起こりは会社ではなく、一つの試験工場だった。1932年、新興毛織の今津工場内に置かれた試験設備で、同社社長の河崎助太郎を中心にステープルファイバー、当時の呼び名でスフの研究が始まる。[1]人造繊維が世界的に伸びていた時期で、綿花を輸入に頼る日本にとって繊維原料の国産化は国策に近い課題でもあった。研究は翌1933年に成案を得たが、まったく新規の事業で成否が読めない。そこで新興毛織は事業を本体から切り離し、専門に経営する会社を別に立てた。1933年8月、資本金1,000万円、うち払込250万円で新興人絹株式会社が設立された。[2]
設備の増設は4年で4度に及んだ。1934年1月、日産15トンの能力を持つ大竹工場の建設に着手し、翌年6月に完成して製造を開始する。[3]同じ1935年12月には紡機3万錘の岐阜紡績工場を建て、スフ綿は『新光』、スフ糸は『新光レヨネット』の名で市場に出た。1937年10月には日産40トンの大竹第二工場が完成し、翌年3月には岐阜工場へ3万錘を増設する。スフ市況は1936年ごろから活況を呈し、人繊工業の確立を掲げる政府方針にも助けられて、社業は1938年におおよその頂点に達した。[4]未払込資本金の払込も同年までに完了している。
1937年、三菱が傘下に化繊会社を加える方針を決め、新興人絹に提携を申し入れる。同社はこれを将来の発展に望ましいと判断して受け入れ、三菱系の日本化成工業を通じて資本関係を結んだ。[5]日本化成工業は以後の親会社となる。1939年以降は戦時経済統制が強まり、民需用スフの生産割当は減り続け、輸出も細った。1941年11月には大豆蛋白繊維の設備資金として資本金を1,500万円へ増やしたが、統制はゆるまなかった。1942年10月、新興人絹は親会社の日本化成工業に合併される。[6]設立から9年で、法人としての新興人絹はいったん消えた。
合併の直後、のちに主力となる製品の製造が大竹で始まった。1943年11月、航空機用の風防ガラスを作るため、大竹工場にメタアクリル樹脂すなわち有機ガラスの製造設備が建てられ操業に入った。[7]戦前の航空機の風防ガラスはすべてこの樹脂ガラスだったというのが、後年の三菱レイヨン自身の説明である。[8]同じ年、大竹のスフ綿設備と岐阜の紡績設備の一部は軍需へ供出され、繊維の生産能力は削られた。1944年5月には日本化成工業が旭硝子と合併して三菱化成工業となる。1945年7月、岐阜工場は空襲で焼失した。繊維設備を失う一方で、樹脂の技術だけが残った。
戦後、三菱化成工業は特別経理会社および集中排除の指定会社となった。会社側は成り立ちに沿って、旧新興人絹・旧日本化成・旧旭硝子の三部門へ分ける案を立て、部門別の責任経営に移る。集排法の指定はのちに取り消されたが、三社分離の方針は変わらなかった。1950年1月に新光レイヨン、日本化成工業、旭硝子の3社が設立され、親会社の三菱化成は解散する。[9]新光レイヨンは同年6月、親会社からの現物出資9,000万円と株式募集3,000万円をあわせた資本金1億2,000万円で発足した。[10]以後2017年まで続く法人は、ここから始まる。
分割で生まれた3社のうち、レイヨンは行き先として人気がなかった。1946年に三菱化成工業へ入り、のちに社長となる永井彌太郎氏は、分割にあたって化成に行くつもりだったが、大阪支店長にしつこく誘われて新光レイヨンへ移ったと述べている。3社のうちレイヨンの業績は長く低迷を続けた、というのが当人の振り返りである。[11]もっとも、朝鮮戦争による糸へん景気がこの会社を救った。休止していた大竹第一工場を整備し、1951年2月には早くも戦前最高の生産量を突破する。資本金は1951年3月に3億円、1952年4月に6億円と積み増され、1952年12月、商号は三菱レイヨンとなった。[12]
1955年ごろ、三菱レイヨンはスフ綿月産470万封度、スフ糸190万封度でいずれも業界第二位、有機合成樹脂は月産41トンで業界第一位に達していた。[13]1955年3月期の総売上高は40億9,000万円である。日本の繊維産業が戦前水準を回復した1956年前後から、同社は海外技術の導入で品種を増やした。1956年7月に米セラニーズ社と提携して三菱アセテート、1957年12月には米モンサント社と提携して三菱ボンネルを設立し、アセテートとアクリルの両方を手に入れる。[14]1959年には自社開発のポリノジック繊維を企業化し、1961年にはイタリアのモンテカチニ社からポリプロピレン繊維の技術を導入した。
広げた品種のなかから、アクリルが主力に育った。1968年時点の年間売上高は約1,300億円で、内訳はアクリル製品56%、アセテート製品17%、レーヨンおよびポリノジック製品11%、ポリプロピレン製品10%、メタアクリル樹脂6%だった。[15]レーヨン専業として出発した会社が、15年でアクリル中心の総合化繊メーカーに変わっている。原料の側も手当てした。1965年11月には日東化学工業の経営に参加し、アクリル繊維の原料であるアクリロニトリルの供給元を押さえた。[16]この持分は1998年10月の合併まで維持された。
1971年、合繊の需給と輸出が同時に崩れた。生産拡大のなかで需給の緩みが出て価格が下がりかけていたところへ、輸入課徴金を含むニクソン・ショックが重なる。好調だった輸出が打撃を受け、国内へのなだれ込みを見越して価格は暴落した。三菱レイヨンは同年9月、企業の原点に立ち返る社内刷新運動を始める。社内ではMR(Management Revolution)運動と呼ばれた。[17]運動の柱の一つが、主力製品ボンネルの輸出依存度を約5割から3割へ引き下げることだった。[18]市況の波をそのまま業績に受ける体質を、この時点で問題に挙げた。
もう一つの手が、1972年5月の東洋紡とのトップ会談だった。今後の繊維不況は構造的なものになる。それに対処するには両社の企業力を合わせて新しい有力なグループを作り、業界再編の先駆けを目指す。[19]この共通認識のもとで両社は全面提携に踏み切った。1973年3月期の売上高は773億円の見通しで、内訳はボンネル384億円、ポリエステル長繊維ソルーナ179億円、樹脂131億円、パイレン39億円、化繊40億円で、輸出は154億円と約20%を占めた。[20]当時のMMA樹脂の生産量では米ロームアンドハースの23万6,000トンに次ぐ11万1,000トンで、デュポンを抑えて世界2位に立っていた。[21]
1973年の第1次石油危機を境に、合繊事業は世界的な構造不況に入った。設備過剰と過剰人員が同時に露呈し、三菱レイヨンは1976年3月期に無配となる。自己資本比率は9%まで落ちた。[22]業界全体でも1977年10月から通産省の勧告操短が始まり、1978年4月からは不況カルテル、同年5月に成立した構造不況法のもとで1979年1月から設備凍結に入った。繊維産業の従事者は1974年末の87万人から1978年末には72万人へ減った。5年前に結んだ東洋紡との提携は1977年11月、アクリル繊維の共同販売会社ダイヤファイバーズの営業開始として具体化する。[23]旭化成と鐘紡も翌1978年6月に日本合成繊維を発足させており、業界は二つのグループに分かれた。
減らしたのは、まず人だった。三菱レイヨングループの従業員数はピーク時の11,000人から5,500人へ半減し、単体では9,300人が3,600人へと3分の1になっている。[24]それでいて業容は縮まなかった。不採算事業の撤収、人員削減、コスト削減を重ねた結果、1979年3月期に浮上し、1980年3月期には累積赤字を一掃して経常利益55億円を計上、5年越しで6%の復配にこぎ着けた。レーヨン事業そのものは、この構造改善のなかで全面撤収された。[25]社名に残った『レイヨン』は、事業としてはこの時期に消えた。
構造不況を抜けた三菱レイヨンが掲げたのは『収益第一主義』で、具体的な指標は1株当たり税引後利益20円、すなわち毎年資本金と同額程度の経常利益を出すことだった。[26]市況の波を受けにくい体質に変えるため、繊維と樹脂の高付加価値化、非繊維事業の拡充、コストダウン、原料対策、財務体質の改善という5つを挙げた。大竹工場のボイラーを重油専焼から石炭混焼へ18億円かけて転換し、豊橋工場は重油をLNGに替えた。年間1,000億円近い原燃料を使うため、1%安く買えれば10億円の利益になるという算段だった。[27]
原料対策のうち、最も後に効いたのがMMAモノマーの製法転換である。従来のACH法はアクリロニトリル製造の副産物である青酸を原料に使うため、増産しようにも原料の確保に限界があった。三菱レイヨンは世界に先がけてイソブチレンの直接酸化法を開発し、約100億円を投じて年産4万トンの工場を大竹に建設、1982年夏に完成させる。[28]必要なら同業他社にも融通する、というのが当時の説明だった。この設備を常務時代に決めたのが永井彌太郎氏で、1988年に社長へ就いた時点では、それが収益力の柱になっていたと日経ビジネスは書いている。[29]
1991年3月期、三菱レイヨンの炭素繊維部門の売上高は前年度比23%増の138億円となり、東邦レーヨンを抜いて東レに次ぐ2位に入った。[30]競合から驚きの声が上がったのは、生産能力の差があまりに大きかったからである。同社の年産能力は500トンで、東邦レーヨンの2,020トン、東レの2,250トンに対して4分の1程度しかない。[31]しかも市況は悪かった。米国防予算の削減で軍需が1989年比3分の1に減り、余った炭素繊維が一般産業用途になだれ込んで、1990年から市況は悪化の一途をたどっていた。
差を生んだのは売り方だった。東レと東邦レーヨンは原糸が売上の半分以上を占め輸出比率も高かったのに対し、三菱レイヨンは成形品で売上の9割近くを稼ぎ、輸出はほとんど手がけていない。[32]原糸やプリプレグより付加価値の高い成形品を中心に置いたので、市況悪化の影響を受けずに済んだ。技術の裏づけもあった。名古屋の商品開発研究所、原糸を生産する豊橋事業所、本社の炭素繊維複合材料事業部の技術スタッフを製品ごとに組み替える開発チームを作り、素材の選定から加工、評価までを一手に引き受けている。[33]プリプレグを製品に加工する設備を持たない顧客からの注文を、この体制で次々と取った。
国内で通用した戦略を、そのまま最大市場の米国へ持ち込む。1990年5月にプリプレグを製造販売する米ニューポート・コンポジット社を50億円強で買収し、社内公募で選んだ若手研究者を1人送り込んで成形技術を教えた。[34]翌1991年6月には原糸を作る米コートルズ・グラフィル社を約20億円で買収し、設備能力を900トンへ増やした。[35]単独で進出すればほぼ同額の投資が要るところ、米国市場の低迷で現地メーカーの収益が軒並み悪化していたため、半分以下の投資で済んだ。ただしコートルズ社は1990年度に赤字転落しており、黒字化の見通しは立っていなかった。
非繊維化の比率は1975年の20%から1980年度に40%へ上がり、合繊9社の平均が1977年度27%から1983年度37%へ動くなかで、三菱レイヨンは50%に達している。[36]旭化成の70%には及ばないが、鐘紡の41%は上回った。繊維から離れる先として同社が選んだのは、樹脂のほかに膜だった。多孔質の中空糸や膜を作る技術は、1982年の時点で人工肺やプラズマ・セパレーターなど医療用途の素材として説明されており、当時はガンやリューマチの治療向けに1,500億円規模の市場を見込んでいた。[37]この技術は結果として、家庭用浄水器『クリンスイ』の形で先に大衆化した。
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|---|---|---|---|---|
| 1933〜1952年新興人絹から、企業再建整備の分割を経て三菱レイヨンへ | 新興毛織の試験工場でのステープルファイバー研究を母体に、新興人絹を設立 | ★ | ||
| 広島県大竹に大竹工場を新設 | ★ | |||
| 紡機3万錘を持つ岐阜紡績工場を新設し操業を開始 | ★ | |||
| 三菱が日本化成工業を通じて資本参加 | ★ | |||
| 戦時企業整備のなかで日本化成工業に合併され、法人としての新興人絹が消滅 | ★ | |||
| 大竹工場に有機ガラス工場を新設し操業開始 | ★ | |||
| 日本化成工業と旭硝子が合併し三菱化成工業が発足 | ★ | |||
| 岐阜工場が空襲で焼失 | ★ | |||
| スフ糸の生産が途絶 | ★ | |||
| 企業再建整備法により三菱化成工業が3社に分割され、新光レイヨンとして発足 | ★★ | |||
| 商号を三菱レイヨンに変更 | ★ | |||
| 1953〜1979年ボンネルと総合化繊メーカーへの拡張、そして構造不況 | セラニーズ社と業務提携し三菱アセテートを設立 | ★ | ||
| モンサントと業務提携 | ★ | |||
| アクリル繊維事業に参入 | ★★ | |||
| モンテカチニ社からポリプロピレン繊維の製造技術を導入 | ★ | |||
| 豊橋工場を新設 | ★ | |||
| 日東化学工業の経営に参加 | ★ | |||
| ABS樹脂事業に参入 | ★ | |||
| エンカ・インターナショナルからポリエステル長繊維の製造技術を導入 | ★ | |||
| メタブレン(塩化ビニル樹脂の改質剤)事業に参入 | ★ | |||
| 社内刷新運動「MR(Management Revolution)運動」を開始 | ★ | |||
| 東洋紡とのトップ会談で全面的な事業提携に踏み切る | ★★ | |||
| 第1次石油危機後の合繊の構造不況で無配に転落 | ★★ | |||
| 東洋紡との共同出資によるアクリル繊維販売会社「ダイヤファイバーズ」が営業を開始 | ★ | |||
| 1980〜1999年収益第一主義とMMA・炭素繊維への傾斜 | 減量経営により累積赤字を一掃 | ★ | ||
| 5年越しで6%復配 | ★ | |||
| イソブチレン直接酸化法によるMMAモノマー工場を大竹に建設 | ★★ | |||
| デュポン社と合弁でエムアールシー・デュポンを設立 | ★ | |||
| 永井彌太郎氏が社長に就任 | ★ | |||
| 炭素繊維プリプレグを製造販売する米ニューポート・コンポジット社を50億円強で買収 | ★ | |||
| 炭素繊維での成形品重視の川下路線と、米プリプレグ・原糸2社の買収 1990年前後、三菱レイヨンが炭素繊維事業で原糸の増産競争を避け、プリプレグを加工した成形品を主力に据えた。あわせて米国のプリプレグ会社と原糸会社を相次いで買収し、米国でも原糸から成形品までを一貫して生産する体制を整えた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 炭素繊維の設備能力を900トンに拡大 | ★ | |||
| セメンタイケミカルほか3社との合弁でタイ・エムエムエーを設立 | ★ | |||
| 日東化学工業を合併 | ★★ | |||
| 2000〜2017年MMAで世界首位に立ち、統合で幕を閉じるまで | 皇芳之氏が社長に就任 | ★ | ||
| 初の非繊維出身社長の起用とMMA基軸への経営資源集中 2006年6月、三菱レイヨンは樹脂・化成品一筋に歩んだ鎌原正直氏を社長に据えた。1933年にレーヨンで創業した同社にとって初の非繊維出身社長であり、前任の皇芳之社長が進めたアクリル系事業への集中を引き継いで、MMA(メタクリル酸メチル)系事業を基幹に置き、日本・タイ・中国・韓国にまたがる一貫生産の体制を固めた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 韓国湖南石油化学と合弁で大山MMAを設立 | ★ | |||
| 世界的な金融危機で営業損失76億円・当期純損失290億円を計上 | ★ | |||
| 英ルーサイト・インターナショナルの買収とMMA世界首位への浮上 2008年11月11日、三菱レイヨンがMMA(メタクリル酸メチル)モノマーで生産能力世界首位の英 Lucite International Group Limited の発行済株式すべてを取得する契約を結び、2009年5月28日に約16億米ドルで買収を完了した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 三菱レイヨンの公開買付けによる子会社化(総額約2100億円) 2009年11月19日、三菱ケミカルホールディングスと三菱レイヨンが経営統合の基本合意を公表し、三菱ケミカルが公開買付け(TOB)で三菱レイヨンを子会社化する方針を発表した経営判断。TOB価格は1株380円、翌2010年3月30日に議決権ベース約78%を取得して連結子会社化し、同年10月に株式交換で完全子会社とした。取得総額は約2100億円に上った。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 三菱ケミカルHDとの株式交換により完全子会社となり、を上場廃止 | ★ | |||
| 三菱化学・三菱化学エンジニアリングから日本錬水を取得 | ★ | |||
| 三菱化学・三菱樹脂・三菱レイヨンの統合・三菱ケミカル発足(2017年成立) 2017年4月1日、三菱ケミカルホールディングス傘下の化学系3社(三菱化学・三菱樹脂・三菱レイヨン)が合併し、事業会社『三菱ケミカル』が発足した。売上高3兆円近くの、単一企業として国内断トツの総合化学メーカーが誕生した。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(三菱レイヨン)