グンゼ の歴史

創業

1896年

創業者

波多野鶴吉

創業地

京都府綾部市

直近売上高(2025/3)

1,371億円

長期業績と転換点(1996/3〜2025/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1946年に、復元した製糸ではなくメリヤス肌着を主力へ選んだのか
A グンゼは1896年に京都府何鹿郡綾部町で郡是製絲として設立され、片倉製糸と並ぶ二大製糸会社に育った会社である。戦後は移管した工場が復帰したものの、米国での生糸消費はナイロンの出現によって靴下分野から完全に駆逐されていた。1947年に紡績設備400万錘までの復元が認められたとき、紡績業へ参入するか、フルファッションの技術を生かしてメリヤス業へ転換するかで社内は二つに分かれた。大紡績との衝突を避け自らの特技を生かすという理由で、社長決裁によりメリヤス業に決まった。加工部門の売上は1956年に製糸部門を上回った
Q なぜ1971年から代理店を販売子会社へ組み替えたのか
A メリヤス肌着は需要の伸びが横ばいか微増にとどまる商品で、各メーカーは品質と価格でシェアを争っていた。首都圏では複数の販売会社の支店が交錯し、非効率な面があった。グンゼは1971年ごろから代理店を販売子会社へ順次再編し、1978年末までに全国を23の販売会社で覆う体制を作り上げた。石油ショック以降は設備投資額が毎年約40億円に達し、その8割を合理化機械と生産システムの自社開発に充てた。肌着シェアは1973年の21%程度から5年後に30%程度へ拡大した
Q なぜ2025年に、創業以来の主力だったアパレルを構造改革の対象としたのか
A 収益の担い手が入れ替わったためである。2023年3月期のアパレル事業は売上608億円に対して2億2200万円の営業損失を計上し、同じ期にメディカル事業は20億8200万円、機能ソリューション事業は68億3500万円の営業利益を上げた。2025年5月に公表した中期経営計画「VISION 2030 stage2」は、機能ソリューションとメディカルをコア事業として成長させ、アパレルとライフクリエイトには聖域なき構造改革を行うという二軸で組まれている。40歳以上の間接部門と営業部門を対象とした希望退職には82名が応募した

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1896年〜 「郡の是」として養蚕家の出資で発足し、片倉と並ぶ二大製糸に育つまで

  1. 1896年 生糸の製造販売を目的に綾部で郡是製絲を設立
  2. 1934年 塚口工場を新設し絹婦人長靴下事業に参入
  3. 1943年 商号を郡是工業に変更
  4. 1943年 戦時体制で製糸17工場などを日本蚕糸製造に移管

営利だけを目的にしなかった発足、郡内の養蚕家と社内教育

1896年8月[1]、資本金9万8000円[2]・繰糸機168釜[3]という規模で、京都府何鹿郡綾部町[4]に郡是製絲が設立された。丹波地方は気候風土ともに蚕業に適し[5]、古くから養蚕の盛んな土地として知られていたが、当時の同地方の蚕糸業は沈滞しており、群小の製糸家を統合して大規模な工場とし[6]、作業の近代化と品質の改良を図ることが急務とされていた。設立に尽力した波多野鶴吉氏[7]は、会社を何鹿郡の郡是すなわち蚕業奨励の機関とし[8]、株主を郡内の養蚕家に求めた[9]。創業時の168釜は郡内産繭3500石を一手に消化できる規模として決められ[10]、将来は郡の蚕業十カ年計画に合わせて504釜とする構想だった[11]。1897年3月時点の株主は721名、平均持株は7株[12]で、10株未満の株主が703名と95%を占めた[13]。創業者の名を社名に冠さず[14]、郡をよくするという意味の郡是を掲げたのは、この発足の事情による。

当時の何鹿郡の農村は「娘を売らなければ生きていけない[15]」(日経ビジネス 1979/2/12)と評される窮状にあり、その改善が設立のねらいに含まれていた。後年まで会社が掲げ続けた企業理念は品質の追求と共存共栄[16]の二つで、よりよい商品を安く作ることが社会に役立つことであり、養蚕農家や下請けの機屋との共存共栄[17]がなければ会社の存在意義はないという立て方だった。のちに制定された社章も、中の円を会社、外の円を養蚕家として、会社と養蚕家の共存共栄を表すと解釈された[18]。全国各地に共鳴者が生まれて事業は拡大し、1911年には資本金12万円、製糸工場8、繰糸機1071釜、生糸生産高3万5000貫[19]に達した。輸出を主体に郡是糸の声価が高まった[20]

  • 日経ビジネス 1979年2月12日号「グンゼ 創業の精神貫き不況知らずの好業績」
    • [15]当時の何鹿郡の農村は「娘を売らなければ生きていけない」状態にあった
    • [16]品質の追求と共存共栄を企業理念として掲げた
    • [17]養蚕農家や下請けの機屋との共存共栄なくして存在意義はないとした
    • [18]社章は中の円を当会社、外の円を養蚕家とし会社と養蚕家との共存共栄を表すと解釈された
    • [19]1911年に資本金12万円・製糸工場8・繰糸機1071釜・生糸生産高3万5000貫に達した
    • [20]全国各地に共鳴者が生じ輸出を主体に郡是糸の声価が高まった

教育もまた会社の中核に置かれた。1909年から川合信水氏が会社の教育を主宰し[21]、経営首脳や工場長、教育担当者の教育に当たって独特の社風をつくった。1926年には郡是青年訓練所を設け[22]、翌1927年には本社と工場に2年以上勤めた青年社員から選抜し、社業に関する技術と一般教養を1年間で教える技術科を置いた[23]。1935年の青年学校令の公布を受けては私立郡是綾部女子青年学校を設立し[24]、以後これを全国の各工場へ広げた。教育課はこれを、従来行ってきた社内の教育をそのまま青年学校の教育としたものだ[25]と説明した。川合氏が1935年に退いたあと、教育総理の職が置かれることはなかった[26]

糸価の乱高下が招いた大損失と、靴下・販売会社という逃げ道

大正期の生糸は米国の旺盛な絹消費に支えられ、1920年には100斤4500円の高値[27]をつけたが、同年7月には1100円へ暴落した[28]。郡是製絲は1916年に第二郡是製絲を設立して合併[29]し、1918年には蚕栄・福知山・舞鶴の各製糸会社を合併[30]して全国に工場を新設した。大正末期の経営規模は製糸工場27、繰糸機6474釜、生糸生産高40万貫[31]と、明治末期の13倍に達した。京都府北部の丹波地方の小製糸家が集まって作った会社は、長野県の片倉一族を中心とする片倉製糸とともに、二大製糸会社としての地位を築いた[32]。機械製糸による大資本の拡大は、好況時よりも金融難で危機に陥った地元資本の中小製糸を買収できる不況時[33]に進んだ。もっとも拡大は資金面の危うさを伴い、1914年5月には第百三十銀行が購繭資金の増大に危惧を示して[34]会社の考え方を表明するよう申し入れ、波多野鶴吉氏は購繭数量を調整して緊縮方針で臨む旨を各工場へ通達した[35]

もっとも製糸業の収益は綿紡績に遠く及ばず、1917年から1926年までの東洋紡と郡是を比べると、資本金で4倍、利益金で17倍、払込資本利益率は6割2分対1割7分の開きがあった[36]。綿紡が終始利益を続けたのに対し、製糸業は赤字と黒字の循環を繰り返した[37]。昭和初年の世界恐慌で糸価は1930年春から下がり続け、1932年には400円という記録的な安値[38]をつけた。政府は糸価融資補償法を実施して1億5000万円を貸し付け1250円の価格を補償[39]したが、恐慌の根は深かった。大正期に台頭した人絹の発達も、生糸輸出に重い脅威[40]をもたらしていた。

対策は複数の方向に及んだ。まず新分野の靴下によって生糸の消費そのものを増やすため、1935年に生糸の靴下用原糸としての品質改良を目的として郡是繊維工業を創立[41]し、尼崎市塚口に絹靴下工場を設けた。1934年10月には塚口工場を新設し、絹婦人長靴下事業を始めた[42]。販売機能の強化では、1931年に設立された林大作商店へ1933年に資本参加し[43]、翌1934年に郡是シルク・コーポレーションへ改称させた[44]。その前年にはニューヨークにも同名の会社を設立[45]している。この会社はのちに郡是産業、1971年にグンゼ産業へ商号を変え[46]、1973年2月に上場した[47]。技術面では全工場を多条繰糸機に転換し[48]、高級細繊度生糸の生産に集中した。

    • [27]1920年に生糸は100斤4500円の高値をつけた
    • [29]1916年10月に第二郡是製絲を設立し同時に合併した
    • [30]1918年7月に蚕栄・福知山・舞鶴の各製糸会社を合併した
    • [31]大正末期に製糸工場27・繰糸機6474釜・生糸生産高40万貫で明治末期の13倍
    • [40]大正期に台頭した人絹の発達が生糸輸出に脅威をもたらした
    • [41]1935年に郡是繊維工業を創立し尼崎市塚口に絹靴下工場を設けた
    • [43]林大作商店と提携し1933年ニューヨーク・1934年横浜に郡是シルク・コーポレーションを設立
    • [48]全工場を多条繰糸機に転換し高級細繊度生糸の生産に努めた
    • [28]1920年1月の高値から同年7月に100斤1100円へ暴落した
    • [32]丹波地方の小製糸家が集まって作った郡是製絲は片倉とともに二大製糸会社の地位を築いた
    • [33]大資本の拡大は好況時より不況時に進み金融難の中小製糸を買収した
    • [36]1917年から1926年の東洋紡と郡是の比較で資本金4倍・利益金17倍・払込資本利益率6割2分対1割7分
    • [37]綿紡が終始利益を続けたのに対し製糸業は赤字と黒字の循環を繰り返した
    • [38]1932年に糸価は400円の記録的安値をつけた
    • [39]政府は糸価融資補償法で1億5000万円を貸し付け1250円を補償した
    • [34]1914年5月に第百三十銀行が購繭資金の増大に危惧を示し会社の考え方の表明を申し入れた
    • [35]波多野鶴吉は購繭数量を調整し緊縮方針で臨む旨を各工場へ通達した
  • グンゼ 有価証券報告書【沿革】
    • [42]1934年10月に塚口工場を新設し絹婦人長靴下事業を開始した
    • [44]1934年に郡是シルク・コーポレーションへ改称した
    • [45]1933年にニューヨークにも同額出資で同名の会社を設立した
    • [46]郡是シルク・コーポレーションは1942年に郡是産業、1971年にグンゼ産業へ改称した
    • [47]グンゼ産業は1973年2月1日に上場した

製糸17工場の移管で主力を失い、郡是工業へ改称した戦時

昭和恐慌を抜けた1930年代後半[49]、郡是製絲の設備は拡大を続けた。1939年には製糸工場36、繰糸機1万562釜、生糸生産高92万貫[50]に達した。片倉と郡是の設備は全国設備に占める比率を1929年の1割以下から1937年には13%[51]へ高め、価格の下落と操業短縮のもとでも、片倉や郡是などの大手は平均2割近い払込資本利益率を続け[52]、大正期の不安定な経営を脱した。多角化も進み、1933年には朝日化学肥料を設立したほか、1943年には郡是繊維工業を合併し、昭和紡績を買収して綿紡績事業へ参入[53]した。大陸では大邱の麻紡績工場と大田・清州の二製糸工場[54]を経営した。

太平洋戦争の激化とともに蚕糸業は統制下に入り、1943年5月、会社は商号を郡是工業に変更[55]する。同年12月には戦時体制のため製糸17工場ほかを日本蚕糸製造へ移管[56]し、事業の主体を航空機部品と軍需衣料の生産へ転換[57]した。移管の対象は内地の全製糸事業[58]に及び、会社に残ったのは加工部門と軍需の生産だった。米国では1938年にデュポンがナイロンの工業化を発表[59]しており、米国は最大の生糸市場であり、日本の蚕糸業者が受けた衝撃は大きかったが、日華事変の開始とともに蚕糸業は衰退期に入り、ナイロンへの対策は緊急さを失っていた[60]

    • [49]1930年代後半にかけて設備の拡大が続いた
    • [50]1939年に製糸工場36・繰糸機1万562釜・生糸生産高92万貫に達した
    • [53]1943年に郡是繊維工業を合併し昭和紡績を買収して綿紡績事業へ参入した
    • [54]大陸で大邱麻紡績工場と大田・清州の二製糸工場を経営した
    • [57]事業の主体を航空機部品と軍需衣料の生産へ転換した
    • [58]内地の全製糸事業を日本蚕絲製造へ移譲した
    • [51]片倉と郡是の設備比率は1929年の1割以下から1937年に13%へ高まった
    • [52]片倉・郡是など大手は平均2割近い払込資本利益率を続け大正期の不安定な経営を脱した
    • [59]1938年に米デュポンがナイロンの工業化を発表した
    • [60]日華事変の開始とともに蚕糸業は衰退期に入りナイロンへの対策は緊急さを失った
  • グンゼ 有価証券報告書【沿革】
    • [55]1943年5月に商号を郡是工業へ変更した
    • [56]1943年12月に製糸17工場ほかを日本蚕糸製造へ移管した

1946年〜 復元した製糸ではなくメリヤスを主力に選んだ戦後20年

  1. 1946年 移管工場が復帰し商号を郡是製絲に復元
  2. 1946年 紡績業への不参入と、フルファッション技術を生かしたメリヤス業への転換 紡績か、メリヤスか——紡績設備400万錘の復元が認められた戦後、郡是製絲はどちらの技術で立つことを選んだか
  3. 1949年 東京・大阪・名古屋の各証券取引所に上場
  4. 1952年 ナイロンストッキングの生産を開始
  5. 1954年 津山工場でミシン糸事業を開始
  6. 1958年 江南工場を新設し合繊紡績事業に参入
  7. 1967年 商号をグンゼに変更

紡績かメリヤスかを社長決裁で決めた戦後の分岐

1946年5月、日本蚕糸製造へ移管した工場などが復帰し、商号も郡是製絲に戻った[61]。しかし復元した先の市場は戦前と別物で、米国での生糸消費はナイロンの出現によって靴下分野から完全に駆逐され[62]、生糸生産も桑園の荒廃と食糧増産との競合で復興が遅れた[63]。1947年に紡績設備400万錘までの復元が認められ、十大紡のほかに新紡と呼ばれる25社が生まれた[64]とき、会社は選択を迫られた。製糸工場の復元を進めながら特紡糸の紡績を手がけ[65]、戦前から蚕糸業の行き詰まりを察して絹靴下の工場も経営していたからである。

この機会に紡績業へ参入するか、フルファッションの技術を生かしてメリヤス業へ転換するか、社内では意見が二つに分かれた[66]。結論は、大紡績との衝突を避け自らの特技を生かすという理由[67]で、社長決裁によりメリヤス業に決まった[68]。当時のメリヤスは家内工業ばかりで、「メリヤスとはれものはふくれるほどつぶれやすい[69]」と言われる分野である。郡是はこのジンクスを破り、一貫作業の工場制メリヤス工業へ参入[70]した。1946年8月には宮津工場でメリヤス肌着事業を始めた[71]。ファッションだけに走らなかったことは、後年、創業94年に至った理由の一つに挙げられている[72]

    • [66]紡績参入かメリヤス転換かで社内の意見が二つに分かれた
    • [67]決定理由は大紡績との衝突を避け自らの特技を生かすことにあった
    • [68]紡績参入かメリヤス転換かで社内が二分し社長決裁でメリヤス業に決まった
    • [69]当時メリヤスは家内工業ばかりで「メリヤスとはれものはふくれるほどつぶれやすい」と言われた
    • [70]郡是は一貫作業の工場制メリヤス工業へ参入した
  • グンゼ 有価証券報告書【沿革】
    • [71]1946年8月に宮津工場でメリヤス肌着事業を開始した
  • 日経ビジネス 1991年1月14日号「新社長登場 羽室幸明氏(グンゼ)」
    • [72]羽室幸明は創業94年に至った理由をファッションだけに走らなかったことに求めた
  • グンゼ 有価証券報告書【沿革】
    • [61]1946年5月に移管工場等が復帰し商号を郡是製絲に復元した
    • [71]1946年8月に宮津工場でメリヤス肌着事業を開始した
    • [62]米国の生糸消費はナイロンの出現で靴下分野から完全に駆逐された
    • [63]生糸生産は桑園の荒廃と食糧増産との競合で復興が遅れた
    • [64]1947年に紡績設備400万錘までの復元が認められ十大紡のほかに新紡25社が生まれた
    • [65]郡是製絲は製糸工場の復元を進めつつ特紡糸の紡績を手がけ絹靴下工場も経営していた
    • [66]紡績参入かメリヤス転換かで社内の意見が二つに分かれた
    • [67]決定理由は大紡績との衝突を避け自らの特技を生かすことにあった
    • [68]紡績参入かメリヤス転換かで社内が二分し社長決裁でメリヤス業に決まった
    • [69]当時メリヤスは家内工業ばかりで「メリヤスとはれものはふくれるほどつぶれやすい」と言われた
    • [70]郡是は一貫作業の工場制メリヤス工業へ参入した
  • 日経ビジネス 1991年1月14日号「新社長登場 羽室幸明氏(グンゼ)」
    • [72]羽室幸明は創業94年に至った理由をファッションだけに走らなかったことに求めた

絹からナイロンへの切り替えと、婦人長靴下の27%

転換は設備の入れ替えから始まり、塚口工場の絹靴下をナイロンに切り替えて、米国から高能率の51・60ゲージ新鋭編立機22台[73]を輸入設置した。これによりフルファッション靴下で首位を占め、本工場にはトリコット機16台とK式靴下機92台[74]を置いて婦人長靴下を生産した。年間生産能力はフルファッション靴下22万打、トリコット靴下15万5000打、K式靴下4万7000打[75]で、全国の婦人長靴下生産高の27%[76]を占めるに至った。1952年6月にはナイロンストッキングの生産を始めた[77]。1949年5月には東京・大阪・名古屋の各証券取引所に株式を上場[78]した。

    • [73]塚口工場の絹靴下をナイロンに切り替え米国から51・60ゲージ編立機22台を輸入設置した
    • [74]本工場にトリコット機16台とK式靴下機92台を置き婦人長靴下を生産した
    • [75]年間生産能力はFF靴下22万打・トリコット靴下15万5000打・K式靴下4万7000打
    • [76]全国婦人長靴下生産高の27%を占めた
  • グンゼ 有価証券報告書【沿革】
    • [77]1952年6月にナイロンストッキングの生産を開始した
    • [78]1949年5月に東京・大阪・名古屋の各証券取引所へ上場した

工場の役割も組み替えられ、八鹿・津山・萩原の各工場を絹織物工場に、梁瀬工場を絹撚糸工場に、宮津工場をメリヤス工場に[79]それぞれ転換し、絹織物400万平方碼、絹撚糸3万貫、メリヤス製品14万打[80]を生産した。津山工場は合成繊維の総合加工工場として育成され、ウーリーナイロンとナイロンミシン糸[81]の生産を始めた。1954年6月には津山工場でミシン糸事業を始めた[82]。これら加工部門の売上高は、1954年度の総売上高73億9000万円の3割[83]に達した。資本金は1948年12月と1950年3月の増資を経て、1952年8月に米ベア・ブランド・ホーゼリー社からのK式靴下機の現物出資を合わせて5億円[84]となった。

    • [79]八鹿・津山・萩原を絹織物、梁瀬を絹撚糸、宮津をメリヤス工場へ転換した
    • [80]絹織物400万平方碼・絹撚糸3万貫・メリヤス製品14万打を生産した
    • [81]津山工場を合成繊維の総合加工工場として育成しウーリーナイロンとナイロンミシン糸の生産を始めた
    • [83]加工部門の売上高は1954年度総売上高73億9000万円の3割に達した
    • [84]資本金は1952年8月にK式靴下機の現物出資を合わせて5億円となった
  • グンゼ 有価証券報告書【沿革】
    • [82]1954年6月に津山工場でミシン糸事業を開始した
    • [73]塚口工場の絹靴下をナイロンに切り替え米国から51・60ゲージ編立機22台を輸入設置した
    • [74]本工場にトリコット機16台とK式靴下機92台を置き婦人長靴下を生産した
    • [75]年間生産能力はFF靴下22万打・トリコット靴下15万5000打・K式靴下4万7000打
    • [76]全国婦人長靴下生産高の27%を占めた
    • [79]八鹿・津山・萩原を絹織物、梁瀬を絹撚糸、宮津をメリヤス工場へ転換した
    • [80]絹織物400万平方碼・絹撚糸3万貫・メリヤス製品14万打を生産した
    • [81]津山工場を合成繊維の総合加工工場として育成しウーリーナイロンとナイロンミシン糸の生産を始めた
    • [83]加工部門の売上高は1954年度総売上高73億9000万円の3割に達した
    • [84]資本金は1952年8月にK式靴下機の現物出資を合わせて5億円となった
  • グンゼ 有価証券報告書【沿革】
    • [77]1952年6月にナイロンストッキングの生産を開始した
    • [78]1949年5月に東京・大阪・名古屋の各証券取引所へ上場した
    • [82]1954年6月に津山工場でミシン糸事業を開始した

加工が製糸を追い越し、商号から製絲の二文字が外れる

製糸そのものを捨てたわけではなく、1955年前後の規模は製糸工場22、繰糸機4510釜、生糸生産高30万9000貫[85]で、1939年の30%にとどまっていた[86]。輸出産業として100%の外貨取得率[87]を持つ生糸は日本経済への寄与が大きく、会社も海外市場の開拓に努め、自動繰糸機の設置をはじめ生産技術の改善と工程の合理化[88]を図った。業界も漸次整備され、生産は年々増加の傾向にあった[89]。それでも戦前の水準には遠く、蚕糸業のこうした推移に対処するため、戦前から着手していた繊維加工事業の育成強化[90]が並行して進められた。

    • [85]1955年前後の規模は製糸工場22・繰糸機4510釜・生糸生産高30万9000貫
    • [86]その規模は1939年の30%にとどまっていた
    • [87]生糸は輸出産業として100%の外貨取得率を持ち日本経済への寄与が大きかった
    • [88]自動繰糸機の設置をはじめ生産技術の改善と工程の合理化を図った
    • [89]業界も漸次整備され生産は年々増加の傾向にあった
    • [90]戦前から着手していた繊維加工事業の育成強化を図った

1956年、加工部門の売上高が製糸部門を上回り[91]、創業から60年を経て会社の主力は生糸から繊維加工へ入れ替わった。会社はさらに刺繍レース、合繊紡績、ジャージー、ファンデーション、プラスチック加工[92]などの新規事業を加えた。1958年8月には江南工場を新設して合繊紡績事業へ参入した[93]。この事業は1981年に撤収され、1990年には同工場へエンプラ事業センターが移された[94]。1967年2月、創業70周年を契機に商号をグンゼへ改めた[95]。社名から製絲の二文字が消えたのは、主力交代から11年後[96]だった。1968年時点で会社は3蚕種所と20工場を擁し、婦人靴下では業界首位の生産量[97]を持っていた。

    • [91]1956年を境に加工部門の売上が製糸部門を上回った
    • [92]刺繍レース・合繊紡績・ジャージー・ファンデーション・プラスチック加工の新規事業を加えた
    • [96]加工が製糸を上回った1956年から商号変更の1967年まで11年
    • [97]1968年時点で3蚕種所・20工場を擁し婦人靴下で業界首位の生産量だった
  • グンゼ 有価証券報告書【沿革】
    • [93]1958年8月に江南工場を新設し合繊紡績事業へ参入した
    • [94]合繊紡績事業は1981年に撤収し1990年に同工場へエンプラ事業センターを移した
    • [95]1967年2月に創業70周年を機に商号をグンゼへ変更した
    • [85]1955年前後の規模は製糸工場22・繰糸機4510釜・生糸生産高30万9000貫
    • [86]その規模は1939年の30%にとどまっていた
    • [87]生糸は輸出産業として100%の外貨取得率を持ち日本経済への寄与が大きかった
    • [88]自動繰糸機の設置をはじめ生産技術の改善と工程の合理化を図った
    • [89]業界も漸次整備され生産は年々増加の傾向にあった
    • [90]戦前から着手していた繊維加工事業の育成強化を図った
    • [91]1956年を境に加工部門の売上が製糸部門を上回った
    • [92]刺繍レース・合繊紡績・ジャージー・ファンデーション・プラスチック加工の新規事業を加えた
    • [96]加工が製糸を上回った1956年から商号変更の1967年まで11年
    • [97]1968年時点で3蚕種所・20工場を擁し婦人靴下で業界首位の生産量だった
  • グンゼ 有価証券報告書【沿革】
    • [93]1958年8月に江南工場を新設し合繊紡績事業へ参入した
    • [94]合繊紡績事業は1981年に撤収し1990年に同工場へエンプラ事業センターを移した
    • [95]1967年2月に創業70周年を機に商号をグンゼへ変更した

1968年〜 肌着シェア30%の寡占をつくり、繊維の外へ収益源を広げた30年

  1. 1968年 守山工場を新設しプラスチックフィルム事業を強化
  2. 1970年 九州グンゼを設立しストッキング製造を開始
  3. 1978年 代理店制度から販売子会社23社体制への再編と、首都圏販売の3系列への集約 流通を代理店に委ねるか、自社の系列へ取り込むか——伸びない肌着市場でシェアをどう積み増したか
  4. 1984年 グンゼスポーツを設立しスポーツクラブ事業に参入
  5. 1985年 塚口工場跡地に商業施設「つかしん」を開業
  6. 1989年 新大阪造機を吸収合併し印刷・食品機械事業に参入
  7. 1990年 タイに子会社を設立しインナーウエアの海外生産を開始

代理店を23社の販売子会社へ組み替えた5年

メリヤス肌着は需要の伸びが横ばいか微増にとどまる商品[98]で、色や形に大きな差もつかない。各メーカーは品質と価格でシェアを争っており、そのなかでグンゼは石油ショック後の不況を境にシェアを伸ばし、1973年に21%程度だったものを5年後には30%程度へ拡大[99]して、レナウン・福助・厚木ナイロン工業ら2番手グループ[100]に差をつけた。打った手は販売網の整備と合理化投資の二つで、1960年ごろから採用してきた代理店制度を、1971年ごろから販売子会社へ順次再編し、1978年末までに全国を23の販売会社で覆う体制[101]を作り上げた。

  • 日経ビジネス 1979年2月12日号「グンゼ 創業の精神貫き不況知らずの好業績」
    • [98]メリヤス肌着は需要の伸びが横ばいか微増の低成長商品で品質と価格でシェアを争っていた
    • [99]肌着シェアは1973年の21%程度から5年後に30%程度へ拡大した
    • [100]レナウン・福助・厚木ナイロン工業ら2番手グループに差をつけた
    • [101]1971年ごろから代理店を販売子会社へ再編し1978年末に全国23社の体制が完了した

首都圏では従来、東京グンゼ販売のほかに東方グンゼ販売の東京・横浜両支店、大阪グンゼ販売と又一グンゼ販売のそれぞれの東京支店が交錯し、非効率な面があった[102]。東方グンゼ販売の東京・横浜両支店と大阪グンゼ販売の東京支店、北関東グンゼ販売の山梨地区を統合して百貨店・専門店向けの京浜グンゼ販売を設立[103]し、又一グンゼ販売の東京支店は分離独立させて問屋向けの中央グンゼ販売とした。小売店は東京グンゼ、百貨店と専門店は京浜グンゼ、問屋は中央グンゼという3系列[104]に集約したことになる。生産面では、石油ショック以降の設備投資額が毎年約40億円に達し、その8割が合理化機械と生産システムの自社開発[105]に向けられた。1人当たり年間売上高は1974年11月期の295万円から1978年11月期に456万円[106]へ上がった。

  • 日経ビジネス 1979年2月12日号「グンゼ 創業の精神貫き不況知らずの好業績」
    • [102]首都圏では販売体制が複雑に交錯し非効率な面があった
    • [103]統合により京浜グンゼ販売を設立し又一グンゼ販売東京支店を分離して中央グンゼ販売とした
    • [104]首都圏の販売体制を東京グンゼ・京浜グンゼ・中央グンゼの3系列へ集約した
    • [105]石油ショック以降の設備投資は毎年約40億円でその8割が合理化機械と生産システムの自社開発
    • [106]1人当たり年間売上高は1974年11月期295万円から1978年11月期456万円へ向上した
  • 日経ビジネス 1979年2月12日号「グンゼ 創業の精神貫き不況知らずの好業績」
    • [98]メリヤス肌着は需要の伸びが横ばいか微増の低成長商品で品質と価格でシェアを争っていた
    • [99]肌着シェアは1973年の21%程度から5年後に30%程度へ拡大した
    • [100]レナウン・福助・厚木ナイロン工業ら2番手グループに差をつけた
    • [101]1971年ごろから代理店を販売子会社へ再編し1978年末に全国23社の体制が完了した
    • [102]首都圏では販売体制が複雑に交錯し非効率な面があった
    • [103]統合により京浜グンゼ販売を設立し又一グンゼ販売東京支店を分離して中央グンゼ販売とした
    • [104]首都圏の販売体制を東京グンゼ・京浜グンゼ・中央グンゼの3系列へ集約した
    • [105]石油ショック以降の設備投資は毎年約40億円でその8割が合理化機械と生産システムの自社開発
    • [106]1人当たり年間売上高は1974年11月期295万円から1978年11月期456万円へ向上した

品質第一主義が生んだ価格支配力と、公正取引委員会の勧告

シェア拡大を支えたのはブランド力[107]だった。日清紡績の鐘ケ江啓蔵常務[108]は「編み上がりの生地やさらし上げられた生地を抜き取り検査でなく全数チェックします[109]」(日経ビジネス 1979/2/12)と述べ、要求水準が毎年上がることも証言した。グンゼが求める品質水準を満たせない紡績会社は取引量を大きく減らされる[110]。大手スーパーの仕入担当者は指名買いが多く消費者からのクレームもゼロ[111]だと答えた。高馬一郎社長は「品質の追求と共存共栄は表裏一体のもの[112]」(日経ビジネス 1979/2/12)と語り、他社が安値攻勢をかけても品質を落とさず、余力をブランドに蓄える経営を続けた。

  • 日経ビジネス 1979年2月12日号「グンゼ 創業の精神貫き不況知らずの好業績」
    • [107]不況下の販売戦争ではブランド力がものをいう場合が多かった
    • [108]日清紡績の鐘ケ江啓蔵常務がグンゼの全数チェックと基準引き上げを証言した
    • [109]抜き取り検査でなく全数チェックを行っていた
    • [110]品質水準を満たせない紡績会社は取引量を極端に落とされた
    • [111]大手スーパーの仕入担当者が指名買いの多さとクレームゼロを証言した
    • [112]高馬一郎社長は品質の追求と共存共栄を表裏一体と述べた

価格支配力には代償も伴い、1976年5月、グンゼはブランドイメージの確保をめぐって公正取引委員会からヤミ再販の破棄勧告を受けた[113]。百貨店との条件交渉が決裂した例も高馬社長自身が語っており、1960年代半ばに三越からその店のブランドを付けるよう求められて断り[114]、その後も納入していないという。販売構成は一般小売店が7割、量販店が2割、百貨店が1割[115]で、量販店と百貨店を取りにいけばシェア50%はすぐ届くが、そうはしないという方針を採った。1978年11月期には22年間連続の15%配当[116]を実施しており、高馬社長はこれを「歴代の経営者の意地の結果」[117](日経ビジネス 1979/2/12)と説明した。

  • 日経ビジネス 1979年2月12日号「グンゼ 創業の精神貫き不況知らずの好業績」
    • [113]1976年5月に公正取引委員会からヤミ再販の破棄勧告を受けた
    • [114]三越からブランド表示を求められ断り以後納入していないと高馬社長が述べた
    • [115]販売構成は一般小売店70%・量販店20%・百貨店10%だった
    • [116]1978年11月期に22年間連続の15%配当を実施した
    • [117]高馬一郎社長が22年間連続15%配当を歴代経営者の意地の結果と説明した
  • 日経ビジネス 1979年2月12日号「グンゼ 創業の精神貫き不況知らずの好業績」
    • [107]不況下の販売戦争ではブランド力がものをいう場合が多かった
    • [108]日清紡績の鐘ケ江啓蔵常務がグンゼの全数チェックと基準引き上げを証言した
    • [109]抜き取り検査でなく全数チェックを行っていた
    • [110]品質水準を満たせない紡績会社は取引量を極端に落とされた
    • [111]大手スーパーの仕入担当者が指名買いの多さとクレームゼロを証言した
    • [112]高馬一郎社長は品質の追求と共存共栄を表裏一体と述べた
    • [113]1976年5月に公正取引委員会からヤミ再販の破棄勧告を受けた
    • [114]三越からブランド表示を求められ断り以後納入していないと高馬社長が述べた
    • [115]販売構成は一般小売店70%・量販店20%・百貨店10%だった
    • [116]1978年11月期に22年間連続の15%配当を実施した
    • [117]高馬一郎社長が22年間連続15%配当を歴代経営者の意地の結果と説明した

プラスチックフィルムとつかしんという、繊維に依らない収益源

繊維の外にも収益源が置かれ、1968年11月に守山工場を新設してプラスチックフィルム事業を強化[118]し、1973年10月にはフィルムの印刷加工と販売を担うグンゼ包装システムを設立[119]した。1984年12月にはグンゼスポーツを設立してスポーツクラブ事業へ参入[120]した。1985年9月には、グンゼ塚口開発が塚口工場跡地に商業・文化・スポーツの各施設を完成[121]させ、ショッピングセンター「つかしん」として発足させた。絹靴下の生産を始めた塚口工場の用地が、51年を経て商業施設に変わった[122]。1989年10月には新大阪造機を吸収合併し、印刷・食品関係機械事業へ参入[123]した。

  • グンゼ 有価証券報告書【沿革】
    • [118]1968年11月に守山工場を新設しプラスチックフィルム事業を強化した
    • [119]1973年10月にグンゼ包装システムを設立した
    • [120]1984年12月にグンゼスポーツを設立しスポーツクラブ事業へ参入した
    • [121]1985年9月に塚口工場跡地へ商業施設「つかしん」を開業した
    • [122]1934年の塚口工場用地が1985年につかしんとなった
    • [123]1989年10月に新大阪造機を吸収合併し印刷・食品関係機械事業へ参入した

1990年代に入ると、安い衣料品の輸入で価格面の対抗が難しくなった[124]。1990年5月に社長となった羽室氏[125]は、繊維以外へ事業を広げる方針を示し、医療材料と健康食品を挙げたうえで、そこでも技術を売り物にする[126]と述べた。生産の海外移転も同じ時期に始まり、1990年4月にタイへ子会社を設立してインナーウエアの海外生産を開始[127]し、1991年10月には中国とインドネシア、1995年8月にはベトナムへ製造販売会社[128]を置いた。プラスチックフィルムでも1992年10月に米国へ製造販売会社を設立[129]し、1990年2月には福島プラスチックスを設けて[130]フィルムの国内生産も広げた。

  • 日経ビジネス 1991年1月14日号「新社長登場 羽室幸明氏(グンゼ)」
    • [124]東南アジアなどから安い衣料品が輸入され価格面で対抗しにくくなった
    • [125]羽室幸明は1990年5月に社長へ就任した
    • [126]繊維以外に医療材料・健康食品などへ事業を拡大し技術を売り物にするとした
  • グンゼ 有価証券報告書【沿革】
    • [127]1990年4月にタイへ子会社を設立しインナーウエアの海外生産を開始した
    • [128]1991年10月に中国・インドネシア、1995年8月にベトナムへ製造販売会社を設立した
    • [129]1992年10月に米国へプラスチックフィルムの製造販売会社を設立した
    • [130]1990年2月に福島プラスチックスを設立した
  • グンゼ 有価証券報告書【沿革】
    • [118]1968年11月に守山工場を新設しプラスチックフィルム事業を強化した
    • [119]1973年10月にグンゼ包装システムを設立した
    • [120]1984年12月にグンゼスポーツを設立しスポーツクラブ事業へ参入した
    • [121]1985年9月に塚口工場跡地へ商業施設「つかしん」を開業した
    • [122]1934年の塚口工場用地が1985年につかしんとなった
    • [123]1989年10月に新大阪造機を吸収合併し印刷・食品関係機械事業へ参入した
    • [127]1990年4月にタイへ子会社を設立しインナーウエアの海外生産を開始した
    • [128]1991年10月に中国・インドネシア、1995年8月にベトナムへ製造販売会社を設立した
    • [129]1992年10月に米国へプラスチックフィルムの製造販売会社を設立した
    • [130]1990年2月に福島プラスチックスを設立した
  • 日経ビジネス 1991年1月14日号「新社長登場 羽室幸明氏(グンゼ)」
    • [124]東南アジアなどから安い衣料品が輸入され価格面で対抗しにくくなった
    • [125]羽室幸明は1990年5月に社長へ就任した
    • [126]繊維以外に医療材料・健康食品などへ事業を拡大し技術を売り物にするとした

1999年〜 肌着市場の縮小に押され、機能ソリューションとメディカルが稼ぎ手になるまで

グンゼの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2011年 深圳にメディカル材料の製造販売会社を設立
  2. 2016年 ジーンズ・カジュアルダンを子会社化しアウター小売に参入
  3. 2017年 グンゼメディカルジャパンを設立
  4. 2019年 メディカルユーアンドエイを子会社化
  5. 2023年 メディカル事業の一部をグンゼメディカルへ承継
  6. 2025年 津山グンゼを吸収合併しミシン糸の製造加工を統合
  7. 2025年 主力アパレルの構造改革と、コア事業の機能ソリューション・メディカルへの移行 長年の主力である肌着を縮めるか、稼ぎ手の二事業へ資本を寄せるか——期限を切った2年間の構造改革

「鬼門」だった若者市場を、自己否定の積み重ねで開く

主力の紳士肌着は顧客とともに高齢化し、売上はこの時期5年間にわたり毎年1割ずつ落ち込み[131]、1999年3月期の女性肌着を含むインナーウエア部門の売上高は前期比約3%減の678億円[132]となった。最大の顧客層は40代後半からの中高年で、1人で年間に何枚も買う客層だったが、開発チームのリーダーを務めた黒住幸雄氏の表現では「毎年50万人ずつ死んでいく[133]」(日経ビジネス 1999/6/21)層でもあった。若者向けには1968年に販売を始めたYGブランド[134]があったものの、顧客も商品年齢とともに年を取り、中心は30代後半から40代へ移っていた。若者市場はグンゼにとって鬼門[135]だった。

  • 日経ビジネス 1999年6月21日号「グンゼ 常識捨て若者用肌着ヒット 主力ブランド強化に課題」
    • [131]紳士用肌着の売上はここ5年間毎年1割ずつ落ち込んだ
    • [132]1999年3月期のインナーウエア部門売上高は前期比約3%減の678億円
    • [133]開発チームのリーダー黒住幸雄が中心顧客層を「毎年50万人ずつ死んでいく」と述べた
    • [134]YGは1968年に販売を開始した若者向けブランドで顧客層が30代後半から40代へ移っていた
    • [135]若者マーケットはグンゼにとって鬼門だった

1998年2月に発売したBODYWILD[136]は、その前提を一つずつ否定して作られた。既存のYGを冠せず新ブランドとし、社内基準を満たせば間違いないという製品作り[137]も改めた。インターネットで約100人のモニターを募り[138]、試作品を配って感想を集め、改良品を送り返す作業を2か月続けた。やり取りした試作品は300枚近くに及び、当初の試作品からデザインは5割近く変わった[139]。価格は1着1000円から1500円[140]と従来品より低く設定し、男性用肌着で初めて女性モデルを起用した。初年度の販売目標170万枚は2か月後に250万枚、8月には300万枚へ上方修正され、結局360万枚[141]を売り上げた。

  • 日経ビジネス 1999年6月21日号「グンゼ 常識捨て若者用肌着ヒット 主力ブランド強化に課題」
    • [136]BODYWILDは1998年2月に発売された
    • [137]社内基準をクリアしていれば間違いないという製品作りの雰囲気を改めた
    • [138]インターネットで約100人のモニターを募り2か月間試作品のやり取りを続けた
    • [139]やり取りした試作品は300枚近くでデザインは当初から5割近く変わった
    • [140]価格は1着1000円から1500円と従来品より低く設定された
    • [141]初年度販売目標170万枚を250万枚・300万枚へ上方修正し結局360万枚を売り上げた
  • 日経ビジネス 1999年6月21日号「グンゼ 常識捨て若者用肌着ヒット 主力ブランド強化に課題」
    • [131]紳士用肌着の売上はここ5年間毎年1割ずつ落ち込んだ
    • [132]1999年3月期のインナーウエア部門売上高は前期比約3%減の678億円
    • [133]開発チームのリーダー黒住幸雄が中心顧客層を「毎年50万人ずつ死んでいく」と述べた
    • [134]YGは1968年に販売を開始した若者向けブランドで顧客層が30代後半から40代へ移っていた
    • [135]若者マーケットはグンゼにとって鬼門だった
    • [136]BODYWILDは1998年2月に発売された
    • [137]社内基準をクリアしていれば間違いないという製品作りの雰囲気を改めた
    • [138]インターネットで約100人のモニターを募り2か月間試作品のやり取りを続けた
    • [139]やり取りした試作品は300枚近くでデザインは当初から5割近く変わった
    • [140]価格は1着1000円から1500円と従来品より低く設定された
    • [141]初年度販売目標170万枚を250万枚・300万枚へ上方修正し結局360万枚を売り上げた

稼ぎ手が交代し、アパレルが営業赤字に沈む

2006年6月に社長へ就いた平田弘[142]は、地域への貢献を社是に地元資本でつくられた会社であることを挙げた。株主総会は今も創業地の綾部市で開かれている[143]。同氏が尊敬する人物に挙げたのも創業者の波多野鶴吉氏[144]だった。社長はその後、2012年に児玉和氏、2017年に廣地厚氏、2021年に佐口敏康氏へと交代した[145]。一方で事業の構成比は動き、2016年3月期にはアパレル事業が679億円で機能ソリューション事業の561億円を上回っていた[146]が、2025年3月期にはアパレル606億円に対し機能ソリューションが516億円、メディカルが129億円[147]となり、利益では機能ソリューション72億円・メディカル24億円に対しアパレルは7.5億円[148]にとどまった。

  • 週刊東洋経済 2006年9月23日号「トップの履歴書 グンゼ社長 平田弘」
    • [142]平田弘は2006年6月に社長へ就任した
    • [143]地域への貢献を社是に地元資本でつくられ株主総会を今も綾部市で開いている
    • [144]平田弘は尊敬する人物に創業者の波多野鶴吉を挙げた
  • グンゼ 有価証券報告書【役員の状況】
    • [145]社長は2012年児玉和・2017年廣地厚・2021年佐口敏康と交代した
  • グンゼ 有価証券報告書 セグメント情報
    • [146]2016年3月期のアパレル679億円に対し機能ソリューションは561億円だった
    • [147]2025年3月期はアパレル606億円・機能ソリューション516億円・メディカル129億円
    • [148]2025年3月期のセグメント利益は機能ソリューション72億円・メディカル24億円・アパレル7.5億円

交代がはっきり数字に出たのは2023年3月期で、この期のアパレル事業は売上608億円に対して2億2200万円の営業損失[149]を計上し、メディカル事業の営業利益20億8200万円、機能ソリューション事業の68億3500万円[150]と対照をなした。連結では売上高1360億円・営業利益58億円[151]で、全社は黒字を保った。連結売上高は2020年3月期の1403億円から2021年3月期に1236億円へ落ち込み[152]、2025年3月期には1371億円・営業利益79億円まで戻した[153]。連結従業員数は2012年3月期の8963人から2018年3月期には6754人へ減った[154]

  • グンゼ 有価証券報告書 セグメント情報
    • [149]2023年3月期のアパレル事業は売上608億円で営業損失2億2200万円
    • [150]2023年3月期のメディカル20億8200万円・機能ソリューション68億3500万円の営業利益
  • グンゼ 有価証券報告書
    • [151]2023年3月期の連結売上高1360億円・営業利益58億円
    • [152]連結売上高は2020年3月期1403億円から2021年3月期1236億円へ減少した
    • [153]2025年3月期の連結売上高1371億円・営業利益79億円
    • [154]連結従業員数は2012年3月期8963人から2018年3月期6754人へ減少した
  • 週刊東洋経済 2006年9月23日号「トップの履歴書 グンゼ社長 平田弘」
    • [142]平田弘は2006年6月に社長へ就任した
    • [143]地域への貢献を社是に地元資本でつくられ株主総会を今も綾部市で開いている
    • [144]平田弘は尊敬する人物に創業者の波多野鶴吉を挙げた
  • グンゼ 有価証券報告書【役員の状況】
    • [145]社長は2012年児玉和・2017年廣地厚・2021年佐口敏康と交代した
  • グンゼ 有価証券報告書 セグメント情報
    • [146]2016年3月期のアパレル679億円に対し機能ソリューションは561億円だった
    • [147]2025年3月期はアパレル606億円・機能ソリューション516億円・メディカル129億円
    • [148]2025年3月期のセグメント利益は機能ソリューション72億円・メディカル24億円・アパレル7.5億円
    • [149]2023年3月期のアパレル事業は売上608億円で営業損失2億2200万円
    • [150]2023年3月期のメディカル20億8200万円・機能ソリューション68億3500万円の営業利益
  • グンゼ 有価証券報告書
    • [151]2023年3月期の連結売上高1360億円・営業利益58億円
    • [152]連結売上高は2020年3月期1403億円から2021年3月期1236億円へ減少した
    • [153]2025年3月期の連結売上高1371億円・営業利益79億円
    • [154]連結従業員数は2012年3月期8963人から2018年3月期6754人へ減少した

聖域なき構造改革と、希望退職に応じた82名

2025年5月に公表した中期経営計画「VISION 2030 stage2」は、機能ソリューションとメディカルをコア事業として成長させ、アパレルとライフクリエイトには聖域なき構造改革[155]を行うという二軸で組まれている。佐口敏康社長は、前中計で計画乖離が大きかったアパレル事業について抜本的な構造改革を断行する[156]と説明した。2025年からの2年間を構造改革期間と位置づけ、事業構造改善にかかる費用を特別損失として織り込んだ結果、2026年3月期は営業利益で5億8000万円の増益を見込みながら純利益では34億5000万円の減益[157]を予想する形になった。株主還元も同時に変え、DOE4.0%以上を目安とし、ROE8%に達するまでは総還元性向100%超の還元[158]を機動的に実施するとした。

  • グンゼ 2025年3月期決算説明会 質疑応答(2025年5月14日)
    • [155]中計VISION 2030 stage2はコア事業の成長と聖域なき構造改革の二軸で組まれた
    • [156]佐口敏康社長がアパレル事業の抜本的な構造改革を断行すると説明した
    • [157]2026年3月期は営業利益5億8000万円の増益・純利益34億5000万円の減益を予想
    • [158]株主還元はDOE4.0%以上を目安としROE8%までは総還元性向100%超を機動的に実施

改革は人員にも及び、アパレル事業の間接部門と営業部門に所属する40歳以上の従業員を対象に希望退職を募り、応募は82名[159]だった。同事業の従事者は約2300名で、募集人数は設定していない[160]。生産と物流の集約も進み、インナーは生産工場と物流拠点を再編して生産能力を縮小し、レッグはすでに国内1工場へ集約している[161]。2026年3月期には東北グンゼ・矢島通商・福知山物流センターの終息[162]を発表した。2026年5月、佐口社長は前期の下方修正を含む業績の責任に触れたうえで、経営戦略部門の責任者としてアパレルの構造改革を進めてきた岡高広専務へ社長を引き継ぐ[163]と述べた。創業130年にあたる年の交代[164]である。

  • グンゼ 2026年3月期第2四半期決算説明会 質疑応答(2025年11月5日)
    • [159]40歳以上の間接・営業部門を対象とした希望退職に82名が応募した
    • [160]アパレル事業の従事者は約2300名で募集人数は設定していない
  • グンゼ 2026年3月期第1四半期決算説明会 質疑応答(2025年8月20日)
    • [161]インナーは生産工場と物流拠点を再編しレッグは国内1工場へ集約済み
  • グンゼ 2026年3月期決算説明会 質疑応答(2026年5月14日)
    • [162]2026年3月期に東北グンゼ・矢島通商・福知山物流センターの終息を発表した
    • [163]2026年5月に佐口敏康社長が岡高広専務への社長交代を発表した
  • グンゼ 有価証券報告書【沿革】
    • [164]1896年設立から2026年は130年目にあたる
  • グンゼ 2025年3月期決算説明会 質疑応答(2025年5月14日)
    • [155]中計VISION 2030 stage2はコア事業の成長と聖域なき構造改革の二軸で組まれた
    • [156]佐口敏康社長がアパレル事業の抜本的な構造改革を断行すると説明した
    • [157]2026年3月期は営業利益5億8000万円の増益・純利益34億5000万円の減益を予想
    • [158]株主還元はDOE4.0%以上を目安としROE8%までは総還元性向100%超を機動的に実施
  • グンゼ 2026年3月期第2四半期決算説明会 質疑応答(2025年11月5日)
    • [159]40歳以上の間接・営業部門を対象とした希望退職に82名が応募した
    • [160]アパレル事業の従事者は約2300名で募集人数は設定していない
  • グンゼ 2026年3月期第1四半期決算説明会 質疑応答(2025年8月20日)
    • [161]インナーは生産工場と物流拠点を再編しレッグは国内1工場へ集約済み
  • グンゼ 2026年3月期決算説明会 質疑応答(2026年5月14日)
    • [162]2026年3月期に東北グンゼ・矢島通商・福知山物流センターの終息を発表した
    • [163]2026年5月に佐口敏康社長が岡高広専務への社長交代を発表した
  • グンゼ 有価証券報告書【沿革】
    • [164]1896年設立から2026年は130年目にあたる

グンゼの沿革1896〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
生糸の製造販売を目的に綾部で郡是製絲を設立★★★
塚口工場を新設し絹婦人長靴下事業に参入★★
商号を郡是工業に変更★★
戦時体制で製糸17工場などを日本蚕糸製造に移管★★★
移管工場が復帰し商号を郡是製絲に復元★★
紡績業への不参入と、フルファッション技術を生かしたメリヤス業への転換紡績か、メリヤスか——紡績設備400万錘の復元が認められた戦後、郡是製絲はどちらの技術で立つことを選んだか 詳細を読む★★★
東京・大阪・名古屋の各証券取引所に上場
ナイロンストッキングの生産を開始★★
津山工場でミシン糸事業を開始★★
江南工場を新設し合繊紡績事業に参入★★
商号をグンゼに変更★★
守山工場を新設しプラスチックフィルム事業を強化★★
九州グンゼを設立しストッキング製造を開始
東北グンゼを設立しインナーウエア製造を開始
グンゼ物流を設立
グンゼ包装システムを設立しフィルムの印刷加工に参入
代理店制度から販売子会社23社体制への再編と、首都圏販売の3系列への集約流通を代理店に委ねるか、自社の系列へ取り込むか——伸びない肌着市場でシェアをどう積み増したか 詳細を読む★★★
グンゼスポーツを設立しスポーツクラブ事業に参入★★
塚口工場跡地に商業施設「つかしん」を開業★★
新大阪造機を吸収合併し印刷・食品機械事業に参入★★
福島プラスチックスを設立
タイに子会社を設立しインナーウエアの海外生産を開始★★
中国・インドネシアに繊維の製造販売会社を設立
米国にプラスチックフィルムの製造販売会社を設立
ベトナムにインナーウエアの製造販売会社を設立
綾部エンプラを設立しエンジニアリングプラスチックスを製造
上海にプラスチックフィルムの製造販売会社を設立
つかしんに天然温泉「湯の華廊」を開業
平田弘上海にインナーウエア・ストッキングの販売会社を設立
平田弘常熟に繊維資材の製造販売会社を設立
児玉和深圳にメディカル材料の製造販売会社を設立★★
児玉和北京にアパレル製品の卸売・小売会社を設立
児玉和宇都宮事業所などで太陽光発電による売電を開始
児玉和カンボジアにスポーツクラブの運営会社を設立
廣地厚ハノイに繊維資材の製造販売会社を設立
廣地厚ジーンズ・カジュアルダンを子会社化しアウター小売に参入★★
廣地厚グンゼメディカルジャパンを設立★★
廣地厚ベトナムにプラスチックフィルムの製造販売会社を設立
廣地厚メディカルユーアンドエイを子会社化★★
佐口敏康東京証券取引所の市場区分見直しでプライム市場へ移行
佐口敏康メディカル2社を統合しグンゼメディカルに商号変更
佐口敏康メディカル事業の一部をグンゼメディカルへ承継★★
佐口敏康津山グンゼを吸収合併しミシン糸の製造加工を統合★★
佐口敏康主力アパレルの構造改革と、コア事業の機能ソリューション・メディカルへの移行長年の主力である肌着を縮めるか、稼ぎ手の二事業へ資本を寄せるか——期限を切った2年間の構造改革 詳細を読む★★★
出典・参考

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