堀祿助氏は1908年に神奈川県で生まれ、1937年に東京工業大学を卒業して片倉工業に入り[1]、研究生活を送ったのち企画・考査・調査の仕事に長く携わった[2]。1943年10月、堀氏は海老名工場の所有施設を提供し、片倉工業との協同経営の形態で、絹の新規用途と人造テグスに関する試作研究と事業化に乗り出した[3]。戦時下に始まったこの共同事業が、そのまま戦後の独立会社の土台になった[4]。1947年12月24日、資本金19万5000円で厚木編織株式会社が発足して堀氏が社長に就き[5]、手がけたのは片倉工業からの絹ロープの受託加工で、あわせて撚糸、漁網、メリヤス靴下を併行生産した[6]。
堀氏が二次製品に賭けた理由は、原料をつくる側の商売の仕方への不満にあった[7]。生糸は作れば市場が引き取る商品であり、輸出も糸のまま出せば足りるとされており[8]、糸を売る側は最終商品の姿を考えずに済むため、競争が激しくなるほど体質の欠陥が表に出た[9]。堀社長は戦後に伸びる衣料の相手を女性と子供に見定め、なかでも女性向けの二次製品へ的を絞った[10]。絞り込みは工場の形にも及び、1951年には綿糸の統制撤廃に合わせて漁網を廃止し、撚糸と染色の設備を更新・拡充して、糸から製品までの一貫作業工程を確立した[11]。
堀社長は東洋レーヨンがナイロンの国産化を計る以前からナイロンと生糸の関係を研究し、ナイロンを使う最もめぼしい商品としてストッキングを選んでおり[12]、1952年1月、シームレスストッキングおよびタイツの製造販売に着手した[13]。素材を先に決め、その素材でなければ作れない商品を後から探す順序であり、繊維産業には長い歴史があったが、堀社長の見るところ二次製品にはまだ手が入っていなかった[14]。当時の婦人靴下はフルファッションとトリコットが主流で、絹やトリコットの時代を含めて30年以上その2品目が続いていた[15]。縫い目のないシームレスには、まだ日本の店頭に置き場がなかった[16]。
1954年5月、ストッキングと同じウーリーナイロンを使い、同じ編立と染色の設備で品目を増やす形で[17]、ウーリーナイロン肌着の製造を開始した[18]。婦人肌着は薄さと暖かさを同時に求められる商品で、伸縮するナイロン糸はその両方に応え[19]、ストッキング一本だった柱に女性の肌着が並んだ[20]。増資も続き、資本金は1950年10月の公募で500万円、1953年3月の株主割当で1000万円へ増え[21]、売上高は1954年12月期に2億470万1000円、当期純利益は667万9000円で、設立から7年で年商2億円台に乗せた[22]。
1955年8月に東洋レーヨンのウーリーナイロン加工糸系列工場へ指定されたのを皮切りに[23]、1957年6月にウーリーナイロン糸染色系列工場、1958年3月にはテトロン糸染色系列工場となった[24]。主要原材料のナイロン原糸は東洋レーヨンから供給を受け、編立機で編み立てて染色工場で仕上げるまでを一貫作業でつないだ[25]。原料を持つ会社から供給を受けて加工する立場は、片倉工業から絹ロープを受託した創業期と変わらず[26]、変わったのは、加工した先が委託元の製品ではなく、自社で企画した婦人向け商品になった点にある[27]。資本金は1956年9月に2000万円、1957年8月に3000万円、1958年6月に6000万円へ引き上げられた[28]。
系列指定を受けた1955年を境に売上高と利益の段が上がり、1955年12月期の売上高は3億3647万9000円、当期純利益は260万1000円で、配当はなかった[29]。翌1956年12月期は売上高6億8126万4000円、純利益4124万円へ伸び、年4分の配当に踏み切った[30]。1958年12月期は売上高7億1064万5000円、純利益3216万8000円で、配当は年2分にとどまった[31]。1959年12月期には売上高11億803万3000円、純利益1億36万8000円へ達し[32]、資本金は同年8月に9000万円となって設立時の19万5000円から461倍に積み上がった[33]。
1960年1月、合成繊維の取り扱いおよび輸出業務の拡張に伴い、商号を厚木編織から厚木ナイロン工業へ変更した[34]。社名に据えたナイロンの原糸は東洋レーヨンから供給を受け、1955年8月にウーリーナイロン加工糸、1957年6月にウーリーナイロン糸染色、1958年3月にテトロン糸染色と、三度にわたって同社の系列工場の指定を受けた[35]。1962年11月末の大株主にも東洋レーヨンが持株比率2.4%で並び[36]、原糸を売る相手が株主として残る関係の上で、堀祿助社長は女性と子供に向けた繊維二次製品へ品目を絞った[37]。
東洋レーヨンがナイロンを国産化する以前から、堀社長はナイロンと生糸の研究に取り組み、ナイロンを使う商品としてストッキングを選んでいた[38]。1961年5月、シームレスストッキングを輸出から国内販売へ切り換え、シームレスの先駆けとして国内市場に乗り出したが[39]、原料メーカーは、シームレスの消費者はフルファッションなどと同じ層で全体の消費量は変わらないとして、輸出に主体を置くよう勧告していた[40]。国内販売の初年は批判が多く10万ダースにとどまったが、1962年には約75万ダースへ伸び、1963年はシームレスストッキング類が150万ダースに達し[41]、シームレスタイツも1961年の約5万ダースが1962年に30万ダース、1963年度は45万から50万ダースの予想となる[42]。
堀社長は繊維の二次製品について、流通段階の複雑さを弱点と見ており[43]、1961年5月、全国直販網の確立を目的に厚木ナイロン商事を設立し、自社製品を一括して販売させた[44]。販売先は全国の百貨店と特約小売店50軒で、問屋を通さない直売方式を採用しており[45]、1963年には百貨店にコーナーを置き、小売店は6,000店、年内に7,000店へ広げる見通しにあった[46]。問屋マージンを排したことで収益力は高まり、1962年11月期の売上高は24億1,046万6千円、税込利益は5億9,205万6千円を計上した[47]。
堀社長はシームレスストッキング1,800万足が行き渡った約800万人を固定客と考え、その層に向く商品を企画した[48]。1963年の講演では、ストッキングに次ぐ商品としてファンデーションとランジェリーを挙げ、対象を18歳から30歳の年齢層に置くと述べ[49]、原料にはナイロンの7倍の価格にあたる東洋レーヨンのオペロンとデュポンのライクラーを充て、ナイロンに対し10対1の割合で生産する計画を立てた[50]。1964年4月にファンデーションおよびランジェリーの製造販売を開始し[51]、1966年2月には米国エーステイン社とファンデーションの技術提携を結んでいる[52]。
生産は神奈川県の海老名工場に集まり、1962年11月末の従業員2,224名のうち女子工員が1,845名を占め[53]、労働組合は全国繊維産業労働組合同盟に属して組合員総数は2,003名にのぼる[54]。販売量の伸びに合わせ、ストッキング増産のためアツギむつナイロンを1966年5月に青森県むつ市へ設立した[55]。1968年6月にはパンティストッキングの製造販売を始め、同年12月に増産のためアツギ白石ナイロンを宮城県白石市に置き[56]、1970年6月にはアツギ佐世保ナイロンを長崎県佐世保市に設立して、同じ月にソックス類の本格的な製造販売に入った[57]。
1968年5月期、会社創立以来はじめての欠損を計上し無配へ転落した[58]。売上高は34億6,500万円と前期に比べ2割方減り、7,400万円の欠損を出しており[59]、主因はくつ下の売り上げ低下、不需要期に当たったタイツ、そして従来は厚木ナイロン商事が手持ちしていた備蓄分を親会社側が負担した点にある[60]。問屋を通さない販売は、問屋が抱えるはずの在庫を自社の決算へ載せる仕組みでもあり[61]、1968年11月期は好採算のタイツが需要期に入る関係から、売上高44億円、経常利益1億2,000万円程度を見込んだ[62]。
無配から2期で配当を戻した原動力は、パンティストッキングであり[63]、1970年5月期の売上高は72億1,400万円、利益は5億500万円で、前々期の69億8,300万円、1億6,400万円に対し売上高で3%増、利益で208.5%増となった[64]。1968年5月期以来無配だった配当も、現金5分・株式5分の年1割へ戻った[65]。靴下部門の売上高は50億8,300万円と前々期の36億6,900万円から伸びて、構成比は52.6%から70.5%へ上がり[66]、資本金に対する利益率も9.5%から29.3%へ上昇した[67]。
靴下が伸びた分、ほかの部門はいずれも構成比の低下を余儀なくされ[68]、タイツは8億3,400万円で11.6%、セーターおよびファンデーションは7億3,500万円で10.1%、生地は4億3,200万円で6.0%、その他は1億3,000万円で1.8%[69]。タイツの減りは前々期の14億9,900万円から6億6,000万円にのぼるが、不需期が加わったためで、前年同期と比べれば5,500万円の増加にあたる[70]。売上の7割を脚もとの一品目に預ける構成のまま、1970年11月期は売上高約90億円、利益6億円程度が見込まれた[71]。
復配の後も増資は行わず、1966年12月に34億4,500万円とした資本金を据え置いたまま[72]、1971年9月に札幌証券取引所へ株式を上場し、1972年10月にはミサワホームと業務提携して厚木ナイロンミサワホームを設立した[73]。1974年3月、メリヤス肌着の本格的な製造販売に入った[74]。20年前の1954年5月にウーリーナイロン肌着として手がけた商品を本格的な品目へ格上げした一方[75]、1979年3月にはフルサポーティパンティストッキングを発売し、締めつけを強めた新型で主力の靴下の品目を広げた[76]。
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|---|---|---|---|---|
| 1947〜1959年絹ロープの受託加工から婦人靴下へ、東洋レーヨン系列に入るまで | 堀禄助が神奈川県海老名町に厚木編織を設立し撚糸・靴下・肌着の製造販売を開始 | ★★★ | ||
| シームレスストッキングおよびタイツの製造販売に着手 | ★★★ | |||
| 1960〜1979年原糸メーカーの系列と問屋を通さない直販でシームレスを広げる | 商号を厚木ナイロン工業に変更 | ★★ | ||
| 東京店頭売買承認銘柄として株式を公開 | ★ | |||
| 全国直販網の確立を目的に厚木ナイロン商事を設立 | ★★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部の発足と同時に同市場の承認銘柄に指定 | ★ | |||
| 東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第一部および福岡証券取引所に上場 | ★ | |||
| ファンデーションおよびランジェリーの製造販売を開始 | ★★ | |||
| ストッキング増産のためアツギむつナイロンを青森県むつ市に設立 | ★ | |||
| パンティストッキングの製造販売を開始 | ★★★ | |||
| パンティストッキング増産のためアツギ白石ナイロンを宮城県白石市に設立 | ★ | |||
| パンティストッキング増産のためアツギ佐世保ナイロンを長崎県佐世保市に設立 | ★ | |||
| ソックス類の本格的な製造販売を開始 | ★★ | |||
| 札幌証券取引所に上場 | ★ | |||
| ミサワホームと業務提携し厚木ナイロンミサワホームを設立 | ★★ | |||
| メリヤス肌着の本格的な製造販売を開始 | ★★ | |||
| フルサポーティパンティストッキングの製造販売を開始 | ★★ | |||
| 1980〜1999年本社を海老名へ移し、直販の商事を本体へ吸収した20年 | 本社を東京都中央区から神奈川県海老名市へ移転 | ★★ | ||
| 住宅の建設販売部門をアツギミサワ住宅へ営業譲渡 | ★★ | |||
| 東北アツギがアツギむつおよびアツギ白石へ営業を譲渡し解散 | ★★ | |||
| 厚木ナイロン商事を吸収合併し商号をアツギに変更 | ★★ | |||
| 2000〜2026年ストッキング市場の縮小と、海老名の土地が支えた収支 | 介護用品の製造販売を目的にアツギケアを設立 | ★ | ||
| 中国での靴下製造を目的に煙台厚木華潤靴下有限公司を設立 | ★★ | |||
| 中国でのインナーウェア製造を目的に阿姿誼(上海)針織有限公司を設立 | ★ | |||
| 名古屋・福岡・札幌の各証券取引所の上場を廃止 | ★ | |||
| アツギ佐世保が繊維製品製造を中止し物流業務請負会社へ業態を変更 | ★★ | |||
| 中国での靴下製造を目的に厚木靴下(煙台)有限公司を設立 | ★ | |||
| 工藤洋志 | レナウンインクスを株式取得により子会社化 | ★★★ | ||
| 工藤洋志 | 煙台厚木華潤靴下有限公司の工場移転を目的に煙台阿姿誼靴下有限公司を設立 | ★ | ||
| 工藤洋志 | 東京証券取引所の市場区分見直しによりプライム市場へ移行 | ★ | ||
| 工藤洋志 | グループ生産体制の効率化のため国内生産拠点アツギ東北の生産業務を終了 | ★★★ | ||
| 日光信二 | 東京証券取引所のプライム市場からスタンダード市場へ移行 | ★ |
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事実根拠:出所(アツギ)