森ビル取引銀行へ差し入れた担保の解除と、グループ収益力を裏づけとする借入への転換

含み資産で借りるか、収益で借りるか——非上場を貫いた会社の資金調達

時期 1995年8月
意思決定者(推定) 森泰吉郎(社長)・森章 森ビル開発社長
論点 資金調達の裏づけと、株式公開の可否
概要
1975年ごろ、森ビルが借り入れのために取引銀行へ差し入れていた土地・建物の担保をはずし、資産ごとの担保設定ではなくグループの収益力を裏づけに融資を受ける方式へ切り替えた財務判断。あわせて株式公開を選ばず、非上場のまま長期先行投資型の再開発を続ける方針をとった。
背景
不動産賃貸業は土地を仕入れてからビルを建てる先行投資型で、事業が拡大するほど資金需要も増す。上場企業と違って資金調達が銀行借り入れに限られるため、金利負担が重く、表面の投資効率は低く見えた。
内容
既存ビルの収支データを手に銀行と交渉を重ね、グループ全体を1つのプロジェクトと考えて融資してほしいと説得した。合意までに2年ほどを要し、1995年時点でも日本開発銀行の融資を除いて借入金は無担保であった。借入金の総額から現預金を差し引いたネットの借り入れを収益の5倍以内に抑える独自の基準も設けた。
含意
1994年12月期の有利子負債総額は営業収益の7倍以上の7700億円に達し、自ら定めた基準を超えた。土地の含み益はピークの1兆5000億円から1000億円台まで目減りしたが、フローを意識した経営はバブル経済に翻弄された不動産業界のなかでは例外的とされた。
筆者の見解

「いいとこ取り」という批判

1975年ごろに森ビルが外したのは、取引銀行へ差し入れていた土地・建物の担保であった。資産を一つひとつ担保に入れる代わりに、グループ全体を1つのプロジェクトと考えて融資してほしいと銀行を説得し、条件をのませるまでに2年ほどかかっている。不動産賃貸業の営業収益は営業原価が小さく粗利に近い。その収益で借入を返す設計に替えたことが、20年後に土地の含み益がピークの1兆5000億円から1000億円台まで落ちたとき、財務を持ちこたえさせた要因の一つになったとみることができる。

ただし、この財務が万全だったわけではない。1994年12月期の有利子負債は営業収益の7倍以上の7700億円に達し、自ら定めた5倍以内という基準をすでに超えていた。非上場を保ちながら機関投資家や商社を共同投資に招く手法には、パートナー企業から「森ビルのいいとこ取りだ」という不満も出ている。広く投資家から資金を集めるなら、上場企業並みに経営の情報を開示し、株主として意見も聞く必要がある。森ビルが避けたのは短期志向の株主というより、その開示と説明の負担であったのかもしれない。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

借り入れでしか調達できない事業

森ビルの開発は、土地を仕入れてからビルを建てる先行投資型であり、事業が拡大するほど資金需要も増した。上場企業と違って資金調達が銀行借り入れに限られるため、金利負担が重く、手持ちの資産がどれだけ利益を上げているかを示す使用総資産経常利益率は0.96%と低く見えた。表面の投資効率だけを見れば、金利に対して鈍感な企業という評も業界にはあった[1][2]

それでも他社と比べれば堅実さが見えた。地価下落が顕著でなかった1991年度の使用総資産経常利益率は森ビルが1.66%であるのに対し、三菱地所が5.0%、三井不動産が1.88%、住友不動産が1.93%と上回っていた。ところが1994年度になると三菱地所の1.53%だけが森ビルを上回り、三井不動産は0.44%、住友不動産は0.37%へ落ちている。金利や配当をすべて払った後に残る剰余金も1210億円と、三井不動産の1828億円、住友不動産の775億円に見劣りしなかった[3][4]

決断

担保を外し、収益力で借りる

1975年ごろ、森ビルは資金調達をストック型からフロー型へ転換した。借り入れのために取引銀行へ差し入れていた土地・建物の担保をはずした。所有する資産の一つひとつに担保を設定するのではなく、グループの収益力を担保に融資を依頼する形に改めた。既存ビルの収支データを手に銀行との交渉を繰り返し、グループ全体を1つのプロジェクトと考えて融資してほしいと説得するのに2年ほどかかったが、条件をのませることに成功している[5][6]

借り入れの量にも独自の基準を置いた。その基準は、借入金の総額から現預金を差し引いたネットの借り入れを収益の5倍以内に抑えることであった。この枠内であれば、短期的な金利変動があってもおおむね15年で元利を返済できると森章社長は説明していた。1995年の時点でも、日本開発銀行の融資を除いて借入金は無担保である。1992年までは1989年度を除き、この尺度はほぼ守られてきた[7][8]

結果

含みが消えた後に残ったもの

1994年12月期のグループ16社の土地は、借地権を含めて簿価が約6180億円、公示価格から類推した評価額が約1兆87億円で、4000億円ほどの含みがある計算になった。ところが地価税算定の基礎となる数字で見ると約7600億円にしかならず、含み益はほとんど消し飛んでいる。土地の含み益はピークの1兆5000億円から1000億円台まで目減りしたと森章社長は打ち明けた。同期の有利子負債総額は営業収益の7倍以上の7700億円に達し、自ら定めた5倍以内という基準を超えている[9][10]

それでも、森ビルは株式公開を選ばなかった。短期間の損益にこだわる株主にとって長期先行投資型の再開発事業は理解しにくいというのが森稔社長の理由である。グループのリゾート会社である森ビル観光は1997年をめどに上場のプランを温めていたが、中核企業の森ビル自身は非上場を貫いた。オフィスの供給過剰が続くなかでもテナント入居率は90%程度に安定し、海外投資やファイナンス事業には基本的に手を出していない[11][12]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1995年8月7日・14日号「森ビル・グループ フロー重視を徹底」
  • 森ビル 有価証券報告書【沿革】

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