アツギ の歴史

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創業 1947年
創業者 堀禄助
創業地 神奈川県高座郡海老名町
創業
1947年12月24日、堀祿助氏が資本金19万5,000円で厚木編織を設立し、社長に就任した。1943年10月から神奈川県海老名の自社施設で片倉工業と協同経営していた絹の新規用途と人造テグスの試作研究が母体で、独立後の仕事も片倉工業からの絹ロープの受託加工である。あわせて撚糸・漁網・メリヤス靴下を併行生産した。1951年、綿糸の統制撤廃に合わせて漁網を廃止し、撚糸と染色の設備を更新して糸から製品までの一貫工程を整える。1952年1月にシームレスストッキングとタイツの製造販売へ着手し、1954年5月には同じウーリーナイロンと同じ編立・染色の設備でウーリーナイロン肌着を加えた。1960年1月、商号を厚木ナイロン工業へ改める。
決断
問屋が抱えるはずの在庫を、自社の決算へ載せてきた。堀祿助社長は繊維二次製品の弱点を流通段階の複雑さに見ており、1961年5月に全国直販網の確立を目的として厚木ナイロン商事を設立し、自社製品を一括して販売させた。売り先は全国の百貨店と特約小売店で、問屋を通さない直売方式を採る。問屋マージンを排したことで収益力は高まり、1962年11月期の税込利益は5億9,205万円に達した。ところが1968年5月期には創立以来はじめての欠損7,400万円を出して無配へ転落する。主因の一つは、それまで厚木ナイロン商事が持っていた備蓄を親会社が負担した点にあった。1999年10月、本体はその厚木ナイロン商事を吸収合併して商号をアツギへ改め、在庫を持つ主体は完全に本体へ収まった。
現況
6期続けて営業損失を計上し、黒字は売上の3%の不動産だけである。2026年3月期の連結売上高は214億円、営業損益は10億円の損失で、2021年3月期から6期連続の営業赤字となった。繊維事業は売上202億円に対し15億円の営業損失、不動産事業は売上7億円に対し5億円の営業利益である。2023年8月に住友商事と本社土地27,540平方メートルへ70年の一般定期借地権を設定し、2024年10月から賃貸が始まった。2025年3月期には継続企業の前提に重要な疑義を生じさせる事象があると開示したうえで、現金及び預金54億円と自己資本比率77.5%を挙げて重要な不確実性は認められないと判断している。2026年5月13日、前年9月に公表したばかりの中期経営計画を初年度で取り下げた。
競合
自前の販売網を持ったことが、需要が消えたときの逃げ場を狭めた。1961年に設けた直販の網は百貨店と特約小売店を6,000店まで広げ、1963年のシームレスストッキング類は150万ダースへ伸びた。原糸を供給した東洋レーヨンファーストリテイリングと提携してヒートテックを共同開発したのは2006年で、素材を売る立場のまま最終商品の相手を替えた。アツギは店頭までの経路を自社で持つかわりに、そこへ流す品目をレッグウェアから動かさなかった。在宅勤務と外出自粛で需要が減少した2021年3月期の連結売上高は162億円まで縮み、2020年10月には約130人の希望退職を募る。同年8月にレナウンインクスの全株式を取得してインナーウェアを足したものの、繊維事業の営業損失は解消していない。
長期業績の推移 1950〜2026年
アツギ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 絹ロープの受託加工から婦人靴下へ、東洋レーヨン系列に入るまで (1947年〜)

創業ストーリー(1)

片倉工業との協同経営から始まった絹ロープ受託加工

堀祿助氏は1908年に神奈川県で生まれ、1937年に東京工業大学を卒業して片倉工業に入り[1]、研究生活を送ったのち企画・考査・調査の仕事に長く携わった[2]。1943年10月、堀氏は海老名工場の所有施設を提供し、片倉工業との協同経営の形態で、絹の新規用途と人造テグスに関する試作研究と事業化に乗り出した[3]。戦時下に始まったこの共同事業が、そのまま戦後の独立会社の土台になった[4]。1947年12月24日、資本金19万5000円で厚木編織株式会社が発足して堀氏が社長に就き[5]、手がけたのは片倉工業からの絹ロープの受託加工で、あわせて撚糸、漁網、メリヤス靴下を併行生産した[6]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
    • [1]社長堀祿助は明治41年神奈川生まれ、昭和12年東京工大、片倉工業出身
    • [3]昭和18年10月、現社長堀祿助が海老名工場において所有施設を提供し、片倉工業と協同経営形態で、絹に関する新規用途および人造テグスに関する試作研究と事業化を行なう
    • [4]厚木編織は堀祿助が所有施設を提供した海老名工場を拠点に設立され、片倉工業からの絹ロープの受託加工を事業として始めた
    • [6]昭和22年12月、片倉工業からの絹ロープの受託加工を始めるとともに、撚糸、漁網、メリヤス靴下の併行生産を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1963年(堀祿助・寄稿)
    • [2]堀祿助は片倉工業で長い研究生活を送り、その後ほとんど企画の仕事を行ない、25年前に片倉工業で取り上げた企画・考査・調査に長く携わったと記した
  • アツギ 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1947年12月、堀禄助が神奈川県海老名町に厚木編織を設立(設立昭和22年12月24日、資本金19万5000円、堀祿助は昭22社長)

堀氏が二次製品に賭けた理由は、原料をつくる側の商売の仕方への不満にあった[7]。生糸は作れば市場が引き取る商品であり、輸出も糸のまま出せば足りるとされており[8]、糸を売る側は最終商品の姿を考えずに済むため、競争が激しくなるほど体質の欠陥が表に出た[9]。堀社長は戦後に伸びる衣料の相手を女性と子供に見定め、なかでも女性向けの二次製品へ的を絞った[10]。絞り込みは工場の形にも及び、1951年には綿糸の統制撤廃に合わせて漁網を廃止し、撚糸と染色の設備を更新・拡充して、糸から製品までの一貫作業工程を確立した[11]

  • 証券アナリストジャーナル 1963年(堀祿助・寄稿)
    • [7]堀祿助は、原料産業と二次産業の間の断絶が最も典型的に表れたのが繊維産業だと見て、二次産業に打ち込んだと記した
    • [8]堀祿助は、生糸はとにかく生産すれば市場で売れる、外国への輸出も糸で出せばよいという考えが経営者に染みついていたと記した
    • [9]堀祿助は、繊維産業の競争が激しくなるにつれ、二次産業を欠いた体質の欠陥が表れたと記した
    • [10]堀祿助は戦後の衣食住を考えるうえで女性と子供に着目し、何かに絞るべきだと考えて女性の商品が最も有望だと判断したと記した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
    • [11]昭和26年、綿糸の統制撤廃とともに漁網を廃止し、撚糸・染色設備の更新拡充を行ない、一貫作業工程の確立を図る
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
    • [1]社長堀祿助は明治41年神奈川生まれ、昭和12年東京工大、片倉工業出身
    • [3]昭和18年10月、現社長堀祿助が海老名工場において所有施設を提供し、片倉工業と協同経営形態で、絹に関する新規用途および人造テグスに関する試作研究と事業化を行なう
    • [4]厚木編織は堀祿助が所有施設を提供した海老名工場を拠点に設立され、片倉工業からの絹ロープの受託加工を事業として始めた
    • [6]昭和22年12月、片倉工業からの絹ロープの受託加工を始めるとともに、撚糸、漁網、メリヤス靴下の併行生産を開始
    • [11]昭和26年、綿糸の統制撤廃とともに漁網を廃止し、撚糸・染色設備の更新拡充を行ない、一貫作業工程の確立を図る
  • 証券アナリストジャーナル 1963年(堀祿助・寄稿)
    • [2]堀祿助は片倉工業で長い研究生活を送り、その後ほとんど企画の仕事を行ない、25年前に片倉工業で取り上げた企画・考査・調査に長く携わったと記した
    • [7]堀祿助は、原料産業と二次産業の間の断絶が最も典型的に表れたのが繊維産業だと見て、二次産業に打ち込んだと記した
    • [8]堀祿助は、生糸はとにかく生産すれば市場で売れる、外国への輸出も糸で出せばよいという考えが経営者に染みついていたと記した
    • [9]堀祿助は、繊維産業の競争が激しくなるにつれ、二次産業を欠いた体質の欠陥が表れたと記した
    • [10]堀祿助は戦後の衣食住を考えるうえで女性と子供に着目し、何かに絞るべきだと考えて女性の商品が最も有望だと判断したと記した
  • アツギ 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1947年12月、堀禄助が神奈川県海老名町に厚木編織を設立(設立昭和22年12月24日、資本金19万5000円、堀祿助は昭22社長)
創業ストーリー(2)

シームレスストッキングへの一点集中

堀社長は東洋レーヨンがナイロンの国産化を計る以前からナイロンと生糸の関係を研究し、ナイロンを使う最もめぼしい商品としてストッキングを選んでおり[12]、1952年1月、シームレスストッキングおよびタイツの製造販売に着手した[13]。素材を先に決め、その素材でなければ作れない商品を後から探す順序であり、繊維産業には長い歴史があったが、堀社長の見るところ二次製品にはまだ手が入っていなかった[14]。当時の婦人靴下はフルファッションとトリコットが主流で、絹やトリコットの時代を含めて30年以上その2品目が続いていた[15]。縫い目のないシームレスには、まだ日本の店頭に置き場がなかった[16]

  • 証券アナリストジャーナル 1963年(堀祿助・寄稿)
    • [12]堀祿助は、東洋レーヨンがナイロンの国産化を計る以前からナイロンと生糸の研究を取り上げ、女性の衣料とナイロンを結びつけた最もめぼしい商品としてストッキングを考えたと記した
    • [14]堀祿助は、繊維産業には長い歴史があるが二次製品で考えると全く手が入っていないと記した
    • [15]他の靴下すなわちフルファッションストッキング、トリコットストッキングは日本に昔からあり、絹・トリコットからナイロンのそれに至るまで30年以上その時代が続いた
    • [16]堀祿助は、原料メーカーがシームレスの消費層はフルファッションなどと同じで全体の消費量は変わらず業界内部に混乱が起きるだけだとして、輸出に主体をおくよう勧告したと記した
  • アツギ 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1952年1月、シームレスストッキングおよびタイツの製造販売に着手(昭和27年1月ナイロンストッキングの本格的生産に着手)

1954年5月、ストッキングと同じウーリーナイロンを使い、同じ編立と染色の設備で品目を増やす形で[17]、ウーリーナイロン肌着の製造を開始した[18]。婦人肌着は薄さと暖かさを同時に求められる商品で、伸縮するナイロン糸はその両方に応え[19]、ストッキング一本だった柱に女性の肌着が並んだ[20]。増資も続き、資本金は1950年10月の公募で500万円、1953年3月の株主割当で1000万円へ増え[21]、売上高は1954年12月期に2億470万1000円、当期純利益は667万9000円で、設立から7年で年商2億円台に乗せた[22]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
    • [17]ストッキング、タイツとも編立機で編立てし、染色工場で一貫作業を行なう
    • [18]昭和29年5月、ウーリーナイロン肌着の製造を開始
    • [21]資本異動は昭和25年10月に500万円(1対20公募)、昭和28年3月3日に1000万円(1対1)
    • [22]過去の業績、昭和29年12月期の売上高204,701千円、利益6,679千円
  • 証券アナリストジャーナル 1963年(堀祿助・寄稿)
    • [19]堀祿助は、女性はなるべく薄いものを好むと同時に暖かいものを好み、ナイロンの伸縮自在の糸を使った薄くて暖かい肌着を好む本能があると記した
    • [20]堀祿助は、ウーリーナイロンによる婦人肌着も着々販路を拡げていると記した
  • 証券アナリストジャーナル 1963年(堀祿助・寄稿)
    • [12]堀祿助は、東洋レーヨンがナイロンの国産化を計る以前からナイロンと生糸の研究を取り上げ、女性の衣料とナイロンを結びつけた最もめぼしい商品としてストッキングを考えたと記した
    • [14]堀祿助は、繊維産業には長い歴史があるが二次製品で考えると全く手が入っていないと記した
    • [15]他の靴下すなわちフルファッションストッキング、トリコットストッキングは日本に昔からあり、絹・トリコットからナイロンのそれに至るまで30年以上その時代が続いた
    • [16]堀祿助は、原料メーカーがシームレスの消費層はフルファッションなどと同じで全体の消費量は変わらず業界内部に混乱が起きるだけだとして、輸出に主体をおくよう勧告したと記した
    • [19]堀祿助は、女性はなるべく薄いものを好むと同時に暖かいものを好み、ナイロンの伸縮自在の糸を使った薄くて暖かい肌着を好む本能があると記した
    • [20]堀祿助は、ウーリーナイロンによる婦人肌着も着々販路を拡げていると記した
  • アツギ 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1952年1月、シームレスストッキングおよびタイツの製造販売に着手(昭和27年1月ナイロンストッキングの本格的生産に着手)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
    • [17]ストッキング、タイツとも編立機で編立てし、染色工場で一貫作業を行なう
    • [18]昭和29年5月、ウーリーナイロン肌着の製造を開始
    • [21]資本異動は昭和25年10月に500万円(1対20公募)、昭和28年3月3日に1000万円(1対1)
    • [22]過去の業績、昭和29年12月期の売上高204,701千円、利益6,679千円
創業ストーリー(3)

東洋レーヨンの系列工場指定と売上高11億円

1955年8月に東洋レーヨンのウーリーナイロン加工糸系列工場へ指定されたのを皮切りに[23]、1957年6月にウーリーナイロン糸染色系列工場、1958年3月にはテトロン糸染色系列工場となった[24]。主要原材料のナイロン原糸は東洋レーヨンから供給を受け、編立機で編み立てて染色工場で仕上げるまでを一貫作業でつないだ[25]。原料を持つ会社から供給を受けて加工する立場は、片倉工業から絹ロープを受託した創業期と変わらず[26]、変わったのは、加工した先が委託元の製品ではなく、自社で企画した婦人向け商品になった点にある[27]。資本金は1956年9月に2000万円、1957年8月に3000万円、1958年6月に6000万円へ引き上げられた[28]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
    • [23]昭和30年8月、東洋レーヨンのウーリーナイロン加工糸系列工場に指定
    • [24]昭和32年6月に東洋レーヨンのウーリーナイロン糸染色系列工場に指定、昭和33年3月に東洋レーヨンのテトロン糸染色系列工場となる
    • [25]主要原材料はナイロン原糸で東洋レーヨンから供給を受け、ストッキング、タイツとも編立機で編立てし、染色工場で一貫作業を行なう
    • [26]創業時は片倉工業からの絹ロープの受託加工を行ない、昭和30年8月以降は東洋レーヨンの系列工場としてナイロン原糸の供給を受けた
    • [27]製品はすべて「アツギ」の商標で販売される
    • [28]資本異動は昭和31年9月6日に2000万円、昭和32年8月1日に3000万円、昭和33年6月18日に6000万円

系列指定を受けた1955年を境に売上高と利益の段が上がり、1955年12月期の売上高は3億3647万9000円、当期純利益は260万1000円で、配当はなかった[29]。翌1956年12月期は売上高6億8126万4000円、純利益4124万円へ伸び、年4分の配当に踏み切った[30]。1958年12月期は売上高7億1064万5000円、純利益3216万8000円で、配当は年2分にとどまった[31]。1959年12月期には売上高11億803万3000円、純利益1億36万8000円へ達し[32]、資本金は同年8月に9000万円となって設立時の19万5000円から461倍に積み上がった[33]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
    • [29]過去の業績、昭和30年12月期の売上高336,479千円、利益2,601千円、配当なし
    • [30]過去の業績、昭和31年12月期の売上高681,264千円、利益41,240千円、配当年4分
    • [31]過去の業績、昭和33年12月期の売上高710,645千円、利益32,168千円、配当年2分
    • [32]過去の業績、昭和34年12月期の売上高1,108,033千円、利益100,368千円
    • [33]資本異動は昭和34年8月8日に9000万円、設立時(昭和22年12月24日)の資本金は195千円
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
    • [23]昭和30年8月、東洋レーヨンのウーリーナイロン加工糸系列工場に指定
    • [24]昭和32年6月に東洋レーヨンのウーリーナイロン糸染色系列工場に指定、昭和33年3月に東洋レーヨンのテトロン糸染色系列工場となる
    • [25]主要原材料はナイロン原糸で東洋レーヨンから供給を受け、ストッキング、タイツとも編立機で編立てし、染色工場で一貫作業を行なう
    • [26]創業時は片倉工業からの絹ロープの受託加工を行ない、昭和30年8月以降は東洋レーヨンの系列工場としてナイロン原糸の供給を受けた
    • [27]製品はすべて「アツギ」の商標で販売される
    • [28]資本異動は昭和31年9月6日に2000万円、昭和32年8月1日に3000万円、昭和33年6月18日に6000万円
    • [29]過去の業績、昭和30年12月期の売上高336,479千円、利益2,601千円、配当なし
    • [30]過去の業績、昭和31年12月期の売上高681,264千円、利益41,240千円、配当年4分
    • [31]過去の業績、昭和33年12月期の売上高710,645千円、利益32,168千円、配当年2分
    • [32]過去の業績、昭和34年12月期の売上高1,108,033千円、利益100,368千円
    • [33]資本異動は昭和34年8月8日に9000万円、設立時(昭和22年12月24日)の資本金は195千円
創業ストーリー(4)

原糸メーカーの系列入りと国内販売への切り換え

1960年1月、合成繊維の取り扱いおよび輸出業務の拡張に伴い、商号を厚木編織から厚木ナイロン工業へ変更した[34]。社名に据えたナイロンの原糸は東洋レーヨンから供給を受け、1955年8月にウーリーナイロン加工糸、1957年6月にウーリーナイロン糸染色、1958年3月にテトロン糸染色と、三度にわたって同社の系列工場の指定を受けた[35]。1962年11月末の大株主にも東洋レーヨンが持株比率2.4%で並び[36]、原糸を売る相手が株主として残る関係の上で、堀祿助社長は女性と子供に向けた繊維二次製品へ品目を絞った[37]

  • アツギ 有価証券報告書【沿革】
    • [34]1960年1月、合成繊維の取扱いおよび輸出業務の拡張に伴い商号を厚木ナイロン工業に変更した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
    • [35]主要原材料のナイロン原糸は東洋レーヨンから供給を受け、1955年8月にウーリーナイロン加工糸系列工場、1957年6月にウーリーナイロン糸染色系列工場、1958年3月にテトロン糸染色系列工場に指定された
    • [36]1962年11月末の大株主に東洋レーヨンが977,925株・持株比率2.4%で名を連ねた
  • 証券アナリストジャーナル 1963年(堀祿助・寄稿)
    • [37]堀祿助社長は戦後の繊維事業を建て直す企画として女性と子供の商品を選び、繊維二次製品に絞った

東洋レーヨンがナイロンを国産化する以前から、堀社長はナイロンと生糸の研究に取り組み、ナイロンを使う商品としてストッキングを選んでいた[38]。1961年5月、シームレスストッキングを輸出から国内販売へ切り換え、シームレスの先駆けとして国内市場に乗り出したが[39]、原料メーカーは、シームレスの消費者はフルファッションなどと同じ層で全体の消費量は変わらないとして、輸出に主体を置くよう勧告していた[40]。国内販売の初年は批判が多く10万ダースにとどまったが、1962年には約75万ダースへ伸び、1963年はシームレスストッキング類が150万ダースに達し[41]、シームレスタイツも1961年の約5万ダースが1962年に30万ダース、1963年度は45万から50万ダースの予想となる[42]

  • 証券アナリストジャーナル 1963年(堀祿助・寄稿)
    • [38]堀祿助社長は東洋レーヨンがナイロンを国産化する以前からナイロンと生糸の研究を取り上げ、ナイロンを使った商品としてストッキングを選んだ
    • [40]シームレス開発時、原料メーカーは消費層が既存のフルファッション等と重なり全体の消費量は変わらないとして輸出に主体を置くよう勧告した
    • [41]シームレスストッキングの国内販売は1961年10万ダース、1962年約75万ダース、1963年はシームレスストッキング類で150万ダース
    • [42]シームレスタイツは1961年約5万ダース、1962年30万ダース、1963年度は45万から50万ダースの予想
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「厚木ナイロン工業」
    • [39]1961年5月にシームレスストッキングを輸出より国内販売に切り換え、シームレスのパイオニアとして本格的に国内販売に乗り出した

堀社長は繊維の二次製品について、流通段階の複雑さを弱点と見ており[43]、1961年5月、全国直販網の確立を目的に厚木ナイロン商事を設立し、自社製品を一括して販売させた[44]。販売先は全国の百貨店と特約小売店50軒で、問屋を通さない直売方式を採用しており[45]、1963年には百貨店にコーナーを置き、小売店は6,000店、年内に7,000店へ広げる見通しにあった[46]。問屋マージンを排したことで収益力は高まり、1962年11月期の売上高は24億1,046万6千円、税込利益は5億9,205万6千円を計上した[47]

  • 証券アナリストジャーナル 1963年(堀祿助・寄稿)
    • [43]堀祿助社長は繊維産業の弱点として流通段階の複雑さを挙げ、二次製品ではそれが極端だと述べた
    • [46]1963年時点で厚木ナイロン商事の販売網は全国のほとんどの百貨店にコーナーを設け、小売店は6,000店、年内に7,000店まで充実する見通しだった
  • アツギ 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1961年5月、全国直販網の確立を目的に厚木ナイロン商事を設立した。同社は厚木ナイロン工業の製品を一括して販売する子会社である
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
    • [45]販売面は全国百貨店と特約小売店50軒をもつが、問屋を通さず直売方式を採用している
    • [47]問屋マージンの排除で収益力が高まった。1962年11月期の売上高は2,410,466千円、税込利益は592,056千円
  • アツギ 有価証券報告書【沿革】
    • [34]1960年1月、合成繊維の取扱いおよび輸出業務の拡張に伴い商号を厚木ナイロン工業に変更した
    • [44]1961年5月、全国直販網の確立を目的に厚木ナイロン商事を設立した。同社は厚木ナイロン工業の製品を一括して販売する子会社である
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
    • [35]主要原材料のナイロン原糸は東洋レーヨンから供給を受け、1955年8月にウーリーナイロン加工糸系列工場、1957年6月にウーリーナイロン糸染色系列工場、1958年3月にテトロン糸染色系列工場に指定された
    • [36]1962年11月末の大株主に東洋レーヨンが977,925株・持株比率2.4%で名を連ねた
    • [45]販売面は全国百貨店と特約小売店50軒をもつが、問屋を通さず直売方式を採用している
    • [47]問屋マージンの排除で収益力が高まった。1962年11月期の売上高は2,410,466千円、税込利益は592,056千円
  • 証券アナリストジャーナル 1963年(堀祿助・寄稿)
    • [37]堀祿助社長は戦後の繊維事業を建て直す企画として女性と子供の商品を選び、繊維二次製品に絞った
    • [38]堀祿助社長は東洋レーヨンがナイロンを国産化する以前からナイロンと生糸の研究を取り上げ、ナイロンを使った商品としてストッキングを選んだ
    • [40]シームレス開発時、原料メーカーは消費層が既存のフルファッション等と重なり全体の消費量は変わらないとして輸出に主体を置くよう勧告した
    • [41]シームレスストッキングの国内販売は1961年10万ダース、1962年約75万ダース、1963年はシームレスストッキング類で150万ダース
    • [42]シームレスタイツは1961年約5万ダース、1962年30万ダース、1963年度は45万から50万ダースの予想
    • [43]堀祿助社長は繊維産業の弱点として流通段階の複雑さを挙げ、二次製品ではそれが極端だと述べた
    • [46]1963年時点で厚木ナイロン商事の販売網は全国のほとんどの百貨店にコーナーを設け、小売店は6,000店、年内に7,000店まで充実する見通しだった
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「厚木ナイロン工業」
    • [39]1961年5月にシームレスストッキングを輸出より国内販売に切り換え、シームレスのパイオニアとして本格的に国内販売に乗り出した
創業ストーリー(5)

婦人商品への品目拡張と創立以来初の欠損

堀社長はシームレスストッキング1,800万足が行き渡った約800万人を固定客と考え、その層に向く商品を企画した[48]。1963年の講演では、ストッキングに次ぐ商品としてファンデーションとランジェリーを挙げ、対象を18歳から30歳の年齢層に置くと述べ[49]、原料にはナイロンの7倍の価格にあたる東洋レーヨンのオペロンとデュポンのライクラーを充て、ナイロンに対し10対1の割合で生産する計画を立てた[50]。1964年4月にファンデーションおよびランジェリーの製造販売を開始し[51]、1966年2月には米国エーステイン社とファンデーションの技術提携を結んでいる[52]

  • 証券アナリストジャーナル 1963年(堀祿助・寄稿)
    • [48]堀祿助社長は年間1,800万足のシームレスストッキングが約800万人に普及しているとし、この800万人を固定した顧客と考えてその人達に向く商品を企画した
    • [49]堀祿助社長はストッキングに次ぐ商品としてファンデーションとランジェリーを挙げ、主としてシームレスのユーザーである18〜30才の年令層を対象とすると述べた
    • [50]ファンデーションの原料は東洋レーヨンのオペロンとデュポンのライクラーで、ナイロンの7倍の価格にあたり、ナイロンに対し10対1程度の割合で生産する計画だった
  • アツギ 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1964年4月、ファンデーションおよびランジェリーの製造販売を開始した
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「厚木ナイロン工業」
    • [52]1966年2月、米国エーステイン社とファンデーションの技術提携を結び製造販売を開始した

生産は神奈川県の海老名工場に集まり、1962年11月末の従業員2,224名のうち女子工員が1,845名を占め[53]、労働組合は全国繊維産業労働組合同盟に属して組合員総数は2,003名にのぼる[54]。販売量の伸びに合わせ、ストッキング増産のためアツギむつナイロンを1966年5月に青森県むつ市へ設立した[55]。1968年6月にはパンティストッキングの製造販売を始め、同年12月に増産のためアツギ白石ナイロンを宮城県白石市に置き[56]、1970年6月にはアツギ佐世保ナイロンを長崎県佐世保市に設立して、同じ月にソックス類の本格的な製造販売に入った[57]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
    • [53]1962年11月末時点の事業所は神奈川県の海老名工場で従業員2,224名、全社の女子工員は1,845名
    • [54]労働組合は全国繊維産業労働組合同盟に属しユニオンショップ制で、組合員総数は2,003名
  • アツギ 有価証券報告書【沿革】
    • [55]1966年5月、ストッキング増産のためアツギむつナイロンを青森県むつ市に設立した
    • [56]1968年6月にパンティストッキングの製造販売を開始し、同年12月に増産のためアツギ白石ナイロンを宮城県白石市に設立した
    • [57]1970年6月、パンティストッキング増産のためアツギ佐世保ナイロンを長崎県佐世保市に設立し、同月にソックス類の本格的な製造販売を開始した

1968年5月期、会社創立以来はじめての欠損を計上し無配へ転落した[58]。売上高は34億6,500万円と前期に比べ2割方減り、7,400万円の欠損を出しており[59]、主因はくつ下の売り上げ低下、不需要期に当たったタイツ、そして従来は厚木ナイロン商事が手持ちしていた備蓄分を親会社側が負担した点にある[60]。問屋を通さない販売は、問屋が抱えるはずの在庫を自社の決算へ載せる仕組みでもあり[61]、1968年11月期は好採算のタイツが需要期に入る関係から、売上高44億円、経常利益1億2,000万円程度を見込んだ[62]

  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「厚木ナイロン工業」
    • [58]1968年5月期に会社創立以来はじめての欠損を計上し無配に転落した
    • [59]1968年5月期の売上高は34億6,500万円で前期比2割方減、7,400万円の欠損
    • [60]欠損の主因はくつ下の売り上げ低下とタイツの不需要期、および従来厚木ナイロン商事が手持ちしていた備蓄分を親会社側が負担した点
    • [62]1968年11月期は好採算のタイツが需要期入りする関係から売上高44億円、経常利益1億2,000万円程度を見込んだ
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
    • [61]販売面は全国百貨店と特約小売店をもち、問屋を通さず直売方式を採用している
  • 証券アナリストジャーナル 1963年(堀祿助・寄稿)
    • [48]堀祿助社長は年間1,800万足のシームレスストッキングが約800万人に普及しているとし、この800万人を固定した顧客と考えてその人達に向く商品を企画した
    • [49]堀祿助社長はストッキングに次ぐ商品としてファンデーションとランジェリーを挙げ、主としてシームレスのユーザーである18〜30才の年令層を対象とすると述べた
    • [50]ファンデーションの原料は東洋レーヨンのオペロンとデュポンのライクラーで、ナイロンの7倍の価格にあたり、ナイロンに対し10対1程度の割合で生産する計画だった
  • アツギ 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1964年4月、ファンデーションおよびランジェリーの製造販売を開始した
    • [55]1966年5月、ストッキング増産のためアツギむつナイロンを青森県むつ市に設立した
    • [56]1968年6月にパンティストッキングの製造販売を開始し、同年12月に増産のためアツギ白石ナイロンを宮城県白石市に設立した
    • [57]1970年6月、パンティストッキング増産のためアツギ佐世保ナイロンを長崎県佐世保市に設立し、同月にソックス類の本格的な製造販売を開始した
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「厚木ナイロン工業」
    • [52]1966年2月、米国エーステイン社とファンデーションの技術提携を結び製造販売を開始した
    • [58]1968年5月期に会社創立以来はじめての欠損を計上し無配に転落した
    • [59]1968年5月期の売上高は34億6,500万円で前期比2割方減、7,400万円の欠損
    • [60]欠損の主因はくつ下の売り上げ低下とタイツの不需要期、および従来厚木ナイロン商事が手持ちしていた備蓄分を親会社側が負担した点
    • [62]1968年11月期は好採算のタイツが需要期入りする関係から売上高44億円、経常利益1億2,000万円程度を見込んだ
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
    • [53]1962年11月末時点の事業所は神奈川県の海老名工場で従業員2,224名、全社の女子工員は1,845名
    • [54]労働組合は全国繊維産業労働組合同盟に属しユニオンショップ制で、組合員総数は2,003名
    • [61]販売面は全国百貨店と特約小売店をもち、問屋を通さず直売方式を採用している
創業ストーリー(6)

パンティストッキングによる復配と品目のさらなる拡張

無配から2期で配当を戻した原動力は、パンティストッキングであり[63]、1970年5月期の売上高は72億1,400万円、利益は5億500万円で、前々期の69億8,300万円、1億6,400万円に対し売上高で3%増、利益で208.5%増となった[64]。1968年5月期以来無配だった配当も、現金5分・株式5分の年1割へ戻った[65]。靴下部門の売上高は50億8,300万円と前々期の36億6,900万円から伸びて、構成比は52.6%から70.5%へ上がり[66]、資本金に対する利益率も9.5%から29.3%へ上昇した[67]

  • 東邦経済 1970年「無配が一気に1割配へ 厚木ナイロン工業」
    • [63]1970年5月期の好調にはシームレス・ストッキングでの実力が大いにモノを言っており、なかでもアツギのパンティ・ストッキングの好調が見逃せない
    • [64]1970年5月期は売上高72億1,400万円、利益5億500万円。前々期は売上高69億8,300万円、利益1億6,400万円で、売上高3%増・利益208.5%増
    • [65]1968年5月期以来無配だった配当を年1割(現金5分、株式5分)に復配した
    • [66]1970年5月期の靴下部門売上高は50億8,300万円(前々期36億6,900万円)、構成比は52.6%から70.5%へ上昇
    • [67]1970年5月期に資本金利益率は9.5%から29.3%へ上昇した

靴下が伸びた分、ほかの部門はいずれも構成比の低下を余儀なくされ[68]、タイツは8億3,400万円で11.6%、セーターおよびファンデーションは7億3,500万円で10.1%、生地は4億3,200万円で6.0%、その他は1億3,000万円で1.8%[69]。タイツの減りは前々期の14億9,900万円から6億6,000万円にのぼるが、不需期が加わったためで、前年同期と比べれば5,500万円の増加にあたる[70]。売上の7割を脚もとの一品目に預ける構成のまま、1970年11月期は売上高約90億円、利益6億円程度が見込まれた[71]

  • 東邦経済 1970年「無配が一気に1割配へ 厚木ナイロン工業」
    • [68]靴下部門の構成比上昇により、タイツ、セーターおよびファンデーション、生地、その他の各部門はいずれも構成比の低下を余儀なくされた
    • [69]1970年5月期のタイツは8億3,400万円(構成比11.6%)、セーターおよびファンデーション7億3,500万円(10.1%)、生地4億3,200万円(6.0%)、その他1億3,000万円(1.8%)
    • [70]タイツは前々期の14億9,900万円に比べ6億6,000万円の減少だが、不需期が加わったためで、前年同期比では5,500万円の増加
    • [71]1970年11月期はタイツ部門の増加と靴下部門の好調で売上高約90億円、利益6億円程度が見込まれた

復配の後も増資は行わず、1966年12月に34億4,500万円とした資本金を据え置いたまま[72]、1971年9月に札幌証券取引所へ株式を上場し、1972年10月にはミサワホームと業務提携して厚木ナイロンミサワホームを設立した[73]。1974年3月、メリヤス肌着の本格的な製造販売に入った[74]。20年前の1954年5月にウーリーナイロン肌着として手がけた商品を本格的な品目へ格上げした一方[75]、1979年3月にはフルサポーティパンティストッキングを発売し、締めつけを強めた新型で主力の靴下の品目を広げた[76]

  • 東邦経済 1970年「無配が一気に1割配へ 厚木ナイロン工業」
    • [72]増資は1966年12月に実施して資本金34億4,500万円としたのを最後に行っておらず、当面は株式配当以外の増資を考えていない
  • アツギ 有価証券報告書【沿革】
    • [73]1971年9月に札幌証券取引所へ上場し、1972年10月にミサワホームと業務提携して厚木ナイロンミサワホームを設立した
    • [74]1974年3月、メリヤス肌着の本格的な製造販売を開始した
    • [76]1979年3月、フルサポーティパンティストッキングの製造販売を開始した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
    • [75]1954年5月にウーリーナイロン肌着の製造を開始していた
  • 東邦経済 1970年「無配が一気に1割配へ 厚木ナイロン工業」
    • [63]1970年5月期の好調にはシームレス・ストッキングでの実力が大いにモノを言っており、なかでもアツギのパンティ・ストッキングの好調が見逃せない
    • [64]1970年5月期は売上高72億1,400万円、利益5億500万円。前々期は売上高69億8,300万円、利益1億6,400万円で、売上高3%増・利益208.5%増
    • [65]1968年5月期以来無配だった配当を年1割(現金5分、株式5分)に復配した
    • [66]1970年5月期の靴下部門売上高は50億8,300万円(前々期36億6,900万円)、構成比は52.6%から70.5%へ上昇
    • [67]1970年5月期に資本金利益率は9.5%から29.3%へ上昇した
    • [68]靴下部門の構成比上昇により、タイツ、セーターおよびファンデーション、生地、その他の各部門はいずれも構成比の低下を余儀なくされた
    • [69]1970年5月期のタイツは8億3,400万円(構成比11.6%)、セーターおよびファンデーション7億3,500万円(10.1%)、生地4億3,200万円(6.0%)、その他1億3,000万円(1.8%)
    • [70]タイツは前々期の14億9,900万円に比べ6億6,000万円の減少だが、不需期が加わったためで、前年同期比では5,500万円の増加
    • [71]1970年11月期はタイツ部門の増加と靴下部門の好調で売上高約90億円、利益6億円程度が見込まれた
    • [72]増資は1966年12月に実施して資本金34億4,500万円としたのを最後に行っておらず、当面は株式配当以外の増資を考えていない
  • アツギ 有価証券報告書【沿革】
    • [73]1971年9月に札幌証券取引所へ上場し、1972年10月にミサワホームと業務提携して厚木ナイロンミサワホームを設立した
    • [74]1974年3月、メリヤス肌着の本格的な製造販売を開始した
    • [76]1979年3月、フルサポーティパンティストッキングの製造販売を開始した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
    • [75]1954年5月にウーリーナイロン肌着の製造を開始していた

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沿革年表 1947〜2023年

アツギの沿革1947〜2023年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1947〜1959年絹ロープの受託加工から婦人靴下へ、東洋レーヨン系列に入るまで堀禄助が神奈川県海老名町に厚木編織を設立し撚糸・靴下・肌着の製造販売を開始★★★
シームレスストッキングおよびタイツの製造販売に着手★★★
1960〜1979年原糸メーカーの系列と問屋を通さない直販でシームレスを広げる商号を厚木ナイロン工業に変更★★
東京店頭売買承認銘柄として株式を公開
全国直販網の確立を目的に厚木ナイロン商事を設立★★
東京証券取引所市場第二部の発足と同時に同市場の承認銘柄に指定
東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第一部および福岡証券取引所に上場
ファンデーションおよびランジェリーの製造販売を開始★★
ストッキング増産のためアツギむつナイロンを青森県むつ市に設立
パンティストッキングの製造販売を開始★★★
パンティストッキング増産のためアツギ白石ナイロンを宮城県白石市に設立
パンティストッキング増産のためアツギ佐世保ナイロンを長崎県佐世保市に設立
ソックス類の本格的な製造販売を開始★★
札幌証券取引所に上場
ミサワホームと業務提携し厚木ナイロンミサワホームを設立★★
メリヤス肌着の本格的な製造販売を開始★★
フルサポーティパンティストッキングの製造販売を開始★★
1980〜1999年本社を海老名へ移し、直販の商事を本体へ吸収した20年本社を東京都中央区から神奈川県海老名市へ移転★★
住宅の建設販売部門をアツギミサワ住宅へ営業譲渡★★
東北アツギがアツギむつおよびアツギ白石へ営業を譲渡し解散★★
厚木ナイロン商事を吸収合併し商号をアツギに変更★★
2000〜2026年ストッキング市場の縮小と、海老名の土地が支えた収支介護用品の製造販売を目的にアツギケアを設立
中国での靴下製造を目的に煙台厚木華潤靴下有限公司を設立★★
中国でのインナーウェア製造を目的に阿姿誼(上海)針織有限公司を設立
名古屋・福岡・札幌の各証券取引所の上場を廃止
アツギ佐世保が繊維製品製造を中止し物流業務請負会社へ業態を変更★★
中国での靴下製造を目的に厚木靴下(煙台)有限公司を設立
工藤洋志レナウンインクスを株式取得により子会社化★★★
工藤洋志煙台厚木華潤靴下有限公司の工場移転を目的に煙台阿姿誼靴下有限公司を設立
工藤洋志東京証券取引所の市場区分見直しによりプライム市場へ移行
工藤洋志グループ生産体制の効率化のため国内生産拠点アツギ東北の生産業務を終了★★★
日光信二東京証券取引所のプライム市場からスタンダード市場へ移行
出典・参考 5件
出典・参考
  • アツギ 有価証券報告書【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「厚木ナイロン工業」
  • 証券アナリストジャーナル 1963年(堀祿助・寄稿)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
  • 東邦経済 1970年「無配が一気に1割配へ 厚木ナイロン工業」

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