シキボウ:伝法紡績の設立と大成・堺・明治紡績の合併による拡大
1892年〜有限責任伝法紡績会社の創立と福島紡績への改称
資本金10万円、払込4万円で始まった有限責任伝法紡績会社の設備は、日本綿繰から受け継いだ伝法・八幡の両工場の3,336錘にとどまった。設立は1892年8月、所在地は大阪市此花区伝法町である。初代の取締役社長に就いたのは鈴木勝夫社長である。岡山県出身の同氏は当時、二十二銀行大阪支店長の職にあり、同支店は日本綿繰に対する主な債権者だった。大阪の財界で重んじられ、紡績の経営にも乗り気であったことが、社長に推される理由となった。会社は9月1日に八幡工場を再び動かす試運転を行い、紡績聯合会にも加わって、10月1日から操業に入った。
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-2「創立当時の背景」
- [1]新会社の資本金は10万円(払込4万円)、保有設備は3,336錘。日本綿繰から伝法・八幡両工場の諸資産を継承した
- [3]初代の取締役社長に鈴木勝夫が就任した
- [4]鈴木勝夫は岡山県出身で当時二十二銀行大阪支店長。同支店が日本綿繰の主たる債権者であり、大阪財界に重きをなし紡績業の経営にも意欲を持っていたことから社長に推挙された
- シキボウ 有価証券報告書【沿革】
- [2]1892年8月、大阪市此花区伝法町に有限責任伝法紡績会社を設立(資本金10万円)
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-3「福島紡績株式会社に改称」
- [5]明治25年9月1日に八幡工場の再興試運転を行ない、同時に紡績聯合会に加盟し、10月1日操業を開始した
八幡工場の紡機はミュール式で能率が低く、その生産高では受ける注文に追いつかなかった。操業開始は不況から景気が持ち直す時期と重なり、業績は少しずつ良くなっていた。打開策として、大阪府西成郡上福島村に用地を買い、当時最も新しい英国プラット社製のリング式紡機を入れることにした。資金は資本金を25万円に増やすことと伝法工場を手放すことで賄った。伝法工場の売り先は大阪撚糸会社、価格は2万5,000円だった。1893年4月23日、本社を上福島村へ移し、この機会に社名の伝法を福島へ改めた。新工場は1893年5月1日に建物の建設に着手し、翌年4月に竣工、綿糸の紡出は10月2日に始まった。
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-3「福島紡績株式会社に改称」
- [6]八幡工場の生産量では注文をまかなうことができず、同工場の紡機はミュール式で効率が低かったため新工場の建設が決定された
- [7]操業開始のころは不況後の景気立ち直り時期にあたり、業績は次第に向上した
- [8]大阪府西成郡上福島村に土地を購入し英国プラット社製リング式紡機を据え付けることを決めた
- [9]新工場の費用は伝法工場の売却と資本金25万円への増資でまかない、伝法工場は2万5,000円で大阪撚糸会社に譲渡した
- [10]明治26年4月23日、本社を西成郡上福島村に移転し、この機会に「傳法」の社名を「福島」と改めた
- [11]新工場の建物建設は明治26年5月1日に始まり翌27年4月に竣工、綿糸の紡出を見たのは10月2日であった
本社工場の開業は日清戦争による需要増と中国市場への進出に恵まれ、20番手綿糸が市中の好評を博した。1895年の綿糸年間生産高は6,900梱に及び、1895年下期と1896年上期を合わせて約7万円の利益を得た。この勢いに乗じて本社第2工場の建設を決め、1896年4月29日に起工式を行ない、増設工場は翌年5月に完成して同月24日に試運転を開始した。第2工場の完成で設備は1万5,312錘となり、本社工場の完成までつなぎ操業を続けた八幡工場は役目を終え、1897年8月に価格2万円で大阪綿糸合資会社へ譲渡された。
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-3「福島紡績株式会社に改称」
- [12]本社工場の開業は日清戦争による需要の増加、支那市場への進出などの環境に恵まれ好調で、20番手綿糸は市中の好評を博した
- [13]明治28年の綿糸年間生産高は6,900梱に及び、28年下期29年上期合わせて約7万円の利益をあげた
- [14]明治29年4月29日に本社第2工場の起工式を行ない、増設工場は翌年5月に完成、同月24日に試運転を開始した
- [15]第2工場の完成により設備は1万5,312錘となり、つなぎ操業を続けた八幡工場は明治30年8月に価格2万円で大阪綿糸合資会社へ譲渡された
参考文献[1]-[15]
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-2「創立当時の背景」
- [1]新会社の資本金は10万円(払込4万円)、保有設備は3,336錘。日本綿繰から伝法・八幡両工場の諸資産を継承した
- [3]初代の取締役社長に鈴木勝夫が就任した
- [4]鈴木勝夫は岡山県出身で当時二十二銀行大阪支店長。同支店が日本綿繰の主たる債権者であり、大阪財界に重きをなし紡績業の経営にも意欲を持っていたことから社長に推挙された
- シキボウ 有価証券報告書【沿革】
- [2]1892年8月、大阪市此花区伝法町に有限責任伝法紡績会社を設立(資本金10万円)
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-3「福島紡績株式会社に改称」
- [5]明治25年9月1日に八幡工場の再興試運転を行ない、同時に紡績聯合会に加盟し、10月1日操業を開始した
- [6]八幡工場の生産量では注文をまかなうことができず、同工場の紡機はミュール式で効率が低かったため新工場の建設が決定された
- [7]操業開始のころは不況後の景気立ち直り時期にあたり、業績は次第に向上した
- [8]大阪府西成郡上福島村に土地を購入し英国プラット社製リング式紡機を据え付けることを決めた
- [9]新工場の費用は伝法工場の売却と資本金25万円への増資でまかない、伝法工場は2万5,000円で大阪撚糸会社に譲渡した
- [10]明治26年4月23日、本社を西成郡上福島村に移転し、この機会に「傳法」の社名を「福島」と改めた
- [11]新工場の建物建設は明治26年5月1日に始まり翌27年4月に竣工、綿糸の紡出を見たのは10月2日であった
- [12]本社工場の開業は日清戦争による需要の増加、支那市場への進出などの環境に恵まれ好調で、20番手綿糸は市中の好評を博した
- [13]明治28年の綿糸年間生産高は6,900梱に及び、28年下期29年上期合わせて約7万円の利益をあげた
- [14]明治29年4月29日に本社第2工場の起工式を行ない、増設工場は翌年5月に完成、同月24日に試運転を開始した
- [15]第2工場の完成により設備は1万5,312錘となり、つなぎ操業を続けた八幡工場は明治30年8月に価格2万円で大阪綿糸合資会社へ譲渡された
1903年〜福山・伊豫両紡績の買収と日露戦争期の設備増設
1903年3月、福山紡績との買収交渉が始まり、同月25日に工場売買契約書が調印された。4月18日に工場財産の授受を終え、4月23日から福山支店となった。福山紡績は1900年の不況で赤字を計上し、1902年下期に6万5,000円の大損失を生じて経営を断念していた。43万円と計上された同社の資産を30万5,000円で引き取り、資本金は40万円から50万5,000円へ増えた。並行して、古くから賃紡織業の中心地であった愛媛県今治町の伊豫紡績も買い取り、日本綿花の斡旋により1903年9月5日に手続きを終え、10月27日から今治支店として操業を開始した。設備は本店1万6,464錘、福山支店1万3,824錘、今治支店6,020錘の計3万6,308錘となった。
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-5「福島紡績の礎を築く」
- [16]明治36年3月に福山紡績の買収交渉が始まり同月25日に工場売買契約書が調印された
- [17]明治36年4月18日に工場財産の授受を終え、4月23日から当社の福山支店となった
- [18]福山紡績は明治33年の不況時に赤字を計上し35年下期に6万5,000円の大損失を生じて経営を断念した
- [19]43万円と計上された福山紡績の資産を30万5,000円で買収し、当社の資本金は40万円から50万5,000円に増加した
- [20]伊豫紡績は愛媛県越智郡今治町にあり、同地方が古くから賃紡織業の中心地で立地条件に恵まれていたため買収に踏み切った。日本綿花株式会社のあっ旋により明治36年9月5日に買収し、10月27日今治支店として操業を開始した
- [21]買収後の設備は本店16,464錘、福山支店13,824錘、今治支店6,020錘の計36,308錘
日露戦争の開戦前後は綿花高や船舶不足による輸入難など悲観材料が続いたが、開戦から半年を過ぎると軍需綿布の需要増大と海外からの注文殺到で市況が活況に転じた。営業利益は1904年下期の4,300円から1905年上期には5万2,000円へ跳ね上がり、準備金も6万70円から9万4,500円へ厚くなった。輸出は戦時中に製品の50%、戦後は売上金額の90%を占め、それでも中国市場では品不足をきたした。労務費と加工費の安い広島県での増設を決め、1907年1月に福山支店第1工場の隣接地約3万3,000平方メートルを買収し、3月18日に着工、1908年12月末から運転を開始した。約100万円を投じたこの増設で福山支店の設備は3万1,872錘となった。
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-5「福島紡績の礎を築く」
- [22]日露戦争開戦前後は綿花高・対清為替の乱調・船舶不足による米綿印綿の輸入難など悲観材料が少なくなかったが、開戦半年を経過して軍需綿布の需要増大と海外からの注文殺到により市況は著しく活況を呈した
- [23]営業利益は明治37年下期の4,300円が38年上期には5万2,000円へ増収、準備金も6万70円から9万4,500円と厚くなった
- [24]戦時中は製品の50%、戦後は売上金額の90%を輸出に向けてもなお同市場で品不足をきたす勢いであった
- [25]増設を福山に決めた理由は広島県の労務費ひいては加工費が安いこと。明治40年1月に第1工場の隣接地約3万3,000平方メートルを買収、3月18日から建設に着手し、41年12月末から運転を開始した
- [26]建設には約100万円を要し、この増設により福山支店の設備は3万1,872錘となった
日露戦後の1907年から大正初期にかけて、業界は操業短縮に明け暮れた。前半は景気反動による内地需要の不振と中国市場への輸出不振、後半は1910年夏以来の米綿相場の暴落による糸価崩落と中国財界の恐慌が原因である。操短には生産高の50%以上を輸出する会社に別枠の操業を認める例外規定があり、生産量の大半が輸出向けだった福島紡績はこの適用を受け、他社より高い操業度を保った。16番手綿糸の扇面は北支で圧倒的な人気を博し、営業成績も順調に伸びた。経営不振や倒産が相次ぐなか、1909年6月24日に笠岡紡績を買収して7月1日に笠岡支店として開業し、1912年4月24日には播磨紡績と買収仮契約を締結して6月23日を合併期日と定め、大成紡績も同じ時期に合併した。
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-5「福島紡績の礎を築く」
- [27]日露戦後数年を経た明治40年代から大正を迎えるまでの業界は操業短縮にあけくれた
- [28]前半は景気反動による内地需要の不振と支那市場への輸出不振、後半は明治43年夏以来の米綿相場の暴落による糸価の崩落と支那財界の恐慌による輸出不振が原因
- [29]操短には生産高の50%以上を輸出する会社に別ワク操業を認める例外規定があり、生産量の大半が輸出向けの当社は適用を受けて他社より高い操業度を維持した
- [30]16番手綿糸「扇面」は北支において圧倒的な人気を博し営業は順調に推移した
- [31]明治42年6月24日に笠岡紡績株式会社を買収し42年7月1日当社笠岡支店として開業。播磨紡績は45年4月24日に買収仮契約を結び、合併期日は6月23日
- [32]笠岡・播磨とあわせ大成紡績の買収および合併を行なった
参考文献[16]-[32]
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-5「福島紡績の礎を築く」
- [16]明治36年3月に福山紡績の買収交渉が始まり同月25日に工場売買契約書が調印された
- [17]明治36年4月18日に工場財産の授受を終え、4月23日から当社の福山支店となった
- [18]福山紡績は明治33年の不況時に赤字を計上し35年下期に6万5,000円の大損失を生じて経営を断念した
- [19]43万円と計上された福山紡績の資産を30万5,000円で買収し、当社の資本金は40万円から50万5,000円に増加した
- [20]伊豫紡績は愛媛県越智郡今治町にあり、同地方が古くから賃紡織業の中心地で立地条件に恵まれていたため買収に踏み切った。日本綿花株式会社のあっ旋により明治36年9月5日に買収し、10月27日今治支店として操業を開始した
- [21]買収後の設備は本店16,464錘、福山支店13,824錘、今治支店6,020錘の計36,308錘
- [22]日露戦争開戦前後は綿花高・対清為替の乱調・船舶不足による米綿印綿の輸入難など悲観材料が少なくなかったが、開戦半年を経過して軍需綿布の需要増大と海外からの注文殺到により市況は著しく活況を呈した
- [23]営業利益は明治37年下期の4,300円が38年上期には5万2,000円へ増収、準備金も6万70円から9万4,500円と厚くなった
- [24]戦時中は製品の50%、戦後は売上金額の90%を輸出に向けてもなお同市場で品不足をきたす勢いであった
- [25]増設を福山に決めた理由は広島県の労務費ひいては加工費が安いこと。明治40年1月に第1工場の隣接地約3万3,000平方メートルを買収、3月18日から建設に着手し、41年12月末から運転を開始した
- [26]建設には約100万円を要し、この増設により福山支店の設備は3万1,872錘となった
- [27]日露戦後数年を経た明治40年代から大正を迎えるまでの業界は操業短縮にあけくれた
- [28]前半は景気反動による内地需要の不振と支那市場への輸出不振、後半は明治43年夏以来の米綿相場の暴落による糸価の崩落と支那財界の恐慌による輸出不振が原因
- [29]操短には生産高の50%以上を輸出する会社に別ワク操業を認める例外規定があり、生産量の大半が輸出向けの当社は適用を受けて他社より高い操業度を維持した
- [30]16番手綿糸「扇面」は北支において圧倒的な人気を博し営業は順調に推移した
- [31]明治42年6月24日に笠岡紡績株式会社を買収し42年7月1日当社笠岡支店として開業。播磨紡績は45年4月24日に買収仮契約を結び、合併期日は6月23日
- [32]笠岡・播磨とあわせ大成紡績の買収および合併を行なった
1920年〜本社移転から戦時企業再編成下の明治紡績合併まで
1909年5月に第4代社長へ就任した渾大紡芳造は株式操作に失敗して失脚し、その後しばらく経営者は安定せず、福島紡績は危局に直面した。綿花商として敏腕をふるっていた八代祐太郎が第5代社長となり、義弟の野村徳七と協同して経営に当たってから、社業はようやく安定し毎期相当の成績を示すようになった。1928年7月には大正紡績を合併した。合併後は7つの紡織工場に紡機22万4,724錘、織機1,990台、撚糸機1万6,000錘、木管工場1を擁し、創立当初の18倍強へ設備が膨らんだ。1936年12月の第8次増資で資本金は1,600万円となり、生産部門の根幹が確立された。八代社長のもとで会社が採った手は、買収と合併で錘数を積み増す同じ動作の反復であった。
- 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史 01綿糸紡績「敷島紡績」(1955年)
- [33]第4代社長渾大紡芳造(1909年5月就任)が株式操作に失敗して失脚したのちは経営者が安定せず、会社は非常な危局に直面した
- [34]綿花商として敏腕を振るっていた八代祐太郎(第5代社長)が義弟の野村徳七と協同して経営に当たってから、社業はようやく安定して毎期相当の成績を示すようになった
- [35]昭和3年7月に大正紡績を合併した
- [36]大正紡績の合併により7紡織工場、紡機22万4,724錘、織機1,990台、撚糸機1万6,000錘、木管工場1を擁し、創立当初より18倍強の増設をみた
- [37]昭和11年12月の第8次増資の結果、資本金は1,600万円となり、生産部門の根幹が確立された
1929年1月、福島紡績は東京出張所を設け、これが後に東京支社となる。それより前の1920年4月には、本社を大阪市北区玉江町2丁目3番地へ移し、大阪での拠点を固めていた。昭和に入り業界の第1次企業再編成が始まると、紡績聯合会に加わる各社の14のブロックへの統合が、企業整理統合要綱を根拠に進められた。統合の目標は1社あたり50万錘の設備とされ、そこに届かない会社は、買い取れる相手か合併にふさわしい相手を探して回った。天満織物と近江帆布もそれぞれの立場で組む先を求めており、福島紡績が明治紡績合資会社を合併したのは1941年6月だった。
- シキボウ 有価証券報告書【沿革】
- [38]1929年1月、東京出張所を開設(現・東京支社)
- [39]1920年4月、本社を大阪市北区玉江町2丁目3番地に移転
- [43]1941年6月、明治紡績合資会社を合併
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)2-2「朝日紡績株式会社」
- [40]第1次企業再編成にあたり、聯合会加盟各社は企業整理統合要綱にもとづき14ブロックに統合された
- [41]統合目標設備は1社50万錘単位と定められ、これに満たない各社は買収できる会社または合併するに適当な会社を物色していた
- [42]天満織物および近江帆布の両社もそれぞれの立場から統合目標設備である50万錘単位にするため、買収できる会社または合併するに適当な会社を物色していた
1941年2月26日、両社は合併契約書を取り交わした。3月25日にはそれぞれが臨時株主総会で承認を得て、7月4日に主務官庁の許可が下り、7月31日には大阪市北区中之島の元天満織物本社で創立総会が開かれた。合併を決めたのは当局の強い斡旋である。両社とも長年、軍用の綿製品を生産の柱としてきており、直に商工省陸軍被服本廠に深く結びついていた。新会社の社名である朝日紡績株式会社は、陸軍被服本廠長の推薦によるものであった。近江帆布は味野紡績所を前身とし、その味野工場は朝日紡績へ引き継がれた。
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)2-2「朝日紡績株式会社」
- [44]昭和16年2月26日に両社は合併契約書を締結、3月25日にそれぞれ臨時株主総会を開催して承認、主務官庁の許可は7月4日に下り、7月31日に大阪市北区中之島2丁目25番地の元天満織物本社において創立総会を開催した
- [45]天満織物および近江帆布はいずれも久しく軍用綿製品を生産の主要部門とし、商工省陸軍被服本廠と直接緊密な関係があったことから、当局の強いあっ旋により合併することになった
- [46]「朝日紡績株式会社」の社名は陸軍被服本廠長の推せんによるものであった
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-5「福島紡績の礎を築く」
- [47]味野紡績所はのちに近江帆布、朝日紡績を経て当社味野工場となる
参考文献[33]-[47]
- 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史 01綿糸紡績「敷島紡績」(1955年)
- [33]第4代社長渾大紡芳造(1909年5月就任)が株式操作に失敗して失脚したのちは経営者が安定せず、会社は非常な危局に直面した
- [34]綿花商として敏腕を振るっていた八代祐太郎(第5代社長)が義弟の野村徳七と協同して経営に当たってから、社業はようやく安定して毎期相当の成績を示すようになった
- [35]昭和3年7月に大正紡績を合併した
- [36]大正紡績の合併により7紡織工場、紡機22万4,724錘、織機1,990台、撚糸機1万6,000錘、木管工場1を擁し、創立当初より18倍強の増設をみた
- [37]昭和11年12月の第8次増資の結果、資本金は1,600万円となり、生産部門の根幹が確立された
- シキボウ 有価証券報告書【沿革】
- [38]1929年1月、東京出張所を開設(現・東京支社)
- [39]1920年4月、本社を大阪市北区玉江町2丁目3番地に移転
- [43]1941年6月、明治紡績合資会社を合併
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)2-2「朝日紡績株式会社」
- [40]第1次企業再編成にあたり、聯合会加盟各社は企業整理統合要綱にもとづき14ブロックに統合された
- [41]統合目標設備は1社50万錘単位と定められ、これに満たない各社は買収できる会社または合併するに適当な会社を物色していた
- [42]天満織物および近江帆布の両社もそれぞれの立場から統合目標設備である50万錘単位にするため、買収できる会社または合併するに適当な会社を物色していた
- [44]昭和16年2月26日に両社は合併契約書を締結、3月25日にそれぞれ臨時株主総会を開催して承認、主務官庁の許可は7月4日に下り、7月31日に大阪市北区中之島2丁目25番地の元天満織物本社において創立総会を開催した
- [45]天満織物および近江帆布はいずれも久しく軍用綿製品を生産の主要部門とし、商工省陸軍被服本廠と直接緊密な関係があったことから、当局の強いあっ旋により合併することになった
- [46]「朝日紡績株式会社」の社名は陸軍被服本廠長の推せんによるものであった
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-5「福島紡績の礎を築く」
- [47]味野紡績所はのちに近江帆布、朝日紡績を経て当社味野工場となる
出典・参考
6件
- シキボウ 有価証券報告書【沿革】
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-2「創立当時の背景」
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-3「福島紡績株式会社に改称」
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)1-5「福島紡績の礎を築く」
- 敷島紡績七十五年史(敷島紡績)2-2「朝日紡績株式会社」
- 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史 01綿糸紡績「敷島紡績」(1955年)