ワコールホールディングス の歴史

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創業 1946年
創業者 塚本幸一
創業地 京都市
創業
1946年6月、インパール作戦から復員した塚本幸一氏が、京都の自宅を拠点に婦人洋装装身具の卸商として和江商事を個人で創業した。25歳、リュックサック一つの商売だった。復員から3年後にブラ・パッドと出合い、米国の雑誌で知ったブラジャーを見よう見まねで試作する。1949年11月、学生時代の友人らと資本金100万円・従業員10名で和江商事株式会社を設立し、仕入れた品を売る卸商から自ら縫うメーカーへ移った。1957年11月に商号をワコールへ改め、2005年10月の持株会社移行でワコールホールディングスとなっている。
決断
値段を下げない理由を、女性の体を測り続けることで作ってきた。1960年代前半、量販店が現金を持って買い付けに来ても塚本幸一社長はすべて断っている。安売りで流せば積み上げてきた商いが2〜3年で崩れると見たためで、1974年1月には価格凍結宣言を出し、1975年8月まで主力商品をほとんど値上げしなかった。1964年に東京・浅草橋へ置いた製品研究部では18歳から50歳の女性の人体を1980年まで毎年計測し、1978年春の前開きブラは初年度計画70万枚に対し半年で140万枚が売れた。測って作った商品が売れたことが、値引かない売り方を成り立たせた。
現況
国内の売上が縮むあいだに、海外の主力はアジアから欧米へ入れ替わった。2026年3月期の売上収益1,715億円の内訳は日本1,019億円、欧米519億円、アジア・オセアニア175億円で、2023年3月期からの3年間に日本は187億円減り、欧米は63億円増えている。営業利益199億円は新京都ビルや寮・社宅の売却益が押し上げたもので、2024年3月期には構造改革費用と米子会社の清算で営業損失95億円を計上した。国内で失った販売数量を、2024年9月に全株式を取得した英国のブラビッシモが埋めている。
競合
競争の焦点は商品の品質ではなく、買う前に試着を挟むかどうかに置かれてきた。低価格の通信販売で伸びたセシールは1988年6月までの1年でシェアを5ポイント上げて9.8%に達し、同じ期間にワコールは4.9ポイント下げて25.2%になった。塚本幸一会長は下着は体に合わせることが欠かせないとして対面販売を守り、値引きの代わりに海外へ資源を向ける。2015年に不採算ブランドを整理して営業利益率を戻したワールドと同じく、百貨店の売場に依存した会社は品番と店舗の整理を迫られ、ワコールも2023年11月に32店の閉店を決めた。2026年6月の中期経営計画が卸主体のB2Bから直営店とECのD2Cへの転換を掲げたのは、試着の場を自社で持たない限り売り方を他社に決められるからである。
長期業績の推移 1964〜2026年
ワコールホールディングス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー ブラジャー1本に賭け、値引かずに売る型を作った塚本幸一 (1946年〜)

創業ストーリー(1)

復員から3年、資本金100万円で始めたブラジャー

塚本幸一氏は1920年9月17日に滋賀県で生まれ、1938年に滋賀県立八幡商業学校を卒業し、1940年12月に20歳で陸軍へ召集された[1][2]。中国からビルマまで転戦し、インパール作戦で55人いた小隊のうち生き残った3人の1人が塚本幸一氏である[3]。1946年に復員すると、家業の繊維卸商を手伝って身につけた商いを頼りに婦人物の装身具の販売を始め、復員から3カ月は1日も休まず働いた[4]。同年6月15日、京都の自宅を拠点に婦人洋装装身具の卸商として和江商事を個人で創業した[5]。当時25歳、リュックサック一つの商売だった[6]

  • 日経ビジネス 1998年6月22日号
    • [1]塚本幸一は1920年9月17日滋賀県生まれ、1940年12月に20歳で陸軍へ召集された
    • [3]中国・ビルマなどを転戦し、インパール作戦では55人いた小隊のうち生還したのは本人を含め3人だった
    • [4]1946年に復員後、家業の繊維卸商の手伝いで身についた商売から婦人物の装身具の販売を手がけ、復員から3カ月は1日も休まず働いた
  • 日経ビジネス 1975年9月15日号
    • [2]1938年に滋賀県立八幡商業学校を卒業し応召した
    • [6]創業当時25歳、リュックサック一つの商売だった
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1946年6月15日、塚本幸一が復員後に婦人洋装装身具の卸商として和江商事を京都の自宅で創業した

復員から3年後、塚本幸一氏はブラ・パッドと出合い、その拡販のために米国の雑誌を通して存在を知ったブラジャーを見よう見まねで試作した[7]。1949年11月1日、学生時代の友人らと資本金100万円・従業員10名で和江商事株式会社を創立[8]。同年にブラパットを発売し、卸商から洋装下着メーカーへ移った[9]。創業は1946年6月の個人商店を指し、創立は1949年11月の株式会社設立を指す[10]。周年行事が数えるのは後者で、1979年に創立30周年を迎え、同じ年に創立以来30年連続の増収増益を記録した[11]。創立時の10名のうち、病死者と結婚退職者を除く8人が1975年になっても会社に残っていた[12]

  • 日経ビジネス 1998年6月22日号
    • [7]復員から3年後にブラ・パッドと出合い、その拡販のため米国の雑誌を通して存在を知ったブラジャーを見よう見まねで試作した
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】 / 日経ビジネス 1998年6月22日号「「個人商店」貫いて、塚本幸一会長逝く 女性用下着のガリバー、ワコールの創業者、77歳で」
    • [8]1949年11月1日、和江商事株式会社を創立(資本金100万円・従業員10名)/学生時代の友人らと設立
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1949年に「ブラパット」を発売し洋装下着メーカーへ転換した
    • [10]1946年6月の個人創業と1949年11月1日の株式会社創立
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [11]1979年に創立30周年を迎え、1954年度(1979年8月期)で創立(1949年11月)以来30年間連続の増収増益を達成した
  • 日経ビジネス 1975年9月15日号
    • [12]創立時のメンバーは病死者・結婚退職者を除き8人全員が1975年時点でも留まっている

1950年の正月、塚本幸一社長は50年計画を掲げた[13]。10年を一節とし、1950年代を国内市場開拓期、1960年代を国内市場確立期、1970年代を海外市場開拓期、1980年代を海外市場確立期、1990年代を予備期間と置く区切りである[14]。同じ1950年、高島屋京都店で競合他社と1週間の競争販売に臨み、売り場に付きっきりで包装とレジ係をこなして納入権を取った[15]。この納入が、和江商事の商売を軌道に乗せた[16]。当時の同店の仕入れ担当部長は、断ったら殺されるのではないかと感じたと後に漏らしている[17]。1952年には大阪の阪急デパートで初めての下着ショーを開いた[18]

  • 日経ビジネス 1998年6月22日号
    • [13]1950年の正月に塚本幸一が「50年計画」を掲げた
    • [15]1950年、高島屋京都店でライバル企業と競争で販売した1週間、売り場につきっきりで包装とレジ係をこなし、大差をつけて納入権を勝ち取った
    • [16]高島屋への納入をきっかけに和江商事の商売が軌道にのった
    • [17]当時の高島屋京都店の仕入れ担当部長は「断ったら殺されるのではないか」というほどの勢いを感じたと後に漏らした
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [14]1950年に立てた「10年一節」の50年計画は、第1節1950年代を国内市場開拓期、第2節を国内市場確立期、第3節を海外市場開拓期、第4節を海外市場確立期、第5節を予備期間とする
    • [18]1952年、大阪・阪急デパートで初めての下着ショーを開催した
  • 日経ビジネス 1998年6月22日号
    • [1]塚本幸一は1920年9月17日滋賀県生まれ、1940年12月に20歳で陸軍へ召集された
    • [3]中国・ビルマなどを転戦し、インパール作戦では55人いた小隊のうち生還したのは本人を含め3人だった
    • [4]1946年に復員後、家業の繊維卸商の手伝いで身についた商売から婦人物の装身具の販売を手がけ、復員から3カ月は1日も休まず働いた
    • [7]復員から3年後にブラ・パッドと出合い、その拡販のため米国の雑誌を通して存在を知ったブラジャーを見よう見まねで試作した
    • [13]1950年の正月に塚本幸一が「50年計画」を掲げた
    • [15]1950年、高島屋京都店でライバル企業と競争で販売した1週間、売り場につきっきりで包装とレジ係をこなし、大差をつけて納入権を勝ち取った
    • [16]高島屋への納入をきっかけに和江商事の商売が軌道にのった
    • [17]当時の高島屋京都店の仕入れ担当部長は「断ったら殺されるのではないか」というほどの勢いを感じたと後に漏らした
  • 日経ビジネス 1975年9月15日号
    • [2]1938年に滋賀県立八幡商業学校を卒業し応召した
    • [6]創業当時25歳、リュックサック一つの商売だった
    • [12]創立時のメンバーは病死者・結婚退職者を除き8人全員が1975年時点でも留まっている
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1946年6月15日、塚本幸一が復員後に婦人洋装装身具の卸商として和江商事を京都の自宅で創業した
    • [9]1949年に「ブラパット」を発売し洋装下着メーカーへ転換した
    • [10]1946年6月の個人創業と1949年11月1日の株式会社創立
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】 / 日経ビジネス 1998年6月22日号「「個人商店」貫いて、塚本幸一会長逝く 女性用下着のガリバー、ワコールの創業者、77歳で」
    • [8]1949年11月1日、和江商事株式会社を創立(資本金100万円・従業員10名)/学生時代の友人らと設立
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [11]1979年に創立30周年を迎え、1954年度(1979年8月期)で創立(1949年11月)以来30年間連続の増収増益を達成した
    • [14]1950年に立てた「10年一節」の50年計画は、第1節1950年代を国内市場開拓期、第2節を国内市場確立期、第3節を海外市場開拓期、第4節を海外市場確立期、第5節を予備期間とする
    • [18]1952年、大阪・阪急デパートで初めての下着ショーを開催した
創業ストーリー(2)

繊維業ではなく装身具工業という自己規定と、安売りの拒否

和江商事は、仕入れた品を売る卸商から自ら縫う会社へ移った[19]。1951年6月、本社を京都市中京区室町通姉小路上ルへ移し、工場を開設して自家製造に着手[20]。販路の側では1951年に大阪、1952年に東京へ出張所を置いた[21]。工場は1955年の下鴨分工場、1956年の北野工場、1957年の西大路工場と増え、1963年には京都市南区に本社工場が完成する[22]。1957年11月、商号を和江商事株式会社からワコール株式会社へ改め、ブランド名と社名をそろえた[23]。1959年11月には国内の縫製子会社として東海ワコール縫製を設立した[24]

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「ワコール」
    • [19]婦人洋装装身具の卸商として創業し、のちに自家製造を開始した
    • [21]1951年に大阪、1952年に東京に出張所を設けた
    • [22]1955年下鴨分工場、1956年北野工場、1957年西大路工場と設備を増強し、1963年に現在地(京都市南区吉祥院中島町)に本社工場を完成させた
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1951年6月、本社を京都市中京区室町通姉小路上ルに移転し工場を開設、自家製造に着手した
    • [23]1957年11月、和江商事株式会社からワコール株式会社へ商号変更した
    • [24]1959年11月、国内縫製子会社の東海ワコール縫製を設立した

ワコールは繊維を扱いながら自らを繊維業とみなさず、繊維を原材料とする装身具工業と規定し、ブランドを売ることに力を注いだ[25]。社章の三ツ葉のクローバーは、三つの葉に創意・計画・自信を、中央の茎に相互信頼を割り当てたものである[26]。ワコールのブランドは高級品として広く浸透した[27]。売り先は百貨店を軸に据え、1968年時点で全国約160軒のデパートと直接取引し、市場占有率は約50%を占めた[28]。約1300軒の小売店にも直売し、全体の90%を自社から直接卸して、残り10%程度を地方問屋に回した[29]。同じ1968年、資本金は5億円、従業員は2299名を数えた[30]

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「ワコール」
    • [25]「繊維を扱うが繊維業でなく繊維を原材料とする装身具工業である」との考えのもとブランドを売ることに注力した
    • [26]社章は三ツ葉のクローバーで、三ツ葉はそれぞれ創意・計画・自信を表わし、中央の茎は相互信頼を意味する
    • [27]ワコールのブランドは高級品のイメージのもと広く浸透した
    • [28]1968年時点で全国約160軒のデパートと直接取引し、市場占有率は約50%
    • [29]約1300軒の小売店にも直売し、全体の90%が直接同社から卸、残り10%程度を地方問屋に卸していた
    • [30]1968年時点の資本金5億円、従業員2299名

生活様式の欧風化でランジェリーやファンデーションガーメント類の需要が急上昇し、ワコールの事業も広がった[31]。1960年代前半、量販店が現金を持ってワコールへ商品を買い付けに来た[32]。塚本幸一社長は、その買い付けをいっさい断った[33]。安売りで量販店へ流せば、それまで積み上げてきた土台が2〜3年後に崩れると見たからである[34]。売り上げが目標に届かなくても、安売りはさせなかった[35]。原材料も同じで、半年から1年の契約で仕入れた分をそのまま右から左へ売れば簡単に利益が出る場面が何度もあったが、必ず全部を商品にしてワコールの商標で出した[36]

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「ワコール」
    • [31]生活様式の欧風化に伴いランジェリー、ファンデーションガーメント類の需要が急上昇を続け、事業も拡大した
  • 日経ビジネス 1975年9月15日号
    • [32]昭和30年代後半から40年代前半にかけて量販店がいっせいにキャッシュを持って買い付けに来た
    • [33]塚本幸一はその買い付けをいっさい断った
    • [34]量販店に安売りで流せば積み上げてきた土台が2〜3年後に全部崩れることを恐れた
    • [35]売り上げが目標に達しなくても絶対に安売りはやらせなかった
    • [36]半年から1年の契約で仕入れた原材料を右から左に売れば簡単に利益が出る場面が何度もあったが、原材料を原材料として売る行為は一度もやらせず、必ず全部を商品化してワコールの商標で出した
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「ワコール」
    • [19]婦人洋装装身具の卸商として創業し、のちに自家製造を開始した
    • [21]1951年に大阪、1952年に東京に出張所を設けた
    • [22]1955年下鴨分工場、1956年北野工場、1957年西大路工場と設備を増強し、1963年に現在地(京都市南区吉祥院中島町)に本社工場を完成させた
    • [25]「繊維を扱うが繊維業でなく繊維を原材料とする装身具工業である」との考えのもとブランドを売ることに注力した
    • [26]社章は三ツ葉のクローバーで、三ツ葉はそれぞれ創意・計画・自信を表わし、中央の茎は相互信頼を意味する
    • [27]ワコールのブランドは高級品のイメージのもと広く浸透した
    • [28]1968年時点で全国約160軒のデパートと直接取引し、市場占有率は約50%
    • [29]約1300軒の小売店にも直売し、全体の90%が直接同社から卸、残り10%程度を地方問屋に卸していた
    • [30]1968年時点の資本金5億円、従業員2299名
    • [31]生活様式の欧風化に伴いランジェリー、ファンデーションガーメント類の需要が急上昇を続け、事業も拡大した
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1951年6月、本社を京都市中京区室町通姉小路上ルに移転し工場を開設、自家製造に着手した
    • [23]1957年11月、和江商事株式会社からワコール株式会社へ商号変更した
    • [24]1959年11月、国内縫製子会社の東海ワコール縫製を設立した
  • 日経ビジネス 1975年9月15日号
    • [32]昭和30年代後半から40年代前半にかけて量販店がいっせいにキャッシュを持って買い付けに来た
    • [33]塚本幸一はその買い付けをいっさい断った
    • [34]量販店に安売りで流せば積み上げてきた土台が2〜3年後に全部崩れることを恐れた
    • [35]売り上げが目標に達しなくても絶対に安売りはやらせなかった
    • [36]半年から1年の契約で仕入れた原材料を右から左に売れば簡単に利益が出る場面が何度もあったが、原材料を原材料として売る行為は一度もやらせず、必ず全部を商品化してワコールの商標で出した
創業ストーリー(3)

スト寸前から組合要求100%受諾へ、浅草橋の製品研究部

ワコールに労働組合ができたのは1958年で、1962年にはスト寸前まで進んだ[37]。ストは一時回避したものの、塚本幸一社長は悩み抜いて痩せ、このまま死ぬのではないかと思うところまで追い込まれた[38]。1962年7月23日、出光佐三氏の講演を初めて聞く機会があった[39]。人間尊重の経営哲学に触れ、それまでの迷いが消えた[40]。創業当時と同じ気分で社員は自分の気持ちを分かってくれていると思い込んでいたが、社員の大半は途中の急成長期に入社した人々だった[41]。社員を分からせるどころか向こうへ押しやることばかりしていたと、塚本幸一社長は自分を省みた[42]

  • 日経ビジネス 1975年9月15日号
    • [37]ワコールに組合ができたのは1958年、1962年にスト寸前までいった
    • [38]ストを一時回避したものの悩み抜いてげっそり痩せ、このまま死ぬのではないかと思うほどだった
    • [39]1962年7月23日、出光佐三の講演を初めて聞く機会があった
    • [40]人間尊重の経営哲学に触れてそれまでの迷いがさめた
    • [41]創業当時と同じ気分で社員は自分の気持ちを分かってくれていると思い込んでいたが、社員の大半は途中の急成長期に入社していた
    • [42]社員をわからせるどころか向こうへ押しやるようなことばかりやっていた、と塚本幸一が述懐した

塚本幸一社長は、組合の要求を100%受け入れ、遅刻・早退・私用外出をすべて社員の自由とし、タイムレコーダーを廃止し、工場の日給月給制を全部月給制へ改める案を役員会に諮った[43]。役員は全員が反対し、そんなことをすれば会社は潰れると答えた[44]。塚本幸一社長は会社の解散を決意した[45]。社長がそこまで言うならと、役員は改革を引き受けた[46]。実行までの2カ月間、当時1400〜1500人の社員を10〜15人のグループに分けて集め、塚本幸一社長自身が直接考え方を伝えて回った[47]。同じ年の年末要求では、従来方式に戻すよう頼みに自宅を訪ねた組合委員長を追い返し、組合が出してきた高い要求にそのまま判を押した[48]

  • 日経ビジネス 1975年9月15日号
    • [43]組合の要求を100%きく、遅刻・早退・私用外出を社員の自由にする、タイムレコーダーを廃止する、工場の日給月給制を全部月給制にする、という改革を役員会にはかった
    • [44]役員は全員が大反対し、そんなことをしたら会社は潰れると答えた
    • [45]塚本幸一は会社を解散する決心をした
    • [46]社長がそこまで言うならと役員たちは改革をやる気になった
    • [47]実行に移すまでの2カ月間、当時1400〜1500人の社員を10〜15人のグループに分けて集め、塚本幸一自身が直接考え方を話した
    • [48]年末要求の際、従来方式でと頼みに自宅を訪ねた組合委員長を追い返し、出てきた高い要求にそのまま判を押した

1964年6月、ワコール株式会社は株式会社ワコールへ商号を改め、同じ月にワコール販売株式会社を吸収した[49]。同年9月、東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第二部、および京都証券取引所に上場[50]。女性の体型を自ら測って商品に反映させるため、同じ1964年、東京・浅草橋に製品研究部を置き、人間工学に基づく体型計測研究を始めた[51]。以後、18歳から50歳の女性の人体を毎年計測し、1980年までの15年間続けた[52]。役員と従業員の賛同を得て賞与と配当をプールし、毎年増資に充てる方式は、1965年まで16年間続いた[53]

  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】 / 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「ワコール」
    • [49]1964年6月、ワコール株式会社から株式会社ワコールへ商号変更/1964年6月にワコール販売を吸収した
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [50]1964年9月、東京・大阪証券取引所市場第二部および京都証券取引所に上場した
    • [51]1964年、東京・浅草橋に製品研究部を設置し人間工学に基づく体型計測研究を開始した
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [52]1980年時点で過去15年間にわたり毎年18〜50歳の女性の人体を計測し、人間工学の手法でプロポーション・人体研究を進めてきた
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「ワコール」
    • [53]役員・従業員の賛同を得て賞与金額と配当金をプールし、毎年増資を1965年まで16年間続けた
  • 日経ビジネス 1975年9月15日号
    • [37]ワコールに組合ができたのは1958年、1962年にスト寸前までいった
    • [38]ストを一時回避したものの悩み抜いてげっそり痩せ、このまま死ぬのではないかと思うほどだった
    • [39]1962年7月23日、出光佐三の講演を初めて聞く機会があった
    • [40]人間尊重の経営哲学に触れてそれまでの迷いがさめた
    • [41]創業当時と同じ気分で社員は自分の気持ちを分かってくれていると思い込んでいたが、社員の大半は途中の急成長期に入社していた
    • [42]社員をわからせるどころか向こうへ押しやるようなことばかりやっていた、と塚本幸一が述懐した
    • [43]組合の要求を100%きく、遅刻・早退・私用外出を社員の自由にする、タイムレコーダーを廃止する、工場の日給月給制を全部月給制にする、という改革を役員会にはかった
    • [44]役員は全員が大反対し、そんなことをしたら会社は潰れると答えた
    • [45]塚本幸一は会社を解散する決心をした
    • [46]社長がそこまで言うならと役員たちは改革をやる気になった
    • [47]実行に移すまでの2カ月間、当時1400〜1500人の社員を10〜15人のグループに分けて集め、塚本幸一自身が直接考え方を話した
    • [48]年末要求の際、従来方式でと頼みに自宅を訪ねた組合委員長を追い返し、出てきた高い要求にそのまま判を押した
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】 / 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「ワコール」
    • [49]1964年6月、ワコール株式会社から株式会社ワコールへ商号変更/1964年6月にワコール販売を吸収した
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [50]1964年9月、東京・大阪証券取引所市場第二部および京都証券取引所に上場した
    • [51]1964年、東京・浅草橋に製品研究部を設置し人間工学に基づく体型計測研究を開始した
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [52]1980年時点で過去15年間にわたり毎年18〜50歳の女性の人体を計測し、人間工学の手法でプロポーション・人体研究を進めてきた
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「ワコール」
    • [53]役員・従業員の賛同を得て賞与金額と配当金をプールし、毎年増資を1965年まで16年間続けた
創業ストーリー(4)

10年一節計画が定めた海外市場開拓期の合弁3社

ワコールは1950年に10年を一節とする50年計画を立て、1950年代を国内市場開拓期、1960年代を国内市場確立期、1970年代を海外市場開拓期、1980年代を海外市場確立期と定めた[54]。その区分どおり1970年8月、韓国に和江繊維、タイにタイワコール、台湾に台湾ワコールを設け、出資比率をそれぞれ49%、49%、50%とした[55]。同じ1970年、大阪万博にも出展[56]。翌1971年1月、東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第一部に指定された[57]。1973年には合弁3社から製品を輸入する子会社としてワコールインターナショナルを設立し、百貨店・専門店向けの高級なワコールブランドとは別に、量販店向けの中級婦人下着をウイングブランドで売り出した[58]

  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [54]1950年に立てた「10年一節」の50年計画で、1950年代を国内市場開拓期、1960年代を国内市場確立期、1970年代を海外市場開拓期、1980年代を海外市場確立期と区分した
    • [55]1970年に和江繊維(韓国)に49%、タイワコールに49%、台湾ワコールに50%を出資して合弁会社を設立した
    • [58]1973年に海外合弁会社から製品を輸入するワコールインターナショナル(WIC)を設立し、百貨店・専門店中心の高級なワコールブランドに対して、量販店向けの中級婦人下着を「ウイング」ブランドで販売した
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [56]1970年8月に韓国・タイ・台湾に合弁会社を設立し、同年大阪万博に出展した
    • [57]1971年1月に東京・大阪証券取引所市場第一部に指定された

塚本幸一社長は当初、ワコールブランドのまま世界を取ることを構想していた[59]。方針が変わったきっかけは米国への資本進出である[60]。ワコールは1977年に米国預託証券2700万ドルを発行し[61]、その資金で1978年、高級婦人下着で全米5位のオルガ社の株式30万株、29%を公開買い付けで取得して業務提携に踏み切った[62]。以後は米国をオルガ、欧州を買収交渉中のフランスの婦人下着メーカー、アジアをワコールと、地域ごとに別のブランドを立てる3ブランド作戦へ切り替えた[63]。1978年にシンガポール営業所を開き、1979年には中国でブラジャーの委託生産を始め、パリのイッセイ・ミヤケ・ヨーロッパへ47%を出資した[64]

  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [59]かつてはワコールブランドによる世界制覇を目論んでいた
    • [60]米国への資本進出をきっかけに、ブランドの立て方を国ごとに変える方針へ転換した
    • [61]1977年にADR(米国預託証券)2700万ドルを発行した
    • [62]1978年に米国のオルガ社(高級婦人下着で全米5位)の株式30万株(29%)を公開買い付けで取得し、業務提携に踏み切った
    • [63]米国はオルガブランド、欧州は買収先を物色中のフランスの有力婦人下着メーカーのブランド、アジア地域はワコールブランドという3ブランド(3B)作戦を採った
    • [64]1978年にシンガポール営業所を開設し、1979年に中国でブラジャーの委託生産を開始、同年イッセイ・ミヤケ・ヨーロッパ(パリ)に47%を出資した

1980年3月1日、ワコールは海外戦略の行動部隊だったワコールインターナショナルを吸収合併し、海外部門を本体へ一本化した[65]。1981年6月には米国に子会社WACOAL AMERICAを設けた[66]。1983年12月、米国ティーンフォーム社グループの全株式を取得[67]。1986年1月には中国に合弁会社の北京華歌爾服装有限公司を設けた[68]。もっとも海外から上がる利益はまだ小さく、オルガ社の商品を輸入販売するオルガ事業部の1980年度の年商見込みは2億円、同じ1980年度の全社売上高見込みは865億円だった[69]

  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [65]1980年3月1日に海外戦略の行動部隊だった子会社ワコールインターナショナル(WIC)を吸収合併し、海外部門を一本化した
    • [69]オルガ事業部の1980年度(55年度)年商見込みは2億円、同年度の売上高見込みは865億円だった
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [66]1981年6月にアメリカ合衆国に子会社 WACOAL AMERICA を設立した
    • [67]1983年12月に米国ティーンフォーム社グループの全株式を取得した
    • [68]1986年1月に中国に合弁会社 北京華歌爾服装有限公司を設立した
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [54]1950年に立てた「10年一節」の50年計画で、1950年代を国内市場開拓期、1960年代を国内市場確立期、1970年代を海外市場開拓期、1980年代を海外市場確立期と区分した
    • [55]1970年に和江繊維(韓国)に49%、タイワコールに49%、台湾ワコールに50%を出資して合弁会社を設立した
    • [58]1973年に海外合弁会社から製品を輸入するワコールインターナショナル(WIC)を設立し、百貨店・専門店中心の高級なワコールブランドに対して、量販店向けの中級婦人下着を「ウイング」ブランドで販売した
    • [59]かつてはワコールブランドによる世界制覇を目論んでいた
    • [60]米国への資本進出をきっかけに、ブランドの立て方を国ごとに変える方針へ転換した
    • [61]1977年にADR(米国預託証券)2700万ドルを発行した
    • [62]1978年に米国のオルガ社(高級婦人下着で全米5位)の株式30万株(29%)を公開買い付けで取得し、業務提携に踏み切った
    • [63]米国はオルガブランド、欧州は買収先を物色中のフランスの有力婦人下着メーカーのブランド、アジア地域はワコールブランドという3ブランド(3B)作戦を採った
    • [64]1978年にシンガポール営業所を開設し、1979年に中国でブラジャーの委託生産を開始、同年イッセイ・ミヤケ・ヨーロッパ(パリ)に47%を出資した
    • [65]1980年3月1日に海外戦略の行動部隊だった子会社ワコールインターナショナル(WIC)を吸収合併し、海外部門を一本化した
    • [69]オルガ事業部の1980年度(55年度)年商見込みは2億円、同年度の売上高見込みは865億円だった
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [56]1970年8月に韓国・タイ・台湾に合弁会社を設立し、同年大阪万博に出展した
    • [57]1971年1月に東京・大阪証券取引所市場第一部に指定された
    • [66]1981年6月にアメリカ合衆国に子会社 WACOAL AMERICA を設立した
    • [67]1983年12月に米国ティーンフォーム社グループの全株式を取得した
    • [68]1986年1月に中国に合弁会社 北京華歌爾服装有限公司を設立した
創業ストーリー(5)

人体計測15年が生んだ前開きブラと、価格凍結宣言

1971年、ノーブラの流行がワコールの本命商品である下着を直撃し、売上高が停滞した[70]。創業以来ほぼ勝ち戦しか知らなかった社内に敗戦気分が漂うと、塚本幸一社長は丸坊主になって社員の前に立った[71]。それでも値引きには手を出さず、1974年1月、経団連が値上げ自粛を要望した翌日に価格凍結宣言を出して、1975年8月まで主力商品をほとんど値上げしないまま通した[72]。値上げした他社との間に割安感が生まれ、従業員約3400人のワコールは1975年8月期に前期比26%増の売上高440億7500万円を計上し、ランジェリーとファウンデーションの部門は36%伸びた[73]

  • 日経ビジネス 1975年9月15日号
    • [70]1971年にノーブラというファッションの激変期を迎え、本命商品である下着の売り上げが停滞した
    • [72]1974年1月に経団連が値上げ自粛の要望を出した翌日、ワコールは価格凍結宣言を行い、1975年8月まで主力商品をほとんど値上げしなかった
    • [73]1975年8月期決算は売上高440億7500万円で前期比26%増、主力のランジェリー・ファウンデーション部門は36%増、従業員は約3400人だった
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [71]1971年のノーブラ運動で需要が低迷した際、塚本幸一社長は自ら丸坊主になって社内を引き締めた

高い値をつけたまま売り続けるために、ワコールは人間工学の手法を取り入れ、1980年までの15年間、毎年18〜50歳の女性の人体を計測してきた[74]。中央研究所はこの蓄積から、35歳が身体の曲がり角であること、30歳を過ぎると下腹が急に出っぱり始め、40歳を超えると半数以上が肥満体になることをミセスの体形調査として公表し、そのうえで透明感と光沢のある新素材を使ったタミーガードルを売り出した[75]。1978年春に発売した前開きのフロント・ホック・ブラは、初年度70万枚の計画に対し半年足らずで140万枚が売れ、1979年度には290万枚とブラジャーの主力商品にのし上がった[76]。デザイナー160人のうち140人は女性で、百貨店・専門店に置いた約1200人の派遣店員の声を7月と12月の年2回の企画会議に反映させている[77]

  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [74]過去15年間にわたって毎年18〜50歳の女性の人体を計測するなど、人間工学の手法を取り入れてプロポーション・人体研究を進めてきた
    • [75]中央研究所のミセスの体形特徴調査として「35歳は身体の曲がり角」「30歳を過ぎると下腹が急に出っぱり始め、40歳を超えると半数以上が肥満体となる」を公表し、透明感・光沢のある新素材の商品を売り出した
    • [76]1978年春に売り出したフロント・ホック・ブラは初年度70万枚の予定が半年足らずで140万枚売れ、1979年度には290万枚とブラジャーの主力商品になった
    • [77]デザイナー160人中140人が女性で、百貨店・専門店への派遣店員約1200人の声を7月と12月の年2回の企画会議に生かしている

1978年春、塚本幸一社長は取引が月末に集中していることから異常を察し、在庫が正常の倍にあたる4カ月分たまっていることを突き止めた[78]。押し込み販売である。ワコールは支店長へ売上目標の修正を指示し、4〜5カ月かけて70億円近い出荷調整と生産調整に踏み切った[79]。過去10年間で平均27%の増収を重ねてきたワコールは、この在庫調整を境に売上至上主義を脱し、利益を優先する経営へ改めた[80]。1979年には全国9販売店と本社・物流センター・資材センターを結ぶ営業総合コンピューターシステムを完成させ、返品率を1978年度の16.8%から14.3%へ下げた[81]。1979年8月期は売上高743億8100万円、経常利益131億5800万円を計上し、1949年11月の創立から30年連続の増収増益となった[82]

  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [78]1978年春以来の月末集中型の取引から異常に気づき、在庫が正常の倍の4カ月分たまっていることを突き止めた
    • [79]支店長に売上目標の修正を指示し、4〜5カ月で70億円近い出荷調整・生産調整を断行した
    • [80]過去10年間で平均27%の増収を誇っていたが、この在庫調整で売上至上主義を脱皮し、利益重視の傾向を強めた
    • [81]1979年に全国9販売店・本社・物流センター・資材センターを結ぶ営業総合コンピューターシステムを完成させ、返品率を1978年度の16.8%から14.3%に下げた
    • [82]1979年8月期の売上高は743億8100万円、経常利益は131億5800万円で、1949年11月の創立以来30年連続の増収増益となった
  • 日経ビジネス 1975年9月15日号
    • [70]1971年にノーブラというファッションの激変期を迎え、本命商品である下着の売り上げが停滞した
    • [72]1974年1月に経団連が値上げ自粛の要望を出した翌日、ワコールは価格凍結宣言を行い、1975年8月まで主力商品をほとんど値上げしなかった
    • [73]1975年8月期決算は売上高440億7500万円で前期比26%増、主力のランジェリー・ファウンデーション部門は36%増、従業員は約3400人だった
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [71]1971年のノーブラ運動で需要が低迷した際、塚本幸一社長は自ら丸坊主になって社内を引き締めた
    • [74]過去15年間にわたって毎年18〜50歳の女性の人体を計測するなど、人間工学の手法を取り入れてプロポーション・人体研究を進めてきた
    • [75]中央研究所のミセスの体形特徴調査として「35歳は身体の曲がり角」「30歳を過ぎると下腹が急に出っぱり始め、40歳を超えると半数以上が肥満体となる」を公表し、透明感・光沢のある新素材の商品を売り出した
    • [76]1978年春に売り出したフロント・ホック・ブラは初年度70万枚の予定が半年足らずで140万枚売れ、1979年度には290万枚とブラジャーの主力商品になった
    • [77]デザイナー160人中140人が女性で、百貨店・専門店への派遣店員約1200人の声を7月と12月の年2回の企画会議に生かしている
    • [78]1978年春以来の月末集中型の取引から異常に気づき、在庫が正常の倍の4カ月分たまっていることを突き止めた
    • [79]支店長に売上目標の修正を指示し、4〜5カ月で70億円近い出荷調整・生産調整を断行した
    • [80]過去10年間で平均27%の増収を誇っていたが、この在庫調整で売上至上主義を脱皮し、利益重視の傾向を強めた
    • [81]1979年に全国9販売店・本社・物流センター・資材センターを結ぶ営業総合コンピューターシステムを完成させ、返品率を1978年度の16.8%から14.3%に下げた
    • [82]1979年8月期の売上高は743億8100万円、経常利益は131億5800万円で、1949年11月の創立以来30年連続の増収増益となった
創業ストーリー(6)

トリーカと七彩の買収、39歳の社長塚本能交

塚本幸一社長は1977年7月、10年後に社長を退き、長男で当時オルガ事業部長だった塚本能交氏を後継に推すと宣言した[83]。同年末から1979年11月まで2年がかりでコーポレート・アイデンティティー運動を展開し、社是・経営方針・社歌・シンボルマークを見直したうえで、創立30周年時点の社員約4300人の名を第二の創業社員として本社正面の碑に刻んだ[84]。1979年9月には総括担当の中村伊一副社長を社長代行に据え、営業を川口郁雄副社長に委ね、営業政策を決める営業会議への出席をやめて自らは海外戦略に専念する体制を敷いた[85]。買収も並行し、1979年8月には第三者割当増資でトリーカの株式を取得して子会社とし[86]、1982年3月には同じく第三者割当増資で七彩を子会社に加えた[87]

  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [83]1977年7月に塚本幸一社長が「ぼくは10年後に社長を退く。後継者としては長男の能交(現オルガ事業部長)を推したい」と宣言した
    • [84]1977年末から1979年11月まで2年がかりでCI運動を展開し、社是・経営方針・社歌・シンボルマークを見直したほか、創立30周年時点の社員約4300人の名を「第二の創業社員」として本社正面の碑に刻んだ
    • [85]1979年9月に総括担当の中村伊一副社長を社長代行職とし、営業を川口郁雄副社長に委ね、営業会議への出席を取り止めて海外戦略に専念する体制を敷いた
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [86]1979年8月に第三者割当増資によりトリーカの株式を取得し子会社化した
    • [87]1982年3月に第三者割当増資により七彩の株式を取得し子会社化した

1987年6月、塚本能交氏が39歳で代表取締役社長に就任し、塚本幸一氏は会長へ退いた[88]塚本能交社長は就任5年後の1992年にグループ売上高を2000億円とする計画を掲げた[89]。ところが売上高は1982年の1016億円から1987年の1075億円までほぼ横ばいで、純利益は1981年8月期の74億5000万円を頂点に1986年の55億9000万円まで落ちていた[90]。低価格の通信販売で伸びたセシールに押され、ワコールの市場シェアは5年間で4.9ポイント下がり、1988年6月には25.2%まで下がった[91]。同じ1年でセシールはシェアを5ポイント伸ばし、9.8%まで押し上げた[92]

  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [88]1987年6月に塚本能交が39歳で代表取締役社長に就任し、塚本幸一は会長となった
  • 日経ビジネス 1989年3月27日号
    • [89]就任後5年たった1992年にグループの売上高を2000億円にする事業計画が発表された
    • [90]売上高は1982年1016億円、1987年1075億円と頭打ちで、純利益は1981年8月期の74億5000万円を超えられず1986年は55億9000万円だった
    • [91]日本経済新聞のシェア調査で、この5年間で4.9ポイントのシェアを失い、1988年6月には市場シェア25.2%となった
    • [92]セシールは1年間でシェアを5ポイント伸ばし、市場シェア9.8%となった

塚本能交社長の就任から2年の間に、ワコールは本業とほとんど関係のない新規事業へ5つ進出した[93]。1987年4月、フローズンヨーグルトとベーグルの店を直営とフランチャイズで広げる日本ヨーグルト・ツリーへ30%を出資[94]。同年9月には小学生向けCAIを手がけるワコールシステムを全額出資で設立し、自社開発の『フィジオ』ブランドで婦人靴の販売も始めた[95]。1988年1月に紳士服、7月には童夢と共同開発するスーパースポーツカーのライセンス事業を運営するジオットが加わる[96]。本業では1987年8月、専門店向けの高級下着メーカーとしてスタディオファイブを全額出資で設立し、スリップ1枚約1万3000円と既存商品より3〜4割高い価格帯を置いた[97]。ワコールブランドのブラジャーの平均価格は、この10年で約2500円から約3500円へ上がっていた[98]

  • 日経ビジネス 1989年3月27日号
    • [93]この2年間でワコールが進出した主な新規事業は5つで、いずれもほとんど本業とは関係がない
    • [94]1987年4月にワコールが30%出資する日本ヨーグルト・ツリーが、フローズンヨーグルト&ベーグルの直営店およびフランチャイズを開始した
    • [95]1987年9月に100%出資のワコールシステムが小学生向けCAIなどを開始し、同月フットサイエンス事業チームが独自開発の「フィジオ」ブランドの靴の販売を始めた
    • [96]1988年1月にバッドスレッズ事業課が紳士服販売を、1988年7月に100%出資のジオットが童夢と共同開発するスーパースポーツカーのライセンス事業の運営管理を開始した
    • [97]1987年8月にワコールの100%出資で専門店向け高級下着メーカーのスタディオファイブを設立し、商品価格はスリップ1枚約1万3000円と既存商品より3〜4割方高い
    • [98]ワコールブランドのブラジャーの平均価格はこの10年間で約2500円から約3500円へ1000円上昇した
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
    • [83]1977年7月に塚本幸一社長が「ぼくは10年後に社長を退く。後継者としては長男の能交(現オルガ事業部長)を推したい」と宣言した
    • [84]1977年末から1979年11月まで2年がかりでCI運動を展開し、社是・経営方針・社歌・シンボルマークを見直したほか、創立30周年時点の社員約4300人の名を「第二の創業社員」として本社正面の碑に刻んだ
    • [85]1979年9月に総括担当の中村伊一副社長を社長代行職とし、営業を川口郁雄副社長に委ね、営業会議への出席を取り止めて海外戦略に専念する体制を敷いた
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [86]1979年8月に第三者割当増資によりトリーカの株式を取得し子会社化した
    • [87]1982年3月に第三者割当増資により七彩の株式を取得し子会社化した
    • [88]1987年6月に塚本能交が39歳で代表取締役社長に就任し、塚本幸一は会長となった
  • 日経ビジネス 1989年3月27日号
    • [89]就任後5年たった1992年にグループの売上高を2000億円にする事業計画が発表された
    • [90]売上高は1982年1016億円、1987年1075億円と頭打ちで、純利益は1981年8月期の74億5000万円を超えられず1986年は55億9000万円だった
    • [91]日本経済新聞のシェア調査で、この5年間で4.9ポイントのシェアを失い、1988年6月には市場シェア25.2%となった
    • [92]セシールは1年間でシェアを5ポイント伸ばし、市場シェア9.8%となった
    • [93]この2年間でワコールが進出した主な新規事業は5つで、いずれもほとんど本業とは関係がない
    • [94]1987年4月にワコールが30%出資する日本ヨーグルト・ツリーが、フローズンヨーグルト&ベーグルの直営店およびフランチャイズを開始した
    • [95]1987年9月に100%出資のワコールシステムが小学生向けCAIなどを開始し、同月フットサイエンス事業チームが独自開発の「フィジオ」ブランドの靴の販売を始めた
    • [96]1988年1月にバッドスレッズ事業課が紳士服販売を、1988年7月に100%出資のジオットが童夢と共同開発するスーパースポーツカーのライセンス事業の運営管理を開始した
    • [97]1987年8月にワコールの100%出資で専門店向け高級下着メーカーのスタディオファイブを設立し、商品価格はスリップ1枚約1万3000円と既存商品より3〜4割方高い
    • [98]ワコールブランドのブラジャーの平均価格はこの10年間で約2500円から約3500円へ1000円上昇した

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沿革年表 1946〜2025年

ワコールホールディングスの沿革1946〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1946〜1969年ブラジャー1本に賭け、値引かずに売る型を作った塚本幸一塚本幸一が個人で和江商事を創業★★★
資本金1百万円で和江商事を設立★★★
本社を京都市中京区室町通姉小路上ルに移転し工場を開設、自家製造に着手★★
ワコールに商号変更★★
国内縫製子会社として東海ワコール縫製を設立
東京・大阪証券取引所市場第二部及び京都証券取引所に上場
1970〜1988年オルガ株の取得と70億円の出荷調整、塚本能交への承継韓国・タイ・台湾に合弁会社を設立し海外展開に着手★★★
東京・大阪証券取引所市場第一部に指定上場
第三者割当増資によりトリーカの株式を取得し子会社化
アメリカ合衆国に子会社WACOAL AMERICAを設立★★
第三者割当増資により七彩の株式を取得し子会社化
米国ティーンフォーム社グループの全株式を取得★★
中国に合弁会社北京華歌爾服装有限公司を設立★★
1989〜2004年高級品専門と決別した5カ年計画と、拒まれた値引き塚本能交フィリピンに合弁会社PHILIPPINE WACOALを設立
塚本能交フランスに子会社WACOAL FRANCEを設立
塚本能交インドネシアに合弁会社INDONESIA WACOALを設立
塚本能交韓国ワコールの合弁契約を解消し新栄に出資
塚本能交ベトナムに子会社VIETNAM WACOALを設立
2005〜2026年ピーチ・ジョン買収と100億円強の減損、32店舗の閉鎖塚本能交持株会社体制に移行しワコールホールディングスに商号変更★★★
塚本能交ピーチ・ジョンを株式交換により完全子会社化★★
塚本能交ルシアンを株式交換により完全子会社化
塚本能交EVEDEN GROUP LIMITEDの全株式を取得し完全子会社化★★
安原弘展INTIMATES ONLINEの全株式を取得し完全子会社化
安原弘展プライム市場に移行
矢島昌明七彩の株式を譲渡
矢島昌明BRAVISSIMO GROUP LTD.の全株式を取得し完全子会社化★★
矢島昌明ルシアンの株式を譲渡
出典・参考 8件
出典・参考
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】 / 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「ワコール」
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】 / 日経ビジネス 1998年6月22日号「「個人商店」貫いて、塚本幸一会長逝く 女性用下着のガリバー、ワコールの創業者、77歳で」
  • 株式会社ワコールホールディングス 有価証券報告書【沿革】
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「ワコール」
  • 日経ビジネス 1975年9月15日号
  • 日経ビジネス 1980年4月7日号
  • 日経ビジネス 1989年3月27日号
  • 日経ビジネス 1998年6月22日号

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