森ビル 虎ノ門への集中投資 森事務所の法人化による森ビルの設立

更新:

時期 1959年6月
論点 事業の法人化と投資地域の絞り込み
何をなぜ決めたか
概要

1959年6月、森泰吉郎氏が横浜市立大学商学部長の職を辞し、それまで4棟のビルを管理していた個人経営の森事務所を森ビル株式会社として法人化した経営判断。4人の子がそれぞれ筆頭株主となる4社と泰吉郎氏の出資によるもので、以後の不動産は森ビルが保有する形をとった。

背景

父が買い進めていた貸家は戦災でほとんどを失っていた。戦後のインフレを見越して銀座や新橋の抵当流れの土地を買い集め、1956年の転売で得た資金と第一信託銀行からの借入で第1森ビルを建てたことが、専業化の前提になった。

内容

個人経営から法人組織へ移すと同時に、投資地域を虎ノ門とその周辺に絞った。親から受け継いだ土地は約6600平方メートルにすぎず、ビル用地に適さない小さな土地は処分してまとまった土地を買収する手順をとった。

含意

同一地域に次々とビルを建てれば新しいビルが古いビルの価値を高め、地価上昇が銀行に対する担保力を増して次の開発の資金調達を容易にする。1961年度に2億8800万円だった売上高は、1971年度に33億円へ届く規模まで伸びた。

いつ何が起きたか 4件
筆者の見解
筆者の見解

計算する習慣を持ち込んだ学者

よその土地への投資がこわく、虎ノ門なら自分の庭のようなもので採算を前もって正確に計算できるからだという。1956年に斡旋業者へ5割増の値を飲ませたときも、東京への人口集中という前提から地価の上昇を導いていた。この事業に持ち込まれたのは不動産屋の相場勘ではなく、前提を置いて先を計算する学者の習慣であったとみられる。

ただし、その慎重さが最初から報われたわけではない。1964年からの不況では第10・第11ビルのテナントが埋まらず、青山に持っていた土地を売り払って資金をつくり、家賃を引き下げてかろうじて切り抜けている。建築会社との打ち合わせでは的外れなことを言ってばかにされ、貸室契約書すら三菱地所三井不動産から借りてきて間に合わせた。計算の習慣が効いたのは、この素人としての時期を生き延びたあとのことである。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

概況
同じ問いに直面した会社

同じ問いに直面した会社

創業家の関与1961年ツガミ三井へ手放した初代の後身を茨城工場として取り込む再統合生産能力の拡張と、分かれた法人系譜の扱い
1961年岡三証券グループ創業者の急逝を受けた32歳での社長承継と本部の東京移転、投資信託部門の分離と証券業免許の取得経営承継と全国展開
1957年ピジョン破綻状態の哺乳器メーカーへの経営参加と支配権の掌握、株式会社ピジョン哺乳器本舗の設立経営権の帰属と法人の再設立
1966年TKC会計事務所共同の計算センター構想によるTKC創業創業と事業目的の設定
1949年ファーストリテイリング駅前の一店舗「小郡商事」を引き継いだ長男・柳井正氏の飛躍の起点地方紳士服店の創業と事業承継
大型設備投資1953年日本テレビホールディングス街頭受像機を置いて視聴者そのものを作り出す事業の立ち上げ開局と収益の立ち上げ
1951年九州電力電気事業再編成令による九州一円の発送配電一貫会社としての設立事業構造と供給体制
1950年日本ゼオン技術を持つ相手と組んで興した新会社による塩化ビニル樹脂の国産化技術導入と国産化
1959年ニチアスし竹鼻工場(現羽島工場)を岐阜の生産拠点として受け入れ生産拠点網の拡張と合併による工場取得
1959年三菱電機半導体量産専門工場・西条・高知への量産設備の拡大半導体の内製化と量産設備の拡大
参考文献
出典・参考
  • 日経ビジネス 1971年5月3日号
  • 日経ビジネス 1995年8月7日・14日号
  • 森ビル 有価証券報告書【沿革】

免責事項およびポリシー