熊谷工場休止で蚕糸撤退(1988年・片倉工業の決断) 更新:2026/07/22 論点 祖業の蚕糸から完全撤退するか 片倉工業:業績の推移 売上高(億円)当期純利益率(%)データ出所 蚕糸事業を1製糸工場・1蚕種製造所へ集約し、製造業務から完全に撤退 何をなぜ決めたか:蚕糸事業を1製糸工場・1蚕種製造所へ集約し、製造業務から完全に撤退 概要 1988年3月、片倉工業は蚕糸事業を熊谷工場(製糸)と沼津蚕種製造所の2拠点へ集約すると決め、1992年に熊谷工場の生糸製造を止め、1994年12月に両拠点を休止して蚕糸関係の製造業務から完全に撤退した経営判断。 背景 生糸は合成繊維に用途を奪われたうえ、1980年代には安価な輸入生糸が国内市場へ流入した。1981年時点で5カ所あった製糸工場のうち、最新鋭設備を備えた富岡工場も1987年3月に休止し、115年続いた同工場の生糸生産が止まった。 内容 段階的な工場閉鎖を重ねる方式ではなく、1988年3月に残す拠点を製糸1・蚕種1と定めた。1992年に熊谷工場の生糸製造を中止し、1994年12月に熊谷工場と沼津蚕種製造所を休止して、1873年から121年続いた蚕糸業を終えた。 含意 撤退の時点で医薬品・機械関連・不動産の各事業と商業施設の賃料が育っており、祖業を畳んでも会社は残った。繊維の名は残ったものの、製造の中心は蚕糸から離れ、2025年12月期の繊維は4事業で最小の規模にとどまる。 いつ何が起きたか 5件 考察:畳み方を先に決めるということ 考察 考察:畳み方を先に決めるということ この判断で目を引くのは、撤退の速さより決め方の順序であるのだろう。1988年3月の決定は"どこを閉じるか"ではなく"何を残すか"を先に示しており、製糸1・蚕種1という最終形が、その後6年の作業の目盛りとして働いた。祖業からの撤退は、関わる人にとって終わりが見えないことが最もこたえる作業になりやすい。残す姿を先に置いたことで、以後の閉鎖や休止は既定の手順として処理できただろう。 もっとも、この決め方が可能だったのは、蚕糸を畳んでも会社が立つ準備が先に済んでいたからでもある。医薬品と機械の子会社、そして1973年以降に積み上げた商業施設の賃料が、祖業の穴を埋める用意をしていた。逆に言えば、代わりの収益がないまま祖業の期限を切ることは、同じようには進まない。祖業をいつ畳むかという問いは、実のところ次の柱をいつまでに育てるかという問いと同じ形をしている——片倉工業の121年の幕引きは、その順番を示す例といえる。 Yutaka Sugiura, 2026年7月 参考文献 参考文献 参考日経ビジネス 1981年3月9日号(日経マグロウヒル社)証券調査(7)(1971年4月)片倉工業 有価証券報告書 第117期(2025年12月期)【沿革】【セグメント情報】片倉工業 沿革(公式サイト)片倉工業「片倉工業と富岡製糸場が歩んだ歴史」(公式サイト)片倉工業 会社年鑑(単体業績・連結業績) 次に読む決断 片倉工業の意思決定1973年片倉工業片倉工業取手ショッピングプラザ開業製糸工場跡地を自社で商業施設へ組み替える不動産事業への転換1973年2005年片倉工業片倉工業富岡工場を富岡市へ寄付建物の寄付と翌年の社有地売却による保有の終了2005年同じ問い:構造改革に伴う事業売却2001年セガサミーHDセガサミーHDドリームキャスト製造中止家庭用ハード事業からの撤退と、他社ゲーム機向けソフトへの転換2001年2022年ENEOS HDENEOS HD和歌山製油所を閉鎖製油所としての役割を終えた拠点の次世代燃料拠点への転換2022年1985年藤沢薬品工業藤沢薬品工業ピコレットなどライオンへ譲渡トイレ用芳香剤を含む家庭用品20品目の一括での切り離し1985年1997年ヤオハンヤオハンダイエーへ主力店売却資金繰り危機下で主力16店、熱海の高収益店まで含めた中核店舗の売却1997年1998年沖電気工業沖電気工業DRAM事業から撤退量産競争から降りたうえでの、半導体事業そのものの売却1998年 × 出所