蘭テンカーテ・アドバンスト・コンポジットの買収による熱可塑性複合材料への参入

炭素繊維の世界首位が過去最大の1230億円を投じたのは、なぜ売上270億円の小さな会社だったのか

更新:

時期 2018年3月
意思決定者 日覺昭廣 東レ 社長
論点 炭素繊維複合材料事業の技術補完とM&A
概要
2018年3月14日、炭素繊維で世界首位の東レが、オランダの炭素繊維複合材料メーカー、テンカーテ・アドバンスト・コンポジット(TCAC)の全株式取得で親会社と合意した経営判断。負債の肩代わりを含む総費用は約1230億円で、当時の東レとして過去最大の買収であった。同年7月17日に取得を完了した。
背景
炭素繊維は樹脂と混ぜた複合材料(CFRP)にして使う。従来は熱で固める熱硬化性樹脂が主流で、東レはこの分野に研究開発を集中して世界最大手の地位を築いた。ところが加熱すると軟らかくなりプレス成形できる熱可塑性のCFRPが台頭し、量産に向くこの新技術で東レは出遅れていた。
内容
TCACは東レなどから調達した炭素繊維に樹脂を混ぜて複合材料に加工する中間材料メーカーで、航空機用途の熱可塑性CFRPに高い技術を持つ。2018年の売上高見通しは約270億円と規模は小さいが、東レが持たない技術と顧客を抱えていた。買収でTCACを傘下に収めた。
含意
買収額はEBITDAの20倍近くに達し、複数社の入札で金額がつり上がった。それでも東レは熱可塑性という新しい競争軸で帝人などに先行を許すことを避けた。2019年に「東レアドバンスドコンポジット」へ改称し統合を進めたが、直後にコロナ禍が航空機需要を直撃した。
筆者の見解

世界首位が高値を払った意味

この買収は、首位企業が自らの強みの裏側に生まれた死角をどう埋めるか、という問いを映している。東レは熱硬化性CFRPを世に広めた当事者であり、その成功体験が熱可塑性への転換を遅らせた面は否めない。売上270億円の会社にEBITDAの20倍近い1230億円を払う判断は、単体の採算だけでは説明しにくい。それでも先行を許せば市場の主導権を失うという危機感が、高値を正当化する論理として働いていたとみることができる。

買収の巧拙は、投じた金額の大きさよりも、その後の需要をどれだけ読めていたかで決まる部分が大きい。コロナ禍による航空機需要の急落は、東レに限らず誰にも読みきれない外的な事情であった。ただ、ゾルテックの風力、TCACの熱可塑性と、東レが相次いで買った先端用途はいずれも需要の変動が激しく、回収の速度は市場任せになりやすい。技術の穴を買って埋める戦略が、投下資本に見合う果実を生むのかは、なお今後の航空機と自動車の伸びに委ねられているといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

熱可塑性という新しい競争軸

炭素繊維は単独で使われることはまずなく、樹脂と一体化させた複合材料(炭素繊維強化プラスチック=CFRP)にしてから、旅客機の胴体や主翼、風車の羽根などに使われる。これまでのCFRPは、熱を加えると化学反応で固まる熱硬化性のエポキシ樹脂を用いるのが常識であった。部品メーカーはシート状の複合材料を積層し、専用の窯で焼き固めて部品に成形していた[1]

そこへ台頭したのが、加熱すると軟らかくなり冷めると固まる熱可塑性樹脂を用いた新しいCFRPであった。軟化させた状態で金型にはさみプレス加工できるため、成形にかかる時間が短くて済む。単通路の旅客機は格安航空会社の広がりで受注残が積み上がり、大量生産に向く熱可塑性が有利になるとみられていた。将来の本命とされる自動車用途でも欠かせない技術であった[2]

世界首位ゆえの死角

アクリル繊維を炭化した炭素繊維は、日本企業の地道な技術改良で花開いた先端素材であった。市場を切り開いた東レが世界シェアの約4割を握り、二番手の帝人、三菱ケミカルを合わせた3社で世界生産の6割超を占めていた。事業の規模でも収益でも、東レが他の2社を引き離す構図が続いていた。航空機向けの高単価品を軸に、東レは圧倒的な存在感を誇っていた[3]

その強みが、熱可塑性では死角に転じた。東レは自ら開いた熱硬化性CFRPで高いシェアを持ち、研究開発をそこに集中してきたため、熱可塑性の開発で後れを取った。親密なはずの米ボーイングからも、この時点で熱可塑性の材料認定を受けていなかった。他方で帝人はエアバスの最新鋭機A350に熱可塑性CFRPを供給済みで、王者の牙城に風穴を開けようと攻勢を強めていた[4]

決断

過去最大の買収で足りないピースを埋める

2018年3月14日、東レはオランダのTCACの親会社と、TCACの全株式を取得することで合意したと発表した。負債の肩代わりを含む総費用は約1230億円で、当時の東レとして過去最大の買収であった。同年7月17日に取得手続きを完了し、子会社に収めた。繊維から複合材料への加工までを一貫して手がける体制を、海外の企業ごと取り込む判断であった[5]

TCACは、東レなどから調達した炭素繊維に樹脂を混ぜて複合材料に加工する中間材料メーカーであった。2018年の売上高見通しは約270億円で、東レの炭素繊維複合材料事業(2016年度で1616億円)に比べれば小さい。だが同社は早くから航空機向けの熱可塑性CFRPを研究し、すでにエアバス最新鋭機のつなぎ留め部品に採用されていた。東レに足りないピースを、そのまま抱えている相手であった[6]

高値と危機感

問題は買収額の高さであった。金額はEBITDA(利払い・税引き・償却前利益)の20倍近くに達した。TCACは投資会社の傘下にあり、今回は複数社による入札が行われて金額がつり上がった。小さな会社に巨費を投じることへの疑問は、社内外にあってもおかしくない水準であった。それでも東レは、この価格を受け入れる道を選んだ[7]

判断の芯にあったのは、市場が急速に変わることへの危機感であった。複合材料事業本部長を務める須賀康雄・常務取締役は、熱可塑性にはこれまで手が回らなかったと認めつつ、TCACは高度な技術を持つと述べ、何としても一緒になってほしいと思っていたと語った。まずは航空機、将来は自動車で大きなシナジーが出るとし、買収費用はあっという間に取り戻せると強気の見立てを示していた[8]

結果

東レの名を冠する統合へ

買収の完了後、東レはTCACとの販売・製品・技術面の連携を進めた。2019年3月12日には、買収した子会社の事業ブランド名を「TenCate Advanced Composites」から「Toray Advanced Composites」へ、関連会社も「Toray PMC」へ改めると発表した。名実ともに東レグループの一員とすることで、各社の連携をさらに強める狙いであった。この複合材料事業は、中期経営課題のなかで戦略的拡大事業に据えていた[9]

東レは繊維から複合材料への加工までを一貫して手がける体制を整え、熱可塑性という抜けていた技術を社内に取り込んだ。産業用のラージトウを狙った2014年のゾルテック買収と合わせ、炭素繊維事業の品揃えは広がった。もっとも、相次ぐ大型買収で積み上がった投下資本を回収できるかは、買収時に描いた航空機需要の伸びが続くことを前提にしていた[10]

航空機需要の急落という誤算

買収から2年足らずで、前提であった航空機需要が崩れた。新型コロナウイルスの世界的な流行で旅客機の運航が止まり、ボーイングは主力機787の生産を月14機から2021年に月6機へ減らした。売上高の半分近くを航空機向けが占めていた東レの炭素繊維複合材料事業は、2021年3月期に11年ぶりの赤字に転落する見通しとなった。高値を投じて手に入れた分野が、真っ先に打撃を受けた形であった[11]

米国では、東レ・コンポジットマテリアルズ・アメリカが従業員の約25%を削減し、サウスカロライナ州の工場が生産を止めた。一方で風力発電向けは想定以上に堅調で、事業全体の赤字を和らげた。その後は航空機需要が回復に向かい、東レは米主力工場を再稼働させ、炭素繊維の増産へ再び動いた。熱可塑性への布石は、需要の谷を越えて長い時間軸で回収を試す段階に入ったとみられる[12]

出典・参考