重要な意思決定
19239月

日本窒素が延岡工場を新設

背景

日本窒素の水力発電事業と延岡進出の経緯

旭化成の源流は、日本窒素肥料(以下、日本窒素)が九州南部で展開した水力発電と肥料の事業にある。日本窒素は1906年に水力発電所を設置し、安価な電力を活用して肥料の製造に参入した。当初は熊本県水俣を拠点としていたが、1920年代に入ると欧州から技術導入したカザレー式アンモニア合成法による硫安の量産を構想し、大規模な新工場の建設が課題となった。水力発電で安価な電力を確保できる立地が不可欠であり、新たな製造拠点の選定を進めた。

新工場の候補地として、日本窒素はまず既存拠点のある熊本県での建設を模索した。しかし、化学工場の新設に対する地元住民の反対に直面し、熊本での計画は頓挫する。一方、宮崎県延岡は工場誘致に積極的な姿勢を示しており、五ヶ瀬川の水力発電を活用できる立地条件も備えていた。日本窒素は延岡を建設地に選定し、1923年9月に延岡工場を新設してアンモニア合成による硫安の製造を開始した。

延岡工場は稼働後に生産量を拡大し、1927年には硫安の年産6万トンに達して国内最大規模の硫安製造拠点となった。日本窒素の創始者・野口遵氏は、延岡の安価な電力を活用した肥料の量産に加え、欧州視察で着目した化学繊維やアンモニア誘導品への展開を構想していた。延岡工場は単なる肥料製造の拠点にとどまらず、後に繊維・火薬など多様な化学事業を生み出す日本窒素コンツェルンの中核拠点となった。

決断

アンモニアを起点とした繊維・火薬への展開

日本窒素は延岡工場のアンモニア合成技術を起点に、化学繊維事業への多角化を進めた。野口遵氏は1922年に旭絹織株式会社を設立し、滋賀県大津でビスコース人絹の製造を開始した。これは野口氏が欧州視察の際にアンモニア合成技術とあわせて化学繊維に着眼したことに端を発する。さらに1929年にはアンモニアの有効活用を目的として日本ベンベルグ絹糸を設立し、ドイツのベンベルク社から導入した銅アンモニア法によるベンベルグ絹糸の製造を延岡で開始した。

1931年には旭絹織で量産化した化学繊維を延岡でも展開するため、延岡アンモニア絹糸株式会社を設立した。この設立年が旭化成の公式な設立年として採用されている。1933年に旭絹織・日本ベンベルグ絹糸・延岡アンモニア絹糸の3社が合併して旭ベンベルグ絹糸が発足し、日本窒素コンツェルンにおける化学繊維部門を一元的に担う体制が整った。延岡にはベンベルグ工場やレーヨン工場が次々と建設され、繊維の一大製造拠点が形成された。

化学繊維に加えて、日本窒素は延岡でアンモニアを原料とする火薬事業にも参入した。1932年に延岡で火薬工場を稼働させ、1939年には雷管工場も新設している。戦時体制下の1943年4月には旭ベンベルグ絹糸と日本窒素火薬が合併して日本窒素化学工業が発足し、繊維と火薬という日本窒素の延岡における主要事業が一つの組織に統合された。後の旭化成の直接的な前身となる組織体制がここに出揃った。

結果

財閥解体を経た旭化成の独立と延岡城下町

1945年の終戦後、GHQによる財閥解体の対象として日本窒素コンツェルンが指定された。延岡の繊維・火薬事業を担っていた日本窒素化学工業は日本窒素から分離され、1946年4月に商号を旭化成工業株式会社に変更して独立した。一方、水俣の工場はチッソ(新日本窒素肥料)に引き継がれた。結果として旭化成は、後に水俣病の巨額賠償を負うことになるチッソとは別の道を歩むことになった。

独立後の旭化成にとって延岡は事業の中心地であり続けた。薬品工場・ベンベルグ工場・火薬工場・レーヨン工場など主要工場が延岡北部に集中し、企業城下町を形成した。1977年時点で延岡における旭化成の社員数は7,413名に達し、地域経済の中核を担った。1960年までの旭化成は「繊維」と「火薬」を軸とした組織構造であり、延岡支社を中心に北陸の繊維産地向け事務所を配置する体制をとっていた。

旭化成の創業過程は、アンモニア合成という単一の化学技術から肥料・繊維・火薬という複数の事業領域に展開した点に特徴がある。延岡の安価な電力とアンモニア原料を共通基盤として、野口遵氏は関連事業を次々と立ち上げた。この「素材を起点とした多角化」の構造は、戦後に宮崎輝氏が推進する石油化学・建材・住宅・医薬品への多角化の原型となった。