{"spec_version":"3","endpoint":"history","stock_code":"3002","company_name":"グンゼ","content_lang":"ja","meta_lang":"en","canonical_url":"https://the-shashi.com/tse/3002/","api_url":"/api/3002/history.json","updated":"2026-08-09","license":"© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.","attribution":"The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/3002/","title":"グンゼの歴史概略","sections":[{"start_year":1896,"end_year":1945,"main_title":"「郡の是」として養蚕家の出資で発足し、片倉と並ぶ二大製糸に育つまで","subsections":[{"title":"営利だけを目的にしなかった発足、郡内の養蚕家と社内教育","text":"1896年8月、資本金9万8000円・繰糸機168釜という規模で、京都府何鹿郡綾部町に郡是製絲が設立された。丹波地方は気候風土ともに蚕業に適し、古くから養蚕の盛んな土地として知られていたが、当時の同地方の蚕糸業は沈滞しており、群小の製糸家を統合して大規模な工場とし、作業の近代化と品質の改良を図ることが急務とされていた。設立に尽力した波多野鶴吉氏は、会社を何鹿郡の郡是すなわち蚕業奨励の機関とし、株主を郡内の養蚕家に求めた。創業時の168釜は郡内産繭3500石を一手に消化できる規模として決められ、将来は郡の蚕業十カ年計画に合わせて504釜とする構想だった。1897年3月時点の株主は721名、平均持株は7株で、10株未満の株主が703名と95%を占めた。創業者の名を社名に冠さず、郡をよくするという意味の郡是を掲げたのは、この発足の事情による。\n\n当時の何鹿郡の農村は「娘を売らなければ生きていけない」（日経ビジネス 1979/2/12）と評される窮状にあり、その改善が設立のねらいに含まれていた。後年まで会社が掲げ続けた企業理念は品質の追求と共存共栄の二つで、よりよい商品を安く作ることが社会に役立つことであり、養蚕農家や下請けの機屋との共存共栄がなければ会社の存在意義はないという立て方だった。のちに制定された社章も、中の円を会社、外の円を養蚕家として、会社と養蚕家の共存共栄を表すと解釈された。全国各地に共鳴者が生まれて事業は拡大し、1911年には資本金12万円、製糸工場8、繰糸機1071釜、生糸生産高3万5000貫に達した。輸出を主体に郡是糸の声価が高まった。\n\n教育もまた会社の中核に置かれた。1909年から川合信水氏が会社の教育を主宰し、経営首脳や工場長、教育担当者の教育に当たって独特の社風をつくった。1926年には郡是青年訓練所を設け、翌1927年には本社と工場に2年以上勤めた青年社員から選抜し、社業に関する技術と一般教養を1年間で教える技術科を置いた。1935年の青年学校令の公布を受けては私立郡是綾部女子青年学校を設立し、以後これを全国の各工場へ広げた。教育課はこれを、従来行ってきた社内の教育をそのまま青年学校の教育としたものだと説明した。川合氏が1935年に退いたあと、教育総理の職が置かれることはなかった。","references":[{"title":"グンゼ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"グンゼ株式会社八十年史（グンゼ、1978年）第1〜3章","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「製糸」郡是製絲の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年 第3編（1968年）「グンゼ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻 繊維「製糸－農村からの脱出」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻 繊維「人絹－苦闘の果ての栄光」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1979年2月12日号「グンゼ 創業の精神貫き不況知らずの好業績」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1973年11巻5号「グンゼ産業 伝統と創意であすをつくる」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1973年25巻2号「新規上場会社紹介 グンゼ産業株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"糸価の乱高下が招いた大損失と、靴下・販売会社という逃げ道","text":"大正期の生糸は米国の旺盛な絹消費に支えられ、1920年には100斤4500円の高値をつけたが、同年7月には1100円へ暴落した。郡是製絲は1916年に第二郡是製絲を設立して合併し、1918年には蚕栄・福知山・舞鶴の各製糸会社を合併して全国に工場を新設した。大正末期の経営規模は製糸工場27、繰糸機6474釜、生糸生産高40万貫と、明治末期の13倍に達した。京都府北部の丹波地方の小製糸家が集まって作った会社は、長野県の片倉一族を中心とする片倉製糸とともに、二大製糸会社としての地位を築いた。機械製糸による大資本の拡大は、好況時よりも金融難で危機に陥った地元資本の中小製糸を買収できる不況時に進んだ。もっとも拡大は資金面の危うさを伴い、1914年5月には第百三十銀行が購繭資金の増大に危惧を示して会社の考え方を表明するよう申し入れ、波多野鶴吉氏は購繭数量を調整して緊縮方針で臨む旨を各工場へ通達した。\n\nもっとも製糸業の収益は綿紡績に遠く及ばず、1917年から1926年までの東洋紡と郡是を比べると、資本金で4倍、利益金で17倍、払込資本利益率は6割2分対1割7分の開きがあった。綿紡が終始利益を続けたのに対し、製糸業は赤字と黒字の循環を繰り返した。昭和初年の世界恐慌で糸価は1930年春から下がり続け、1932年には400円という記録的な安値をつけた。政府は糸価融資補償法を実施して1億5000万円を貸し付け1250円の価格を補償したが、恐慌の根は深かった。大正期に台頭した人絹の発達も、生糸輸出に重い脅威をもたらしていた。\n\n対策は複数の方向に及んだ。まず新分野の靴下によって生糸の消費そのものを増やすため、1935年に生糸の靴下用原糸としての品質改良を目的として郡是繊維工業を創立し、尼崎市塚口に絹靴下工場を設けた。1934年10月には塚口工場を新設し、絹婦人長靴下事業を始めた。販売機能の強化では、1931年に設立された林大作商店へ1933年に資本参加し、翌1934年に郡是シルク・コーポレーションへ改称させた。その前年にはニューヨークにも同名の会社を設立している。この会社はのちに郡是産業、1971年にグンゼ産業へ商号を変え、1973年2月に上場した。技術面では全工場を多条繰糸機に転換し、高級細繊度生糸の生産に集中した。","references":[{"title":"グンゼ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"グンゼ株式会社八十年史（グンゼ、1978年）第1〜3章","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「製糸」郡是製絲の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年 第3編（1968年）「グンゼ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻 繊維「製糸－農村からの脱出」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻 繊維「人絹－苦闘の果ての栄光」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1979年2月12日号「グンゼ 創業の精神貫き不況知らずの好業績」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1973年11巻5号「グンゼ産業 伝統と創意であすをつくる」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1973年25巻2号「新規上場会社紹介 グンゼ産業株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"製糸17工場の移管で主力を失い、郡是工業へ改称した戦時","text":"昭和恐慌を抜けた1930年代後半、郡是製絲の設備は拡大を続けた。1939年には製糸工場36、繰糸機1万562釜、生糸生産高92万貫に達した。片倉と郡是の設備は全国設備に占める比率を1929年の1割以下から1937年には13%へ高め、価格の下落と操業短縮のもとでも、片倉や郡是などの大手は平均2割近い払込資本利益率を続け、大正期の不安定な経営を脱した。多角化も進み、1933年には朝日化学肥料を設立したほか、1943年には郡是繊維工業を合併し、昭和紡績を買収して綿紡績事業へ参入した。大陸では大邱の麻紡績工場と大田・清州の二製糸工場を経営した。\n\n太平洋戦争の激化とともに蚕糸業は統制下に入り、1943年5月、会社は商号を郡是工業に変更する。同年12月には戦時体制のため製糸17工場ほかを日本蚕糸製造へ移管し、事業の主体を航空機部品と軍需衣料の生産へ転換した。移管の対象は内地の全製糸事業に及び、会社に残ったのは加工部門と軍需の生産だった。米国では1938年にデュポンがナイロンの工業化を発表しており、米国は最大の生糸市場であり、日本の蚕糸業者が受けた衝撃は大きかったが、日華事変の開始とともに蚕糸業は衰退期に入り、ナイロンへの対策は緊急さを失っていた。","references":[{"title":"グンゼ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"グンゼ株式会社八十年史（グンゼ、1978年）第1〜3章","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「製糸」郡是製絲の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年 第3編（1968年）「グンゼ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻 繊維「製糸－農村からの脱出」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻 繊維「人絹－苦闘の果ての栄光」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1979年2月12日号「グンゼ 創業の精神貫き不況知らずの好業績」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1973年11巻5号「グンゼ産業 伝統と創意であすをつくる」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1973年25巻2号「新規上場会社紹介 グンゼ産業株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1946,"end_year":1967,"main_title":"復元した製糸ではなくメリヤスを主力に選んだ戦後20年","subsections":[{"title":"紡績かメリヤスかを社長決裁で決めた戦後の分岐","text":"1946年5月、日本蚕糸製造へ移管した工場などが復帰し、商号も郡是製絲に戻った。しかし復元した先の市場は戦前と別物で、米国での生糸消費はナイロンの出現によって靴下分野から完全に駆逐され、生糸生産も桑園の荒廃と食糧増産との競合で復興が遅れた。1947年に紡績設備400万錘までの復元が認められ、十大紡のほかに新紡と呼ばれる25社が生まれたとき、会社は選択を迫られた。製糸工場の復元を進めながら特紡糸の紡績を手がけ、戦前から蚕糸業の行き詰まりを察して絹靴下の工場も経営していたからである。\n\nこの機会に紡績業へ参入するか、フルファッションの技術を生かしてメリヤス業へ転換するか、社内では意見が二つに分かれた。結論は、大紡績との衝突を避け自らの特技を生かすという理由で、社長決裁によりメリヤス業に決まった。当時のメリヤスは家内工業ばかりで、「メリヤスとはれものはふくれるほどつぶれやすい」と言われる分野である。郡是はこのジンクスを破り、一貫作業の工場制メリヤス工業へ参入した。1946年8月には宮津工場でメリヤス肌着事業を始めた。ファッションだけに走らなかったことは、後年、創業94年に至った理由の一つに挙げられている。","references":[{"title":"グンゼ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「製糸」郡是製絲の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年 第3編（1968年）「グンゼ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻 繊維「繊維－不死鳥よみがえる」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年1月14日号「新社長登場 羽室幸明氏（グンゼ）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"絹からナイロンへの切り替えと、婦人長靴下の27%","text":"転換は設備の入れ替えから始まり、塚口工場の絹靴下をナイロンに切り替えて、米国から高能率の51・60ゲージ新鋭編立機22台を輸入設置した。これによりフルファッション靴下で首位を占め、本工場にはトリコット機16台とK式靴下機92台を置いて婦人長靴下を生産した。年間生産能力はフルファッション靴下22万打、トリコット靴下15万5000打、K式靴下4万7000打で、全国の婦人長靴下生産高の27%を占めるに至った。1952年6月にはナイロンストッキングの生産を始めた。1949年5月には東京・大阪・名古屋の各証券取引所に株式を上場した。\n\n工場の役割も組み替えられ、八鹿・津山・萩原の各工場を絹織物工場に、梁瀬工場を絹撚糸工場に、宮津工場をメリヤス工場にそれぞれ転換し、絹織物400万平方碼、絹撚糸3万貫、メリヤス製品14万打を生産した。津山工場は合成繊維の総合加工工場として育成され、ウーリーナイロンとナイロンミシン糸の生産を始めた。1954年6月には津山工場でミシン糸事業を始めた。これら加工部門の売上高は、1954年度の総売上高73億9000万円の3割に達した。資本金は1948年12月と1950年3月の増資を経て、1952年8月に米ベア・ブランド・ホーゼリー社からのK式靴下機の現物出資を合わせて5億円となった。","references":[{"title":"グンゼ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「製糸」郡是製絲の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年 第3編（1968年）「グンゼ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻 繊維「繊維－不死鳥よみがえる」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年1月14日号「新社長登場 羽室幸明氏（グンゼ）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"加工が製糸を追い越し、商号から製絲の二文字が外れる","text":"製糸そのものを捨てたわけではなく、1955年前後の規模は製糸工場22、繰糸機4510釜、生糸生産高30万9000貫で、1939年の30%にとどまっていた。輸出産業として100%の外貨取得率を持つ生糸は日本経済への寄与が大きく、会社も海外市場の開拓に努め、自動繰糸機の設置をはじめ生産技術の改善と工程の合理化を図った。業界も漸次整備され、生産は年々増加の傾向にあった。それでも戦前の水準には遠く、蚕糸業のこうした推移に対処するため、戦前から着手していた繊維加工事業の育成強化が並行して進められた。\n\n1956年、加工部門の売上高が製糸部門を上回り、創業から60年を経て会社の主力は生糸から繊維加工へ入れ替わった。会社はさらに刺繍レース、合繊紡績、ジャージー、ファンデーション、プラスチック加工などの新規事業を加えた。1958年8月には江南工場を新設して合繊紡績事業へ参入した。この事業は1981年に撤収され、1990年には同工場へエンプラ事業センターが移された。1967年2月、創業70周年を契機に商号をグンゼへ改めた。社名から製絲の二文字が消えたのは、主力交代から11年後だった。1968年時点で会社は3蚕種所と20工場を擁し、婦人靴下では業界首位の生産量を持っていた。","references":[{"title":"グンゼ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「製糸」郡是製絲の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史 明治百年 第3編（1968年）「グンゼ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻 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有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1979年2月12日号「グンゼ 創業の精神貫き不況知らずの好業績」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年1月14日号「新社長登場 羽室幸明氏（グンゼ）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻 繊維「繊維－情報化、グローバル化が進む」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"品質第一主義が生んだ価格支配力と、公正取引委員会の勧告","text":"シェア拡大を支えたのはブランド力だった。日清紡績の鐘ケ江啓蔵常務は「編み上がりの生地やさらし上げられた生地を抜き取り検査でなく全数チェックします」（日経ビジネス 1979/2/12）と述べ、要求水準が毎年上がることも証言した。グンゼが求める品質水準を満たせない紡績会社は取引量を大きく減らされる。大手スーパーの仕入担当者は指名買いが多く消費者からのクレームもゼロだと答えた。高馬一郎社長は「品質の追求と共存共栄は表裏一体のもの」（日経ビジネス 1979/2/12）と語り、他社が安値攻勢をかけても品質を落とさず、余力をブランドに蓄える経営を続けた。\n\n価格支配力には代償も伴い、1976年5月、グンゼはブランドイメージの確保をめぐって公正取引委員会からヤミ再販の破棄勧告を受けた。百貨店との条件交渉が決裂した例も高馬社長自身が語っており、1960年代半ばに三越からその店のブランドを付けるよう求められて断り、その後も納入していないという。販売構成は一般小売店が7割、量販店が2割、百貨店が1割で、量販店と百貨店を取りにいけばシェア50%はすぐ届くが、そうはしないという方針を採った。1978年11月期には22年間連続の15%配当を実施しており、高馬社長はこれを「歴代の経営者の意地の結果」（日経ビジネス 1979/2/12）と説明した。","references":[{"title":"グンゼ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1979年2月12日号「グンゼ 創業の精神貫き不況知らずの好業績」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年1月14日号「新社長登場 羽室幸明氏（グンゼ）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻 繊維「繊維－情報化、グローバル化が進む」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"プラスチックフィルムとつかしんという、繊維に依らない収益源","text":"繊維の外にも収益源が置かれ、1968年11月に守山工場を新設してプラスチックフィルム事業を強化し、1973年10月にはフィルムの印刷加工と販売を担うグンゼ包装システムを設立した。1984年12月にはグンゼスポーツを設立してスポーツクラブ事業へ参入した。1985年9月には、グンゼ塚口開発が塚口工場跡地に商業・文化・スポーツの各施設を完成させ、ショッピングセンター「つかしん」として発足させた。絹靴下の生産を始めた塚口工場の用地が、51年を経て商業施設に変わった。1989年10月には新大阪造機を吸収合併し、印刷・食品関係機械事業へ参入した。\n\n1990年代に入ると、安い衣料品の輸入で価格面の対抗が難しくなった。1990年5月に社長となった羽室氏は、繊維以外へ事業を広げる方針を示し、医療材料と健康食品を挙げたうえで、そこでも技術を売り物にすると述べた。生産の海外移転も同じ時期に始まり、1990年4月にタイへ子会社を設立してインナーウエアの海外生産を開始し、1991年10月には中国とインドネシア、1995年8月にはベトナムへ製造販売会社を置いた。プラスチックフィルムでも1992年10月に米国へ製造販売会社を設立し、1990年2月には福島プラスチックスを設けてフィルムの国内生産も広げた。","references":[{"title":"グンゼ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1979年2月12日号「グンゼ 創業の精神貫き不況知らずの好業績」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年1月14日号「新社長登場 羽室幸明氏（グンゼ）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻 繊維「繊維－情報化、グローバル化が進む」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1999,"end_year":2026,"main_title":"肌着市場の縮小に押され、機能ソリューションとメディカルが稼ぎ手になるまで","subsections":[{"title":"「鬼門」だった若者市場を、自己否定の積み重ねで開く","text":"主力の紳士肌着は顧客とともに高齢化し、売上はこの時期5年間にわたり毎年1割ずつ落ち込み、1999年3月期の女性肌着を含むインナーウエア部門の売上高は前期比約3%減の678億円となった。最大の顧客層は40代後半からの中高年で、1人で年間に何枚も買う客層だったが、開発チームのリーダーを務めた黒住幸雄氏の表現では「毎年50万人ずつ死んでいく」（日経ビジネス 1999/6/21）層でもあった。若者向けには1968年に販売を始めたYGブランドがあったものの、顧客も商品年齢とともに年を取り、中心は30代後半から40代へ移っていた。若者市場はグンゼにとって鬼門だった。\n\n1998年2月に発売したBODYWILDは、その前提を一つずつ否定して作られた。既存のYGを冠せず新ブランドとし、社内基準を満たせば間違いないという製品作りも改めた。インターネットで約100人のモニターを募り、試作品を配って感想を集め、改良品を送り返す作業を2か月続けた。やり取りした試作品は300枚近くに及び、当初の試作品からデザインは5割近く変わった。価格は1着1000円から1500円と従来品より低く設定し、男性用肌着で初めて女性モデルを起用した。初年度の販売目標170万枚は2か月後に250万枚、8月には300万枚へ上方修正され、結局360万枚を売り上げた。","references":[{"title":"グンゼ 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stage2」は、機能ソリューションとメディカルをコア事業として成長させ、アパレルとライフクリエイトには聖域なき構造改革を行うという二軸で組まれている。佐口敏康社長は、前中計で計画乖離が大きかったアパレル事業について抜本的な構造改革を断行すると説明した。2025年からの2年間を構造改革期間と位置づけ、事業構造改善にかかる費用を特別損失として織り込んだ結果、2026年3月期は営業利益で5億8000万円の増益を見込みながら純利益では34億5000万円の減益を予想する形になった。株主還元も同時に変え、DOE4.0%以上を目安とし、ROE8%に達するまでは総還元性向100%超の還元を機動的に実施するとした。\n\n改革は人員にも及び、アパレル事業の間接部門と営業部門に所属する40歳以上の従業員を対象に希望退職を募り、応募は82名だった。同事業の従事者は約2300名で、募集人数は設定していない。生産と物流の集約も進み、インナーは生産工場と物流拠点を再編して生産能力を縮小し、レッグはすでに国内1工場へ集約している。2026年3月期には東北グンゼ・矢島通商・福知山物流センターの終息を発表した。2026年5月、佐口社長は前期の下方修正を含む業績の責任に触れたうえで、経営戦略部門の責任者としてアパレルの構造改革を進めてきた岡高広専務へ社長を引き継ぐと述べた。創業130年にあたる年の交代である。","references":[{"title":"グンゼ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"グンゼ 有価証券報告書 セグメント情報","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1999年6月21日号「グンゼ 常識捨て若者用肌着ヒット 主力ブランド強化に課題」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2006年9月23日号「トップの履歴書 グンゼ社長 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stage2」は、機能ソリューションとメディカルをコア事業として成長させ、アパレルとライフクリエイトには聖域なき構造改革を行うという二軸で組まれている。40歳以上の間接部門と営業部門を対象とした希望退職には82名が応募した。"}]},"auditVersion":2}