ワコールの創業期を貫いているのは、値段を自分で決め続けるという一点である。復員した塚本幸一が選んだのは、当時の日本にまだ市場のない婦人の装身具だった。市場がなければ相場もなく、値段は作り手が決めるほかない。1950年に掲げた10年一節の50年計画も、1957年の社名変更も、1963年の本社工場も、その値段を支える裏づけを一つずつ積む作業である。繊維を扱いながら自らを繊維業と呼ばず、繊維を原材料とする装身具工業と規定したのは、原材料の相場に値段を握られる立場から降りるという宣言であった。1968年に全国160軒の百貨店と直接取引し、市場の半分を占めるに至ったのは、その延長にある。
1962年に組合の要求を100%のむと決めた判断も、同じ線の上にある。急成長の途中で入社した社員の大半にとって、創業者の気分は共有されていない。タイムレコーダーを外し、遅刻も早退も社員の自由とした改革は、監視で品質を保つのをやめ、社員の判断に品質を委ねるという選択だった。高級品の値段は、縫い目の一本ずつが支える。1964年に浅草橋へ製品研究部を置き、18歳から50歳の女性の体を毎年測り始めたのは、その値段の根拠を寸法という数値で持つためである。量販店が現金を積んで買い付けに来ても塚本幸一が断り続けられたのは、断っても崩れない裏づけを社内に備えていたからであった。
1920年9月17日に滋賀県で生まれた塚本幸一氏は、1938年に滋賀県立八幡商業学校を出た。陸軍への召集は1940年12月、20歳のときである。中国からビルマへと転戦し、インパール作戦に加わった小隊は55人を数えたが、生還者は3人しかおらず、塚本幸一氏はその1人となった。1946年に復員すると、実家の繊維卸商の手伝いで身につけた商いの勘を頼りに婦人用装身具を売り始め、3カ月間は1日の休みもなく働いた。京都の自宅を拠点に婦人洋装装身具の卸商・和江商事を個人で起こしたのは、同年6月15日のことである。当時25歳、リュックサック一つの商売だった。
復員から3年後、塚本幸一氏はブラ・パッドという商品と出合った。その扱いを広げるなかで、米国の雑誌でその存在を初めて知ったブラジャーについても、手本のないまま独自に試作を重ねている。1949年11月1日、学生時代の友人らとともに資本金100万円・従業員10名で和江商事株式会社を創立した。同じ年にブラパットを発売し、卸商から洋装下着メーカーへと業態を移している。1946年6月の個人商店開業を創業、1949年11月の株式会社設立を創立と呼び分けている。周年行事が数えるのは後者で、1979年に創立30周年を迎え、同じ年に創立以来30年連続の増収増益を記録した。創立時の10名のうち、病死者と結婚退職者を除く8人が1975年になっても会社に残っていた。
10年刻みで1950年代を国内市場開拓期、1960年代を国内市場確立期、1970年代を海外市場開拓期、1980年代を海外市場確立期とし、1990年代を予備期間に充てる構成の50年計画を、塚本幸一社長は1950年の正月に打ち出した。同じ1950年、高島屋京都店での競合各社との1週間の競争販売では、社長自ら売り場を離れずに包装もレジも受け持ち、納入権を手にした。和江商事の商売が採算に乗ったのは、この店への納入が起点である。当時同店の仕入れ担当だった部長は、後になって、拒めば命に関わるのではと思うほどだったと打ち明けている。1952年には初の下着ショーを大阪の阪急デパートで開いた。
和江商事は、仕入れた品を売る卸商から自ら縫う会社へ移った。1951年6月、本社を京都市中京区室町通姉小路上ルへ移し、工場を開設して自家製造に着手。販路の側では1951年に大阪、1952年に東京へ出張所を開設した。工場は1955年の下鴨分工場、1956年の北野工場、1957年の西大路工場と増え、1963年には京都市南区に本社工場が完成する。1957年11月、商号を和江商事株式会社からワコール株式会社へ改め、ブランド名と社名をそろえた。1959年11月には国内の縫製子会社として東海ワコール縫製を設立した。
ワコールは繊維を扱いながら自らを繊維業とみなさず、繊維を原材料とする装身具工業と規定し、ブランドを売ることに力を注いだ。社章の三ツ葉のクローバーは、三つの葉に創意・計画・自信を、中央の茎に相互信頼を割り当てたものである。ワコールのブランドは高級品として広く浸透した。売り先は百貨店を軸に据え、1968年時点で全国約160軒のデパートと直接取引し、市場占有率は約50%を占めた。約1300軒の小売店にも直売し、全体の90%を自社から直接卸して、残り10%程度を地方問屋に回した。同じ1968年、資本金は5億円、従業員は2299名を数えた。商品の側では、昭和30年代のうちから妊婦用として前開きのブラジャーを手がけていた。
暮らしの欧風化に伴ってランジェリーやファンデーションガーメント類の需要が急伸し、ワコールの事業も拡大した。安値で量販店に流せば築いてきた基盤は2〜3年後には崩れる、と塚本幸一社長は見ていた。そのため1960年代前半に量販店が現金を持って買い付けに来ても、一切応じなかった。値引き販売は、売上高が目標に達しない局面でも認めなかった。原材料についても、半年から1年の契約で仕入れた品は横流しすればすぐ利益になる場面が何度もあったが、必ず全量を製品にし、ワコールの商標を付けて出荷した。
1958年に労働組合ができたワコールでは、1962年にストライキ直前まで事態がこじれた。ストはいったん避けられたが、塚本幸一社長は悩み抜いてやせ衰え、死ぬのではないかと思うほどだった。1962年7月23日、出光佐三氏の講演をたまたま耳にし、人間尊重を説くその経営哲学によって迷いは消えた。社員の大半は急成長のさなかに入ってきた人たちなのに、社長は創業期と同じ感覚で、自分の思いは伝わっていると決め込んでいた。思いを届けるどころか遠ざける振る舞いばかりしていた、と社長は自省している。
塚本幸一社長は、組合の要求を100%受け入れ、遅刻・早退・私用外出をすべて社員の自由とし、タイムレコーダーを廃止し、工場の日給月給制を全部月給制へ改める案を役員会に諮った。役員は全員が反対し、そんなことをすれば会社は潰れると答えた。塚本幸一社長は会社の解散を決意した。社長がそこまで言うならと、役員は改革を引き受けた。実行までの2カ月間、当時1400〜1500人の社員を10〜15人のグループに分けて集め、塚本幸一社長自身が直接考え方を伝えて回った。同じ年の年末要求では、従来方式に戻すよう頼みに自宅を訪ねた組合委員長を追い返し、組合が出してきた高い要求にそのまま判を押した。
1964年6月、ワコール株式会社は株式会社ワコールへ商号を変更し、同じ月にワコール販売株式会社を吸収した。同年9月、東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第二部、および京都証券取引所に上場。女性の体型を自ら測って商品に反映させるため、同じ1964年、東京・浅草橋に製品研究部を置き、人間工学に基づく体型計測研究を始めた。以後、18歳から50歳の女性の人体を毎年計測し、1980年までの15年間続けた。役員と従業員の賛同を得て賞与と配当をプールし、毎年増資に充てる方式は、1965年まで16年間続いた。体型計測の蓄積は商品にも表れ、1965年に売り出したタミーガードルは1967年に国際特許として米国で登録された。創業から20年余りを経て、ワコールは女性の体の寸法を自ら測り、その数値で商品の形を決める会社になっていた。
1970年代のワコールが海外へ出た理由は、市場を取ることだけではない。機械化のきかない縫製は、日本の労働力が不足すれば成り立たなくなる。韓国・タイ・台湾へ同時に合弁を置いたのは、作る場所を先に確保する判断だった。タイでは輸出で市場を育ててから現地生産へ移るという順序を踏まず、ミシン30台からいきなり作り始め、5年で550台まで増やしている。国内では1973年にワコールインターナショナルを設け、合弁先の製品をウイングの名で量販店へ流した。1960年代に断った安売りの需要を、10年後に別会社と別ブランドで受け直したことになる。値段を下げないという原則は、売り先を分けることで守られた。
1978年の70億円の出荷調整は、その原則が内側から破られかけた場面である。月末に集中する出荷の裏で在庫は4カ月分に膨らみ、伸び続ける売上高は押し込みで作られていた。50億円の売上目標を自ら引き下げ、4〜5カ月かけて出荷と生産を止めた判断は、数字の伸びよりも値段の信用を採るという選択だった。同じ年に米オルガ社の株式29%を買い、ブランドを国ごとに分ける3B作戦へ移った背景にも、値段の根拠はその国の文化に属するという読みがある。ただし1987年に39歳の塚本能交へ渡された会社では、この原則が別の働き方を始めていた。セシールが低価格で伸びるなかでも値段を下げなかったワコールは、成長する市場の外にとどまった。
1950年に立てた10年一節の50年計画は、1970年代を海外市場開拓期と定めていた。ワコールは1970年8月、韓国・タイ・台湾に合弁会社を相次いで設立し、海外展開に着手した。国内で人手不足が深まれば、機械化が難しく人の手に頼る縫製業はいずれ日本では成り立たなくなる、という見通しがあった。韓国の和江繊維への出資は49%、タイ・ワコールは49%、台湾ワコールは50%である。タイでの合弁相手、総合雑貨商サハ・パタナピブンが提携を持ちかけてきたのは1968年である。塚本幸一社長は現地に出向いて同社首脳と会い、事業家としての力量を評価した。それでも実現が認められたのは、国内市場確立期が明けた1970年代になってからだった。
タイ・ワコールは、日本から製品を輸出して市場を育ててから現地生産へ移るという順序を踏まなかった。1970年に資本金400万バーツで設立し、いきなり現地生産と市場づくりを同時に始めている。当初30台だったミシンは1975年初めに550台へ増え、従業員560人に対して日本人スタッフは2人だけだった。現地責任者の深沢幹弘副社長はタイ語で社員と意思を通わせ、タイ人社員と食事をともにし同じ車で帰った。1974年の売上高は6000万バーツで前年の2.4倍、輸出比率は1973年の20%から40%へ広がり、1973年からは10%の配当も始めた。狙ったのは、欧米からの輸入品ほど高くなく、現地製品ほど安くない中間の客層である。
1971年1月、ワコールは東京・大阪両証券取引所の市場第一部へ指定替えとなった。1973年には海外戦略の行動部隊としてワコールインターナショナルを設立し、東南アジアの合弁会社から製品を輸入して、量販店向けの中級婦人下着をウイングのブランドで売り始めた。百貨店と専門店を通る高級品のワコールブランドに対し、売り先も価格帯も分ける建て方である。ウイングは設立から7年で75億円を売り上げ、1980年度には年商110億円に達する勢いを示した。1960年代前半に量販店の現金買い付けをいっさい断った判断は、10年を経て、同じ需要を別会社と別ブランドで受け直す体制へ組み替えられた。
1971年、下着を着けないノーブラ運動の波が押し寄せ、ワコールの需要は低迷した。塚本幸一社長は自ら丸坊主になって社内を引き締めた。1972年の正月にも、経営は結果であるという式の利潤追求第一主義ではもはや駄目だと言い切り、突然頭を丸めている。当時のワコールは1973年8月期で売上高純利益率8%、自己資本比率45%という体質を備え、圧倒的に強いブランド力を持っていた。1974年は創立25周年にあたる節目でもあった。石油危機をきっかけに企業批判の嵐がわき起こるなか、ワコールは価格を動かさない側へ回る。売上高の伸びで会社を測る尺度を社長自身が先に降ろしたことが、翌年の価格判断の下地になった。
財界4団体が1974年1月上旬に値上げの自粛を打ち出すと、塚本幸一社長はそれに応じ、ファンデーションやランジェリーを含む全製品の価格を動かさないと表明した。当初の条件だった春闘のベースアップ率20%以内は、その後の春闘の急変で撤回され、決算期末の8月末までは条件を付けずに値上げを見送ることになった。社長の試算では、例年なら下半期に19億円ほど出る税引き後利益が11億円程度まで縮み、据え置きで8億円ほどの利益を手放す勘定だった。石油危機の前の安値で主原料の70%を押さえてはいたが、副資材の高騰と人件費の重みはのしかかった。
ワコールはファンデーションで2位メーカーの2.5倍を売り、市場占有率も60%弱を握っていた。価格を据え置いた結果は、同業他社との差に現れた。他社は一斉に20%前後の値上げに動き、販売高が前年を割り込む不振に陥った。2位以下との差がさらに開く見込みが立ち、値上げを見送ったことで社員の意気が上がったという声も社内から上がった。その支えは、対照的な動きを見せたワコールのファンデーション販売高である。1973年9月から12月の伸び率は平均60%以上から30%程度に落ちたが、それでも前年の実績は上回り続けた。創立からの30年は、ピンチを好機に変えてきた歩みとして社内でまとめられ、その底には、世の中にピンチなど存在せず、それはピンチと受け取る自分の心の中にしかないという構えがあった。
1977年末から1979年11月にかけて2年がかりで進めたコーポレート・アイデンティティー運動は、30年の間に積もった馴れ合いとセクショナリズムの一掃を狙うものだった。これは、塚本幸一社長が1977年7月に突如として、10年後に社長を退き後継には長男の能交氏を推したいと宣言したことを受けた最初の取り組みで、以後の経営戦略は創業者のいない体制づくりに的を絞っていた。運動は社是・社歌・シンボルマークの見直しにまで及び、本社正面には創立30周年当時の社員約4300人の名を第二の創業社員として刻んだ碑が建てられた。1979年9月、塚本社長は中村伊一副社長を社長代行職に就け、自らは会長のような役割に専念すると表明した。1980年の年頭に全社員4500人へ示された総括は、これまでの30年が新たなスタートを切るための準備だったというものである。
1978年の春以降、月末に集中する取引が続いていた。通常なら上旬3・中旬3・下旬4の比で流れる出荷が、下旬に7割ほど集まっていた。塚本幸一社長が調べさせると在庫は正常の倍にあたる4カ月分まで膨らんでおり、実態は押し込み販売だった。50億円の売上目標を修正しろと支店長へ指示し、4〜5カ月で70億円近い出荷調整と生産調整を断行した。過去10年は平均27%の増収を重ねる売上至上主義だったが、1978年度はそこから利益重視へ転じる節目となった。前開きのフロント・ホック・ブラの健闘もあって、この年度の売上高は前期比2.5%増、経常利益は8.1%増だった。高くても手に入れたいと思わせる品を作れ、ただしそう思わせても値が高すぎれば商売にならない。塚本幸一社長は部下にそう繰り返し説いていたという。
米国への資本進出は、ワコールという単一ブランドで世界を押さえるという当初の構想を改めさせた。その進出の資金は、1977年に発行した米国預託証券2700万ドルである。1978年、ワコールは高級婦人下着で全米5位のオルガ社の株式30万株・29%を公開買い付けで取得して業務提携を結び、全株の取得も申し入れた。下着のように文化の色合いが濃い商品は現地に定着させにくく、各国でいちばん浸透したブランドを使うほうが有利だと判断し、米国はオルガ、欧州はフランスの有力メーカー、アジアはワコールという3つのブランドで市場を分ける3B作戦に切り替えた。1979年9月からのオルガ製品の輸入販売は、その2年前に後継者として名前の挙がっていた塚本能交氏が指揮をとり、米国では1981年6月にワコール・アメリカを設け、1983年12月にティーンフォーム社グループの全株を手に入れた。
売上高の伸びは1982年から止まっており、利益も1981年8月期の74億5000万円が天井のままだった。39歳の塚本能交氏が社長に就いたのは1987年6月である。10年前に本人が宣言していた通りの就任だった。5年後の1992年、同氏は売上高2000億円を目標に据えた事業計画を示したが、足元の数字は伸び悩んでいた。市場占有率は1988年6月時点で25.2%に落ち、5年のあいだに4.9ポイントを減らしていた。一方、通信販売と低価格を売りにするセシールは1年でシェアを5ポイント上積みし、9.8%まで迫っていた。それでも塚本社長は、低価格帯に踏み込むことには慎重だった。同じ価格帯の商品を作れば品質を下げるほかなく、築き上げてきたブランドイメージに傷が付くという理由である。1980年の時点で塚本幸一会長が描いていた承継の形は、男の花道とは腹八分目で次々とバトンを渡すことであり、相当の力を残して体制を引き継ぐというものだった。
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|---|---|---|---|---|
| 1946〜1969年ブラジャー1本に賭け、値引かずに売る型を作った塚本幸一 | 塚本幸一が個人で和江商事を創業 | ★★★ | ||
| 資本金1百万円で和江商事を設立 | ★★★ | |||
| 本社を京都市中京区室町通姉小路上ルに移転し工場を開設、自家製造に着手 | ★★ | |||
| ワコールに商号変更 | ★★ | |||
| 国内縫製子会社として東海ワコール縫製を設立 | ★ | |||
| 東京・大阪証券取引所市場第二部及び京都証券取引所に上場 | ★ | |||
| 1970〜1988年オルガ株の取得と70億円の出荷調整、塚本能交への承継 | 韓国・タイ・台湾に合弁会社を設立し海外展開に着手 | ★★★ | ||
| 東京・大阪証券取引所市場第一部に指定上場 | ★ | |||
| 第三者割当増資によりトリーカの株式を取得し子会社化 | ★ | |||
| アメリカ合衆国に子会社WACOAL AMERICAを設立 | ★★ | |||
| 第三者割当増資により七彩の株式を取得し子会社化 | ★ | |||
| 米国ティーンフォーム社グループの全株式を取得 | ★★ | |||
| 中国に合弁会社北京華歌爾服装有限公司を設立 | ★★ | |||
| 1989〜2004年高級品専門と決別した5カ年計画と、拒まれた値引き | 塚本能交 | フィリピンに合弁会社PHILIPPINE WACOALを設立 | ★ | |
| 塚本能交 | フランスに子会社WACOAL FRANCEを設立 | ★ | ||
| 塚本能交 | インドネシアに合弁会社INDONESIA WACOALを設立 | ★ | ||
| 塚本能交 | 韓国ワコールの合弁契約を解消し新栄に出資 | ★ | ||
| 塚本能交 | ベトナムに子会社VIETNAM WACOALを設立 | ★ | ||
| 2005〜2026年ピーチ・ジョン買収と100億円強の減損、32店舗の閉鎖 | 塚本能交 | 持株会社体制に移行しワコールホールディングスに商号変更 | ★★★ | |
| 塚本能交 | ピーチ・ジョンを株式交換により完全子会社化 | ★★ | ||
| 塚本能交 | ルシアンを株式交換により完全子会社化 | ★ | ||
| 塚本能交 | EVEDEN GROUP LIMITEDの全株式を取得し完全子会社化 | ★★ | ||
| 安原弘展 | INTIMATES ONLINEの全株式を取得し完全子会社化 | ★ | ||
| 安原弘展 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 矢島昌明 | 七彩の株式を譲渡 | ★ | ||
| 矢島昌明 | BRAVISSIMO GROUP LTD.の全株式を取得し完全子会社化 | ★★ | ||
| 矢島昌明 | ルシアンの株式を譲渡 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(ワコールホールディングス)