前田勝之助氏が「大企業病」を自己診断した経営改革

1987年実施

かつて「三井の星」と呼ばれた優等生は、自社の「大企業病」をどう名指し、風土をどう変えたか

時期 1987
意思決定者 前田勝之助(社長)
論点 組織風土と事業構造の改革
概要
1987年、ナイロンやテトロンで急成長した優等生・東レが、社長に就いた前田勝之助氏の主導で、社内の「大企業病」を自己診断し、評論家的な社員の入れ替えと繊維・先端材料への集中で経営を立て直した経営判断。前田は自社の病を「糖尿病」と「急性肺炎」にたとえ、風土そのものの改革に取り組んだ。
背景
昭和30年代にナイロンやテトロンで急成長し、就職人気で首位に立った東レは、40〜60年代にかけて成長が鈍り、日本のGNPが約20倍に伸びるなかで売上高は3倍にとどまった。1985年前後には脱繊維や新規事業の失敗が重なり、本業の繊維部門が大赤字を出し、新卒採用をゼロにする事態に至った。
内容
1987年に社長へ就いた前田は、東レの不振を外部環境ではなく社内の病と見立て、「革命を起こさなければ企業風土は変わらない」と改革に着手した。評論家的にふるまう頭のよい社員に辞めてもらい、脱繊維の潮流に与せず繊維に残りながら、炭素繊維や電子情報材料など先端材料へ経営資源を集中した。
含意
成功体験を持つ優等生企業が、危機の原因を自社の内側に求め、経営者みずから病名を公言して人と意識に手を入れた点に特徴がある。繊維に残るという当時の逆張りは、のちの炭素繊維の育成やユニクロとの連携で実を結び、成功企業が自らをどこまで疑えるかという問いを残した。
筆者の見解

優等生は自らの病を診断できるか

この改革の核心は、業績の危機そのものよりも、その原因を外にではなく自社の内側に見た点にある。石油危機や円高という逆風は、どの繊維会社にも等しく吹いていた。多くの会社がそこから逃れるように非繊維へ進むなか、前田は東レの不振を「大企業病」という自社の体質の問題として引き受けた。頭のよい社員がそろいながら成果に結びつかないという診断は、優等生であった会社がみずからの成功体験を疑うことなしには下せないものであった。

もっとも、自らの病を公言し、社員に辞めてもらうという改革は、痛みを伴う。評論家を切るという前田の手法が常に正しかったと言い切ることはできないし、東レはその後も2000年代に最終赤字を経験している。それでも、繊維に残るという当時の逆張りは、長年育ててきた炭素繊維事業やユニクロとの連携となって実を結んだ。成功した会社が、成功の記憶をどこまで疑えるか——前田の改革は、自己変革の難しさと、それをやり切った稀な事例という両面を、東レの歩みに刻んでいる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

「三井の星」と呼ばれた優等生の失速

東レは、1926年に三井物産の出資で東洋レーヨンとして生まれた。人絹の生産が失敗したときに三井家へ迷惑をかけないよう、あえて「三井」を冠さず「東洋」と名づけたと、前田勝之助氏はのちに語っている。昭和30年代に入ると、東レはナイロンやテトロンで急成長し、学生の就職人気でも首位に立つ会社となった。技術を自前で育てて伸びるベンチャーの気質は、この急成長期に形づくられた[1]

しかし、高度成長が終わると、優等生の輝きは陰り始めた。1975年、週刊東洋経済は東レを「落ちた"三井の星"」と特集し、トヨタや松下と並ぶ超優良企業の神話が繊維不況の長期化のなかで消えようとしていると書いた。前田の診断はさらに手厳しい。40年代から60年代にかけて東レは「大企業病」にかかり、日本のGNPが約20倍に伸びたこの20年間に、売上高は3倍にとどまったという。前田はこれを「糖尿病」と呼んだ[2][3]

「急性肺炎」を併発した1985年前後

糖尿病に、東レはもう一つの病を重ねた。1985年前後、脱繊維をかかげて新規事業に次々と手を広げた結果、本業の繊維部門が大赤字を出し、新卒の採用をゼロにせざるをえない状態に追い込まれた。前田はこの急激な悪化を「急性肺炎」と呼ぶ。糖尿病という慢性の停滞に、脱繊維の失敗という急性の症状が加わった——それが、1987年に前田が社長を引き継いだときの東レであった[4]

決断

「革命を起こさなければ」と評論家社員の入れ替え

1987年、前田は「もうどうしようもない時期に、私は社長になってしまいました」と振り返る危機のさなかに、東レの社長を引き継いだ。前田は不振の原因を、石油危機や円高といった外部環境ではなく、社内の風土に求めた。頭のよい人材はそろっているのに、その力が事業の成果に結びつかない——問題は事業の中身ではなく、人の働き方と意識にある、というのが前田の見立てであった[5]

前田がまず手を入れたのは、設備でも財務でもなく、人と意識であった。「評論家や大学教授になれるような頭の良い社員が山ほどいます」と前田は言う。理屈は達者でも、いざ「打ってみろ、投げてみろ」と言えば動けない——そうした社員が増えたことこそ、大企業病の正体だった。前田は評論家的にふるまう社員に「やむを得ず、ずいぶん辞めてもらいました」と語り、人の入れ替えを通じて風土を変えにかかった[6]

結果

繊維に残り、先端材料で稼ぐ会社へ

改革の方向は、業界の潮流と逆を向いていた。帝人や東洋紡が医薬品や非繊維へ主力を移すなか、前田は「脱繊維」に与せず、繊維はグローバルにみれば成長産業だとして海外へ生産を広げ、グループの繊維売上を伸ばした。同時に、炭素繊維や電子情報材料といった先端材料へ経営資源を集中した。前田は1987年の社長就任から2004年に名誉会長へ退くまで17年にわたり東レのトップを務め、のちに「中興の祖」と呼ばれた[7]

繊維に残るという選択は、時間をかけて実を結んだ。帝人が医薬品、クラレが樹脂・化学品へ主力を移していくなかで、東レは繊維事業への投資をやめなかった。2012年、週刊東洋経済はこの選択を「斜陽事業が大復活」と評し、ユニクロとの連携、とりわけ「ヒートテック」の成功をその象徴に挙げた。前田が守った本業は、撤退した各社が持ちえなかった果実を、二十年あまりを経て東レにもたらした[8]

出典・参考