東レ炭素繊維「トレカ」の事業化と、黒字化まで約40年におよぶ赤字事業の継続

買い手が釣り竿とゴルフシャフトしかない素材を、なぜ5人の社長が畳まずに引き継いだのか

時期 1971年8月
意思決定者(推定) 東レ 歴代社長 榊原定征社長が言う「私の前の5人の社長」と榊原氏自身
論点 長期赤字の技術事業を続けるか畳むか
概要
1971年8月、東レは世界に先駆けてPAN系炭素繊維の量産にこぎつけ、「トレカ」の名で売り出した。ただし用途はスポーツ用品にとどまり、事業は約40年にわたり赤字を続けた。撤退を選ばず研究開発と設備投資を継ぎ足し、2000年代の航空機採用でようやく収益化した経営判断。
背景
炭素繊維は1959年に通商産業省工業技術院が発明した素材で、東レが研究に着手したのは翌1960年であった。事業化の時期は石油危機後の繊維不況と重なり、本業の合成繊維で損を出す会社が、売り先の見えない新素材の設備と研究を同時に抱え込んだ。
内容
買い手はゴルフクラブのシャフト、テニスラケット、釣り竿にとどまり、そこで稼ぎながら航空機用途の認定作業を続けた。榊原定征社長は2007年に「私の前の5人の社長がみんな赤字を許容してきた」と述べ、40年で投じた研究開発費は千数百億円に達した。
含意
同じ素材に挑んだ欧米の化学大手はことごとく撤退し、残ったのは日本の3社であった。2006年のボーイングB787向け16年契約で事業は黒字に転じたが、2010年3月期には再び営業赤字へ戻り、その後の2件の買収で投下資本の回収が新たな課題となった。
筆者の見解

続けるという判断が、何度も下された

榊原定征氏の「私の前の5人の社長がみんな赤字を許容してきた」という一文が、この事業の性格を言い当てている。1971年に売り出した時点で買い手は釣り竿とゴルフシャフトしかなく、東レ本体は1976年3月期に59.4億円の経常損失を出していた。畳む理由は毎期そろっていたとみてよい。それでも残ったのは、必ず構造材料に使えるという確信を、社長が代わるたびに次の社長が引き取ったからだとみられる。始めた判断より、引き継いだ判断のほうが数は多い。

ただ、40年耐えたことが正しかったと言えるのは、B787が飛んだあとを知っているからにすぎない。同じ40年を三菱レイヨンも東邦テナックスも耐えており、忍耐は東レだけの見識ではなかった。届いた黒字も長くは続かず、2010年3月期には80億円の営業赤字へ戻っている。長期投資に耐える体力は、耐えた先で報われることまでを保証しない。ゾルテックとテンカーテの買収で積み上がった投下資本の回収は、40年の忍耐とは別の問いとして立っているといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

官の研究所で生まれ、東レが引き取った素材

炭素繊維は東レの発明ではない。アクリル繊維を焼いて作るこの素材が生まれたのは1959年、当時の通商産業省工業技術院でのことであった。比重は鉄の4分の1でありながら強度は10倍、変形のしにくさは7倍とされ、錆びることも金属疲労もない。東レが研究に着手したのは翌1960年で、そこから先の40年は、他人が見つけた素材を売り物に仕立て直す作業に費やされた[1][2]

基礎研究に人を割く型は、この時期に会社へ埋め込まれていた。1962年9月に基礎研究所が発足したとき、田代茂樹前会長は「基礎的研究によってまったく新規の成長ラインの製品を創造しなければならない」と号令をかけている。榊原定征氏が入社した1967年、配属先の滋賀・中央研究所では炭素繊維が最大のテーマで、伊藤昌壽所長は炭素繊維で「黒い飛行機」を飛ばすというCROWプロジェクトを立ち上げていた[3][4]

買い手が釣り竿とゴルフシャフトしかない

1971年8月、東レは世界に先駆けてPAN系炭素繊維の量産にこぎつけ、「トレカ」の名で売り出した。ところが買い手は限られていた。ゴルフクラブのシャフト、テニスラケット、釣り竿——榊原氏はのちに、スポーツ用途から入った理由を「折れても墜落しませんから」と説明している。航空機に使われたのは1973年の内装部品が最初で、機体の一部に及ぶまでにさらに10年を要した[5][6]

事業化の時期は、選べるなら選ばない時期であった。1971年のドル切り上げに続いて1973年の石油危機が繊維不況を長引かせ、東レ単体の当期純利益は1971年3月期の144億円から翌期には61.9億円へ半減する。1976年3月期には59.4億円の経常損失を計上した。本業の合成繊維で損を出す会社が、売り先の見えない新素材の設備と研究を同時に抱え込んでいた[7]

決断

赤字の事業を、次の社長へ引き渡す

2007年、榊原定征社長は自社の40年を、その間ずっと赤字であったと振り返り、「私の前の5人の社長がみんな赤字を許容してきた」と述べている。40年で投じた研究開発費は千数百億円に達した。撤退の判断が一度も下されなかったというより、社長が代わるたびに赤字事業を引き取るという判断が繰り返されたとみるほうが、実情に近い。榊原氏は同じ席で、長期の投資を容認する株主と、研究開発を重んじる社内の文化を、それが可能だった理由に挙げている[8][9]

続いたのは、根拠のない期待によるものではなかった。榊原氏は「必ず構造材料に使えるという技術的根拠、確信があった」と述べ、そのうえで「ただ、時間がかかった」と、まったく新しい素材ゆえの歳月の長さを認めている。研究は100やれば100成功するものではないと断りつつ「やめようなんて一度も考えなかった」とも語った。スポーツ用途で稼ぎながら航空機用途の認定作業を続けるという二段構えが、赤字を抱えたまま事業を走らせ続ける仕組みになっていた[10]

「10年単位の息の長い仕事」という型

1982年、伊藤昌壽社長は研究開発を「10年単位の息の長い仕事」と呼び、「研究というものは失敗が大部分で、ごく一部が事業に結び付いていく」と語っている。現場に繰り返した号令は「目方で売る商品より知恵で売る商品をつくれ」で、軽薄短小で高機能なものに的を絞る開発戦略がその裏にあった。構造不況業種の合成繊維を本業としながら、研究開発費は1970年度の70億円台から1981年度の130億円台へ増え続けた[11][12]

型は成果の測り方にも表れていた。同じ1982年の時点で人工皮革「エクセーヌ」は250億円、炭素繊維「トレカ」は80億円の商品に育っていたが、伊藤氏が語ったのは単年の損益ではなく、新事業開発に本格着手して10年で「当初30人のスタッフがいま800人、売り上げはゼロから200億円まできた」という人と時間の積み上げであった。技術開発はカネを注げば成果が上がるものではなく、10年単位というのは人材の育成に要する時間だ、というのが同氏の説明であった[13][14]

結果

耐えられなかった側

同じ素材に賭けた欧米勢は、この時間に耐えられなかった。榊原氏は「炭素繊維は世界中のケミカル・ジャイアントもみんなチャレンジした。けれど、ことごとく撤退した」と述べ、残ったのは東レ・三菱レイヨン・東邦テナックスの日本3社だと語っている。1970年に東レと技術提携した米ユニオンカーバイド社も、1986年に経営難から炭素繊維部門をアモコ石油系の会社へ売却した[15][16]

東レ自身も無傷ではなかった。仏エルフとの合弁で1983年に設立したソフィカールは、稼働率が50%を下回って赤字を垂れ流し、1988年には出資者の一角ペシネーが撤退する。累積赤字約100億円を3社で負担したうえ、東レは出資比率を35%から70%へ引き上げて再建を引き受けた。「出資比率が35%と70%では意味が違う。70%となれば経営の全責任を負う覚悟で支援できる」と、同社の社長を兼ねた東浦利夫氏は語っている[17]

40年後に届いた黒字と、その先

1990年、前田勝之助社長はソフィカールの再建を受けて「炭素繊維は繊維、プラスチックに次ぐ第3の柱で、21世紀に向けての最重要事業」と位置づけ、同年8月には年産能力を50%増の2250トンへ引き上げた。事業が損益として報われたのはさらに後で、2006年4月にボーイングとB787向けの16年独占供給契約を結び、榊原氏は2007年に「私の代で初めて、今年200億円ぐらいの利益が出る」と語っている[18][19]

もっとも、その黒字は据わらなかった。B787の開発遅延と大型機777の減産が重なり、2010年3月期の炭素繊維分野は前期84億円の黒字から80億円の営業赤字へ転落する。東レはここから、自前で育てる路線を離れ、2014年に米ゾルテックを、2018年に蘭テンカーテ・アドバンスト・コンポジットを買収した。40年の忍耐が生んだ首位の座は、今度は投下資本の回収という別の問いにさらされる[20][21]

出典・参考
  • 週刊東洋経済 2007年9月8日号「TOP INTERVIEW 榊原定征 東レ社長 炭素繊維の成功を信じて5人の社長が赤字に耐えた」
  • 週刊東洋経済 2010年6月5日号「東レ 炭素繊維50年目の飛躍 米欧日の航空機主材料に」
  • 週刊東洋経済 2010年1月9日号「繊維 航空機向け炭素繊維 苦節50年の「離陸」」
  • 日経ビジネス 1982年3月22日号「合繊でつちかった技術で業種転換」
  • 日経ビジネス 1990年12月3日号「欧州での炭素繊維再建完了、照準は米国へ」
  • 東レ 有価証券報告書【沿革】
  • 東レ 会社年鑑(単体業績)
  • 日本経済新聞(2024年5月8日)「東レ、炭素繊維で減損 24年3月期の純利益70%減に」

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