片倉工業蚕糸事業を1製糸工場・1蚕種製造所へ集約し、製造業務から完全に撤退
創業以来の生糸をどこまで残すか——縮小を続けるか、期限を切って畳むか
- 概要
- 1988年3月、片倉工業は蚕糸事業を熊谷工場(製糸)と沼津蚕種製造所の2拠点へ集約すると決め、1992年に熊谷工場の生糸製造を止め、1994年12月に両拠点を休止して蚕糸関係の製造業務から完全に撤退した経営判断。
- 背景
- 生糸は合成繊維に用途を奪われたうえ、1980年代には安価な輸入生糸が国内市場へ入った。1981年時点で5カ所あった製糸工場のうち、最新鋭設備を備えた富岡工場も1987年3月に休止し、115年続いた同工場の生糸生産が止まった。
- 内容
- 段階的な工場閉鎖を重ねる方式ではなく、1988年3月に残す拠点を製糸1・蚕種1と定めた。1992年に熊谷工場の生糸製造を中止し、1994年12月に熊谷工場と沼津蚕種製造所を休止して、1873年から121年続いた蚕糸業を終えた。
- 含意
- 撤退の時点で医薬品・機械関連・不動産の各事業と商業施設の賃料が育っており、祖業を畳んでも会社は残った。繊維の名は残ったものの、製造の中心は蚕糸から離れ、2025年12月期の繊維は4事業で最小の規模にとどまる。
畳み方を先に決めるということ
この判断で目を引くのは、撤退の速さより決め方の順序であるとみることができる。1988年3月の決定は「どこを閉じるか」ではなく「何を残すか」を先に示しており、製糸1・蚕種1という最終形が、その後6年の作業の目盛りとして働いた。祖業からの撤退は、関わる人にとって終わりが見えないことが最もこたえる作業になりやすい。残す姿を先に置いたことで、以後の閉鎖や休止は既定の手順として処理できたとみられる。
もっとも、この決め方が可能だったのは、蚕糸を畳んでも会社が立つ準備が先に済んでいたからでもある。医薬品と機械の子会社、そして1973年以降に積み上げた商業施設の賃料が、祖業の穴を埋める用意をしていた。逆に言えば、代わりの収益がないまま祖業の期限を切ることは、同じようには進まない。祖業をいつ畳むかという問いは、実のところ次の柱をいつまでに育てるかという問いと同じ形をしている——片倉工業の121年の幕引きは、その順番を示す例といえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
合理化を尽くしたあとの製糸
撤退の前に、片倉工業は製糸の現場へ長く投資を続けていた。1981年当時、同社の製糸工場は5カ所で、なかでも群馬県の富岡工場は規模が最も大きく生産性も高かった。明治5年築の建物の内側には全自動の繰糸機が8セット並び、繰糸の工程から人手はほぼ消えていた。取締役富岡工場長の福元昶氏は「我が国の製糸工場の中では最も新鋭設備を導入している工場」と述べ、建物の保存と生産設備の合理化を同時に進める方針を語っている[1][2]。
それでも採算は戻らなかった。生糸は1950年代に婦人靴下の原料としての地位をナイロンへ譲り、1954年の無配転落以降、片倉工業は生糸工場の集約と合理化を繰り返してきた。単体の売上高は1980年12月期の602億円から1984年12月期の513億円へ後退し、当期純利益は3億円台から5億円台で推移する。設備を新しくしても、原料の繭と製品の生糸をめぐる市況そのものが縮んでいくという条件は変わらなかった[3][4]。
輸入生糸と、祖業を離れても立つ会社
1980年代に条件をさらに動かしたのは、海外から入る安価な生糸であった。片倉工業は1987年3月、旧官営富岡製糸場を引き継いだ富岡工場を休止する。明治5年の開業から115年続いた同工場の生糸生産が、ここで止まった。5カ所あった製糸工場のうち最大規模で設備も新しい拠点を閉じたことは、残る工場についても存続の見込みが乏しいことを社内外へ示すものであった[5][6]。
一方で、蚕糸を畳んでも会社が立ち行く条件は先に整っていた。1943年10月に設立した東亜栄養化学工業(現トーアエイヨー)は循環器系の医療用医薬品を扱い、1955年10月設立の片倉機器工業と1961年12月設立の日本ビニロン(現ニチビ)が機械と合成繊維を担っていた。加えて1973年以降は製糸工場の跡地を商業施設へ組み替える不動産の収益が積み上がっていた。祖業の撤退は、事業を失う判断ではなく、収益の中心を移し終えたことの確認に近い性格を帯びていた[7][8]。
決断
1988年3月、残す拠点を先に決める
1988年3月、片倉工業は蚕糸事業の集約効率化を決め、製糸は熊谷工場の1カ所、蚕種は沼津蚕種製造所の1カ所へ絞ると定めた。1981年に5カ所あった製糸工場を7年で1カ所とする内容である。不採算の拠点を年ごとに閉じていく方式ではなく、最終的に残す形をあらかじめ示した点にこの決定の特徴がある。どこまで縮むのかを社内が先に知る決め方であった[9]。
残す拠点として熊谷工場が選ばれた背景には、埼玉県内という立地と、大宮に置いていた開発・製造の拠点との近さがあった。同社は1946年11月に大宮製作所を設け、1992年6月にこれを加須市へ移している。蚕糸の縮小と並行して、埼玉県内の敷地は製糸から機械・商業施設へ用途が振り替えられていた。祖業の最後の1拠点は、機械と商業施設の拠点が集まる県内に置かれた[10]。
製造の停止と、121年の幕
集約から4年後の1992年、熊谷工場の生糸製造が中止された。これにより片倉工業の手元から生糸そのものを作る機能が消えた。工場と蚕種製造所は残ったものの、製糸業としての生産はこの時点で終えている。1954年から続いた合理化の系譜は、工場の数を減らす作業から、製造そのものを止める段階へ移った[11]。
1994年12月、熊谷工場と沼津蚕種製造所が休止され、蚕糸関係の製造業務からの撤退が完了した。1873年に初代片倉兼太郎氏が長野県諏訪で座繰製糸を始めてから121年、1920年の法人化から74年での幕引きにあたる。社名の「片倉」は生糸で知られた名であり、社名を残したまま生糸から離れる選択でもあった。同じ1994年12月期の連結売上高は600億円、当期純利益は13億円で、撤退そのものが業績を揺らした形跡は数字に表れていない[12][13][14]。
結果
撤退後に残った規模
撤退の前後で、連結の売上高は縮んだ。1991年12月期の782億円が1994年12月期に600億円、1999年12月期には512億円となる。当期純利益は1991年12月期の20億円から1994年12月期13億円、1999年12月期2億円へ細った。蚕糸を畳んだことで身軽になったというより、繊維全体の需要が退く流れのなかで、跡地の商業施設と医薬品が残りを支える形へ移った時期であった[15]。
一方、跡地の活用は撤退の前後を通じて進んだ。1996年11月に熊本ショッピングセンター、2004年10月に白石片倉ショッピングセンターを新設し、2004年9月にはさいたま新都心でカタクラ新都心モールを開いている。蚕糸の縮小で空いた敷地が、次の収益源の用地として順に使われた。祖業からの撤退と不動産事業の拡大は、同じ土地の上で連続する動きであった[16]。
繊維の名は残り、製造は離れた
蚕糸から撤退しても、繊維事業そのものは会社に残った。2008年8月にオグランジャパンを設立し、同年11月にオグランの繊維事業を譲り受けて連結子会社とする。2023年6月には、1960年7月に始めたメリヤス肌着事業を本体からオグランジャパンへ譲渡した。生糸を作る会社ではなくなったのち、衣料品の企画・販売を子会社へ束ねる形へ整理が進んだ[17][18]。
事業構成のなかで、繊維の比重は小さくなった。2025年12月期の報告セグメントでは、繊維の売上高は68億円・営業利益7億円で、不動産117億円・44億円、医薬品117億円・10億円、機械関連78億円・8億円に対し4事業で最小となる。1932年に製糸所62カ所を数えた会社の祖業は、社名と一つのセグメント名として残った[19]。
- 日経ビジネス 1981年3月9日号「わが社の富岡工場(片倉工業)」(日経マグロウヒル社)
- 証券調査(7)(1971年4月)
- 片倉工業 有価証券報告書 第117期(2025年12月期)【沿革】【セグメント情報】
- 片倉工業 沿革(公式サイト)
- 片倉工業「片倉工業と富岡製糸場が歩んだ歴史」(公式サイト)
- 片倉工業 会社年鑑(単体業績・連結業績)