藤吉次英社長による「脱繊維」の否定と繊維への残留

1975年実施

脱繊維こそ合理とされた繊維不況期に、藤吉次英氏はなぜ繊維に留まると決めたのか

時期 1975年9月
意思決定者 藤吉次英(社長)
論点 脱繊維の是非と多角化の方向
概要
1975年、石油危機後の繊維不況のなかで繊維各社が非繊維分野へ多角化するなか、東レの藤吉次英社長が日経ビジネスの編集長インタビューで安易な「脱繊維」を明確に否定し、繊維と、そこから派生する先端材料に事業の中心を据え続けると表明した経営判断。
背景
東レはトヨタや松下電器と並ぶ超優良企業、三井グループの"輝ける星"と呼ばれたが、円高と後発国の追い上げで汎用繊維の採算が悪化し、優等生の神話が揺らいでいた。繊維から離れて多角化することが経営の合理とみなされ、脱繊維は業界の空気となっていた。
内容
藤吉社長は「脱繊維なんていう根性のやつは繊維をやめた方がいい」と述べ、繊維は衣食住を支える必需品であり、競争力の源は事業分野ではなく素材をめぐる技術の深さにあるとした。低成長を前提に守る経営者を「負け犬」と呼ぶ一方、繊維の研究から生まれた技術を他分野へ生かす派生型の多角化は肯定した。
含意
短期の繊維不況は続いたが、繊維に留まる選択は、のちのユニクロ「ヒートテック」による繊維事業の復活や、炭素繊維での世界最大手化につながる長期路線となった。脱繊維こそ合理とされた時代の空気に抗う選択であった。
筆者の見解

「脱繊維」の空気に抗うということ

この判断の核心は、財務の立て直しでも新規事業への転身でもなく、繊維から離れることが正解とされた時代の空気に、あえて抗った点にある。円高と後発国の追い上げのなかで、汎用の繊維は先進国では稼ぎにくい——その認識は、藤吉も共有していた。それでも彼は、競争力の源を事業の分野そのものではなく、素材をめぐる技術の深さに見た。脱繊維を促す問いに「繊維をやめた方がいい」と言い返した強さは、繊維をやめないと決めた者の自負でもあった。

繊維に留まった選択は、長い時間をかけて東レに効いた。ヒートテックによる繊維事業の復活や、炭素繊維での世界最大手化は、繊維とその周辺の技術を手放さなかったからこそ得られた果実である。もっとも、その道はまっすぐではない。1970年代後半には単体で赤字の期もあり、炭素繊維は航空機需要の急減にたびたび揺さぶられてきた。繊維に賭け続けることは、相応の代償も伴った。脱繊維こそ合理と見えた時代に繊維を選んだ藤吉の判断が正しかったのかどうかは、短い決算期ではなく、数十年の物差しでしか測れない。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

落ちた「三井の星」

東レは、三井物産が1926年に設立した東洋レーヨンを母体とし、戦後に米デュポンから導入したナイロンやポリエステルの国産化で伸びた会社である。かつてはトヨタや松下電器と並ぶ超優良企業に数えられ、三井グループのなかでは"輝ける星"と呼ばれた。しかし1973年の石油危機のあと、繊維不況が長引くなかで、その評判は揺らいでいく。1975年3月期の単体の当期純利益は83億円と、前の期の187億円から半分以下に落ち込んだ[1]

繊維不況は一時の需給ではなく、構造の変化から来ていた。1971年の為替の切り上げで輸出の採算が悪くなり、韓国や台湾など後発の国々が量産の繊維で追い上げてくる。先進国のコスト構造では、汎用の繊維で利益を保つことが難しくなる。藤吉次英社長自身、この年の日経ビジネスの編集長インタビューで繊維を「万年不況産業」と呼び、繊維では好況のほうがむしろ例外だと語っている[2]

「脱繊維」こそ合理という空気

逆風のなかで、繊維から離れることが経営の合理とみなされていった。円高と後発国の追い上げで汎用の繊維では稼ぎにくくなり、大手各社は繊維以外の分野へ多角化の道を探る。日経ビジネスの編集長も藤吉社長に、繊維会社は今後「脱繊維」というか、一種の商社になっていく以外に方法はないのか、と正面から問うている。その問いには、脱繊維こそ進むべき道だという当時の空気がにじんでいた[3]

決断

「脱繊維をいうヤツは繊維をやめろ」

藤吉社長の答えは、はっきりしていた。1975年9月、日経ビジネスの編集長インタビューで、脱繊維や商社化を促す問いに、「脱繊維なんていう根性のやつは、繊維をやめた方がいい」と言い切った。繊維は衣食住といわれる必需の素材であり、人類の歴史とともに続いてきた。合成繊維が生まれてまだ三十年ほどで、繊維がこれで終わると誰にも保証はできない。そこにこそ可能性を追う仕事があるという見立てが、藤吉の答えの底にあった[4]

ただし藤吉は、繊維に居直って現状のままでよいとは考えていなかった。同じ状態を続ければ利幅が薄れ、じり貧の仕事に落ち込むという危機感を隠さない。彼は、低成長を前提に守りに入る経営者を「負け犬」と呼び、母屋がひっくり返るほどではなく、本体に響かない「かすり傷」の範囲で賭けに出るべきだと説いた。繊維にとどまることと、成長をあきらめないことは、藤吉のなかで矛盾しなかった[5]

繊維から派生する技術への多角化

脱繊維を退けた藤吉が、多角化そのものを否定したわけではない。繊維の土台には石油化学や高分子化学があり、原料から糸にする川下まで、幅の広い研究の領域が連なる。そこでは、繊維に役立つと同時に、繊維の外でも生きる技術が数多く生まれる。従来はそうした技術を捨ててきたが、繊維以外の分野へ持っていけば大いに役立つ——藤吉はそう考え、繊維の研究から派生する多角化は「大いにやってよろしい」と述べた。脱繊維の否定と、この派生型の多角化の肯定は、藤吉のなかで一続きであった[6]

結果

繊維に留まった会社の、その後

繊維に留まる選択は、すぐに報われたわけではなかった。1976年3月期には単体で経常損失を計上し、1970年代後半を通じて業績は上下を繰り返す。一方、脱繊維を選んだ同業他社は、それぞれの道で成果を上げていった。帝人は異業種の医薬品で新しい収益の柱を築き、クラレは樹脂や化学品へ主力を移す。繊維工場を閉じ、跡地を商業施設に変えて賃料で生きる道を選んだ会社もあった。そのなかで、東レは繊維への投資をやめなかった[7]

長い目で見れば、繊維にとどまった判断は東レに二つの果実をもたらした。一つは繊維そのものの復活である。ファーストリテイリングと組んで開発した「ヒートテック」は、機能性の肌着として広く売れ、斜陽とされた繊維事業をよみがえらせた。もう一つは、繊維から派生した先端材料の成長である。1971年に売り出した炭素繊維「トレカ」は、長い赤字を経てボーイングの旅客機に採用され、東レは炭素繊維で世界最大手の地位を占めた[8][9]

出典・参考