宮崎輝氏が代表取締役社長に就任
合成繊維の台頭による繊維不況と旭ダウの原体験
1960年前後、旭化成は主力の繊維事業で深刻な業績悪化に直面していた。ポリエステルなどの合成繊維が市場に普及し始めたことで、旭化成が主力としていたレーヨンやベンベルグの競争力が低下した。加えて、合成繊維への転換を図るために投入したアクリル繊維「カシミロン」でも大量の不良在庫が発生し、経営を圧迫した。売上高純利益率は1957年の8.0%から1961〜62年には1.3〜1.4%まで低下し、社員の一時帰休を決定する事態に追い込まれた。
こうした危機に先立ち、旭化成の常務であった宮崎輝氏は1951年に米ダウ・ケミカルとの合弁会社・旭ダウの設立に携わっていた。旭ダウでは当初、合成繊維サランの実用化を試みたが染色性の問題から断念し、1957年にポリスチレン樹脂の製造に転換して黒字化を達成した。この経験を通じて宮崎氏は化学繊維に依存する将来に危機感を抱き、後年「旭ダウで近代的化学製品を手掛けた時に、繊維産業だけではとても食っていけないと感じた」と振り返っている。
しかし当時の社内には新規事業への転換を支持する空気は乏しかった。高配当が続き株価も安定していた時期が長く、既存事業の延長で経営を維持できるという意識が根強かった。宮崎氏は「銀行に何かやりなさいよ、と注意されるほどだった」と述べており、社外からの指摘を受けてもなお社内の意識改革は進まなかった。繊維不況による業績悪化が、こうした社内体質を変革する契機となった。
ドラスティックな人事刷新と繊維再建の両立
1961年に宮崎輝氏が代表取締役社長に就任すると、新規事業に注力する経営体制への転換に着手した。翌1962年には取締役構成を大幅に刷新し、繊維中心の旧体制から新事業推進を重視する布陣に切り替えた。副社長と専務が同時に降格されるなどドラスティックな人事を断行し、社内に変革の意思を明確に示した。同時に事業部制を本格的に機能させ、各事業部門が自律的に経営判断を行う体制の構築を進めた。
繊維事業については全面撤退ではなく、固定費削減による合理化と合成繊維へのシフトを選択した。レーヨンとベンベルグの生産体制を縮小する一方、1,000名規模の希望退職を実施して固定費を圧縮した。削減した人員の一部は延岡工場内でナイロン66の製造部門に配置転換し、雇用維持と新規事業の人員確保を両立させた。カシミロンについても製造工程の見直しで歩留まりを改善し、不良在庫の問題解消に取り組んだ。
宮崎氏の方針は、繊維事業の黒字化で生まれた利益を新規事業への投資原資に充てることにあった。1968年度には繊維事業で年間約70億円の利益を確保し、その範囲内で化成品・合成ゴム・建材などの新規事業の赤字を容認した。宮崎氏はこの手法を「健全な赤字部門」と称し、「企業体力に見合った仕事をして、さらに体力をつけて次の仕事をするのが順序」と述べている。全社の財務を毀損しない範囲で参入初期の赤字を許容する手法は、旭化成の多角化経営の基本原則となった。
旧来の繊維偏重から総合化学メーカーへの変貌
宮崎氏の社長就任以降、旭化成は1960年代を通じて新規事業への投資を本格化させた。1963年に建材事業部と合成ゴム事業部を新設し、1968年には石油化学への参入を決定して山陽石油化学を設立した。新規事業の責任者には異分野の人材を据え、宮崎氏は「その分野に土地勘のある人よりも、既成の考え方に囚われない素人の方が良い場合が多い」と述べている。建材や合成ゴムの責任者は、労務担当者や異分野の研究者から抜擢された。
新規事業が次々と軌道に乗ると、旭化成の社風にも変化が生じた。宮崎氏は「成功すると彼らは自信を持ち、新しい仕事に対してどんどん積極的になっていく」と述べている。医薬品では東洋醸造に送り込んだ小川三男氏が酒類から医薬品への転換を主導し、住宅事業では宮崎氏の秘書であった山口信夫氏が直販体制を構築した。信頼できる人物に新事業を委ねる手法が、旭化成の多角化を支えた。
一方、宮崎氏は1992年に逝去するまで31年間にわたり代表取締役として経営に関与し続けた。売上高の拡大を重視する姿勢から不採算事業の撤退には消極的であり、多角化の進展とともに利益率の低さが課題として顕在化した。宮崎氏の急逝後、後任の経営陣が即座に「選択と集中」へ路線転換した機敏さは、拡大路線の限界が社内で認識されていたことを示唆する。多角化経営は旭化成に幅広い事業基盤を残す一方、その整理を次世代に委ねる結果となった。