丹波地方は気候も風土も蚕業に向いており、養蚕は昔から盛んだったが、当時の蚕糸業は振るわず、小規模な製糸家をまとめて大工場に集約し、作業を近代化して品質を高めることが急がれていた。1896年8月、京都府何鹿郡綾部町に郡是製絲が生まれた。資本金は9万8000円、繰糸機は168釜である。168釜という規模は郡内でとれる繭3500石を一社で消化しきれるよう定められ、郡の蚕業十カ年計画に沿って将来は504釜まで広げる構想だった。設立に力を尽くした波多野鶴吉氏は、何鹿郡で蚕業を奨励する機関、すなわち郡是として会社を位置づけ、株主も郡内の養蚕家から募った。1897年3月の株主数は721名で平均持株は7株、うち10株に満たない株主が703名、95%を占めていた。創業者の名を社名に冠さず、郡をよくするという意味の郡是を掲げたのは、この発足の事情による。
『娘を売らなければ生きていけない』(日経ビジネス 1979/2/12)と評されるほど、当時の何鹿郡の農村は窮状にあった。この窮状の改善も設立の狙いの一つだった。会社が後年まで掲げ続けた企業理念は、品質の追求と共存共栄の二つに集約される。安く良い商品を作ることそのものが社会への貢献であり、養蚕農家や下請けの機屋と共に栄えることなしに会社の存在意義はない、という立て方である。のちに制定された社章も、内側の円を会社、外側の円を養蚕家に見立て、両者の共存共栄を表すと解釈された。この考えに共鳴する者が全国各地に生まれて事業は広がり、1911年には資本金12万円、製糸工場8、繰糸機1071釜、生糸生産高3万5000貫に達した。輸出を主体に郡是糸の声価が高まった。
教育もまた会社の中核に置かれた。1909年から川合信水氏が会社の教育を主宰し、経営首脳や工場長、教育担当者の教育に当たって独特の社風をつくった。1926年には郡是青年訓練所を設け、翌1927年には本社と工場に2年以上勤めた青年社員から選抜し、社業に関する技術と一般教養を1年間で教える技術科を置いた。1935年の青年学校令の公布を受けては私立郡是綾部女子青年学校を設立し、以後これを全国の各工場へ広げた。青年学校の教育は、従来行ってきた社内の教育をそのまま移したものだった。川合氏が1935年に退いたあと、教育総理の職が置かれることはなかった。
大正期の生糸は米国の旺盛な絹消費に支えられ、1920年には100斤4500円の高値をつけたが、同年7月には1100円へ暴落した。機械製糸の大資本が規模を広げたのは景気の良い時期ではなく、金融難で行き詰まった地元資本の中小製糸を買い取れる不況の時期だった。郡是製絲も1916年に第二郡是製絲を設けて吸収し、1918年には蚕栄・福知山・舞鶴の製糸各社を合併して、全国に工場を新たに建てた。大正末期には製糸工場27、繰糸機6474釜、生糸生産高40万貫となり、規模は明治末期の13倍になった。長野県の片倉一族が率いる片倉製糸と並び、京都府北部・丹波地方の小さな製糸家たちの寄り合いから出発した会社が、製糸の二大会社の一角を占めるに至った。ただ膨張には資金繰りの危うさがつきまとった。1914年5月、第百三十銀行は購繭資金の膨らみに懸念を示し、会社としての考えを明らかにするよう申し入れた。これに波多野鶴吉氏は、購繭の数量を抑えて緊縮で臨む方針を各工場へ通達して応じた。
綿紡が一貫して利益を出し続けたのに比べ、製糸業は赤字の年と黒字の年を行き来した。1917年から1926年までの東洋紡と郡是では資本金に4倍、利益金に17倍の開きがあり、払込資本利益率も6割2分対1割7分と、製糸の稼ぐ力は綿紡績を大きく下回った。昭和初年の世界恐慌で糸価は1930年春から下落が止まらず、1932年には記録的な安値の400円まで落ち、政府が糸価融資補償法によって1億5000万円を貸し付け、1250円の価格を補償しても、恐慌は根深く、それで収まるものではなかった。大正期に台頭した人絹の発達も、生糸輸出に重い脅威をもたらしていた。
対策は複数の方向に及んだ。まず新分野の靴下によって生糸の消費そのものを増やすため、1935年に生糸の靴下用原糸としての品質改良を目的として郡是繊維工業を創立し、尼崎市塚口に絹靴下工場を新設した。1934年10月には塚口工場を新設し、絹婦人長靴下事業を始めた。同じ時期に宇部煉炭工場と醸造工場も設け、多角経営の第一歩を踏み出している。販売機能の強化では、1931年に設立された林大作商店へ1933年に資本参加し、翌1934年に郡是シルク・コーポレーションへ改称させた。その前年にはニューヨークにも同名の会社を設立している。この会社はのちに郡是産業、1971年にグンゼ産業へ商号を変え、1973年2月に上場した。技術面では全工場を多条繰糸機に転換し、高級細繊度生糸の生産に集中した。
昭和恐慌を抜けた1930年代後半、郡是製絲の設備は拡大を続けた。1939年には製糸工場36、繰糸機1万562釜、生糸生産高92万貫に達した。片倉と郡是の設備は全国設備に占める比率を1929年の1割以下から1937年には13%へ高め、価格の下落と操業短縮のもとでも、片倉や郡是などの大手は平均2割近い払込資本利益率を続け、大正期の不安定な経営を脱した。多角化も進み、1933年には朝日化学肥料を設立したほか、1943年には郡是繊維工業を合併し、昭和紡績を買収して綿紡績事業へ参入した。大陸では大邱の麻紡績工場と大田・清州の二製糸工場を経営した。
太平洋戦争の激化とともに蚕糸業は統制下に入り、1943年5月、会社は商号を郡是工業に変更する。同年12月には戦時体制のため製糸17工場ほかを日本蚕糸製造へ移管し、事業の主体を航空機部品と軍需衣料の生産へ転換した。移管の対象は内地の全製糸事業に及び、会社に残ったのは加工部門と軍需の生産だった。米国では1938年にデュポンがナイロンの工業化を発表しており、米国は最大の生糸市場であり、日本の蚕糸業者が受けた衝撃は大きかったが、日華事変の開始とともに蚕糸業は衰退期に入り、ナイロンへの対策は緊急さを失っていた。戦前に脇へ置いた絹靴下の設備が、製糸を失った会社に残された唯一の伸び代となり、戦後の主力を用意する側へ回ったとみられる。
戦後の郡是製絲が選んだのは、失った主力を取り戻すことではなく、取り戻せない前提で稼ぎ手を入れ替えることだった。日本蚕絲製造から製糸工場が戻っても繭の増産が追いつかず、生糸の生産は戦前の3割で止まっている。1947年に紡績設備400万錘の復元枠が開いたとき、社内の意見は紡績への参入とメリヤスへの転換に割れたが、社長決裁はメリヤスを採った。大紡績と同じ商品で同じ時期に競うことを避け、絹靴下で積んだフルファッションの技術が効く場所へ寄せた判断である。市場の大きさではなく、手元の技術がどこで効くかを見て進路を選んでいる。
その判断を成り立たせたのは、家内工業しかいない分野へ工場の作り方を持ち込んだことだった。宮津工場は終戦直後、軍需資材の払下げで肌着も足袋も障子紙も作る雑業の場であり、1950年にその全部をやめて肌着だけに絞ったところから事業になっている。過酸化水素晒と亜塩素酸ソーダが与えた白さ、両面機とフライス機が与えた柔らかさは、問屋の目利きではなく工場の工程が決める品質であり、メリヤスの生産高は8年で11倍に増えた。1956年に加工の売上が製糸を超え、1967年には社名から製絲の二文字が消える。祖業の名が外れるまでの20年は、工場を作り替えることに費やされた。
需要の側では、米国の靴下向け生糸がナイロンに取って代わられて完全に消え、国内でも桑園が荒れ、食糧増産と競り合ったことで生糸生産の立て直しは遅れていた。1946年5月、日本蚕絲製造に移していた製糸工場と蚕種製造所が戻ったのを機に、郡是工業は郡是製絲へ商号を戻した。戻った設備は原料の事情が許す範囲でまず製糸に充てられ、1946年の初めに福知山・臼杵・久世が製糸工場として動き出し、同年末には津山でも一部で操業が始まって、1947年には本宮・養父・豊橋が続いた。ただ繭の増産が大きく立ち遅れ、製糸へ戻す工場をこれ以上増やすことはできなかった。結局、製糸工場22・繰糸機4510釜・生糸生産高30万9000貫という規模は1939年の30%でしかなく、設備が戻っても、それを使う先の需要は戻らなかった。
1947年、紡績設備400万錘までの復元が認められ、十大紡のほかに新紡25社が生まれた。この機会に紡績業へ進出するか、フルファッションの技術を生かしてメリヤス業へ転換するかで、郡是製絲の社内の意見は二つに割れた。紡績10社は在外資産を含む36億円の戦時損失を、払込資本金合計10億円に対し積立金と留保金で処理し、減資も債権切り捨ても行わずに米綿の輸入を待っていた。大紡績との衝突を避け、自らの特技を生かすという理由から、社長決裁でメリヤス業に決まった。当時のメリヤスは家内工業ばかりで、『メリヤスとはれものはふくれるほどつぶれやすい』といわれる分野であり、会社はこの見方に反して一貫作業の工場制メリヤス工業へ進んだ。市場の大きさではなく、既に持っている技術がどこで効くかで進路を決めた選択だった。
メリヤス事業の受け皿となった宮津工場は、終戦時、砲弾の薬嚢や紙筒の材料であった残存軍需資材のネル地と和紙の払下げを受け、肌着・足袋・障子紙その他の加工を行う工場だった。1946年8月にメリヤス肌着の生産を開始し、同年、日本繊維有限会社へ坂本次雄氏ほか3名を派遣して編織を、吉田工業へ堂本繁次郎氏ほか9名を派遣して縫製を、それぞれ3カ月にわたって実習させ、初期の基礎技術を習得させた。1950年2月に工場長へ就任した岩内菊治郎氏は、同年4月、雑多な事業をすべて整理し、メリヤス肌着による工場再建を決定した。岩内氏は品質第一主義に徹すること、共存共栄を実践することを基本方針に定め、終始変えなかった。雑多な業務の整理を終えてメリヤス専業となった初年度、冬物の裏毛メリヤスは東京の一流百貨店で最高級品として好評を得た。
1951年11月13日、郡是製絲の製品販売を担っていた郡是産業の社長・鈴木教吾氏が来訪し、同社の破綻を報告して緊急の救済を要請した。郡是産業の損失金は10月末で1億5700万円にのぼり、抱えた商品を売った際の損失を含めれば2億円を超える見通しだった。絹人絹商社はこの年、3月に米国が戦略物資の買付けを止めたのをきっかけに輸出契約が滞り価格も崩れて苦しくなり、11月には福井の西野産業や東京の大成貿易などの破綻が続いていた。11月19日の緊急役員会で報告に立った常務の石田一郎氏は、同社が最悪の事態になれば当社が受ける打撃も致命的に近いとして、製糸としても全力で更生を助けるべきだと述べた。会社は債権1億2500万円の棚上げを決め、そのうち5323万2197円は放棄した。あわせて所有株式60万6000株を無償で提供させ、減資を実施させた。
塚口工場は、戦前から続けてきたフルファッション絹靴下の使用原糸をナイロンへ切り替え、米国から高能率の51・60ゲージ新鋭編立機22台を輸入設置した。1951年末から1952年にかけて米国から36万ダースに及ぶナイロン靴下が輸入され、絹のフルファッション靴下は売行きが鈍り価格の引下げを迫られていた。原糸を替えることは、市場そのものを手放さないための条件だった。本工場ではトリコット機16台とK式靴下機92台で婦人長靴下を生産し、年間生産能力はフルファッション靴下22万打、トリコット靴下15万5000打、K式靴下4万7000打を数え、全国婦人長靴下生産高の27%を占めた。1952年8月には米ベア・ブランド・ホーゼリー社からK式丸編靴下編機60台ほかの現物出資を受け、資本金は5億円となった。婦人靴下の生産量は1954年度の34万6000デカから1960年度の102万1000デカへ伸びた。
編立の面では、1948年に両面機の第一号が入り、1953年にはフライス機による婦人肌着、1957年には両面機による中小児肌着が品目に加わった。とはいえメリヤス肌着の競争で問われたのは、白さと風合いである。1951年には、当時アメリカで開発されたJ-BOXを代表とする過酸化水素晒が検討され、理化学研究所長の山本孝三氏がエバーホワイトの技術を固め、当時珍しかった残留塩素の管理方式を作り上げた。亜塩素酸ソーダが1954年に市販されると研究所員の四方良平氏を中心に研究が進み、1956年末からのウインス機の改造を経て1957年初めに量産が始まり、その品はバージンホワイトと呼ばれることになった。白物の肌着はこの頃から市場で急速に増え、重みがあり洗っても柔らかさを失わない肌着ができあがった。生産高は1952年度の9万8000デカが1960年度には115万5000デカとなり、8年で11倍余りに伸びた。
1957年6月、レース工場の創設に際して社長・波多野林一氏は、製糸業のみを核心とする企業構造は当面する種々の困難に鑑みて検討を加えざるを得ず、戦後取り入れた加工部門諸事業の育成拡充はその意味で推進されたものだと述べた。亀岡市に用地を得たレース事業は、企業構造の改善という要望に沿うものと位置づけられた。合繊紡績はこれと意味が違い、1957年5月の取締役会で専務・石田一郎氏は、産業構造の高度化に伴って主体事業である蚕糸業が次第に縮小零細化し、合成繊維の出現で繊維産業の構造的変革が急速に進みつつあると説明し、常務・横山清松氏は企業構造の変革を図るものだと述べた。1958年8月に江南工場を新設して合繊紡績事業を開始し、1956年11月には絹撚糸事業を廃止、1959年には津山工場の絹織物部門を閉鎖した。これらの進出により、加工部門は生糸の製品化から判然と離脱した。
蚕糸部門でも合理化は進み、実用に堪える自動繰糸機の完成は蚕糸部門の存立を賭けた問題とされた。1952年9月、研究部内に繰糸分室を設け、研究部長・村上頼之輔氏、製糸試験所長・石川吾作氏、機械研究所長・伊藤友吉氏を中心に製糸と機械の技術者を集めて開発を急いだ。会社が全国の産繭から買い入れた割合は、1952年度の8.33%から1961年度には6.75%に下がった。自動化の方式は、解舒抵抗を使うシーソー方式、抗張力を使う定伸方式、ゲージ方式を並べて試し、繊度偏差と中心繊度が最も安定したゲージ方式が選ばれて、1956年7月に鴻巣工場へ定繊式ゲージ感知の自動機5セット120釜が入り、1961年末には10工場のうち多条機のままだったのは福知山と今市の2工場だけになった。ところが自動機を入れた製糸業者どうしがその効果を存分に生かそうと原料繭を奪い合ったため繭の値が上がり、合理化で得たものがそのまま経営の立て直しに結びついたわけではなかった。
1967年2月1日、商号を郡是製絲からグンゼへ変更した。1956年を境に加工部門の売上高は製糸部門を上回っており、社業は繊維加工を中心とした経営へ移っていた。創業70周年の記念行事委員会で社名変更の可否が検討され、最終的に社長・横山清松氏の決裁で決まった。株主に宛てた書状で会社は、ただ一種類の製造品の名を社名に掲げるのはもう適当ではなくなったと説いた。製糸業にかつての面影はすでになく、社名に製絲とあっても実態を示すものではなかった。靴下やメリヤスといった加工品に郡是製絲株式会社と記すのも、そのイメージから似つかわしくないとされた。新しい名には、郡是の字面の堅さを避け、すでに各製品の商標で親しまれていた片仮名を使うことにした。郡の名を掲げて始まった会社は、70年ののち、自社の商標の側から社名を書き改めた。
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|---|---|---|---|---|
| 1896〜1945年「郡の是」として養蚕家の出資で発足し、片倉と並ぶ二大製糸に育つまで | 生糸の製造販売を目的に綾部で郡是製絲を設立 | ★★★ | ||
| 塚口工場を新設し絹婦人長靴下事業に参入 | ★★ | |||
| 商号を郡是工業に変更 | ★★ | |||
| 戦時体制で製糸17工場などを日本蚕糸製造に移管 | ★★★ | |||
| 1946〜1967年復元した製糸ではなくメリヤスを主力に選んだ戦後20年 | 移管工場が復帰し商号を郡是製絲に復元 | ★★ | ||
| 紡績への復帰を捨てた、フルファッション技術の編み物への転用 1947年に紡績設備400万錘までの復元が認められたとき、郡是製絲の社内では、紡績業へ参入するか、フルファッションの技術を生かしてメリヤス業へ転換するかで意見が二つに分かれた。大紡績との衝突を避け、自らの特技を生かすという理由から、社長決裁でメリヤス業に決まった。絹靴下で積んだ技術を、家内工業ばかりの分野へ工場制で持ち込む選択であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 東京・大阪・名古屋の各証券取引所に上場 | ★ | |||
| ナイロンストッキングの生産を開始 | ★★ | |||
| 津山工場でミシン糸事業を開始 | ★★ | |||
| 江南工場を新設し合繊紡績事業に参入 | ★★ | |||
| 商号をグンゼに変更 | ★★ | |||
| 1968〜1998年肌着シェア30%の寡占をつくり、繊維の外へ収益源を広げた30年 | 守山工場を新設しプラスチックフィルム事業を強化 | ★★ | ||
| 九州グンゼを設立しストッキング製造を開始 | ★ | |||
| 東北グンゼを設立しインナーウエア製造を開始 | ★ | |||
| グンゼ物流を設立 | ★ | |||
| グンゼ包装システムを設立しフィルムの印刷加工に参入 | ★ | |||
| 代理店に委ねてきた流通の直接掌握と、首都圏販売の3系列への集約 グンゼが1971年ごろから、メリヤス肌着の流通を担ってきた代理店を販売子会社へ順次置き換え、1978年末までに全国を23の販売会社で覆う体制を構築し上げた経営判断。首都圏では小売店・百貨店専門店・問屋の3系列へ販売を集約した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| グンゼスポーツを設立しスポーツクラブ事業に参入 | ★★ | |||
| 塚口工場跡地に商業施設「つかしん」を開業 | ★★ | |||
| 新大阪造機を吸収合併し印刷・食品機械事業に参入 | ★★ | |||
| 福島プラスチックスを設立 | ★ | |||
| タイに子会社を設立しインナーウエアの海外生産を開始 | ★★ | |||
| 中国・インドネシアに繊維の製造販売会社を設立 | ★ | |||
| 米国にプラスチックフィルムの製造販売会社を設立 | ★ | |||
| ベトナムにインナーウエアの製造販売会社を設立 | ★ | |||
| 1999〜2026年肌着市場の縮小に押され、機能ソリューションとメディカルが稼ぎ手になるまで | 綾部エンプラを設立しエンジニアリングプラスチックスを製造 | ★ | ||
| 上海にプラスチックフィルムの製造販売会社を設立 | ★ | |||
| つかしんに天然温泉「湯の華廊」を開業 | ★ | |||
| 上海にインナーウエア・ストッキングの販売会社を設立 | ★ | |||
| 平田弘 | 常熟に繊維資材の製造販売会社を設立 | ★ | ||
| 平田弘 | 深圳にメディカル材料の製造販売会社を設立 | ★★ | ||
| 平田弘 | 北京にアパレル製品の卸売・小売会社を設立 | ★ | ||
| 児玉和 | 宇都宮事業所などで太陽光発電による売電を開始 | ★ | ||
| 児玉和 | カンボジアにスポーツクラブの運営会社を設立 | ★ | ||
| 児玉和 | ハノイに繊維資材の製造販売会社を設立 | ★ | ||
| 児玉和 | ジーンズ・カジュアルダンを子会社化しアウター小売に参入 | ★★ | ||
| 廣地厚 | グンゼメディカルジャパンを設立 | ★★ | ||
| 廣地厚 | ベトナムにプラスチックフィルムの製造販売会社を設立 | ★ | ||
| 廣地厚 | メディカルユーアンドエイを子会社化 | ★★ | ||
| 佐口敏康 | 東京証券取引所の市場区分見直しでプライム市場へ移行 | ★ | ||
| 佐口敏康 | メディカル2社を統合しグンゼメディカルに商号変更 | ★ | ||
| 佐口敏康 | メディカル事業の一部をグンゼメディカルへ承継 | ★★ | ||
| 佐口敏康 | 津山グンゼを吸収合併しミシン糸の製造加工を統合 | ★★ | ||
| 佐口敏康 | 主力事業の作り替えと、機能ソリューション・メディカルへの中核の移行 2025年5月14日、グンゼが中期経営計画"VISION 2030 stage2"を公表し、機能ソリューションとメディカルを強化・拡大するコア事業に、アパレルとライフクリエイトを"聖域なき構造改革"の対象に振り分けた経営判断。2025年度からの2年間を改革の期間と定め、生産・物流拠点の集約と希望退職を実施した。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(グンゼ)