シキボウ:敷島紡績への改称と紡織一貫体制の確立
1944年〜企業単位100万錘が結ばせた朝日紡績との合併
1社の企業単位を100万錘にまで合同させ、5割操業の工場をさらに3割に縮め、残る2割は閉鎖工場に回して設備を軍需のために使う。商工省がこの最終の整理案を固めたのは、1943年1月9日に大阪の綿業会館で官民懇談会を開き、紡績14ブロックの代表と第3次企業整備を協議した場である。綿スフ統制会はこれを受けて3月18日に申し合わせを行い、100万錘に届かない会社は互いの任意の交渉を通じて買収か合併で経営をまとめること、弱い会社同士では合併しないことを決めた。統合は外から強いられたもので折衝はたびたび行き詰まり、福島紡績共同組合と朝日紡績はどちらも設備が100万錘に届いていなかったため、野村信託の中島俊郎常務が間に入って両者の合併交渉が進んだ。福島紡績は企業整備によってすでに設備を差し出しており、経済単位を守るための方法としても合併を必要としていた。
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)2-1「朝日紡績との合併」
- [1]整理案は、14ブロックを再整理して1会社の企業単位を100万錘とする合同をすすめること、5割の操業工場をさらに3割に圧縮すること、さらに2割を閉鎖工場に繰り入れてその設備を軍需に転用することの3点であった
- [2]昭和18年1月9日、商工省は大阪の綿業会館に官民懇談会を開催し、14ブロックの代表者と第3次の紡績企業整備問題につき打ち合わせを行ない、最後的な再編成の整理案を決定した
- [3]綿スフ統制会は3月18日、100万錘未満の会社は相互に任意交渉を進め買収または合併の形式で経営を集約すること、弱体会社と弱体会社を合併することを避けることなどの方針で企業整備を実行することにした
- [4]14ブロックは相互に統合のための折衝を開始したが、外からの強制でもあり難航を重ねた
- [5]福島紡績共同組合は設備規模が100万錘にみたなかったため、同じくこの規模に達しない朝日紡績との間に野村信託株式会社中島俊郎常務のあっ旋により合併交渉が進められた
- 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史 01綿糸紡績「敷島紡績」(1955年)
- [6]太平洋戦争中は企業整備により設備の供出を余儀なくされた結果、経済単位維持のため昭和16年6月に明治紡績を合併し、さらに第二次企業整備による統合のため朝日紡績を合併した
合併の条件は1943年7月22日に合意へ達し、契約書が調印された。福島紡績が資本金1,286万8,750円を増額して新資本金3,174万3,750円で存続し、朝日紡績は解散する一方、存続する側の福島紡績が社名を捨て、合併と同時に敷島紡績株式会社へ改めるという形をとった。合併比率は朝日紡績株式10株に対し福島紡績株式14株とし、朝日紡績の従業員は全員を引き継いで採用すると定めた。契約書は8月14日に両社の臨時株主総会で承認され、合併は12月1日に実行、翌1944年3月1日に登記を完了した。本社は福島紡績の建物を引き払って大阪市東区備後町の朝日紡績本社ビルへ移り、5部17課と3部23課であった両社の本社組織は8部35課となった。
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)2-1「朝日紡績との合併」
- [7]両社は合併条件の具体的な交渉を開始し、昭和18年7月22日に合意に達して合併契約書が調印された
- [8]福島紡績は資本金1,286万8,750円を増額(新資本金3,174万3,750円)して存続し朝日紡績は解散する。ただし合併と同時に社名を敷島紡績株式会社とする
- [9]合併比率は朝日紡績株式(50円払込)10株に対し福島紡績株式(25円払込)14株を交付する。朝日紡績の従業員は全員敷島紡績において引き継ぎ採用するものとする
- [11]合併と同時に福紡本社を引き払い、敷紡本社は大阪市東区備後町4丁目34番地の朝日紡績本社ビルに移った。合併前の本社組織は当社が5部17課、朝日紡績が3部23課であったが、合併の結果8部35課となった
- シキボウ 有価証券報告書【沿革】
- [10]1944年3月、朝日紡績を合併し商号を敷島紡績に変更
新会社が抱えた設備は、自家工場21と関係会社8社を合わせて紡績設備116万5,636錘、織機3,440台であった。この企業再編成で14ブロックは10社に統合され、10社の紡機合計1,216万3,400錘のうち敷島紡績は116万5,636錘を占めた。しかし積み上げた錘が綿糸を紡ぐことはなかった。軍当局の要請により1工場は航空機会社へ転換し、4工場は軍需会社へ譲渡、3工場は軍および軍需会社へ貸与または譲渡され、1工場は空襲で焼失した。設備はスクラップとして供出され、海外へ移駐したものもあった。終戦時の可動設備は紡機約37万錘、織機約1,400台にとどまった。合併で積み上げた錘数は、綿糸を紡ぐ能力としてではなく、供出しうる金属の量として数え直されていた。
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)2-1「朝日紡績との合併」
- [12]自家工場21に関係会社8社を加え、紡績設備116万5,636錘、織機3,440台を有するようになった
- [13]この企業再編成により14ブロックの会社あるいは共同組合は10社に統合され、10社合計の紡機は1,216万3,400錘、うち敷島紡績は116万5,636錘であった
- 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史 01綿糸紡績「敷島紡績」(1955年)
- [14]戦争が苛烈となるに伴ない軍当局の要請により、一工場は航空機会社に転換、四工場は軍需会社に譲渡、三工場は軍および軍需会社に貸与または譲渡、一工場は空襲により焼失した
- [15]設備はスクラップとしての供出、海外移駐等があって終戦を迎えた
- [16]終戦当時の可動設備は紡機約37万錘、織機約1,400台であった
参考文献[1]-[16]
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)2-1「朝日紡績との合併」
- [1]整理案は、14ブロックを再整理して1会社の企業単位を100万錘とする合同をすすめること、5割の操業工場をさらに3割に圧縮すること、さらに2割を閉鎖工場に繰り入れてその設備を軍需に転用することの3点であった
- [2]昭和18年1月9日、商工省は大阪の綿業会館に官民懇談会を開催し、14ブロックの代表者と第3次の紡績企業整備問題につき打ち合わせを行ない、最後的な再編成の整理案を決定した
- [3]綿スフ統制会は3月18日、100万錘未満の会社は相互に任意交渉を進め買収または合併の形式で経営を集約すること、弱体会社と弱体会社を合併することを避けることなどの方針で企業整備を実行することにした
- [4]14ブロックは相互に統合のための折衝を開始したが、外からの強制でもあり難航を重ねた
- [5]福島紡績共同組合は設備規模が100万錘にみたなかったため、同じくこの規模に達しない朝日紡績との間に野村信託株式会社中島俊郎常務のあっ旋により合併交渉が進められた
- [7]両社は合併条件の具体的な交渉を開始し、昭和18年7月22日に合意に達して合併契約書が調印された
- [8]福島紡績は資本金1,286万8,750円を増額(新資本金3,174万3,750円)して存続し朝日紡績は解散する。ただし合併と同時に社名を敷島紡績株式会社とする
- [9]合併比率は朝日紡績株式(50円払込)10株に対し福島紡績株式(25円払込)14株を交付する。朝日紡績の従業員は全員敷島紡績において引き継ぎ採用するものとする
- [11]合併と同時に福紡本社を引き払い、敷紡本社は大阪市東区備後町4丁目34番地の朝日紡績本社ビルに移った。合併前の本社組織は当社が5部17課、朝日紡績が3部23課であったが、合併の結果8部35課となった
- [12]自家工場21に関係会社8社を加え、紡績設備116万5,636錘、織機3,440台を有するようになった
- [13]この企業再編成により14ブロックの会社あるいは共同組合は10社に統合され、10社合計の紡機は1,216万3,400錘、うち敷島紡績は116万5,636錘であった
- 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史 01綿糸紡績「敷島紡績」(1955年)
- [6]太平洋戦争中は企業整備により設備の供出を余儀なくされた結果、経済単位維持のため昭和16年6月に明治紡績を合併し、さらに第二次企業整備による統合のため朝日紡績を合併した
- [14]戦争が苛烈となるに伴ない軍当局の要請により、一工場は航空機会社に転換、四工場は軍需会社に譲渡、三工場は軍および軍需会社に貸与または譲渡、一工場は空襲により焼失した
- [15]設備はスクラップとしての供出、海外移駐等があって終戦を迎えた
- [16]終戦当時の可動設備は紡機約37万錘、織機約1,400台であった
- シキボウ 有価証券報告書【沿革】
- [10]1944年3月、朝日紡績を合併し商号を敷島紡績に変更
1947年〜公職追放が呼んだ室賀國威の登板と、自己資本の14倍という負債の組み替え
1946年2月28日に発せられた公職追放令と、翌年1月4日に公布された改正勅令により、戦時中に資本金1億円以上の会社で会長・社長・専務・常務・常任監査役の地位にあった者が財界の追放該当者に指定された。1947年3月6日、山内貢社長が退任し、室賀國威専務取締役が第7代社長に就任した。室賀は姫路市の出身で、1919年に神戸高商を卒業して久原商事へ入ったが、翌年の暴落で同社が業務を縮小したため職を失い、1921年1月に福島紡績へ入社した人物である。1943年の合併時には常務取締役として総務部長と経理部長を兼ねていた。追放令は1950年10月に指定の解除が行なわれ、山内は1952年6月に相談役として経営陣へ復帰した。
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)3-5「室賀社長の就任」
- [17]昭和21年2月28日発せられた公職追放令、さらに翌年1月4日公布の改正勅令により、戦時中の資本金1億円以上の会社において会長・社長・専務・常務・常任監査役の地位にあった人々が財界の追放該当者として指定された
- [18]昭和22年3月6日、山内貢社長が退任し、室賀國威専務取締役が第7代社長に就任した
- [21]公職追放令は昭和25年10月13日に指定の解除が行なわれ、27年6月に山内前社長は相談役として経営陣に復帰した
- 日本経済新報 1949年
- [19]室賀國威は姫路市の出身。神戸高商を大正8年に卒業して久原商事に入社したが、翌年の大暴落で久原が業務を縮小して失業し、大正10年1月に福島紡績へ入った
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)2-1「朝日紡績との合併」
- [20]朝日紡績との合併後の敷島紡績で、室賀國威は常務取締役(総務部長・経理部長)であった
室賀社長が引き受けたのは、復元のための借入が膨らみきった財務であった。設備復元に要した借入金は第1次から第3次までと追加を合わせて約2億1,500万円に達し、1948年5月31日現在で自己資本4,759万円に対し他人資本は6億6,865万円と14倍に開いていた。同年8月、資本金3,174万3,750円を1億2,000万円へ増資し、未払込株32万株から未払込金15円を徴収したうえで株主に1対2で新株を割り当て、80万株を100円で一般公募した。翌1949年5月には4億円へ増資し、120万株を70円で公募した。2回のプレミアムつき公募で資本準備金は1億1,000万円となり、他人資本は自己資本の4倍にとどまった。同じ1949年5月に東京・大阪・名古屋の3取引所へ上場し、第111期には年1割5分の配当を復活させ、翌期には年2割へ増配した。
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)3-5「室賀社長の就任」
- [22]設備復元に要した借入金は第1次ないし第3次の借入金および第3次の追加をあわせて約2億1,500万円。第1回増資前の昭和23年5月31日現在の財務諸表では自己資本4,759万円に対し他人資本は6億6,865万円と14倍に達していた
- [23]戦後第1回の増資は昭和23年8月、資本金3,174万3,750円を1億2,000万円に増資。未払込株32万株につき未払込金15円を徴収のうえ株主に1対2で新株を割り当て、さらに80万株の一般公募を価格100円で募集し、役員・従業員にも19万750株を割り当てた
- [24]第2回の増資は昭和24年5月、資本金1億2,000万円を4億円に増資。株主に1対2で割り当て、120万株を70円で一般公募し、残余の40万株は役員・従業員および縁故者に割り当てた
- [25]2回にわたるプレミアムつき公募により資本準備金は1億1,000万円となり、第2回増資完了後は他人資本が自己資本の4倍にとどまった
- [27]整備計画が承認になった翌111期(昭24.7.26〜24.10.31)に年1割5分の配当を復活し、さらにその翌期には年2割への増配を行なった
- シキボウ 有価証券報告書【沿革】
- [26]1949年5月、東京証券取引所、大阪証券取引所、名古屋証券取引所に上場
朝鮮戦争のブームが去ると、世界の綿業では競争が激化した。1952年2月25日、通商産業省は綿紡各社に対し、当面3月から5月までの適正稼働率は現有確認設備能力の6割程度が妥当だと勧告し、3月5日には実施要領を指示した。政府の勧告による操短は紡績史上はじめてであった。戦前は大日本紡績聯合会の決議で自主的に操短できたが、戦後は独占禁止法と事業者団体法がそれを許さず、行政指導による生産調整という形をとるほかなかった。第1次勧告操短は月産15万梱前後に抑えながら1953年5月末まで続き、紡績各社はたちまち労働力過剰に陥った。敷島紡績は1952年4月に労働組合の了解を得て希望退職を募り、男子51人・女子1,342人の計1,393人が退職した。翌1953年6月の第2次募集にも1,424人の申し込みがあった。
- 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史 01綿糸紡績「敷島紡績」(1955年)
- [28]朝鮮ブームが去って以来、世界綿業界の競争は熾烈化した
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)4-2「企業経営の展開と合理化」
- [29]昭和27年2月25日、通産省は綿紡各社に対し「当面3、4、5各月の適正稼動率としては現有確認設備能力の6割程度が妥当と考える」と勧告し、3月5日に綿紡績適正稼動実施要領を指示した
- [30]政府勧告による操短は紡績史上最初のものであった
- [31]戦前の大日本紡績聯合会当時は操短を業界の決議によって自主的に実施できたが、戦後は独占禁止法や事業者団体法によって自主操短が許されなくなり、政府の勧告にもとづく操短という形で行なわれることになった
- [32]第1次勧告操短は昭和27年3月から5月まで月産15万梱の生産限度で開始され、おおよそ1カ月15ないし16万梱に抑制しながら28年5月末まで継続された
- [33]急激なブームの反動と高率操短により紡績各社はたちまち労働力過剰に陥り、臨時休業・部署別臨時休業・指名制帰省休暇などの操短対策を実施した
- [34]昭和27年4月、労働組合の了解を得て希望退職者の募集にふみ切り、当社では男子51人、女子1,342人の計1,393人の退職者があった
- [35]昭和28年6月にも第2次希望退職者の募集を行ない、1,424人の退職者の申し込みがあった
参考文献[17]-[35]
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)3-5「室賀社長の就任」
- [17]昭和21年2月28日発せられた公職追放令、さらに翌年1月4日公布の改正勅令により、戦時中の資本金1億円以上の会社において会長・社長・専務・常務・常任監査役の地位にあった人々が財界の追放該当者として指定された
- [18]昭和22年3月6日、山内貢社長が退任し、室賀國威専務取締役が第7代社長に就任した
- [21]公職追放令は昭和25年10月13日に指定の解除が行なわれ、27年6月に山内前社長は相談役として経営陣に復帰した
- [22]設備復元に要した借入金は第1次ないし第3次の借入金および第3次の追加をあわせて約2億1,500万円。第1回増資前の昭和23年5月31日現在の財務諸表では自己資本4,759万円に対し他人資本は6億6,865万円と14倍に達していた
- [23]戦後第1回の増資は昭和23年8月、資本金3,174万3,750円を1億2,000万円に増資。未払込株32万株につき未払込金15円を徴収のうえ株主に1対2で新株を割り当て、さらに80万株の一般公募を価格100円で募集し、役員・従業員にも19万750株を割り当てた
- [24]第2回の増資は昭和24年5月、資本金1億2,000万円を4億円に増資。株主に1対2で割り当て、120万株を70円で一般公募し、残余の40万株は役員・従業員および縁故者に割り当てた
- [25]2回にわたるプレミアムつき公募により資本準備金は1億1,000万円となり、第2回増資完了後は他人資本が自己資本の4倍にとどまった
- [27]整備計画が承認になった翌111期(昭24.7.26〜24.10.31)に年1割5分の配当を復活し、さらにその翌期には年2割への増配を行なった
- 日本経済新報 1949年
- [19]室賀國威は姫路市の出身。神戸高商を大正8年に卒業して久原商事に入社したが、翌年の大暴落で久原が業務を縮小して失業し、大正10年1月に福島紡績へ入った
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)2-1「朝日紡績との合併」
- [20]朝日紡績との合併後の敷島紡績で、室賀國威は常務取締役(総務部長・経理部長)であった
- シキボウ 有価証券報告書【沿革】
- [26]1949年5月、東京証券取引所、大阪証券取引所、名古屋証券取引所に上場
- 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史 01綿糸紡績「敷島紡績」(1955年)
- [28]朝鮮ブームが去って以来、世界綿業界の競争は熾烈化した
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)4-2「企業経営の展開と合理化」
- [29]昭和27年2月25日、通産省は綿紡各社に対し「当面3、4、5各月の適正稼動率としては現有確認設備能力の6割程度が妥当と考える」と勧告し、3月5日に綿紡績適正稼動実施要領を指示した
- [30]政府勧告による操短は紡績史上最初のものであった
- [31]戦前の大日本紡績聯合会当時は操短を業界の決議によって自主的に実施できたが、戦後は独占禁止法や事業者団体法によって自主操短が許されなくなり、政府の勧告にもとづく操短という形で行なわれることになった
- [32]第1次勧告操短は昭和27年3月から5月まで月産15万梱の生産限度で開始され、おおよそ1カ月15ないし16万梱に抑制しながら28年5月末まで継続された
- [33]急激なブームの反動と高率操短により紡績各社はたちまち労働力過剰に陥り、臨時休業・部署別臨時休業・指名制帰省休暇などの操短対策を実施した
- [34]昭和27年4月、労働組合の了解を得て希望退職者の募集にふみ切り、当社では男子51人、女子1,342人の計1,393人の退職者があった
- [35]昭和28年6月にも第2次希望退職者の募集を行ない、1,424人の退職者の申し込みがあった
1951年〜設備制限の枠内で綿から毛へ、そして輸出先の内側へ移転した錘
合成繊維への進出を意図していた敷島紡績は、1951年5月に日本合成繊維の株式を取得し、小林勇常務を社長として送り込んだ。日本合成繊維はもともと羊毛の配給統制会社で、1949年にその業務を終えたため、工業化が始まっていた合成繊維ビニロンの製造販売へ乗り出していた会社であった。1953年6月、同社が資本金2億円へ増資した際に株式の51%を取得し、傘下へ入れた。ところが捲縮ビニロンの市場性は乏しく、ビニロン糸の採算も極端に悪かったため、ビニロン部門の操業を中止して梳毛式設備へ置き換え、スフと毛の梳毛糸・混紡糸へ重点を移した。敷島紡績は融資を重ね、城北研究所の合繊紡績の技術と設備を提供した。同社はその後、毛部門の生産と販売で実績を積み、敷島紡績が毛製品へ進出する母体となった。
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)4-2「企業経営の展開と合理化」
- [36]当社も合成繊維に進出する意図を持っていたので昭和26年5月に日本合成繊維の株を取得し、小林勇常務を社長に、栗岡常務・西代幹草津工場長・藤田秀吉経理課長を取締役として派遣して経営に参画した
- [37]日本合成繊維株式会社は元来羊毛の配給統制会社であったが、昭和24年にこの業務も完了したので、当時工業化され始めた合成繊維ビニロンの製造・販売に乗り出すことになった
- [38]昭和28年6月に同社が資本金2億円に増資した際、同社株式の51%を取得し、派遣役員を加えて名実共に当社の傘下に入れた
- [39]当初は捲縮ビニロン(商標ウーロン)の生産と梳毛式設備によるビニロン糸の紡出でスタートしたが、ビニロン綿の市場性が少なくビニロン糸の採算も極端に悪かったのでビニロン部門の操業を中止し、次第に梳毛式設備におきかえてスフあるいは毛の梳毛糸・混紡糸の長繊維紡出に重点を移していった
- [40]当社はこの間同社に対し積極的に融資を行ない、城北研究所の合繊紡績の研究技術と設備を提供し緊密な業務提携を行なった
- [41]その後同社は毛部門の生産・販売の実績を積み重ね、当社の毛製品進出の母体となった
敷島紡績が1953年2月25日に八幡・草津・細河の3工場を分けて敷島帆布と敷島カタン糸を設立したのは、3工場とも規模が小さく、帆布やカタン糸のような特殊な品が量産を前提とする大企業の生産に合わなかったためである。繊維工業設備臨時措置法で設備に枠をはめられた紡績各社にとって、枠内で伸びる道は限られ、機械を改善・更新して生産性を上げるか、生産の拠点をまとめ紡出番手を絞り込んで体制を合理化し、規模を生かして利益を得るか、付加価値の高い高級品や二次製品へ縦に広げるか、のいずれかだった。労働組合は、新会社での労働条件の保証がないこと、組合組織の分断を策すものであることを理由に反対した。1954年4月には相馬平治取締役工務部長が渡米してアメリカ繊維機械フェアと米国の新鋭紡織機械を調査し、1955年3月には立地条件の悪い戸畑工場を閉鎖して設備を他工場へ分散移設した。
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)4-2「企業経営の展開と合理化」
- [42]昭和28年2月25日、敷島帆布株式会社(資本金2,500万円)および敷島カタン糸株式会社(資本金250万円)を設立し、八幡・草津両織布工場と細河工場を分離した
- [43]八幡・草津・細河の3工場は規模が小さく、その製品が帆布・カタン糸など特殊なもので量産本位の大企業生産には適当な製品でなかった
- [45]会社提案に対し労働組合は、新会社における将来の労働条件の保証がないこと、労働組合の組織の分断を策すものであることを理由に反対した
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)5-2「設備近代化の推進」
- [44]繊維工業設備臨時措置法の施行によって設備制限を受けた紡績各社が限られた枠の中で発展を続ける方法は、機械設備を改善・更新して近代化・新鋭化をはかり生産性を高めること、生産体制を合理化し工場を集中し紡出番手を整理して規模の利益を追うこと、方向を縦に向け付加価値の高い高級品・二次製品に伸びることであった
- [46]昭和29年4月、相馬平治取締役工務部長が菊地健次郎工務部次長を帯同して渡米し、アトランチックシティにおけるアメリカ繊維機械フェアを見学、米国の新鋭紡織機械の活動事情をつぶさに調査した
- 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史 01綿糸紡績「敷島紡績」(1955年)
- [47]昭和30年3月、集中生産を行うため運営上立地条件の悪い戸畑工場を閉鎖し、その設備を他の工場に分散移設した
1959年7月3日、日豪通商協定を機に豪州でヤラゴン紡績が設立され、資本金24万豪州ドルの半分を敷島紡績と野村貿易が折半した。関税障壁のため日本から輸出できない太番手綿糸を現地で紡ぐための会社であった。1961年1月には、工業化政策により日本製繊維品の輸出が困難になる恐れのあったケニアへ、ユナイテッド・テキスタイル・インダストリーズを設立した。1964年9月1日にタイで設立したタイ・ブランケット・インダストリーは、紡機5万2,000錘を備える同国最大の紡績工場となった。翌1965年8月、タイ政府は46番手以下の綿糸の輸入制限措置を発令した。1967年の敷島紡績は九大紡のうち最も規模が小さく、精紡機43万8,430錘に対し織機は1,292台であった。国内で錘を増やせない会社にとって、設備の置き場は輸出先の内側にしかなかった。
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)6-3「海外合弁事業に進出」
- [48]昭和34年7月3日、ヤラゴン紡績会社が誕生。資本金24万豪州ドルのうち現地側50%・日本側50%で、日本側は当社と野村貿易が各半分を出資した。32年7月締結の日豪通商協定を機会に設立が決定された
- [49]関税障壁のためわが国から輸出できない太番手綿糸を生産するための合弁で、昭和35年11月に綿紡績1,600錘で操業を開始し14番手を紡出した
- [50]昭和36年1月、ケニアの首都ナイロビ市にユナイテッド・テキスタイル・インダストリーズ社を設立。現地政府が経済自立を目指して工業化政策をとりはじめたため、東アフリカ向けの日本繊維製品輸出が困難となる恐れがあった
- [51]昭和39年9月1日、タイ国バンコク市にタイ・ブランケット・インダストリー社を設立。昭和40年5月に完全操業を開始し、既存設備と合わせて紡機5万2,000錘を有するタイ国最大最新の紡績工場が完成した
- [52]昭和40年8月6日、タイ国政府は46番手以下の綿糸の輸入制限措置を発令し国内紡績の保護を図った
- 週刊日本経済 1967年10月26日号
- [53]同社は九大紡中で最少の規模であり、精紡機43万8,430錘に対し織機はわずか1,292台しか所有せず、その他の加工設備も少ない
参考文献[36]-[53]
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)4-2「企業経営の展開と合理化」
- [36]当社も合成繊維に進出する意図を持っていたので昭和26年5月に日本合成繊維の株を取得し、小林勇常務を社長に、栗岡常務・西代幹草津工場長・藤田秀吉経理課長を取締役として派遣して経営に参画した
- [37]日本合成繊維株式会社は元来羊毛の配給統制会社であったが、昭和24年にこの業務も完了したので、当時工業化され始めた合成繊維ビニロンの製造・販売に乗り出すことになった
- [38]昭和28年6月に同社が資本金2億円に増資した際、同社株式の51%を取得し、派遣役員を加えて名実共に当社の傘下に入れた
- [39]当初は捲縮ビニロン(商標ウーロン)の生産と梳毛式設備によるビニロン糸の紡出でスタートしたが、ビニロン綿の市場性が少なくビニロン糸の採算も極端に悪かったのでビニロン部門の操業を中止し、次第に梳毛式設備におきかえてスフあるいは毛の梳毛糸・混紡糸の長繊維紡出に重点を移していった
- [40]当社はこの間同社に対し積極的に融資を行ない、城北研究所の合繊紡績の研究技術と設備を提供し緊密な業務提携を行なった
- [41]その後同社は毛部門の生産・販売の実績を積み重ね、当社の毛製品進出の母体となった
- [42]昭和28年2月25日、敷島帆布株式会社(資本金2,500万円)および敷島カタン糸株式会社(資本金250万円)を設立し、八幡・草津両織布工場と細河工場を分離した
- [43]八幡・草津・細河の3工場は規模が小さく、その製品が帆布・カタン糸など特殊なもので量産本位の大企業生産には適当な製品でなかった
- [45]会社提案に対し労働組合は、新会社における将来の労働条件の保証がないこと、労働組合の組織の分断を策すものであることを理由に反対した
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)5-2「設備近代化の推進」
- [44]繊維工業設備臨時措置法の施行によって設備制限を受けた紡績各社が限られた枠の中で発展を続ける方法は、機械設備を改善・更新して近代化・新鋭化をはかり生産性を高めること、生産体制を合理化し工場を集中し紡出番手を整理して規模の利益を追うこと、方向を縦に向け付加価値の高い高級品・二次製品に伸びることであった
- [46]昭和29年4月、相馬平治取締役工務部長が菊地健次郎工務部次長を帯同して渡米し、アトランチックシティにおけるアメリカ繊維機械フェアを見学、米国の新鋭紡織機械の活動事情をつぶさに調査した
- 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史 01綿糸紡績「敷島紡績」(1955年)
- [47]昭和30年3月、集中生産を行うため運営上立地条件の悪い戸畑工場を閉鎖し、その設備を他の工場に分散移設した
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)6-3「海外合弁事業に進出」
- [48]昭和34年7月3日、ヤラゴン紡績会社が誕生。資本金24万豪州ドルのうち現地側50%・日本側50%で、日本側は当社と野村貿易が各半分を出資した。32年7月締結の日豪通商協定を機会に設立が決定された
- [49]関税障壁のためわが国から輸出できない太番手綿糸を生産するための合弁で、昭和35年11月に綿紡績1,600錘で操業を開始し14番手を紡出した
- [50]昭和36年1月、ケニアの首都ナイロビ市にユナイテッド・テキスタイル・インダストリーズ社を設立。現地政府が経済自立を目指して工業化政策をとりはじめたため、東アフリカ向けの日本繊維製品輸出が困難となる恐れがあった
- [51]昭和39年9月1日、タイ国バンコク市にタイ・ブランケット・インダストリー社を設立。昭和40年5月に完全操業を開始し、既存設備と合わせて紡機5万2,000錘を有するタイ国最大最新の紡績工場が完成した
- [52]昭和40年8月6日、タイ国政府は46番手以下の綿糸の輸入制限措置を発令し国内紡績の保護を図った
- 週刊日本経済 1967年10月26日号
- [53]同社は九大紡中で最少の規模であり、精紡機43万8,430錘に対し織機はわずか1,292台しか所有せず、その他の加工設備も少ない
筆者考察
敷島紡績という社名は、会社が自分で選んだものではない。1943年の第3次企業整備は1社あたり100万錘という企業単位を決め、そこへ届かない会社どうしを結ばせた。福島紡績は資本金を増やして存続する側に回りながら、社名だけを捨て、解散する側の本社ビルへ移っている。存続する会社が名を失い、消える会社が名と建物を残すという逆転は、この合併が経営の判断ではなく配分の結果だったことを示している。集まった116万5,636錘も同じで、綿糸を紡ぐために数えられたのではなく、5割の操業工場を3割へ圧縮し、残る2割を軍需へ回すための母数だった。終戦時に動いた錘は37万にとどまり、集めた設備の3分の2は稼働を失った。
戦後の敷島紡績が繰り返したのは、錘を置く場所を探すことだった。国内では繊維工業設備臨時措置法が枠を固定し、増やせない。合成繊維へ出るつもりで日本合成繊維に出資したが、ビニロンは売れず採算も取れず、梳毛設備へ置き換えた末に手元へ残ったのは合繊ではなく毛の会社だった。帆布とカタン糸の工場は量産に合わないという理由で切り離した。豪州・ケニア・タイへ合弁を出したのも、輸入制限で閉じかけた市場の内側へ設備を移す動作である。1967年、精紡機43万8,430錘に対し織機は1,292台しかない。糸を紡ぐ能力だけが残り、それを何に向けるかは外の制度が決めていた。
1944年〜1967年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年04月期 | 単体 | 214 | n/a | 33 | n/a | 28 | 13.1% | n/a |
| 1953年04月期 | 単体 | 151 | ▲29.4% | 4 | n/a | 4 | 2.6% | n/a |
| 1954年04月期 | 単体 | 136 | ▲9.9% | 15 | n/a | 9 | 6.6% | n/a |
| 1955年04月期 | 単体 | 127 | ▲6.6% | 7 | n/a | 3 | 2.4% | n/a |
| 1956年04月期 | 単体 | 137 | +7.9% | n/a | 4 | n/a | n/a | n/a |
| 1957年04月期 | 単体 | 152 | +10.9% | n/a | 13 | n/a | n/a | n/a |
| 1958年04月期 | 単体 | 143 | ▲5.9% | n/a | 7 | n/a | n/a | n/a |
| 1959年04月期 | 単体 | 142 | ▲0.7% | n/a | 3 | n/a | n/a | n/a |
| 1960年04月期 | 単体 | 175 | +23.2% | n/a | 12 | n/a | n/a | n/a |
| 1961年04月期 | 単体 | 200 | +14.3% | n/a | 12 | n/a | n/a | n/a |
| 1962年04月期 | 単体 | 205 | +2.5% | 13 | 7 | 5 | 2.4% | n/a |
| 1963年04月期 | 単体 | 215 | +4.9% | n/a | n/a | 5 | 2.3% | n/a |
| 1964年04月期 | 単体 | 235 | +9.3% | n/a | n/a | 4 | 1.7% | n/a |
| 1965年04月期 | 単体 | 228 | ▲3.0% | n/a | n/a | 3 | 1.3% | n/a |
| 1966年04月期 | 単体 | 246 | +7.9% | n/a | n/a | 2 | 0.8% | n/a |
| 1967年04月期 | 単体 | 284 | +15.4% | n/a | n/a | 3 | 1.1% | n/a |
出所:上場会社総覧 昭和31年版 半期合算、ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版 半期合算、会社年鑑 1967年版 半期合算、会社年鑑 1971年版 半期合算
出典・参考
9件
- シキボウ 有価証券報告書【沿革】
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)2-1「朝日紡績との合併」
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)3-5「室賀社長の就任」
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)4-2「企業経営の展開と合理化」
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)5-2「設備近代化の推進」
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)6-3「海外合弁事業に進出」
- 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史 01綿糸紡績「敷島紡績」(1955年)
- 週刊日本経済 1967年10月26日号
- 日本経済新報 1949年