デジタル電子腕時計「カシオトロン」の発売と時計事業への参入
電卓競争からの逃げ道か、電子技術の必然か——なぜ時計に踏み込んだのか
更新:
- 概要
- 1974年11月、カシオはデジタル電子腕時計「カシオトロン」を発売し、時計事業へ参入した。電卓で蓄えた電子技術を、時を数えて表示する腕時計へ応用する新規事業であり、のちのG-SHOCKへ続く柱の始まりとなった。
- 背景
- 電卓は事業のおよそ8割を占めて高収益を上げていたが、価格競争は激しく、米国の有力メーカーは電卓から退いてデジタル時計へ移りつつあった。電卓だけで会社を維持し続けられるかという問いが、経営の内側にあった。
- 内容
- 樫尾社長は、これを多角化ではなく電子の応用技術が事業化のきっかけだと説明した。計算機の「数える・伝える」機能は電子時計と共通するという理解に立ち、消費電力を抑える液晶表示を採り、月産5000個から市場の反応を見て生産を広げた。
- 含意
- 電卓の半導体技術を隣接市場へ移すこの選択は、時計を電卓に次ぐ事業へ育てる出発点となり、1983年のG-SHOCKにつながる時計事業の土台を据えた。
逃げ道ではなく、技術の隣へ
時計参入の核心は、電卓競争からの避難ではなく、蓄えた電子技術を機能の近い隣の市場へ移した点にある。計算機の「数える・伝える」機能と電子時計の親近性という理解に立てば、時計は畑違いの多角化ではなく、同じ技術の応用先にあたる。ゆえにカシオは、量を絞って市場の反応を確かめ、消費電力という時計固有の課題には液晶で応えるという、堅実な立ち上げ方を選んだとみることができる。
もっとも、外部が賭けと呼んだように、後発で未知の要素を抱えた参入であったことも確かであった。それでも時計が定着したのは、電卓と時計を大量に発注する立場が半導体の調達力を生み、その厚みが異種の商品づくりを支えたためであった。電卓で価格の需要創造を実践した会社が、次に技術の隣接という別の型で事業を広げた点に、この判断の意味がうかがえる。時を刻む主力へ育つ道は、ここから始まった。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
電卓一本足の構造と米メーカーの時計シフト
1970年代半ばのカシオは、電子卓上計算機が事業のおよそ8割、システム計算機が1割弱、デジタル電子腕時計が1割という構成であった。電卓は毎年3割ほど価格が下がりながらも生産台数を伸ばし、業績への寄与が大きい採算のよい事業であった。1976年3月期の売上は当初目標の500億円に対して520億円ほど、経常利益も目標の35億円に対して40億円を少し上回る見通しにあった。国内では圧倒的なシェアを握り、技術革新に遅れずモデルを切り替えることで為替の変動も吸収してきた。稼ぎ頭がはっきりしているという点で、経営の足場は固かった[1][2]。
ただし、電卓に偏った構造への不安も同社の内側にあった。米国の有力な電卓メーカーは、競争の激しい電卓から少しずつ退き、そろってデジタル時計の分野へ移り始めていた。樫尾社長は、電卓そのものの将来は有望としながらも、電卓だけで企業を維持・発展させ得るかとなると多少の問題があると、上場企業としての社会的責任にふれつつ語っていた。次の柱を用意する必要は、危機としてではなく先手の課題として意識されていた[3]。
決断
多角化ではなく技術の応用という説明
1974年11月、カシオはデジタル電子腕時計「カシオトロン」を発売した。参入の理由について樫尾社長は、電卓競争が厳しく多角化を迫られたと見る向きもあるが、事実は電子の応用技術の開発がきっかけだと説明した。計算機が計算し判断する技術であるのに対し、電子時計は時を数え、伝える技術であり、電子的にはきわめて近い。長年みがいてきた自信のある技術であるがゆえに踏み込んだのであって、なじみのない分野へ手を広げる多角化ではない、というのが本人の整理であった[4]。
技術で自信があっても、市場に受け入れられるかは別の問題であった。角度で時刻を読むアナログに長く慣れた人々が、数字で時を示す時計をどこまで受け入れるかは読み切れない。そこでカシオは、表示に消費電力の小さい液晶を採り、まず1974年に月産5000個の体制で立ち上げ、市場の反応を見ながら生産を広げていった。表示は、電池を早く消耗する発光式ではなく、いつでも見られる低電力の液晶を選び、寿命への不安には自社で試験設備を設けて対処した。液晶の寿命は当初3年ほどとされたが、研究を重ねるうちに8年から10年へ延び、品質が固まった段階で外注に切り替えた。技術で答えを出せる部分は社内で確かめ、量産の効率は外注と比べて選ぶという、電卓で培った進め方を時計にも当てはめた[5][6]。
結果
賭けという外部の見方と時計事業の定着
外部には、この参入を危うい賭けと見る論調もあった。ある経済誌は、デジタル表示式の全電子ウオッチへの進出は一つの賭けであり、時計で当座の資金はつなげても、失敗すれば銀行や商社の管理下に置かれることになると書いた。当時のカシオにとって時計は未知の要素を多く抱える事業であり、後発の立場でもあった。慎重に量を絞って立ち上げた背景には、こうした不確かさへの警戒があった[7]。
立ち上がりの手ごたえは、当初の見込みより早く現れた。1975年度には売上に占める時計の比率が1割に達する見通しとなり、カシオは八王子工場を時計の専門工場に切り替え、年産15万〜20万個へ増産する計画に転じた。時計を電子技術で組み立てられる強みは、標準品ではなく特注LSIを持ち続ける同社の選択に支えられていた。この技術の基盤が、のちの1983年の耐衝撃腕時計G-SHOCKへと引き継がれ、時計はカシオを代表する事業へ育っていった[8][9]。
- 証券アナリストジャーナル(1976年3月)「電子頭脳であすを創造」樫尾忠雄
- 月刊経済(1975年1月)「急成長の歪みで正念場を迎えたカシオ計算機」
- 日経ビジネス 1979年10月8日号「LSI自在に応用、先手必勝で」
- カシオ計算機 有価証券報告書 第69期(2025年3月期)【沿革】
- カシオ計算機 会社年鑑(1976年版)