米デュポンとのナイロン技術提携

1951年実施

資本金の1.5倍を投じて特許を買った社運の決断は、いかにして自前技術の源流となったか

時期 1951年6月
意思決定者 田代茂樹(会長)
論点 合成繊維ナイロンへの参入と技術導入
概要
1951年、レーヨン専業の大手だった東洋レーヨンが、会長・田代茂樹氏の主導で米デュポンとナイロンの特許使用許諾契約を結んだ経営判断。前払金300万ドル(約10億8000万円)は資本金7億5000万円のほぼ1.5倍にあたり、社内向け記事が「浮沈に影響する」と書いた社運の技術導入だった。
背景
東洋レーヨンは戦前から合成繊維を研究し、1941年にナイロン6の合成に成功していたが、戦時中の中断で米国との差が開いた。自社のナイロン6はデュポンのナイロン66と製法が異なるものの、製糸・加工や輸出の自由を確保するには、デュポンの特許網の内側に入る必要があった。
内容
1951年6月、田代がデラウェア州ウィルミントンのデュポン本社で契約に調印した。前払金300万ドルを5回分割、ロイヤルティは売上高の3%、契約期間は10年とした。中心は特許の実施許諾で、技術援助は受けたが、量産の技術は自力で立ち上げる部分が大きかった。
含意
名古屋・愛知の両工場で日本初のナイロンを国産化し、東洋レーヨンはレーヨン専業から合成繊維メーカーへ転じた。特許だけを買って製造を自前で立ち上げた経験は、外に頼らず技術を磨く文化を育て、のちの炭素繊維や自前主義へつながった。
筆者の見解

外から技術を買い、自前の技術に変える

この経営判断の核心は、レーヨン一本で歩んできた東洋レーヨンが、資本金の1.5倍にあたる技術導入費を投じ、自社に欠けていた合成繊維の技術を海の向こうから丸ごと買った点にある。戦後まもない繊維会社にとって、300万ドルの前払金は失敗の許されない賭けであり、社内向けの記事が「浮沈に影響する」と書いたのは誇張ではなかった。会長の田代茂樹氏が5回分割で負担を延ばし、先発の有利な立場を守って量産に集中した段取りは、この賭けを短い年月で取り返すための現実的な計算に支えられていた。

そして、外から技術を買うこの選択から、のちに東レの代名詞となる自前主義が育った。デュポンとの契約は特許の実施許諾が中心で、量産の技術までは渡されず、東洋レーヨンは製造を自力で立ち上げるほかなかった。この不自由さが、外に頼らず技術を自社で磨く文化を根づかせ、のちに40年の赤字へ耐える炭素繊維の投資を支えた。2014年、東レはその自前主義を転じて米ゾルテックを買収したが、たどり直せば出発点は、外から技術を買った1951年の選択にあった——技術をどこから得て、どう自社の礎に変えるか。その問いに、東洋レーヨンが最初の答えを出した決断として残る。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

レーヨン専業の大手と、海の向こうのナイロン

東洋レーヨンは、1926年に三井物産の出資で生まれたレーヨン(人造絹糸)の専業メーカーで、戦前から国内で確固たる地位を築いていた。戦後の復興期、繊維業界の関心は、天然繊維を補う合成繊維へ向かっていた。その先頭を走ったのが米デュポンである。同社は1938年に新しい合成繊維ナイロンを発表し、これは輸入に頼ってきた製糸原料の確保問題を解く素材として注目を集めた。天然の生糸を対米輸出の柱としてきた日本の繊維企業にとって、ナイロンへの対応を避けて通ることはできなかった[1]

自前のナイロン6と、デュポン特許網という壁

東洋レーヨン自身も、合成繊維に無縁ではなかった。1938年10月から合成繊維の研究に着手し、1941年5月にはナイロン6の合成と紡糸に成功、翌年には「アミラン」の名でテグスを売り出していた。しかし戦時中の研究中断で米国との差は開き、自社のナイロン6は、製法こそデュポンのナイロン66と異なるものの、製糸や加工、輸出の自由を確保するには、デュポンの特許網の内側に入る必要があった。レーヨンに次ぐ第二の柱を早く立てるには、特許紛争の危惧を先に消しておく判断が求められた[2][3]

決断

資本金の1.5倍を賭けた技術導入

1951年6月、東洋レーヨンの会長・田代茂樹氏は、米デラウェア州ウィルミントンのデュポン本社で、ナイロンの特許使用許諾契約に調印した。田代は1945年に社長へ就いたのち公職追放で一度退き、1950年に会長として復帰して、この対米交渉を戦後の初仕事に据えた。社長は袖山喜久雄氏が務めていた。契約の前払金は300万ドル、当時の為替でおよそ10億8000万円にのぼり、東洋レーヨンの資本金7億5000万円の、ほぼ1.5倍にあたった[4]

巨額の負担を和らげるため、田代は前払金を5回に分けて払う分割を交渉でまとめ、ロイヤルティは売上高の3%、契約期間は10年とした。契約の中心は特許の実施許諾で、品質の向上とコスト低減に向けた技術援助も受けたが、量産の技術は自力で立ち上げる部分が大きかった。翌1952年1月の社内向け記事は、この提携をめぐり「結局このアミラン繊維の成果如何が、当社の浮沈に影響するところも大きい」と、率直な危機感を書き残している[5]

結果

アミランの国産化と合成繊維メーカーへの転換

契約に前後して、東洋レーヨンは名古屋と愛知の両工場でナイロンの本格生産を始め、1951年、日本で初めてナイロンの原料と繊維を国内で生産した。生産そのものは特許の調印に先立つ同年2月に立ち上がっており、自社開発のナイロン6を、あとから特許で裏づける順序をとった。先発の有利な立場のもと、東洋レーヨンは量産と増産に経営資源を集め、ナイロン事業の成長がもたらす高い収益を、しばらくの間ほぼ一社で占めた。資本金を上回る前払金という重い賭けは、この先発の収益に報われた[6][7]

ナイロン製品は速やかに普及した。1953年には国産ナイロンの下着類が前年の半値まで下がり、読売新聞は「わが国にもナイロン全盛時代がきたようだ」と書いた。東洋レーヨンはこの成功を土台に、1957年には英ICIからポリエステルの技術を導入して「テトロン」を手がけ、レーヨン専業から合成繊維メーカーへ転じた。1960年代の末には、合成繊維の生産量で、ナイロンを生んだデュポンとモンサントに次ぐ世界3位へ伸びた[8][9]

出典・参考