アツギ:厚木ナイロン商事の直販網とパンティストッキングの増産
1960年〜輸出の頭打ちと、国内需要を創出した短期決戦
1960年1月、合成繊維の取扱いと輸出業務の拡張に伴い、商号を厚木編織から厚木ナイロン工業へ改めた。同じ月には、シームレスタイツの独占メーカーとして国内販売にも入っている。極東貿易・蝶理・日綿実業といった商社が株主に名を連ね、輸出を担う姿勢は資本の構成にも表れていた。実際、社名に輸出を掲げたとおりこのころの需要は海外が中心で、1961年5月期の輸出金額は2億2316万5000円、売上高の26.8%を占めた。しかし3回目の外遊で堀氏は、海外の取引先が前の2回ほどには歓迎してくれないと感じ取って市場は飽和に近いと判断し、国内の売れ行きもまだ弱く、縫い目があるほうが脚がすらりと美しく見えるという考えが女性のあいだに根強かった。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [1]昭和35年1月、合成繊維の取扱いおよび輸出業務の拡張に伴い、商号を厚木ナイロン工業株式会社と変更
- [3]主要関係会社は東洋レーヨン2.8%、極東貿易1.9%、蝶理1.6%、日本トレーディング1.1%、厚木ナイロン商事1.1%、日綿実業0.6%
- [4]輸出金額は21期(36年5月期)223,165千円、対売上比率26.8%
- 企業の歴史 明治百年 1968年「厚木ナイロン工業」
- [2]昭和35年1月に社名を厚木ナイロン工業と改称し、シームレス・タイツの独占メーカーとして国内販売を開始
- 商工ジャーナル 1980年5月号(丹沢一延)
- [5]堀禄助は3回目の外遊で、海外取引先の歓迎ぶりが前2回ほどでないところから、海外市場が飽和状態に近づいていることを感得した
- [6]国内市場は依然として振るわず、スジがあるからこそ足が細く美しく見えると一昔前の女性は思い込んでいた
1961年9月、堀氏は国内市場へ向けた大規模な宣伝を始めた。新聞の一面広告を打ち、優勝者に海外旅行と100万円を贈るミス・シームレスコンテストを開いた。1962年3月には、全国の女子高校卒業生50万人へシームレスを配った。短期に集中して投じる形の宣伝で、1962年にシームレスの国内出荷はフルファッションを抜いた。同じ1962年、主製品のシームレスストッキングは本格的な拡張期に入り、設備能力の倍増計画が進んでいた。売上高は5割以上の増加が見込まれていた。会社が費やしたのは、縫い目を美しさの条件とみなす習慣を外す費用だった。
- 商工ジャーナル 1980年5月号(丹沢一延)
- [7]依然として振るわない国内市場に向けて大キャンペーンを始めたのは昭和36年9月である
- [8]新聞の一面広告、優勝者に海外旅行と100万円をプレゼントするミス・シームレスコンテストを実施した
- [9]昭和37年3月、全国女子高校卒業生50万人に対してシームレスをプレゼントした
- [10]昭和37年にシームレスは国内でフルファッションの出荷を抜くに至った
- 日本企業要覧 1962年版「厚木ナイロン工業」
- [11]主製品のシームレス・ストッキングは本年が本格的な拡張期にあり、設備能力の倍増計画を実施中
- [12]売上高は5割以上の増加が期待されている
1961年10月2日、東京証券取引所の第二部へ株式を公開した。1962年10月1日には、市場第一部の銘柄へ指定替えとなった。株式公開当時に2億円だった資本金は、1965年12月には32億4700万円へ膨らんだ。1962年11月末の大株主は、堀祿助氏が552万3591株で13.8%、東洋レーヨンが97万7925株で2.4%を持っていた。売上高は1961年5月期の8億3598万6000円から、1962年11月期には24億1046万6000円へ伸びた。一方で配当は年3割から2割へ下がり、増資の負担が1株あたりの配当率を押し下げていた。
- 企業の歴史 明治百年 1968年「厚木ナイロン工業」/ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [13]昭和36年10月2日、東京証券取引所第二市場に株式を公開、上場
- [14]昭和37年10月1日、市場一部銘柄として指定替え上場された
- 企業の歴史 明治百年 1968年「厚木ナイロン工業」
- [15]資本金は株式公開当時2億円であったが、昭和40年12月には32億4700万円に膨脹した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [16]37年11月末現在の大株主は堀祿助5,523,591株13.8%、東洋レーヨン977,925株2.4%
- 日本企業要覧 1962年版「厚木ナイロン工業」/ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [17]36年5月期の売上高835,986千円、37年11月期の売上高2,410,466千円
- 日本企業要覧 1962年版「厚木ナイロン工業」
- [18]前5月期から増資減配2割としたが、2割配当は今後変えない方針(36年5月期・36年11月期の配当は年3割)
参考文献[1]-[18]
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [1]昭和35年1月、合成繊維の取扱いおよび輸出業務の拡張に伴い、商号を厚木ナイロン工業株式会社と変更
- [3]主要関係会社は東洋レーヨン2.8%、極東貿易1.9%、蝶理1.6%、日本トレーディング1.1%、厚木ナイロン商事1.1%、日綿実業0.6%
- [4]輸出金額は21期(36年5月期)223,165千円、対売上比率26.8%
- [16]37年11月末現在の大株主は堀祿助5,523,591株13.8%、東洋レーヨン977,925株2.4%
- 企業の歴史 明治百年 1968年「厚木ナイロン工業」
- [2]昭和35年1月に社名を厚木ナイロン工業と改称し、シームレス・タイツの独占メーカーとして国内販売を開始
- [15]資本金は株式公開当時2億円であったが、昭和40年12月には32億4700万円に膨脹した
- 商工ジャーナル 1980年5月号(丹沢一延)
- [5]堀禄助は3回目の外遊で、海外取引先の歓迎ぶりが前2回ほどでないところから、海外市場が飽和状態に近づいていることを感得した
- [6]国内市場は依然として振るわず、スジがあるからこそ足が細く美しく見えると一昔前の女性は思い込んでいた
- [7]依然として振るわない国内市場に向けて大キャンペーンを始めたのは昭和36年9月である
- [8]新聞の一面広告、優勝者に海外旅行と100万円をプレゼントするミス・シームレスコンテストを実施した
- [9]昭和37年3月、全国女子高校卒業生50万人に対してシームレスをプレゼントした
- [10]昭和37年にシームレスは国内でフルファッションの出荷を抜くに至った
- 日本企業要覧 1962年版「厚木ナイロン工業」
- [11]主製品のシームレス・ストッキングは本年が本格的な拡張期にあり、設備能力の倍増計画を実施中
- [12]売上高は5割以上の増加が期待されている
- [18]前5月期から増資減配2割としたが、2割配当は今後変えない方針(36年5月期・36年11月期の配当は年3割)
- 企業の歴史 明治百年 1968年「厚木ナイロン工業」/ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [13]昭和36年10月2日、東京証券取引所第二市場に株式を公開、上場
- [14]昭和37年10月1日、市場一部銘柄として指定替え上場された
- 日本企業要覧 1962年版「厚木ナイロン工業」/ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [17]36年5月期の売上高835,986千円、37年11月期の売上高2,410,466千円
1962年〜問屋を通さない直売と、二本目の柱になったタイツ
原糸の供給元は東洋レーヨンで、編立から染色までを海老名の工場が一貫して受け持った。売り先は全国の百貨店と50軒の特約小売店で、問屋を通さない直接販売の形を取り、全国に広げたこの販売網が最大の武器となって、問屋に渡るマージンがなくなった分だけ稼ぐ力も増した。製品は残らず「アツギ」の商標で売り出され、1961年には標章もローマ字表記の旧来のものから今の形に変わった。1962年11月末の従業員は2244名で、うち1845名が女性の工員だった。同じ年には蝶理の会長と日本トレーディングの社長が取締役に入り、販路と資本の両面で商社が近くにいた。仕入れでは原糸メーカーの系列に組み込まれながら、売る側では独立した経路を持つ構えである。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [19]主要原材料はナイロン原糸で東洋レーヨンから供給を受け、海老名工場で編立から染色まで一貫作業を行なう
- [20]販売面は全国百貨店と特約小売店50軒をもつが、問屋を通さず直売方式を採用している
- [21]全国的に張りめぐらされた販売網が何よりの強みであり、問屋マージンの排除で収益力は高まっている
- [22]製品はすべて「アツギ」の商標で販売される
- [24]37年11月末現在の従業員数は合計2,244名、うち工員女1,845名
- [25]取締役の金子堅次郎(日本トレーディング社長)と大橋理一郎(蝶理会長)はいずれも昭和37年に取締就任
- 企業の歴史 明治百年 1968年「厚木ナイロン工業」
- [23]従来のローマ字のマークから昭和36年に現在のものにかえた
ストッキングより後に出したタイツは、1964年には売上げの構成でストッキングと5対5の比率へ達し、一本だった柱が二本になった。シームレスタイツは国内でほぼ独占の状態にあり、シームレスストッキングとあわせて業界第1位を占めた。1961年5月には、シームレスストッキングの国内需要に応えるため、輸出中心から国内販売へ切り替えている。1962年11月期の販売実績は、靴下が20億4349万3000円、生地が1億5991万9000円、ナイロン加工糸が5701万4000円だった。輸出金額は1億3019万3000円で、対売上比率は5.4%まで下がった。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [26]タイツはストッキングより後から発売したが、現在では5対5の割合になっており、ストッキング一本の柱がタイツと二本になった
- [27]おもな製品はシームレスストッキングとシームレスタイツで業界第1位、タイツはほぼ独占になっている
- [29]37年11月期の販売実績は靴下2,043,493千円、生地159,919千円、ナイロン加工糸57,014千円
- [30]輸出金額は24期(37年11月期)130,193千円、対売上比率5.4%
- 企業の歴史 明治百年 1968年「厚木ナイロン工業」
- [28]昭和36年5月、シームレスストッキングの国内需要に応え、輸出より国内販売に切換えた
競争が激しくなるのに備え、1962年12月にシームレスの改良品であるノーランとランストップを出した。同年11月には西独のネーベル社と技術提携し、ノーラン・シームレスを製造している。以後は全面的に改良シームレスへ切り替える方針を掲げた。売上高は1963年5月期に31億4100万円、純利益は7億8800万円まで伸びた。ところが1964年5月期は、売上高33億3300万円に対し純利益1億5400万円へ落ち、配当は年1割へ下がった。1964年11月期は売上高26億7924万円、純利益429万2000円、利益率0.3%で無配に転じた。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [31]シームレスストッキングの競争激化に備え、37年12月にシームレスの改良品(ノーラン、ランストップ)を発売した
- [32]昭和37年11月、西独ネーベル社との技術提携によりノーラン・シームレスを製造
- [33]今後、全面的に改良シームレスに切り換えていく方針である
- 日本企業要覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [34]38年5月期の売上高3,141,000千円、純利益788,000千円
- [35]39年5月期の売上高3,333,000千円、純利益154,000千円、配当10%
- 日本企業要覧 1968年版「厚木ナイロン工業」
- [36]39年11月期の売上高2,679,240千円、純利益4,292千円、利益率0.3%、配当0%
参考文献[19]-[36]
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [19]主要原材料はナイロン原糸で東洋レーヨンから供給を受け、海老名工場で編立から染色まで一貫作業を行なう
- [20]販売面は全国百貨店と特約小売店50軒をもつが、問屋を通さず直売方式を採用している
- [21]全国的に張りめぐらされた販売網が何よりの強みであり、問屋マージンの排除で収益力は高まっている
- [22]製品はすべて「アツギ」の商標で販売される
- [24]37年11月末現在の従業員数は合計2,244名、うち工員女1,845名
- [25]取締役の金子堅次郎(日本トレーディング社長)と大橋理一郎(蝶理会長)はいずれも昭和37年に取締就任
- [26]タイツはストッキングより後から発売したが、現在では5対5の割合になっており、ストッキング一本の柱がタイツと二本になった
- [27]おもな製品はシームレスストッキングとシームレスタイツで業界第1位、タイツはほぼ独占になっている
- [29]37年11月期の販売実績は靴下2,043,493千円、生地159,919千円、ナイロン加工糸57,014千円
- [30]輸出金額は24期(37年11月期)130,193千円、対売上比率5.4%
- [31]シームレスストッキングの競争激化に備え、37年12月にシームレスの改良品(ノーラン、ランストップ)を発売した
- [32]昭和37年11月、西独ネーベル社との技術提携によりノーラン・シームレスを製造
- [33]今後、全面的に改良シームレスに切り換えていく方針である
- 企業の歴史 明治百年 1968年「厚木ナイロン工業」
- [23]従来のローマ字のマークから昭和36年に現在のものにかえた
- [28]昭和36年5月、シームレスストッキングの国内需要に応え、輸出より国内販売に切換えた
- 日本企業要覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- [34]38年5月期の売上高3,141,000千円、純利益788,000千円
- [35]39年5月期の売上高3,333,000千円、純利益154,000千円、配当10%
- 日本企業要覧 1968年版「厚木ナイロン工業」
- [36]39年11月期の売上高2,679,240千円、純利益4,292千円、利益率0.3%、配当0%
1968年〜創立以来の欠損と、パンティストッキングによる復配
1968年5月期に、会社創立以来はじめての欠損を計上して無配へ転落した。売上高は34億6500万円で前期に比べ2割ほど減り、7400万円の欠損となった。主因は靴下の売上低下と、タイツが不需要期に当たったことにあった。加えて、従来は厚木ナイロン商事が手持ちしていた備蓄分を、親会社の側が負担することになった。1966年2月に米国のエーステイン社とファンデーションの技術提携を結び、製造販売を始めていたが、柱の交代には至っていなかった。販売会社を挟んで在庫を持たせる形は、需要が落ちた局面では本体の損益へそのまま返ってきた。
- 企業の歴史 明治百年 1968年「厚木ナイロン工業」
- [37]昭和43年5月期、会社創立以来はじめての欠損を計上し無配転落した
- [39]欠損の主因はくつ下の売り上げ低下と、タイツが不需要期であったことによる
- [40]従来厚木ナイロン商事が手持ちしていた備畜分を、親会社側が負担することになった
- [41]昭和41年2月、米国エーステイン社とファンデーションの技術提携をし、製造販売を開始した
- 企業の歴史 明治百年 1968年「厚木ナイロン工業」/日本企業要覧 1969年版「厚木ナイロン工業」
- [38]43年5月期の売上高は34億6500万円と前期に比し20%方減少し、7400万円の欠損となった(売上高3,465,171千円、純損失74,120千円、配当0%)
1968年、堀氏はパンティストッキングを発表した。1970年5月期の売上高は72億1400万円、利益は5億500万円に達した。1968年5月期以来無配だった配当は、現金5分と株式5分をあわせて一気に年1割へ戻った。靴下部門の売上高は50億8300万円へ伸び、構成比は52.6%から70.5%へ上がった。タイツは8億3400万円で構成比11.6%、セーターとファンデーションが7億3500万円で10.1%、生地が4億3200万円で6.0%だった。5対5だった柱の比率は、パンティストッキングの伸びで再び靴下の側へ寄った。
- 商工ジャーナル 1980年5月号(丹沢一延)
- [42]堀禄助は昭和43年にパンティストッキングを発表し、第二次のストッキング革命を起こした
- 東邦経済 1970年「無配が一気に1割配へ 厚木ナイロン工業」
- [43]前5月期に売上高72億1400万円(前々期69億8300万円)、利益5億500万円(同1億6400万円)を計上した
- [44]43年5月期以来無配であった配当を、いっきょに年1割(現金5分、株式5分)に復配した
- [45]前5月期における靴下部門の売上高は50億8300万円(前々期36億6900万円)となり、構成比は52.6%から70.5%へ伸長した
- [46]タイツ8億3400万円(構成比11.6%)、セーターおよびファンデーション7億3500万円(同10.1%)、生地4億3200万円(同6.0%)
復配後の伸びは速く、1970年11月期の売上高は117億500万円、1971年11月期は171億2500万円へ達した。1971年11月期の経常利益は20億8000万円だった。ところが1972年11月期は、売上高166億7500万円に対し経常利益2億9000万円、1億8300万円の純損失で再び無配へ転じた。石油危機後の不況を挟み、1978年11月期には売上高438億900万円、経常利益17億1500万円まで戻した。純利益は22億4900万円で、配当は年1割へ復した。1979年3月には、ウレタンの極細糸を芯にナイロンを巻いた加工糸で編むサポーティストッキングを出し、堀氏が自ら開発を指揮した。
- 日本企業要覧 1973年版「厚木ナイロン工業」
- [47]45年11月期の売上高11,705百万円、46年11月期の売上高17,125百万円
- [48]46年11月期の経常利益2,080百万円、純利益1,058百万円
- [49]47年11月期の売上高16,675百万円、経常利益290百万円、純損失183百万円、配当0%
- 日本企業要覧 1980年版「厚木ナイロン工業」
- [50]53年11月期の売上高43,809百万円、経常利益1,715百万円
- 日本企業要覧 1980年版「厚木ナイロン工業」/商工ジャーナル 1980年5月号(石油ショック後の不況からも脱し、会社は復配した)
- [51]53年11月期の純利益2,249百万円、配当10%
- 商工ジャーナル 1980年5月号(丹沢一延)
- [52]昭和54年3月に発表したサポーティストッキングは堀禄助が自ら指揮して開発したもので、ウレタンの極細糸を芯にしてナイロンを巻きつけた強い伸縮性を持つ加工糸で編んだ
参考文献[37]-[52]
- 企業の歴史 明治百年 1968年「厚木ナイロン工業」
- [37]昭和43年5月期、会社創立以来はじめての欠損を計上し無配転落した
- [39]欠損の主因はくつ下の売り上げ低下と、タイツが不需要期であったことによる
- [40]従来厚木ナイロン商事が手持ちしていた備畜分を、親会社側が負担することになった
- [41]昭和41年2月、米国エーステイン社とファンデーションの技術提携をし、製造販売を開始した
- 企業の歴史 明治百年 1968年「厚木ナイロン工業」/日本企業要覧 1969年版「厚木ナイロン工業」
- [38]43年5月期の売上高は34億6500万円と前期に比し20%方減少し、7400万円の欠損となった(売上高3,465,171千円、純損失74,120千円、配当0%)
- 商工ジャーナル 1980年5月号(丹沢一延)
- [42]堀禄助は昭和43年にパンティストッキングを発表し、第二次のストッキング革命を起こした
- [52]昭和54年3月に発表したサポーティストッキングは堀禄助が自ら指揮して開発したもので、ウレタンの極細糸を芯にしてナイロンを巻きつけた強い伸縮性を持つ加工糸で編んだ
- 東邦経済 1970年「無配が一気に1割配へ 厚木ナイロン工業」
- [43]前5月期に売上高72億1400万円(前々期69億8300万円)、利益5億500万円(同1億6400万円)を計上した
- [44]43年5月期以来無配であった配当を、いっきょに年1割(現金5分、株式5分)に復配した
- [45]前5月期における靴下部門の売上高は50億8300万円(前々期36億6900万円)となり、構成比は52.6%から70.5%へ伸長した
- [46]タイツ8億3400万円(構成比11.6%)、セーターおよびファンデーション7億3500万円(同10.1%)、生地4億3200万円(同6.0%)
- 日本企業要覧 1973年版「厚木ナイロン工業」
- [47]45年11月期の売上高11,705百万円、46年11月期の売上高17,125百万円
- [48]46年11月期の経常利益2,080百万円、純利益1,058百万円
- [49]47年11月期の売上高16,675百万円、経常利益290百万円、純損失183百万円、配当0%
- 日本企業要覧 1980年版「厚木ナイロン工業」
- [50]53年11月期の売上高43,809百万円、経常利益1,715百万円
- 日本企業要覧 1980年版「厚木ナイロン工業」/商工ジャーナル 1980年5月号(石油ショック後の不況からも脱し、会社は復配した)
- [51]53年11月期の純利益2,249百万円、配当10%
筆者考察
1960年代に売ったのは靴下ではなく、縫い目のない靴下を選ぶ理由のほうだった。縫い目は、横編機で編んだ生地を縫い合わせる工程から生じた技術上の痕跡にすぎない。それでも、筋があるからこそ足が細く美しく見えるという見方が女性の側に定着しており、国内の問屋は扱おうとしなかった。1961年9月からの新聞一面広告、優勝者に海外旅行と100万円を贈るコンテスト、女子高校卒業生50万人への配布は、製品の性能を伝える宣伝ではなく、美しさの基準を入れ替える宣伝である。基準が入れ替わった翌年、シームレスの国内出荷はフルファッションを抜いた。設備資金が足りずに安い丸編機を選んだ制約が、結果として需要そのものを作り替える側へ会社を押し出した。
この20年の損益が激しく上下したのは、需要を作る会社が同時に在庫を抱える会社でもあったからである。問屋を通さない直売は問屋のマージンを排して収益力を高めた反面、売れ残りの引き取り手を社外に持たない構えでもあった。1968年5月期の創立以来はじめての欠損は、靴下の売上低下とタイツの不需要期に、販売会社が抱えていた備蓄分の負担が重なって表に出たものである。パンティストッキングが柱に育った1970年5月期にはただちに年1割へ復配し、1971年11月期には売上高171億2500万円まで伸びたが、翌年には経常利益が2億9000万円へ落ちて再び無配へ転じた。振れ幅の大きさは、流通を自ら握った代償として払い続けた費用だった。
1960年〜1979年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1960年11月期 | 単体 | 12 | n/a | n/a | n/a | 1 | 8.3% | n/a |
| 1961年11月期 | 単体 | 21 | +75.0% | 3 | n/a | 2 | 9.5% | n/a |
| 1962年11月期 | 単体 | 40 | +90.5% | 10 | n/a | 6 | 15.0% | n/a |
| 1963年11月期 | 単体 | 69 | +72.5% | n/a | n/a | 13 | 18.8% | 海外販売を目的に厚木ナイロン香港有限公司を設立(1963/08) |
| 1964年11月期 | 単体 | 60 | ▲13.0% | n/a | n/a | 2 | 3.3% | n/a |
| 1965年11月期 | 単体 | 55 | ▲8.3% | n/a | n/a | 0 | 0.0% | n/a |
| 1966年11月期 | 単体 | 67 | +21.8% | n/a | n/a | 2 | 3.0% | n/a |
| 1967年11月期 | 単体 | 78 | +16.4% | n/a | n/a | 4 | 5.1% | n/a |
| 1968年11月期 | 単体 | 81 | +3.8% | n/a | n/a | ▲1 | ▲1.2% | n/a |
| 1969年11月期 | 単体 | 119 | +46.9% | n/a | n/a | 2 | 1.7% | n/a |
| 1970年11月期 | 単体 | 189 | +58.8% | n/a | 26 | 15 | 7.9% | n/a |
| 1971年11月期 | 単体 | 285 | +50.8% | n/a | 39 | 22 | 7.7% | n/a |
| 1972年11月期 | 単体 | 329 | +15.4% | n/a | 6 | 0 | 0.0% | n/a |
| 1973年11月期 | 単体 | 390 | +18.5% | n/a | 7 | 3 | 0.8% | n/a |
| 1974年11月期 | 単体 | 406 | +4.1% | n/a | 2 | 2 | 0.5% | n/a |
| 1975年11月期 | 単体 | 362 | ▲10.8% | n/a | ▲19 | ▲15 | ▲4.1% | n/a |
| 1976年11月期 | 単体 | 393 | +8.6% | n/a | ▲4 | ▲7 | ▲1.8% | n/a |
| 1977年11月期 | 単体 | 409 | +4.1% | n/a | 3 | 3 | 0.7% | n/a |
| 1978年11月期 | 単体 | 438 | +7.1% | n/a | 17 | 22 | 5.0% | n/a |
| 1979年11月期 | 単体 | 463 | +5.7% | n/a | 14 | 8 | 1.7% | n/a |
出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版 変則11ヶ月決算、ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版 半期合算、会社年鑑 1967年版 半期合算、会社年鑑 1967年版、1971年版 半期合算、会社年鑑 1971年版 半期合算、会社年鑑 1976年版 半期合算、会社年鑑 1986年版
出典・参考
13件
- 企業の歴史 明治百年 1968年「厚木ナイロン工業」
- 企業の歴史 明治百年 1968年「厚木ナイロン工業」/ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- 企業の歴史 明治百年 1968年「厚木ナイロン工業」/日本企業要覧 1969年版「厚木ナイロン工業」
- 日本企業要覧 1962年版「厚木ナイロン工業」/ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- 商工ジャーナル 1980年5月号(丹沢一延)
- 日本企業要覧 1980年版「厚木ナイロン工業」/商工ジャーナル 1980年5月号(石油ショック後の不況からも脱し、会社は復配した)
- 日本企業要覧 1962年版「厚木ナイロン工業」
- 日本企業要覧 1964年版「厚木ナイロン工業」
- 日本企業要覧 1968年版「厚木ナイロン工業」
- 東邦経済 1970年「無配が一気に1割配へ 厚木ナイロン工業」
- 日本企業要覧 1973年版「厚木ナイロン工業」
- 日本企業要覧 1980年版「厚木ナイロン工業」