重要な意思決定
19997月

食品・酒類から事業撤退を開始

背景

宮崎路線の終焉と「選択と集中」への転換

1992年4月、31年間にわたり経営トップの座にあった宮崎輝会長が出張先で急逝した。後任には山口信夫氏が会長、弓倉礼一氏が社長に就任し、二頭体制で新たな経営を開始した。弓倉社長は「事業が広がっているため、業績悪化でただでさえ細っている経営資源が分散し、効率が落ちている」と指摘し、宮崎氏の拡大路線からの転換を明確にした。山口会長も「1995年度までに従業員を2,000人減らす」との方針を示し、多角化の見直しに着手した。

1992年8月には全社の若手部長クラスによる経営活性化委員会が発足した。各事業の競争力を客観的に評価した報告書を部門長に提示し、「宮崎時代に慣れきった思考法を断ち切る」ことを目的とした。各事業部門長には自部門をコアビジネス・他社提携で強化・ライセンス交換・撤退の4種に分類するよう命じ、中長期計画の策定を進めた。同時に研究開発費を年間200億円から120億円に削減し、経営資源の選択的配分に舵を切った。

決断

資本効率重視への転換と食品・酒類の段階的売却

1997年に就任した山本一元社長は、資本効率を重視する経営を全面に打ち出した。部門別バランスシートを導入してROE・ROAによる事業評価を開始し、各事業に資本コストを意識させる体制を構築した。山本氏は「旭化成は中小企業の寄せ集め。600億円の事業が出した赤字でも、1兆円の会社という意識があるため受け止め方が甘くなる」と社内の意識改革を求めた。デュポンやダウ・ケミカルの幹部から資本コストの概念を学んだことが、この方針の背景にあった。

資本効率の観点から非中核と判断された事業の売却が実行に移された。1999年7月に食品事業をJTに譲渡したのを皮切りに、2002年には焼酎・低アルコール飲料をアサヒビールなどに、2003年には清酒・合成酒をオエノンHDに譲渡した。食品事業は1935年以来60年以上にわたり手がけてきた事業であり、東洋醸造から引き継いだ酒類事業も含め、歴史ある事業からの撤退であった。

結果

事業ポートフォリオの再構築と成長投資への布石

食品・酒類にとどまらず、旭化成は2000年代を通じて非中核事業の整理を加速させた。2000年にリチウムイオン電池製造の合弁から撤退、2001年にレーヨン生産停止、2003年にアクリル繊維の生産停止と、創業の源流であった化学繊維からも段階的に撤退した。ただし従業員のリストラは原則として行わず配置転換で対応する方針を維持し、工場閉鎖も原則行わず生産品目の変更で対応している。

1999年から2005年にかけての事業整理と財務改善は、2012年以降の大型M&Aの原資確保につながった。米ZOLL買収(約1,800億円)や米Polypore買収(約2,600億円)など、メディカル・セパレータといった成長領域に資本を集中投下する戦略が可能になった。宮崎輝氏の多角化が残した幅広い事業基盤を、後継の経営陣が選別・整理し、選択した領域に集中するという構図が、1992年の路線転換から約20年をかけて完成した。