森ビルの創業者である森泰吉郎氏は、東京・虎ノ門で米屋を営む家に生まれた[1]。東京商科大学を卒業したのち京都高等蚕糸学校で教鞭をとり[2]、戦後は横浜市立大学へ移った[3]。泰吉郎氏は家業の米屋になじめず、研究生活を志した[4]。父が持っていた貸家は100戸近くを数えたが、戦災でほとんどを失う[5]。焼け跡の整理のために帰京した泰吉郎氏は、新橋駅頭に降り立って一面の焼野原を眺め、『自分の生まれた故郷を自分の手で復興しよう』[引用元](日経ビジネス 1971/5/3)と心に誓ったという。父が残した不動産を生かして第1森ビルを建てたのは1956年[6]で、ここから大学教授とビル経営者の二足のわらじが始まった。
戦後のインフレを見越した泰吉郎氏は、父の資金を使って銀座や新橋で銀行の抵当流れの土地を安く買いあさり[7]、当時まだ大衆化していなかった株にも積極的に投資した。1956年、買い集めた土地が予想どおり値上がりすると[8]、時価で手放さずに斡旋業者へ相場の5割増で仲介するよう持ちかけた[9]。驚く業者に泰吉郎氏は『東京には、これから必ず人口が集中する』[引用元](日経ビジネス 1971/5/3)と説き、地価は幾何級数的に上昇するので、5割増で買っても決して損はしないと理路整然とたたみかけた。業者はその話を保険会社に取りついだ[10]。泰吉郎氏は3000万円を手にし[11]、同時に第一信託銀行から同額の3000万円を借り入れて[12]、ビル建設に取りかかった。
横浜市立大学の商学部長という社会的地位を投げうって、泰吉郎氏がビル業に専念する決意を固めたのは1959年である[13]。それまで4つのビルを管理していた個人経営の森事務所[14]は、同年6月に森ビル株式会社として法人組織になった[15]。株式会社化は、泰吉郎氏が4人の子にそれぞれ筆頭株主を割り当てて設立させた森磯・森喜代・泰成・森泰の4社と、泰吉郎氏自身の出資によるもので[16]、以後は不動産を森ビルが保有する形へ改めた。
森ビルが建てたビルは虎ノ門の狭い地域に集中した[17]。親から受け継いだ土地はおよそ6600平方メートルにすぎず[18]、ビル用地に適さない小さな土地は処分して、まとまった土地を買収していく[19]。泰吉郎氏は集中の理由を自分の臆病さに帰していた[20]。『学者はとかく慎重派が多いが、自分も臆病なほど慎重』[引用元](日経ビジネス 1971/5/3)で、よその土地へ投資するのがこわかった、虎ノ門なら自分の庭のようなもので採算がとれるかどうかを前もって正確に計算できる[21]という。もっとも、集中には計算も働いていた[22]。同一地域に次々とビルを建てれば新しいビルが古いビルの価値を高め[23]、街が整然とした形をなすにつれて地域全体の評価が高まり、一流のテナントが集まる。地価が上がれば銀行に対する担保力を増し[24]、資金調達を容易にして次の開発をやりやすくした。
1964年から1965年にかけての不況[25]は、貸ビル業を直撃した。日本ビルヂング協会の調べでは、この不況時の空室率は7%以上に達した[26]。1965年から建物の容積制限が実施される機運にあり、その前に建ててしまおうという駆け込み着工がビルの供給過剰に拍車をかけた[27]。森ビルもこの不況のさなかに第10・第11ビルを相次いで竣工させ、テナント探しに四苦八苦した[28]。青山に持っていた土地を売り払って[29]資金をつくり、家賃を引き下げてかろうじて切り抜けた。最も苦しかったのは創業時代[30]だったと泰吉郎氏も認めた。不動産のことは何も分からない素人商法で、ビルを建てる段になっても建築会社との打ち合わせでトンチンカンなことを言ってばかにされ、テナントから保証金をもらうにもどんな契約をすればよいのか分からず、三菱地所や三井不動産の貸室契約書を借りてきて間に合わせた[31]という。
家主として不労所得を得る階級に属する自分の生活[32]は何なのか。青年期の泰吉郎氏はこの疑問[33]を抱えていた。賀川豊彦の『死線を越えて』を読み、築地小劇場でゴーリキーの『母』に感動する[34]たびに懊悩が膨らんだという。その霧を晴らしたのが、東京商大教授の上田貞次郎氏の所説[35]であった。企業者を私利私欲の徒と説く者があるけれども[36]、自分の知る多数の企業者は公共社会への貢献を使命と考えている。支配するものは土地貴族でも金権貴族でもなく才能の貴族である[37]。この言葉に接したとき、目の前の霧が一気に晴れたような気がした[38]と泰吉郎氏は語っている。
実務は同業から教わった[39]。1900年に日本橋の煙草屋を火事で焼け出された父の磯次郎氏が芝の南佐久間町へ移って米屋を始めており[40]、泰吉郎氏はその貸家を継ぐ立場にあった。三井不動産会長の江戸英雄氏[41]によれば、泰吉郎氏は、これからビル事業を始めようと思うのでいろいろ教えてくれ[42]、と訪ねてきたという。江戸氏と、商大の後輩にあたる坪井東氏が不動産業のノウハウを伝授した[43]。ところがそのうち、こちらが心配するほど急ピッチで仕事をやり出し[44]、あとからあとからビルを建て続けて、いつのまにか大きくなったと江戸氏はふり返る。戦後の弟子のうち成功した筆頭[45]だろう、とも述べている。
1971年2月11日付の日本経済新聞[46]に、東京都が職住近接のモデルとして赤坂地区の再開発に乗り出すという記事が載った。都市再開発法による民間デベロッパー活用の第1号[47]であり、新宿副都心計画以来の大規模な事業だった。計画では、米国大使館付近の8万平方メートル余りに超高層のオフィスビル、ホテル、マンションが建ち並ぶ[48]ことになる。当時の森ビルは資本金10億円・従業員250名[49]で、10余年のあいだに虎ノ門界わいへ40棟を建てていた。1961年度に2億8800万円だった売上高は1971年度に33億円[50]へ届く勢いで、5年間に3倍近い伸びを示す。帳簿上の総資産は250億円[51]、従業員1人当たりの資産額は1億円に達した。
再開発の実務は土地の買収に尽きた[52]。ビル業の業務は土地の買収、建設、入居者の募集、家賃の徴収、建物の保安や管理から成り、資金と時間の大半は用地確保に向けられる[53]。1971年に竣工した第20森ビルも、10年越しの買収交渉[54]を続けた末のものだった。泰吉郎氏は買収を急がない[55]。『不動産は、他の商品とちがって、場所に対する独占』[引用元](日経ビジネス 1971/5/3)であり、値段で押そうとすると失敗するので、相手の利害関係をよく考え、ビルの建設によって生まれる付加価値を公平に分け合うのだと説明した[56]。赤坂・六本木地区でも同じ手順が繰り返される[57]。土地をまとめるのに16年[58]、1986年3月のアークヒルズ竣工[59]までに計20年の歳月を要した。
森ビル・グループが同じような名前の不動産会社をいくつも抱える複雑な資本関係を持つに至った理由は、創業者の泰吉郎氏が子どもたちに均等に財産を残そうと考えたことにある[60]。4人の子がそれぞれ筆頭株主となる森磯・森喜代・泰成・森泰という会社をつくり[61]、この4社が不動産を保有して、事務局である任意団体の森事務所が一括して管理した[62]。1970年には、長期的な開発を担う森ビルに対し、短期間の事業を担当する森ビル開発を設立[63]した。森ビルの資産が膨らむとあらためて相続対策が必要になり、資産の一部を分割する形で森ビル興産と森ビル産業をつくって4社体制とした[64]。
賃貸ビルの外へ出る動き[65]も、この時期に始まった。1978年10月に開業したラフォーレ原宿[66]は、虎ノ門のオフィス街とは客層も立地も異なる商業施設である。1990年4月には本社をアーク森ビルへ移し[67]、赤坂で完成させた街区へ自らの拠点を置いた。組織の面では、営業やビル管理といった共通部門を機能別に分社し、森ビル商事や森ビル管理などを設けた[68]。その結果、森ビルや森ビル開発は事実上の資産管理会社となり、従業員が数人にとどまる会社も生まれた[69]。分社は相続と事業のどちらにも効いたが、グループの姿を外から分かりにくいものにもした[70]。
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| 1959〜1969年焼け跡から始めた貸ビル業と虎ノ門への集中(1959〜1969) | 森事務所の法人化による森ビルの設立と、虎ノ門への集中投資 1959年6月、森泰吉郎氏が横浜市立大学商学部長の職を辞し、それまで4棟のビルを管理していた個人経営の森事務所を森ビル株式会社として法人化した経営判断。4人の子がそれぞれ筆頭株主となる4社と泰吉郎氏の出資によるもので、以後の不動産は森ビルが保有する形をとった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 虎ノ門10森ビル竣工にともない本社を移転 | ★ | |||
| 1970〜1986年点のビルから面の再開発へ、アークヒルズまでの20年(1970〜1986) | 虎ノ門17森ビル竣工にともない本社を移転 | ★ | ||
| 取引銀行へ差し入れた担保の解除と、グループ収益力を裏づけとする借入への転換 1975年ごろ、森ビルが借り入れのために取引銀行へ差し入れていた土地・建物の担保をはずし、資産ごとの担保設定ではなくグループの収益力を裏づけに融資を受ける方式へ切り替えた財務判断。あわせて株式公開を選ばず、非上場のまま長期先行投資型の再開発を続ける方針をとった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 商業施設ラフォーレ原宿の開業 | ★★ | |||
| 虎ノ門37森ビル竣工にともない本社を移転 | ★ | |||
| 単独ビルの建設から市街地再開発事業への転換と、アークヒルズの竣工 1971年に東京都が赤坂・六本木地区の再開発へ動き、森ビルが都市再開発法による民間デベロッパー活用の第1号として事業を担った経営判断。土地をまとめるのに16年、1986年3月のアークヒルズ竣工までに計20年を要し、1棟単位の賃貸ビル業から街区単位の再開発事業へ事業の輪郭を変えた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| アークヒルズへのサントリーホール・テレビ朝日の誘致と、住宅・ホテルを含む用途複合の採用 20年をかけて1街区にまとめた赤坂・六本木の敷地に、オフィスだけを積まず、住宅・ホテル・放送スタジオ・クラシック専用のコンサートホールを同居させた経営判断。森泰吉郎社長は電通を通じて相談を受けたサントリーホールを、文化性が高くアークヒルズにふさわしいと判断して迎え入れた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 1987〜1999年バブル崩壊で消えた1兆円の含みと、創業者の死(1987〜1999) | 本社をアーク森ビルへ移転 | ★ | ||
| 中国大連で森茂大厦が竣工 | ★★ | |||
| 中国上海で上海森茂国際大厦が竣工 | ★ | |||
| 2000〜2026年六本木ヒルズから麻布台ヒルズへ、街区単位の再開発(2000〜2026) | 愛宕グリーンヒルズの竣工 | ★ | ||
| 元麻布ヒルズの竣工 | ★ | |||
| 六本木ヒルズの竣工と、用地の自社取得から地権者参画・床売却への切り替え 敷地面積11万平方メートルの六本木六丁目地区で、森ビルが用地を自ら取得する方針を改め、より多くの地権者が参画する形へ切り替えた経営判断。完成後の床も自社保有ではなく投資家への売却と運営料の収受をめざし、2003年4月に六本木ヒルズが竣工して本社も同地へ移った。 詳細を読む | ★★★ | |||
| オランダヒルズ森タワーの竣工 | ★ | |||
| 同潤会青山アパート跡地に表参道ヒルズが竣工 | ★★ | |||
| 中国上海で上海環球金融中心が竣工 | ★★ | |||
| アークヒルズ仙石山森タワーの竣工 | ★ | |||
| 立体道路制度による環状第二号線上空への超高層タワー建設と、虎ノ門ヒルズ 森タワーの竣工 1946年に都市計画決定されながら半世紀にわたり実現しなかった環状第二号線の新橋・虎ノ門区間で、東京都が施行する第二種市街地再開発事業の特定建築者となり、1989年創設の立体道路制度を使って道路の上下空間に高さ247メートルの超高層タワーを建てた経営判断。2014年5月に虎ノ門ヒルズ 森タワーが竣工した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 虎ノ門ヒルズビジネスタワーの竣工 | ★ | |||
| 虎ノ門ヒルズレジデンシャルタワーの竣工 | ★ | |||
| 虎ノ門・麻布台地区の開発区域拡大と、麻布台ヒルズの開業 1989年の街づくり協議会設立から約300人の権利者と30年にわたって議論を重ね、当初4.2ヘクタールだった開発区域を約2倍の8.1ヘクタールへ広げて一体開発に持ち込んだ経営判断。2017年に国家戦略特区法に基づき都市計画決定され、2023年11月24日に麻布台ヒルズが開業した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 虎ノ門ヒルズ森タワー周辺3街区の連続開発と、日比谷線新駅の再開発との一体整備 2014年に竣工した虎ノ門ヒルズ森タワー1棟の周辺で、森ビルが3街区の開発を続けて4棟の街区にまとめ、あわせて東京メトロ日比谷線の新駅を再開発と一体で整備した経営判断。2020年6月に虎ノ門ヒルズ駅が開業し、2023年10月のステーションタワー開業で4棟が揃った。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 麻布台ヒルズレジデンスAの竣工 | ★ | |||
| 六本木五丁目西地区での7000億円規模の再開発着手と、住友不動産との共同事業化 2024年4月8日に都市計画が決まった六本木五丁目西地区第一種市街地再開発事業。施行区域面積約9.2ヘクタールに高さ327メートルと288メートルの2棟を建てる計画で、辻慎吾社長は2024年3月、事業規模が7000億円規模になる見通しであると述べた。森ビルが単独で抱えず、住友不動産との共同で進める。 詳細を読む | ★★★ | |||
| グラスロックの竣工 | ★ | |||
| 麻布台ヒルズレジデンスBの竣工 | ★ |
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事実根拠:出所(森ビル)