トーセイ倒産した父の会社ではなく、別法人の東誠ビルディングをMBOで取得した第二創業

事実上倒産した東誠商事を継がず、生き残った建物管理会社を買い取って再出発した1994年の選択

時期 1994年6月
意思決定者(推定) 山口誠一郎 代表取締役社長
論点 事業承継と、再建に使う法人の選び方
概要
1994年、山口誠一郎氏は事実上倒産した父・山口誠氏の東誠商事を継がず、父が別に保有していた建物管理会社・東誠ビルディングの全株式をMBOで取得して代表取締役社長に就任し、不動産業を再出発させた。現在のトーセイはこの会社を法人として引き継いでいる。
背景
東誠商事は1964年の設立以来、銀行店舗の用地買収を主業務に中小ビルの開発・賃貸を手がけ、1987年には年商100億円を超えていた。バブル崩壊後の信用収縮で1993年に立ち行かなくなり、法的整理を経ない事実上の倒産に至った。
内容
選択肢は「父が東誠商事とは別に所有していた東誠ビルディングを買い取る」か「新しく会社を立ち上げる」かの二つで、山口誠一郎氏は前者を選んだ。社名「東誠」は父の依頼で継承し、興産信用金庫から引き出した6億円を元手に分譲マンション「THEパームス」の販売を1994年10月に開始した。
含意
倒産した本体の債務を負わずに、宅地建物取引業免許と現に稼働する管理事業、そして人員を引き継げる法人を選んだ判断であった。父の東誠商事から移った人員は管理部門の中核に残り、事業と人の連続性は法人の断絶をまたいで保たれた。
筆者の見解

継いだのは会社ではなく、名前と人だった

この判断で興味深いのは、何を継ぐかを法人の単位で選び直した点にある。父の東誠商事は事実上の倒産に至っており、そこには返しきれない借入と、業界全体が忌避されるなかでの評判が残っていた。一方、父が別に持っていた東誠ビルディングには、宅地建物取引業免許と管理の受託先、保有ビルという、明日から売上を立てられる材料が揃っていた。新設ではなく買取を選んだのは情の話ではなく、免許と実績をゼロから積み直す時間を節約する算段であったとみられる。

それでいて、継がなかったはずの父の会社の要素も残っている。社名の「東誠」は父の依頼で引き継ぎ、管理部門には東誠商事からの人員がそのまま移った。法人格では切り、名前と人では繋いだ、というのがこの第二創業の実際の姿である。山口誠一郎氏が2019年に刊行した自著の表題は『倒産から3つの上場へ 見えない扉をひらけ!』であり、そこにある「倒産」はトーセイ自身ではなく、父の東誠商事を指している。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

銀行店舗の用地買収で立った東誠商事

トーセイの事業をさかのぼると、山口誠一郎氏の父・山口誠氏が1964年に設立した東誠商事に行き着く。同社は銀行の店舗用地の買収を主業務とし、売り渋る地主を粘り強く説得して特定の土地を仕上げる仕事を20年以上続けた。取引先は三菱・住友・第一勧業・三井の各行や太陽信金・東京信金にまで広がり、手がけた案件は180件に達した。この用地買収で蓄えた法務・税務の知識と交渉の作法が、のちの中小ビル開発の土台となった[1][2]

1980年代に入ると、銀行の店舗需要が一巡したため、東誠商事はマンション・建売住宅・ビル建売・仲介へと商いを広げた。中心はあくまで中小ビルの開発で、1987年5月時点の累計販売実績は20棟、建築中と企画中を含めて10件以上が動いていた。年商は100億円を超え、経常利益率は9%を確保していた。子会社の東誠ビルディングの保有分を含めた自社ビルは11棟・9千平方メートル内外で、賃貸部門の強化も同時に進めていた[3][4]

息子の合流と、1993年の事実上倒産

山口誠一郎氏は1983年に慶應義塾大学法学部を卒業して三井不動産販売に入り、住宅のマーケティングと商品企画、販売を担当した。家業を継ぐ前提の就職ではなく、東誠商事への移籍も予定されたものではなかった。3年勤めた1986年に社員20名ほどの父の会社へ移ると、住宅で覚えた商品企画の手法を仲介に持ち込み、翌1987年には個人で約10億円の仲介手数料を稼いだ。会社全体の年間手数料収入16億円の半分以上を、一人で挙げた計算になる[5][6]

バブルが崩壊すると、不動産業は投機の主体として一括りに扱われ、業界全体が信用収縮に見舞われた。東誠商事は投機的な取引を避け、中小ビルの開発・賃貸という手堅い商いに徹していたが、逆風から逃れられなかった。同社は売れる資産を売って借入金の返済を優先したため、事業を立て直す資金が残らず、1993年に経営の目処が立たなくなった。法的整理は経ていないものの、事実上の倒産であった。父が一代で築いた不動産事業は、ここで途切れた[7][8]

決断

新しく作るか、生き残った一社を買うか

1994年、山口誠一郎氏は東誠商事を離れて独立を決めた。手元にあった選択肢は二つで、父が東誠商事とは別に所有していた建物管理会社・東誠ビルディングを買い取る道と、自分で新しく会社を立ち上げる道であった。選んだのは前者、すなわち今日でいうMBOにあたる。同年6月に全株式を取得して代表取締役社長に就任し、この日を境に東誠ビルディングは山口誠一郎氏の会社となった[9][10]

買い取った会社は空箱ではなかった。東誠ビルディングは1950年2月に大分市でユーカリ興業として設立され、1964年6月に事業目的へ不動産の売買・仲介・賃貸・管理を加え、1973年3月に宅地建物取引業免許を得たうえで、1983年3月に現商号へ改めた法人である。免許と管理受託、そして自社ビルの保有分を備え、倒産した東誠商事の債務からは切り離されていた。ゼロから設立して免許と信用を積み直すより、動いている一社を引き受けるほうが早かった[11][12]

社名の継承と、6億円の調達

取得にあたって父から一つ依頼があった。「東誠」の社名を引き継いでほしい、という求めであった。「東誠」は東京の「東」と父の名の「誠」を組み合わせた商号で、「東京に誠を尽くす」という願いが込められていた。世間の風当たりと銀行の見方を考えれば、事実上倒産した会社の名を新しい船出に残すことに山口誠一郎氏は躊躇を覚えた。それでも最終的に依頼を受け入れ、東誠ビルディングの名のまま再出発した。父は息子が受け継いだ会社に一切関与しなかった[13][14]

残る課題は資金であった。会社の信用はなく、6億円の借入に個人保証を付けようにも見合う個人資産もない。山口誠一郎氏は興産信用金庫の本店に数カ月にわたって毎週通い、門前払いに近い扱いを受けながら、指摘された点を直した提案書を持ち込み続けた。ある日、席を立ちかけたところで本店長がカウンターに顔を出し、担当者に代わって話を聞いた。2万戸の物件を見て組み立てた商品企画に賭けてほしい。その訴えを受け、本店長はその場で6億円の融資を決めた[15][16]

結果

東誠ビルディングから東誠不動産、そしてトーセイへ

6億円を元手に、山口誠一郎氏は1994年10月に分譲マンション「THEパームス」シリーズの販売を始めた。1995年9月には神田淡路町ビルを設立してビルの保有・管理を子会社へ移し、1996年3月に商号を東誠不動産へ改めたうえで、同年4月に不動産流動化事業を開始した。バブル崩壊後に処分される不動産を取得して手を入れ、投資家へ転売する事業で、この会社の主力はここに定まった。1999年7月には戸建分譲「パームスコート」も加わった[17]

管理部門には東誠商事から移った人員が含まれていた。取締役として管理部門を統括した平野昇氏は父の会社にいた頃からの付き合いで、山口誠一郎氏は自著のなかで、その存在こそ別会社である父の東誠商事と自分のトーセイの歴史がひと連なりである証明だと書いている。法人としては1950年設立のユーカリ興業を引き継ぎながら、事業と人の面では父の会社を継ぐ。この二重の系譜が、以後のトーセイの出自となった[18]

30年後の規模

会社は2004年12月にジャスダック証券取引所へ、2006年11月に東京証券取引所市場第二部へ、2011年9月に同市場第一部へ上場した。2006年10月には商号をトーセイへ統一している。有価証券報告書に業績が載る最初の期である2005年11月期の単体売上高は176億円、経常利益30億円であった。それが2025年11月期には連結売上高946億円、営業利益223億円、当期純利益147億円まで伸び、いずれも過去最高を更新した[19][20]

山口誠一郎氏は1994年の取得から30年以上にわたって代表を務め、ジャスダック・東京証券取引所・シンガポール証券取引所と3度の株式公開を経験した。父の会社が倒産した1993年に不動産業から退場していれば、この会社は残らなかった。倒産した本体を継がず、生き残った一社を買い取るという選び方が、免許と管理の仕事と人員を手元に残し、再建の初速をつくった[21]

出典・参考
  • 倒産から3つの上場へ 見えない扉をひらけ!(山口誠一郎 著, 日経BPコンサルティング, 2019)
  • ビル賃貸業の競争力分析 1987(JSK競争力分析シリーズ no.21・住宅産業研究所, 1987)
  • 不動産業成功の秘訣 : 明日への挑戦者たち(今西定雄 著, 住宅新報社, 1978)
  • 週刊東洋経済 2024年11月30日号「トップに直撃 トーセイ 社長 山口誠一郎 『日本の“利回り”は世界一 不動産価格はまだ上がる』」
  • トーセイ 有価証券報告書【沿革】

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