シキボウ の歴史

更新: Author:

創業 1892年
創業者 鈴木勝夫
創業地 大阪府大阪市此花区
創業
1892年8月、大阪市此花区伝法町に有限責任伝法紡績会社が設立された。資本金10万円のうち払込は4万円で、日本綿繰から引き継いだ伝法・八幡両工場の設備は3,336錘にとどまる。初代社長には、二十二銀行大阪支店長として日本綿繰の主たる債権者側にいた鈴木勝夫が推挙された。1893年に本社を大阪府西成郡上福島村へ移して福島紡績へ改称し、1943年12月に朝日紡績を合併、翌1944年3月の登記完了とともに敷島紡績となる。シキボウへの商号変更は2002年4月である。
決断
閉じた工場の土地は譲渡せず、建物を貸す商売へ振り替えてきた。1975年4月期に売上高479億円で経常損失44億円を計上し、以後1984年4月期までの10期のうち8期が経常損失に終わる。その最中に打ったのは加工と用途の側の手で、1975年8月に伊丹工場へ連続シルケット機を入れ、1979年には加工澱粉のガラス繊維メーカー向け販売を始め、1981年4月に抗菌防臭加工ノンスタックを発表した。1993年11月には姫路工場の跡地に姫路リバーシティショッピングセンターを開設する。土地は残したまま建物を貸与設備として流通業へ貸し、2000年12月のイオンモール高知でも同じ形を繰り返した。
現況
営業利益の全額を、繊維ではなく閉じた工場の跡地が出している。2026年3月期の連結売上高は445億円、営業利益は9億円。4事業のうち不動産・サービスは売上54億円で全体の12%にすぎないが、セグメント利益は18億円と全社の営業利益を上回る。売上の55%を占める繊維は246億円で利益4億円、産業資材は75億円で利益1億円、機能材料は68億円で1億円の損失を計上した。1993年から工場跡地に建てて貸してきた商業施設が、繊維の薄い採算を埋めている。
競合
繊維から退く同業の事業を、引き受ける側に回っている。ユニチカは2024年11月に地域経済活性化支援機構の再生支援決定を受け、取引金融機関へ約430億円の債権放棄を求めて祖業の繊維事業から全面撤退した。シキボウは2025年6月25日に基本合意書を交わし、8月28日に契約を結んで、ユニチカトレーディングのユニフォーム・寝装品・シャツ・インナーの事業と北京・ベトナムの衣料繊維事業を譲り受けた。価格は事業譲受26億円と株式取得3億円、実行日は2025年12月30日である。対象事業の売上高171億円は2025年3月期の自社の繊維売上高202億円の8割を超え、退く側の規模がそのまま残る側の規模を決めた。
長期業績の推移 1950〜2026年
シキボウ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 伝法の小さな紡績会社が合併で錘数を積み上げるまで (1892年〜)

創業ストーリー(1)

有限責任伝法紡績会社の創立と福島紡績への改称

1892年8月、大阪市此花区伝法町に有限責任伝法紡績会社が設立された[1]。資本金は10万円、うち払込は4万円で、日本綿繰から引き継いだ伝法・八幡両工場の設備は3,336錘にとどまった[2]。初代の取締役社長には鈴木勝夫社長が就いた[3]。岡山県の出身で、当時は二十二銀行大阪支店長を務めており、同支店が日本綿繰の主たる債権者であったこと、大阪財界に重きをなし紡績業の経営にも意欲を持っていたことから社長に推挙された[4]。同社は9月1日に八幡工場の再興試運転を行ない、あわせて紡績聯合会に加盟し、10月1日から操業を始めた[5]

  • シキボウ 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1892年8月、大阪市此花区伝法町に有限責任伝法紡績会社を設立(資本金10万円)
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-2「創立当時の背景」
    • [2]新会社の資本金は10万円(払込4万円)、保有設備は3,336錘。日本綿繰から伝法・八幡両工場の諸資産を継承した
    • [3]初代の取締役社長に鈴木勝夫が就任した
    • [4]鈴木勝夫は岡山県出身で当時二十二銀行大阪支店長。同支店が日本綿繰の主たる債権者であり、大阪財界に重きをなし紡績業の経営にも意欲を持っていたことから社長に推挙された
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-3「福島紡績株式会社に改称」
    • [5]明治25年9月1日に八幡工場の再興試運転を行ない、同時に紡績聯合会に加盟し、10月1日操業を開始した

操業を始めたころは不況からの景気立ち直り期にあたり、業績は次第に向上した[6]。しかし八幡工場の生産量では注文をまかなえず、同工場の紡機はミュール式で効率が低かった[7]。そこで大阪府西成郡上福島村に土地を買い、英国プラット社製のリング式という当時最新鋭の紡機を据え付けることに決めた[8]。費用は伝法工場の売却と資本金25万円への増資でまかない、伝法工場は2万5,000円で大阪撚糸会社へ譲渡した[9]。1893年4月23日、本社を上福島村へ移し、この機会に社名の伝法を福島へ改めた[10]。新工場は1893年5月1日に建物の建設に着手し、翌年4月に竣工、綿糸の紡出は10月2日に始まった[11]

  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-3「福島紡績株式会社に改称」
    • [6]操業開始のころは不況後の景気立ち直り時期にあたり、業績は次第に向上した
    • [7]八幡工場の生産量では注文をまかなうことができず、同工場の紡機はミュール式で効率が低かったため新工場の建設が決定された
    • [8]大阪府西成郡上福島村に土地を購入し英国プラット社製リング式紡機を据え付けることを決めた
    • [9]新工場の費用は伝法工場の売却と資本金25万円への増資でまかない、伝法工場は2万5,000円で大阪撚糸会社に譲渡した
    • [10]明治26年4月23日、本社を西成郡上福島村に移転し、この機会に「傳法」の社名を「福島」と改めた
    • [11]新工場の建物建設は明治26年5月1日に始まり翌27年4月に竣工、綿糸の紡出を見たのは10月2日であった

本社工場の開業は日清戦争による需要増と中国市場への進出に恵まれ、20番手綿糸が市中の好評を博した[12]。1895年の綿糸年間生産高は6,900梱に及び、1895年下期と1896年上期を合わせて約7万円の利益を得た[13]。この勢いに乗じて本社第2工場の建設を決め、1896年4月29日に起工式を行ない、増設工場は翌年5月に完成して同月24日に試運転を開始した[14]。第2工場の完成で設備は1万5,312錘となり、本社工場の完成までつなぎ操業を続けた八幡工場は役目を終え、1897年8月に価格2万円で大阪綿糸合資会社へ譲渡された[15]

  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-3「福島紡績株式会社に改称」
    • [12]本社工場の開業は日清戦争による需要の増加、支那市場への進出などの環境に恵まれ好調で、20番手綿糸は市中の好評を博した
    • [13]明治28年の綿糸年間生産高は6,900梱に及び、28年下期29年上期合わせて約7万円の利益をあげた
    • [14]明治29年4月29日に本社第2工場の起工式を行ない、増設工場は翌年5月に完成、同月24日に試運転を開始した
    • [15]第2工場の完成により設備は1万5,312錘となり、つなぎ操業を続けた八幡工場は明治30年8月に価格2万円で大阪綿糸合資会社へ譲渡された
  • シキボウ 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1892年8月、大阪市此花区伝法町に有限責任伝法紡績会社を設立(資本金10万円)
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-2「創立当時の背景」
    • [2]新会社の資本金は10万円(払込4万円)、保有設備は3,336錘。日本綿繰から伝法・八幡両工場の諸資産を継承した
    • [3]初代の取締役社長に鈴木勝夫が就任した
    • [4]鈴木勝夫は岡山県出身で当時二十二銀行大阪支店長。同支店が日本綿繰の主たる債権者であり、大阪財界に重きをなし紡績業の経営にも意欲を持っていたことから社長に推挙された
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-3「福島紡績株式会社に改称」
    • [5]明治25年9月1日に八幡工場の再興試運転を行ない、同時に紡績聯合会に加盟し、10月1日操業を開始した
    • [6]操業開始のころは不況後の景気立ち直り時期にあたり、業績は次第に向上した
    • [7]八幡工場の生産量では注文をまかなうことができず、同工場の紡機はミュール式で効率が低かったため新工場の建設が決定された
    • [8]大阪府西成郡上福島村に土地を購入し英国プラット社製リング式紡機を据え付けることを決めた
    • [9]新工場の費用は伝法工場の売却と資本金25万円への増資でまかない、伝法工場は2万5,000円で大阪撚糸会社に譲渡した
    • [10]明治26年4月23日、本社を西成郡上福島村に移転し、この機会に「傳法」の社名を「福島」と改めた
    • [11]新工場の建物建設は明治26年5月1日に始まり翌27年4月に竣工、綿糸の紡出を見たのは10月2日であった
    • [12]本社工場の開業は日清戦争による需要の増加、支那市場への進出などの環境に恵まれ好調で、20番手綿糸は市中の好評を博した
    • [13]明治28年の綿糸年間生産高は6,900梱に及び、28年下期29年上期合わせて約7万円の利益をあげた
    • [14]明治29年4月29日に本社第2工場の起工式を行ない、増設工場は翌年5月に完成、同月24日に試運転を開始した
    • [15]第2工場の完成により設備は1万5,312錘となり、つなぎ操業を続けた八幡工場は明治30年8月に価格2万円で大阪綿糸合資会社へ譲渡された
創業ストーリー(2)

福山・伊豫両紡績の買収と日露戦争期の設備増設

1903年3月、福山紡績との買収交渉が始まり、同月25日に工場売買契約書が調印された[16]。4月18日に工場財産の授受を終え、4月23日から福山支店となった[17]。福山紡績は1900年の不況で赤字を出し、1902年下期に6万5,000円の大損失を生じて経営を断念していた[18]。43万円と計上された同社の資産を30万5,000円で引き取り、資本金は40万円から50万5,000円へ増えた[19]。並行して、古くから賃紡織業の中心地であった愛媛県今治町の伊豫紡績も買い取り、日本綿花の斡旋により1903年9月5日に手続きを終え、10月27日から今治支店として操業を始めた[20]。設備は本店1万6,464錘、福山支店1万3,824錘、今治支店6,020錘の計3万6,308錘となった[21]

  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-5「福島紡績の礎を築く」
    • [16]明治36年3月に福山紡績の買収交渉が始まり同月25日に工場売買契約書が調印された
    • [17]明治36年4月18日に工場財産の授受を終え、4月23日から当社の福山支店となった
    • [18]福山紡績は明治33年の不況時に赤字を計上し35年下期に6万5,000円の大損失を生じて経営を断念した
    • [19]43万円と計上された福山紡績の資産を30万5,000円で買収し、当社の資本金は40万円から50万5,000円に増加した
    • [20]伊豫紡績は愛媛県越智郡今治町にあり、同地方が古くから賃紡織業の中心地で立地条件に恵まれていたため買収に踏み切った。日本綿花株式会社のあっ旋により明治36年9月5日に買収し、10月27日今治支店として操業を開始した
    • [21]買収後の設備は本店16,464錘、福山支店13,824錘、今治支店6,020錘の計36,308錘

日露戦争の開戦前後は綿花高や船舶不足による輸入難など悲観材料が続いたが、開戦から半年を過ぎると軍需綿布の需要増大と海外からの注文殺到で市況が活況に転じた[22]。営業利益は1904年下期の4,300円から1905年上期には5万2,000円へ跳ね上がり、準備金も6万70円から9万4,500円へ厚くなった[23]。輸出は戦時中に製品の50%、戦後は売上金額の90%を占め、それでも中国市場では品不足をきたした[24]。労務費と加工費の安い広島県での増設を決め、1907年1月に福山支店第1工場の隣接地約3万3,000平方メートルを買収し、3月18日に着工、1908年12月末から運転を始めた[25]。約100万円を投じたこの増設で福山支店の設備は3万1,872錘となった[26]

  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-5「福島紡績の礎を築く」
    • [22]日露戦争開戦前後は綿花高・対清為替の乱調・船舶不足による米綿印綿の輸入難など悲観材料が少なくなかったが、開戦半年を経過して軍需綿布の需要増大と海外からの注文殺到により市況は著しく活況を呈した
    • [23]営業利益は明治37年下期の4,300円が38年上期には5万2,000円へ増収、準備金も6万70円から9万4,500円と厚くなった
    • [24]戦時中は製品の50%、戦後は売上金額の90%を輸出に向けてもなお同市場で品不足をきたす勢いであった
    • [25]増設を福山に決めた理由は広島県の労務費ひいては加工費が安いこと。明治40年1月に第1工場の隣接地約3万3,000平方メートルを買収、3月18日から建設に着手し、41年12月末から運転を開始した
    • [26]建設には約100万円を要し、この増設により福山支店の設備は3万1,872錘となった

日露戦後の1907年から大正初期にかけて、業界は操業短縮に明け暮れた[27]。前半は景気反動による内地需要の不振と中国市場への輸出不振、後半は1910年夏以来の米綿相場の暴落による糸価崩落と中国財界の恐慌が原因である[28]。操短には生産高の50%以上を輸出する会社に別枠の操業を認める例外規定があり、生産量の大半が輸出向けだった福島紡績はこの適用を受け、他社より高い操業度を保った[29]。16番手綿糸の扇面は北支で圧倒的な人気を博し、営業成績も順調に伸びた[30]。経営不振や倒産が相次ぐなか、1909年6月24日に笠岡紡績を買収して7月1日に笠岡支店として開業し、1912年4月24日には播磨紡績と買収仮契約を結んで6月23日を合併期日と定め[31]、大成紡績も同じ時期に合併した[32]

  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-5「福島紡績の礎を築く」
    • [27]日露戦後数年を経た明治40年代から大正を迎えるまでの業界は操業短縮にあけくれた
    • [28]前半は景気反動による内地需要の不振と支那市場への輸出不振、後半は明治43年夏以来の米綿相場の暴落による糸価の崩落と支那財界の恐慌による輸出不振が原因
    • [29]操短には生産高の50%以上を輸出する会社に別ワク操業を認める例外規定があり、生産量の大半が輸出向けの当社は適用を受けて他社より高い操業度を維持した
    • [30]16番手綿糸「扇面」は北支において圧倒的な人気を博し営業は順調に推移した
    • [31]明治42年6月24日に笠岡紡績株式会社を買収し42年7月1日当社笠岡支店として開業。播磨紡績は45年4月24日に買収仮契約を結び、合併期日は6月23日
    • [32]笠岡・播磨とあわせ大成紡績の買収および合併を行なった
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-5「福島紡績の礎を築く」
    • [16]明治36年3月に福山紡績の買収交渉が始まり同月25日に工場売買契約書が調印された
    • [17]明治36年4月18日に工場財産の授受を終え、4月23日から当社の福山支店となった
    • [18]福山紡績は明治33年の不況時に赤字を計上し35年下期に6万5,000円の大損失を生じて経営を断念した
    • [19]43万円と計上された福山紡績の資産を30万5,000円で買収し、当社の資本金は40万円から50万5,000円に増加した
    • [20]伊豫紡績は愛媛県越智郡今治町にあり、同地方が古くから賃紡織業の中心地で立地条件に恵まれていたため買収に踏み切った。日本綿花株式会社のあっ旋により明治36年9月5日に買収し、10月27日今治支店として操業を開始した
    • [21]買収後の設備は本店16,464錘、福山支店13,824錘、今治支店6,020錘の計36,308錘
    • [22]日露戦争開戦前後は綿花高・対清為替の乱調・船舶不足による米綿印綿の輸入難など悲観材料が少なくなかったが、開戦半年を経過して軍需綿布の需要増大と海外からの注文殺到により市況は著しく活況を呈した
    • [23]営業利益は明治37年下期の4,300円が38年上期には5万2,000円へ増収、準備金も6万70円から9万4,500円と厚くなった
    • [24]戦時中は製品の50%、戦後は売上金額の90%を輸出に向けてもなお同市場で品不足をきたす勢いであった
    • [25]増設を福山に決めた理由は広島県の労務費ひいては加工費が安いこと。明治40年1月に第1工場の隣接地約3万3,000平方メートルを買収、3月18日から建設に着手し、41年12月末から運転を開始した
    • [26]建設には約100万円を要し、この増設により福山支店の設備は3万1,872錘となった
    • [27]日露戦後数年を経た明治40年代から大正を迎えるまでの業界は操業短縮にあけくれた
    • [28]前半は景気反動による内地需要の不振と支那市場への輸出不振、後半は明治43年夏以来の米綿相場の暴落による糸価の崩落と支那財界の恐慌による輸出不振が原因
    • [29]操短には生産高の50%以上を輸出する会社に別ワク操業を認める例外規定があり、生産量の大半が輸出向けの当社は適用を受けて他社より高い操業度を維持した
    • [30]16番手綿糸「扇面」は北支において圧倒的な人気を博し営業は順調に推移した
    • [31]明治42年6月24日に笠岡紡績株式会社を買収し42年7月1日当社笠岡支店として開業。播磨紡績は45年4月24日に買収仮契約を結び、合併期日は6月23日
    • [32]笠岡・播磨とあわせ大成紡績の買収および合併を行なった
創業ストーリー(3)

本社移転から戦時企業再編成下の明治紡績合併まで

福島紡績は大阪市内で拠点を整え、1920年4月に本社を大阪市北区玉江町2丁目3番地へ移した[33]。1929年1月には東京出張所を開設し、これがのちの東京支社となった[34]。昭和期に入って業界が第1次企業再編成に入ると、紡績聯合会の加盟各社は企業整理統合要綱にもとづき14ブロックに統合された[35]。統合目標の設備は1社50万錘単位と定められ、これに届かない各社は買収できる会社、あるいは合併するに適当な会社を物色した[36]。天満織物と近江帆布もそれぞれの立場から相手を探していた[37]。福島紡績が明治紡績合資会社を合併したのは1941年6月である[38]

  • シキボウ 有価証券報告書【沿革】
    • [33]1920年4月、本社を大阪市北区玉江町2丁目3番地に移転
    • [34]1929年1月、東京出張所を開設(現・東京支社)
    • [38]1941年6月、明治紡績合資会社を合併
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)2-2「朝日紡績株式会社」
    • [35]第1次企業再編成にあたり、聯合会加盟各社は企業整理統合要綱にもとづき14ブロックに統合された
    • [36]統合目標設備は1社50万錘単位と定められ、これに満たない各社は買収できる会社または合併するに適当な会社を物色していた
    • [37]天満織物および近江帆布の両社もそれぞれの立場から統合目標設備である50万錘単位にするため、買収できる会社または合併するに適当な会社を物色していた

両社が合併に進んだのは、いずれも久しく軍用綿製品を生産の主要部門とし、商工省陸軍被服本廠と直接緊密な関係があったためで、当局の強い斡旋がこれを決めた[39]。1941年2月26日に合併契約書を締結し、3月25日にそれぞれ臨時株主総会を開いて承認、主務官庁の許可を7月4日に得たうえで、7月31日に大阪市北区中之島の元天満織物本社で創立総会を開催した[40]。新会社の社名である朝日紡績株式会社は、陸軍被服本廠長の推薦によるものであった[41]。近江帆布は味野紡績所を前身とし、その味野工場は朝日紡績へ引き継がれた[42]

  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)2-2「朝日紡績株式会社」
    • [39]天満織物および近江帆布はいずれも久しく軍用綿製品を生産の主要部門とし、商工省陸軍被服本廠と直接緊密な関係があったことから、当局の強いあっ旋により合併することになった
    • [40]昭和16年2月26日に両社は合併契約書を締結、3月25日にそれぞれ臨時株主総会を開催して承認、主務官庁の許可は7月4日に下り、7月31日に大阪市北区中之島2丁目25番地の元天満織物本社において創立総会を開催した
    • [41]「朝日紡績株式会社」の社名は陸軍被服本廠長の推せんによるものであった
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-5「福島紡績の礎を築く」
    • [42]味野紡績所はのちに近江帆布、朝日紡績を経て当社味野工場となる
  • シキボウ 有価証券報告書【沿革】
    • [33]1920年4月、本社を大阪市北区玉江町2丁目3番地に移転
    • [34]1929年1月、東京出張所を開設(現・東京支社)
    • [38]1941年6月、明治紡績合資会社を合併
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)2-2「朝日紡績株式会社」
    • [35]第1次企業再編成にあたり、聯合会加盟各社は企業整理統合要綱にもとづき14ブロックに統合された
    • [36]統合目標設備は1社50万錘単位と定められ、これに満たない各社は買収できる会社または合併するに適当な会社を物色していた
    • [37]天満織物および近江帆布の両社もそれぞれの立場から統合目標設備である50万錘単位にするため、買収できる会社または合併するに適当な会社を物色していた
    • [39]天満織物および近江帆布はいずれも久しく軍用綿製品を生産の主要部門とし、商工省陸軍被服本廠と直接緊密な関係があったことから、当局の強いあっ旋により合併することになった
    • [40]昭和16年2月26日に両社は合併契約書を締結、3月25日にそれぞれ臨時株主総会を開催して承認、主務官庁の許可は7月4日に下り、7月31日に大阪市北区中之島2丁目25番地の元天満織物本社において創立総会を開催した
    • [41]「朝日紡績株式会社」の社名は陸軍被服本廠長の推せんによるものであった
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-5「福島紡績の礎を築く」
    • [42]味野紡績所はのちに近江帆布、朝日紡績を経て当社味野工場となる
創業ストーリー(4)

朝日紡績との合併による改称と室賀社長の再建

商工省は1943年1月9日に大阪の綿業会館で官民懇談会を開き、紡績14ブロックの代表と第3次の企業整備を協議して、1社の企業単位を100万錘とする合同を進める整理案を決めた[43]。100万錘に届かない福島紡績共同組合は、同じく規模の足りない朝日紡績と、野村信託の中島俊郎常務のあっ旋で交渉に入り、1943年7月22日に合併契約を調印した[44]。福島紡績が資本金を1,286万8,750円増額して3,174万3,750円で存続し、朝日紡績は解散、朝日紡績の従業員は全員を引き継ぐという条件だった[45]。合併は1943年12月1日に実行され、翌1944年3月1日の登記完了とともに商号は敷島紡績株式会社となった[46]

  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)2-1「朝日紡績との合併」
    • [43]商工省は1943年1月9日に大阪の綿業会館で官民懇談会を開き、14ブロックの代表と第3次紡績企業整備を協議して1社の企業単位を100万錘とする整理案を決めた
    • [44]100万錘に満たない福島紡績共同組合は朝日紡績と野村信託の中島俊郎常務のあっ旋で合併交渉に入り、1943年7月22日に合併契約書を調印した
    • [45]契約は福島紡績が資本金1,286万8,750円を増額して新資本金3,174万3,750円で存続し、朝日紡績は解散、朝日紡績の従業員は全員を引き継ぎ採用する内容だった
  • シキボウ 有価証券報告書【沿革】
    • [46]合併は1943年12月1日に実行され、1944年3月1日に登記を完了し、商号を敷島紡績株式会社に変更した

社長は合併に先立つ1943年6月26日、1911年10月から30年余り在任した八代祐太郎が退き、山内貢取締役が第6代社長に就いた[47]。合併後の敷島紡績は本社を大阪市東区備後町4丁目34番地の朝日紡績本社ビルへ移し、福山、笠岡、姫路など自家工場21と関係会社8社を抱えて紡績設備116万5,636錘、織機3,440台を持ち、14ブロックは合計1,216万3,400錘の10社へ統合された[48]。その山内社長も1946年2月28日の公職追放令と翌年1月4日の改正勅令を受けて1947年3月6日に退任し、室賀國威専務取締役が第7代社長に就任した[49]

  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)2-1「朝日紡績との合併」
    • [47]1911年10月以来30年余り社長だった八代祐太郎は1943年6月26日の株主総会で社長を退任し、山内貢取締役が第6代社長に就任した
    • [48]合併と同時に本社を大阪市東区備後町4丁目34番地の朝日紡績本社ビルへ移し、自家工場21と関係会社8社で紡績設備116万5,636錘・織機3,440台を有し、14ブロックは合計1,216万3,400錘の10社に統合された
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)3-5「室賀社長の就任」
    • [49]1946年2月28日の公職追放令と1947年1月4日の改正勅令により1947年3月6日に山内貢社長が退任し、室賀國威専務取締役が第7代社長に就任した

室賀國威社長は1919年に神戸高商を卒業して久原商事へ入ったが、翌年の暴落で会社が業務を縮小したため職を失い、1921年1月に福島紡績へ入社した[50]。八代社長の秘書役を長く務め、原綿課長として綿の原産地インドも回っている[51]。設備復元に要した借入金は約2億1,500万円に上り、1948年5月31日現在の自己資本4,759万円に対して他人資本は6億6,865万円と14倍に達していた[52]。室賀社長は1948年8月に資本金を1億2,000万円へ、1949年5月に4億円へ増やし、プレミアムつきの一般公募で資本準備金1億1,000万円を積んで他人資本を自己資本の4倍まで下げた[53]。1949年5月、東京、大阪、名古屋の3証券取引所に株式を上場した[54]

  • 日本経済新報 1949年
    • [50]室賀國威は1919年に神戸高商を卒業して久原商事に入社したが、翌年の大暴落で久原が業務を縮小して失業し、1921年1月に福島紡績へ入社した
    • [51]室賀國威は八代祐太郎社長の秘書役を長く務め、原綿課長として功績があり、係長時代に綿の原産地インドを回った
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)3-5「室賀社長の就任」
    • [52]設備復元に要した借入金は約2億1,500万円で、1948年5月31日現在の自己資本4,759万円に対し他人資本は6億6,865万円と14倍に達していた
    • [53]1948年8月に資本金3,174万3,750円を1億2,000万円へ、1949年5月に4億円へ増資し、プレミアムつき公募により資本準備金は1億1,000万円となり、他人資本は自己資本の4倍にとどまった
  • シキボウ 有価証券報告書【沿革】
    • [54]1949年5月、東京証券取引所、大阪証券取引所、名古屋証券取引所に上場した
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)2-1「朝日紡績との合併」
    • [43]商工省は1943年1月9日に大阪の綿業会館で官民懇談会を開き、14ブロックの代表と第3次紡績企業整備を協議して1社の企業単位を100万錘とする整理案を決めた
    • [44]100万錘に満たない福島紡績共同組合は朝日紡績と野村信託の中島俊郎常務のあっ旋で合併交渉に入り、1943年7月22日に合併契約書を調印した
    • [45]契約は福島紡績が資本金1,286万8,750円を増額して新資本金3,174万3,750円で存続し、朝日紡績は解散、朝日紡績の従業員は全員を引き継ぎ採用する内容だった
    • [47]1911年10月以来30年余り社長だった八代祐太郎は1943年6月26日の株主総会で社長を退任し、山内貢取締役が第6代社長に就任した
    • [48]合併と同時に本社を大阪市東区備後町4丁目34番地の朝日紡績本社ビルへ移し、自家工場21と関係会社8社で紡績設備116万5,636錘・織機3,440台を有し、14ブロックは合計1,216万3,400錘の10社に統合された
  • シキボウ 有価証券報告書【沿革】
    • [46]合併は1943年12月1日に実行され、1944年3月1日に登記を完了し、商号を敷島紡績株式会社に変更した
    • [54]1949年5月、東京証券取引所、大阪証券取引所、名古屋証券取引所に上場した
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)3-5「室賀社長の就任」
    • [49]1946年2月28日の公職追放令と1947年1月4日の改正勅令により1947年3月6日に山内貢社長が退任し、室賀國威専務取締役が第7代社長に就任した
    • [52]設備復元に要した借入金は約2億1,500万円で、1948年5月31日現在の自己資本4,759万円に対し他人資本は6億6,865万円と14倍に達していた
    • [53]1948年8月に資本金3,174万3,750円を1億2,000万円へ、1949年5月に4億円へ増資し、プレミアムつき公募により資本準備金は1億1,000万円となり、他人資本は自己資本の4倍にとどまった
  • 日本経済新報 1949年
    • [50]室賀國威は1919年に神戸高商を卒業して久原商事に入社したが、翌年の大暴落で久原が業務を縮小して失業し、1921年1月に福島紡績へ入社した
    • [51]室賀國威は八代祐太郎社長の秘書役を長く務め、原綿課長として功績があり、係長時代に綿の原産地インドを回った
創業ストーリー(5)

日本合成繊維の傘下入りと工場分離、設備の新鋭化

合繊への足がかりは、羊毛の配給統制会社を引き受けることで得た[55]。日本合成繊維は統制業務を終えた1949年から合成繊維ビニロンの製造販売へ乗り出しており、合成繊維への進出を考えていた敷島紡績は1951年5月に同社株を取得し、小林勇常務を社長として送り込んだ[56]。1953年6月に同社が資本金2億円へ増資した際には株式の51%を取得して傘下に入れた[57]。ビニロン綿の市場性が乏しくビニロン糸の採算も悪かったため同社はビニロン部門の操業を止め、梳毛式設備によるスフや毛の梳毛糸、混紡糸の紡出へ重点を移し、敷島紡績は城北研究所の合繊紡績の技術と設備を提供した[58]。持株比率はのちに87%まで高まり、同社は敷島紡績の毛製品進出の母体となった[59]

  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)4-2「企業経営の展開と合理化」
    • [55]日本合成繊維は羊毛の配給統制会社だったが1949年に業務を終えて合成繊維ビニロンの製造販売に乗り出し、合成繊維進出の意図を持つ当社が同社株を取得して合繊への足がかりとした
    • [56]合成繊維進出の意図を持つ当社は1951年5月に日本合成繊維の株式を取得し、小林勇常務を社長として派遣した
    • [57]1953年6月に日本合成繊維が資本金2億円に増資した際、当社は同社株式の51%を取得して傘下に入れた
    • [58]ビニロン綿の市場性が少なくビニロン糸の採算も極端に悪かったためビニロン部門の操業を中止し、梳毛式設備によるスフ・毛の梳毛糸や混紡糸の紡出へ重点を移し、当社は城北研究所の合繊紡績の研究技術と設備を提供した
    • [59]当社は日本合成繊維株の保有率を87%まで高め、同社は当社の毛製品進出の母体となった

1952年2月25日、通産省は綿紡各社に現有確認設備能力の6割程度を適正稼動率とする勧告を出し、この操短は1953年5月末まで続いた[60]。労働力が余った敷島紡績は1952年4月に希望退職を募って男子51人、女子1,342人の計1,393人が退職し、1953年6月の第2次募集にも1,424人が応じた[61]。半期合算の売上高は1952年4月期の214億円から1955年4月期には127億円へ減り、純利益も28億円から3億円に落ちた[62]。八幡、草津、細河の3工場は規模が小さく帆布やカタン糸という量産に向かない製品を作っていたため、敷島紡績は1953年2月25日に資本金2,500万円の敷島帆布と資本金250万円の敷島カタン糸を設立し、この3工場を分離した[63]。敷島帆布は1959年10月設立の敷島重布と1961年12月に合併し、敷島カンバスとなった[64]

  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)4-2「企業経営の展開と合理化」
    • [60]1952年2月25日に通産省が綿紡各社へ現有確認設備能力の6割程度を適正稼動率とする勧告を出し、この第1次勧告操短は1953年5月末まで継続された
    • [61]1952年4月に希望退職者を募集して男子51人・女子1,342人の計1,393人が退職し、1953年6月の第2次募集には1,424人の申し込みがあった
    • [63]八幡・草津・細河の3工場は規模が小さく帆布やカタン糸など量産本位の大企業生産に適さない製品だったため、1953年2月25日に資本金2,500万円の敷島帆布と資本金250万円の敷島カタン糸を設立して分離した
  • 上場会社総覧 昭和31年版
    • [62]単体・半期合算の売上高は1952年4月期214億円・純利益28億円、1955年4月期は売上高127億円・純利益3億円
  • シキボウ 有価証券報告書【沿革】
    • [64]1959年10月に敷島重布を設立し、1961年12月に敷島帆布と敷島重布が合併して商号を敷島カンバスに変更した

戦中戦後のインフレーションで設備の再調達価格は原始取得価格の100倍に及び、当時の減価償却費では機械を更新できなかった[65]。敷島紡績は1950年1月1日を基準日とする第1次資産再評価で簿価1億8,868万6千円の固定資産を18億1,129万8千円に評価し直し、1954年4月実施の第3次再評価と合わせて再評価積立金23億2,294万5千円を積んだ[66]。この償却余力を後ろ盾に、1954年4月には相馬平治取締役工務部長がアトランチックシティのアメリカ繊維機械フェアへ渡り、帰国後の1955年前後からアボットの緯巻機やサコの混打綿機を導入し、1954年から1957年にかけてウスター試験機を全工場へ入れた[67]

  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)3-5「室賀社長の就任」
    • [65]戦中戦後のインフレーションで設備の再調達価格は原始取得価格の100倍に及び、現行の減価償却費では再調達も設備更新もできなかった
    • [66]1950年1月基準の第1次再評価で簿価188,686千円を1,811,298千円に再評価し、1954年4月実施の第3次再評価と合わせ再評価積立金は2,322,945千円となった
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)5-2「設備近代化の推進」
    • [67]1954年4月に相馬平治取締役工務部長がアトランチックシティのアメリカ繊維機械フェアを見学し、1955年前後からアボットの緯巻機・サコの混打綿機を導入、1954年から1957年にかけてウスター試験機を全工場に入れた
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)4-2「企業経営の展開と合理化」
    • [55]日本合成繊維は羊毛の配給統制会社だったが1949年に業務を終えて合成繊維ビニロンの製造販売に乗り出し、合成繊維進出の意図を持つ当社が同社株を取得して合繊への足がかりとした
    • [56]合成繊維進出の意図を持つ当社は1951年5月に日本合成繊維の株式を取得し、小林勇常務を社長として派遣した
    • [57]1953年6月に日本合成繊維が資本金2億円に増資した際、当社は同社株式の51%を取得して傘下に入れた
    • [58]ビニロン綿の市場性が少なくビニロン糸の採算も極端に悪かったためビニロン部門の操業を中止し、梳毛式設備によるスフ・毛の梳毛糸や混紡糸の紡出へ重点を移し、当社は城北研究所の合繊紡績の研究技術と設備を提供した
    • [59]当社は日本合成繊維株の保有率を87%まで高め、同社は当社の毛製品進出の母体となった
    • [60]1952年2月25日に通産省が綿紡各社へ現有確認設備能力の6割程度を適正稼動率とする勧告を出し、この第1次勧告操短は1953年5月末まで継続された
    • [61]1952年4月に希望退職者を募集して男子51人・女子1,342人の計1,393人が退職し、1953年6月の第2次募集には1,424人の申し込みがあった
    • [63]八幡・草津・細河の3工場は規模が小さく帆布やカタン糸など量産本位の大企業生産に適さない製品だったため、1953年2月25日に資本金2,500万円の敷島帆布と資本金250万円の敷島カタン糸を設立して分離した
  • 上場会社総覧 昭和31年版
    • [62]単体・半期合算の売上高は1952年4月期214億円・純利益28億円、1955年4月期は売上高127億円・純利益3億円
  • シキボウ 有価証券報告書【沿革】
    • [64]1959年10月に敷島重布を設立し、1961年12月に敷島帆布と敷島重布が合併して商号を敷島カンバスに変更した
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)3-5「室賀社長の就任」
    • [65]戦中戦後のインフレーションで設備の再調達価格は原始取得価格の100倍に及び、現行の減価償却費では再調達も設備更新もできなかった
    • [66]1950年1月基準の第1次再評価で簿価188,686千円を1,811,298千円に再評価し、1954年4月実施の第3次再評価と合わせ再評価積立金は2,322,945千円となった
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)5-2「設備近代化の推進」
    • [67]1954年4月に相馬平治取締役工務部長がアトランチックシティのアメリカ繊維機械フェアを見学し、1955年前後からアボットの緯巻機・サコの混打綿機を導入、1954年から1957年にかけてウスター試験機を全工場に入れた
創業ストーリー(6)

合繊紡績への移行と海外合弁、紡織一貫の確立

綿以外の糸は、新しい工場で作った。1956年10月時点の設備は綿紡45万6,290錘、スフ紡2万6,600錘に対し、合繊紡はまだ1,600錘にすぎなかった[68]。敷島紡績は1958年にポリエステルと綿の混紡糸の紡出に成功し、1959年3月に江南工場を新設して合繊紡績を始めた。1962年4月期の品種別売上は綿布33億5,870万7千円で全体の33.1%、綿糸27億7,522万7千円で27.3%、混紡布18億9,883万6千円で18.7%、合繊糸・混紡糸6億7,842万3千円で6.7%を占めた[69]。1963年11月には和歌山リネンに資本参加した[70]

  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)5-2「設備近代化の推進」
    • [68]1956年10月の当社設備は綿紡機456,290錘、スフ紡機26,600錘、合繊紡機1,600錘、織機2,084台
  • 会社年鑑 1963年版
    • [69]1962年4月期の単体・半期の品種別売上は綿布3,358,707千円(33.1%)、綿糸2,775,227千円(27.3%)、混紡布1,898,836千円(18.7%)、合繊糸・混紡糸678,423千円(6.7%)
  • シキボウ 有価証券報告書【沿革】
    • [70]1963年11月に和歌山リネンへ資本参加した

輸出先が自国で紡ぎ始めれば日本からの製品は入らなくなるため、敷島紡績は現地へ工場を建てた[71]。1959年7月3日、野村貿易と折半で資本金24万豪州ドルの半分を出して豪州にヤラゴン紡績を設立し、1960年11月に綿紡1,600錘で操業を始め、関税障壁のため日本から輸出できない14番手の太番手綿糸を紡いだ[72]。1961年1月にはケニアの首都ナイロビにユナイテッド・テキスタイル・インダストリーズを設立し、資本金13万ポンドの25%を持った[73]。1964年9月1日にはタイのバンコクにタイ・ブランケット・インダストリーを設立し、増資後の資本金6,360万バーツの50%を野村貿易と折半して、1965年5月に紡機5万2,000錘で完全操業に入った[74]

  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)6-3「海外合弁事業に進出」
    • [71]豪州は関税障壁のため日本から綿糸を輸出できず、当社は現地に合弁工場を建設して紡出した
    • [72]1959年7月3日に豪州でヤラゴン紡績が誕生し、資本金24万豪州ドルのうち日本側50%を当社と野村貿易が各半分出資、1960年11月に綿紡績1,600錘で操業を開始し、関税障壁のため日本から輸出できない14番手の太番手綿糸を紡出した
    • [73]1961年1月にケニアの首都ナイロビにユナイテッド・テキスタイル・インダストリーズを設立、資本金13万ポンドで日本側50%のうち当社が25%を出資した
    • [74]1964年9月1日にタイ・バンコクでタイ・ブランケット・インダストリーを設立、増資後の資本金6,360万バーツの50%を当社と野村貿易が折半出資し、1965年5月に完全操業して紡機5万2,000錘の工場が完成した

敷島紡績は精紡機43万8,430錘に対して織機を1,292台しか持たず、織物は各機業地の連携業者へ賃織に出していた[75]。1967年1月25日に児島工場を全面閉鎖して売却し、備えていた織機1,052台のうち484台を江南工場へ移設、1967年2月に江南工場へ織布部門を新設して紡織一貫の生産に入った[76]。同じ1967年1月には新内外綿の株式を取得して資本参加している[77]。江南工場への約11億円はほとんど借入金でまかない、自己資本比率は1967年4月期に28%まで下がったため、1968年2月25日払込で増資額11億5,000万円、新資本金34億円の公募付き半額増資を発表した[78]。手取金11億2,800万円は全額を借入金の返済に充て、自己資本比率は33%へ戻る計算だった[79]

  • 週刊日本経済 1967年10月26日号
    • [75]同社は精紡機43万8,430錘に対し織機は1,292台しか所有せず、加工設備も少ない
    • [76]1967年1月25日に児島工場を全面閉鎖・売却し、同工場の織機1,052台のうち484台を江南工場へ移設、江南工場は1967年2月に織機484台がフル稼動を始めた
    • [78]江南工場に約11億円を投じた設備投資はほとんど借入金に頼り自己資本比率は前4月期で28%に低下、1968年2月25日払込で増資額11億5,000万円・新資本金34億円の公募付き半額増資を発表した
    • [79]増資の手取額11億2,800万円はすべて借入金の返済に充て、自己資本比率は33%へ向上する計算
  • シキボウ 有価証券報告書【沿革】
    • [77]1967年1月に新内外綿の株式を取得し資本参加した
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)5-2「設備近代化の推進」
    • [68]1956年10月の当社設備は綿紡機456,290錘、スフ紡機26,600錘、合繊紡機1,600錘、織機2,084台
  • 会社年鑑 1963年版
    • [69]1962年4月期の単体・半期の品種別売上は綿布3,358,707千円(33.1%)、綿糸2,775,227千円(27.3%)、混紡布1,898,836千円(18.7%)、合繊糸・混紡糸678,423千円(6.7%)
  • シキボウ 有価証券報告書【沿革】
    • [70]1963年11月に和歌山リネンへ資本参加した
    • [77]1967年1月に新内外綿の株式を取得し資本参加した
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)6-3「海外合弁事業に進出」
    • [71]豪州は関税障壁のため日本から綿糸を輸出できず、当社は現地に合弁工場を建設して紡出した
    • [72]1959年7月3日に豪州でヤラゴン紡績が誕生し、資本金24万豪州ドルのうち日本側50%を当社と野村貿易が各半分出資、1960年11月に綿紡績1,600錘で操業を開始し、関税障壁のため日本から輸出できない14番手の太番手綿糸を紡出した
    • [73]1961年1月にケニアの首都ナイロビにユナイテッド・テキスタイル・インダストリーズを設立、資本金13万ポンドで日本側50%のうち当社が25%を出資した
    • [74]1964年9月1日にタイ・バンコクでタイ・ブランケット・インダストリーを設立、増資後の資本金6,360万バーツの50%を当社と野村貿易が折半出資し、1965年5月に完全操業して紡機5万2,000錘の工場が完成した
  • 週刊日本経済 1967年10月26日号
    • [75]同社は精紡機43万8,430錘に対し織機は1,292台しか所有せず、加工設備も少ない
    • [76]1967年1月25日に児島工場を全面閉鎖・売却し、同工場の織機1,052台のうち484台を江南工場へ移設、江南工場は1967年2月に織機484台がフル稼動を始めた
    • [78]江南工場に約11億円を投じた設備投資はほとんど借入金に頼り自己資本比率は前4月期で28%に低下、1968年2月25日払込で増資額11億5,000万円・新資本金34億円の公募付き半額増資を発表した
    • [79]増資の手取額11億2,800万円はすべて借入金の返済に充て、自己資本比率は33%へ向上する計算

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

沿革年表 1892〜2025年

シキボウの沿革1892〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1892〜1943年伝法の小さな紡績会社が合併で錘数を積み上げるまで大阪市此花区伝法町に有限責任伝法紡績会社を設立★★★
本社を大阪市福島区上福島に移転し商号を福島紡績に変更★★
大成紡績を合併
堺紡績を吸収合併し織布部門を保有★★
満州福紡を設立
福島人絹を設立
明治紡績を合併
1944〜1967年敷島紡績への改称と、綿から合繊への持ち替え朝日紡績を合併し商号を敷島紡績に変更★★★
東京証券取引所、大阪証券取引所、名古屋証券取引所に上場
八幡、草津両工場を分離し敷島帆布を設立
商標マーメイドマークを制定
シキボウ・カラーシーツを発売
ポリエステルと綿の混紡糸の紡出に成功★★
江南工場を新設し合繊紡績を開始★★
敷島帆布と敷島重布の合併により敷島カンバスを設立
和歌山リネンに資本参加
新内外綿の株式を取得し資本参加★★
江南工場に織布部門を新設し紡織一貫体制を確立★★
1968〜2001年1975年の経常赤字と、加工技術・工場跡地への振り替えインドネシアにマーメイドテキスタイルインダストリーインドネシアを設立★★
伊丹工場に連続シルケット機を新設しフィスコの生産を開始
加工澱粉のガラス繊維メーカー向け販売を開始★★
マーメイドスポーツを設立しゴルフ場経営に参入
抗菌防臭加工ノンスタックを発表★★
堺事業所を竣工
大和機械製作所を買収し尾道事業所を開設
滋賀県に八日市工場と中央研究所を新設
姫路工場跡地に姫路リバーシティショッピングセンターを開設★★
2002〜2026年繊維では稼げないまま、繊維再編の受け皿に回る商号をシキボウに変更★★
抗ウイルス加工フルテクトを開発★★
東洋空気調和を買収
長野事業所で航空機エンジン用アルミ部品の生産を開始★★
清原幹夫フルテクトの新型コロナウイルスに対する有効性を確認
尻家正博株式交換により新内外綿を完全子会社化★★★
尻家正博東京証券取引所の市場区分見直しによりプライム市場を選択
尻家正博小田陶器の全株式を売却
鈴木睦人ユニチカグループから繊維事業を譲受★★★
出典・参考 14件
出典・参考
  • シキボウ 有価証券報告書【沿革】
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-2「創立当時の背景」
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-3「福島紡績株式会社に改称」
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-5「福島紡績の礎を築く」
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)2-2「朝日紡績株式会社」
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)2-1「朝日紡績との合併」
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)3-5「室賀社長の就任」
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)4-2「企業経営の展開と合理化」
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)5-2「設備近代化の推進」
  • 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)6-3「海外合弁事業に進出」
  • 会社年鑑 1963年版
  • 上場会社総覧 昭和31年版
  • 週刊日本経済 1967年10月26日号
  • 日本経済新報 1949年

免責事項およびポリシー