら全件調査し、結果を公表する道を選んだ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 浅野敏雄 | 水島の自社エチレンセンターの停止と、西日本3社によるエチレン集約への参加 2010年5月31日、旭化成が岡山県倉敷市の水島地区で三菱化学とエチレンセンターを統合する共同出資会社の設立に基本合意し、2014年2月には2基を三菱設備1基へ集約して自社設備を廃棄することで合意した経営判断。1972年に自社で完成させた分解炉は2016年2月に停止し、2026年には三井化学・三菱ケミカルとの西日本3社集約で出資比率10%の位置へ退いた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 小堀秀毅 | Sage Automotiveを買収 | ★ | ||
| 小堀秀毅 | Veloxis medicalsを買収 | ★ | ||
| 工藤幸四郎 | Forcus関連5社を買収(住宅) | ★ | ||
| 工藤幸四郎 | 非注力事業を売却 | ★ | ||
| 工藤幸四郎 | スウェーデンCalliditas Therapeuticsを買収 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(旭化成)