旭化成ホームズを設立・住宅事業に参入
建材への参入失敗とALC「ヘーベル」への転換
旭化成は1962年にソ連からシリカリチートの技術を導入して建材事業に参入したが、当初の技術選定で躓いた。シリカリチートは建材としての重量が大きく実用性に乏しいことが判明し、累積赤字は30億円に膨らんだ。宮崎輝社長も「慣れない分野とはいえ、事前の調査がいかに大事であるか身にしみて感じた」と振り返り、事業継続の断念を余儀なくされた。しかし宮崎氏は建材事業そのものを諦める意思はなく、代替技術の探索を続けた。
1965年、西ドイツの駐在員からヘーベル・ガストン社の軽量気泡コンクリート(ALC)が優れた建材であるとの情報がもたらされた。前回の失敗を教訓に十分な調査を行った上で導入契約を締結し、1967年に松戸工場でALCの生産を開始した。ALCは軽量で防火性・防音性に優れ、1960年代後半の高層ビル建設ラッシュの需要を捉えて1968年に黒字化を達成した。建材事業を率いた黒田義久氏は導入契約に署名した際「これで継続できる」と涙を流したという。
ALCの建材事業が軌道に乗ると、旭化成はALCを用いた住宅「ヘーベルハウス」の販売に乗り出した。1965年にヘーベルハウスを発売し代理店方式で販売を開始したが、住宅という高額商品の販売において代理店の営業力は十分ではなく、販売は伸び悩んだ。品質管理や顧客対応においても代理店任せの体制には限界があり、販売方式の抜本的な見直しが必要となった。
積水ハウスの助言を受けた直販体制への全面移行
1972年、旭化成は住宅事業部を発足させて旭化成ホームズを設立し、代理店方式を中止して直販体制に全面移行した。この決断には、積水ハウスの田鍋社長から「代理店方式では住宅は売れない」との助言を受けたことが契機となっている。直販への移行により、住宅の設計・施工・販売・アフターサービスを一貫して自社管理する体制が整った。ただし移行当初は売上高70億円の赤字事業であり、事業の立て直しには経営人材の投入が急務であった。
1974年、宮崎輝社長の秘書であった山口信夫氏が住宅事業部長に就任した。山口氏は独自の評価体系を整備し、営業未経験者の育成体系を構築するなど住宅営業の組織化を推進した。就任時70億円であった売上高はわずか3年後の1977年に370億円へ拡大した。山口氏は自ら営業の最前線を率い、旭化成ホームズの事業基盤を短期間で構築した。
山口氏のもう一つの判断は、営業拠点を首都圏に集中させるドミナント戦略であった。ALCは高価な建材であるため高級住宅に照準を定め、防音・防火性能が求められる都心部をターゲットとした。顧客層は「都心部に住む大企業の管理職」に設定し、東京・神奈川の営業部に合計480名規模の人員を集中配備した。1980年代には土地価格の高騰を受けて二世帯住宅の需要をいち早く開拓し、1990年頃には東京23区内で住宅シェア約5%を確保して首位となった。
利益の柱が化成品から住宅・建材へシフト
住宅・建材事業は旭化成の主要な収益源へと成長した。1987年度には売上高が合計2,000億円を突破し、内訳は住宅1,520億円・建材544億円であった。首都圏に営業を集中したことで高い営業効率と販売単価を実現し、1990年を境に旭化成の利益の柱は化成品・樹脂から住宅・建材へとシフトした。シリカリチートの失敗からALC転換、代理店廃止から直販移行と、二度の方針転換を経て到達した収益構造であった。
住宅事業を軌道に乗せた山口信夫氏は、1992年の宮崎輝氏急逝後に代表取締役会長に就任した。山口氏は2010年に逝去するまで18年間会長を歴任し、4代の社長人事をすべて決定するなど強い影響力を維持した。住宅という異質な事業を繊維・化学の会社で育成した実績が、山口氏の経営における発言力の基盤となった。
建材事業の販売面では1977年に旭化成建材を設立し、代理店に対してヘーベル専任担当者の配置を義務づけるなど施工品質の管理にも注力した。1989年までに国内9箇所の営業拠点を配置し、全国展開の基盤を整えている。建材・住宅への参入過程は、技術選定の失敗から代替技術への転換、販売方式の変更、経営人材の投入、地域集中戦略と、段階的な軌道修正の積み重ねで構成されている。