東洋醸造と合併
東洋醸造への資本参加と小川三男氏の業態転換
1958年、旭化成は東洋醸造に資本参加して株式の約40%を取得した。当初の狙いはグルタミン酸ソーダの製造に関する技術的な連携であった。しかし旭化成から東洋醸造に派遣された小川三男氏が、同社の経営を大きく転換させることになる。小川氏は売上構成の90%が酒類に偏っている状態を問題視し、発酵技術を活かした医療用医薬品の開発・販売に独自に注力を始めた。資本金4億円に対して10億円の赤字を抱えていた東洋醸造の再建は、医薬品への転換と一体であった。
小川氏は「会社の将来展望を繰り返し語り、社内をまとめていった」と述べており、酒類部門からの抵抗を正攻法の説得で乗り越えた。東洋醸造は発酵技術を基盤に医療用医薬品の研究開発体制を構築し、1981年には売上高の50%が医薬品となるまで事業構成を転換した。一方、旭化成本体も1976年に医療用医薬品に独自参入したが、収益源には育たなかった。旭化成グループにおける医薬品事業は、東洋醸造が実質的な担い手となっていた。
東洋醸造の合併と医薬品事業基盤の取り込み
1989年に旭化成は東洋醸造への出資比率を過半数に引き上げ、経営の主導権を掌握した。1992年1月、旭化成を存続会社として東洋醸造を合併し、同社が育成した医療用医薬品の研究開発体制・製造設備・販売網を旭化成に統合した。現在の旭化成ファーマの工場・研究所が静岡県伊豆に集中しているのは、旧東洋醸造の製造拠点に由来する。医薬品事業を一体化した一方で、東洋醸造の低収益な酒類事業も引き継ぐことになった。
合併の時期は宮崎輝会長の急逝(1992年4月)と重なり、拡大路線の最終局面に位置づけられる。旭化成本体の医薬品事業が収益化に至らなかった中で、小川三男氏が育てた東洋醸造の医薬品は唯一の成果であった。引き継いだ酒類事業はその後、1999年以降の「選択と集中」路線のもとでJT・アサヒビール・オエノンHDなどに順次譲渡され、医薬品の事業基盤だけが旭化成に残された。