片倉工業 の歴史

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創業 1873年
創業者 片倉市助
創業地 長野県岡谷市
創業
1873年、長野県諏訪郡川岸村で片倉市助氏が座繰製糸を始め、のちに初代片倉兼太郎氏が片倉組を興した。養蚕の盛んな信州で農家から繭を集め、生糸を米国の婦人靴下メーカーへ輸出する商いを据えている。国内の生糸消費は限られ、収益はドル建ての輸出が支えた。明治から大正にかけて全国へ製糸所を広げ、グンゼと並ぶ大手として『世界のシルク王』と呼ばれる。1920年3月に片倉組を改組して資本金5,000万円の片倉製糸紡績を設立し、1939年9月には官営富岡製糸場を引き継いだ富岡製糸所を合併した。1943年11月に片倉工業へ商号を変え、1949年5月に東京証券取引所へ上場している。
決断
祖業から撤退する前に、その工場跡地の使い道を先に決めた。1950年代にナイロンが婦人靴下の原料を置き換えて生糸の需要が崩れ、1969年12月に無配へ転落した。本業の再建が細るなか1967年6月に大宮の工場跡地でゴルフ練習場を開設し、1972年に香港系の投資家が株式を10%前後まで買い集めて保有土地に対する株価の安さを突くと、1973年3月の取手ショッピングプラザを皮切りに製糸工場跡地を商業施設へ組み替える不動産事業へ移った。指摘された土地を売却して現金化するのではなく、跡地へ自社で商業施設を建てて賃料を受け取る側に立った。蚕糸の製造は1988年3月に残す拠点を製糸1・蚕種1と定め、1994年12月の休止をもって121年で終えている。跡地の使い道が先に決まっていたため、祖業を終えても土地は現金ではなく賃料を生む資産として残った。
現況
利益の6割は、売上の3割に満たない不動産が出している。2025年12月期の連結売上高は406億円、営業利益58億円。4つの事業のうち不動産は売上116億円で全体の28.8%にとどまるが、セグメント利益43億円は4事業合計68億円の64%を占める。最も資産を使う医薬品は600億円の資産に対し利益9億円で、繊維は売上68億円・利益7億円、機械関連は売上78億円・利益7億円である。1939年に引き継いだ富岡製糸場は2005年9月に建物を富岡市へ寄付し翌年に社有地を売却して、年1億円以上の維持費を要した保有を終えた。収益を生まない土地を外したうえで販売費及び一般管理費を28億円削減し、2022年12月期に13億円まで減少した営業利益を58億円へ戻している。
競合
同じ製糸の大手2社は、繊維を残すか土地を残すかで分かれた。グンゼは1946年に絹靴下の技術を生かしてメリヤス肌着へ移り、肌着と機能材で繊維を続けている。片倉工業は1994年に蚕糸の製造を終え、工場跡地の商業施設と医薬品・機械へ移した。2026年3月期のグンゼは売上高1,309億円に対し営業利益48億円で、繊維を継いだアパレル事業は13億円の営業損失を出している。片倉工業は2025年12月期に売上406億円で営業利益58億円を計上した。繊維を続けたグンゼは赤字の事業を機能材で埋め、繊維を4事業で最も小さい位置に落とした片倉工業は売上3分の1で営業利益を上回っている。
片倉工業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1996年12月期2025年12月期

創業ストーリー 「世界のシルク王」の到達点から戦後の無配転落まで (1873年〜)

諏訪の座繰製糸から始まった片倉組と全国展開

1873年、初代片倉兼太郎氏(当時24歳)が長野県諏訪川岸村において『10人繰りの座繰製糸』の事業を始めた。[1]前年に明治政府が群馬県に官営富岡製糸場を新設し[2]、洋式機械で生糸の量産を国策化した直後の時期にあたり、片倉兼太郎氏は民間として生糸の産業化に参入する形を採った。信州地区は桑の葉の生産に適した気候で養蚕が盛んだったため、農家から繭を集荷して製糸を行う事業環境が整っていた。創業から十数年で松本市内に製糸所を新設し、明治期を通じて大宮・郡山・高畠・一宮・姫路・上井・鳥栖・大分など全国各地に製糸所を構えた。大正期には全国に製糸所29カ所を運営し、輸出向け生糸の量産メーカーとして地位を確立した。

  • 片倉工業 有価証券報告書 第117期(2025年12月期)【沿革】
    • [1]1873年(明治6年)に片倉組(片倉工業の事業起源)が創業した
    • [2]1872年に明治政府が群馬県に官営富岡製糸場を新設した

販売は輸出が中心だった。生糸は高級品で国内消費量は限られ、主に米国へ輸出された。米国市場では婦人用靴下の原料として大量に消費され、輸出ドル建て売上が片倉組の収益基盤を支えた。1920年3月、企業規模の拡大に合わせ組織を株式会社化し[3]、片倉製糸紡績株式会社を資本金5,000万円で設立[4]、本社を東京の京橋に置いた[5]。同社は発足時点で製糸業界の有力企業として位置付けられ、当時の日本国内ではグンゼ(郡是製糸)と並ぶ大手2社として認知された。法人化後は中小規模の製糸メーカー買収を続けて生産量を拡大し、1939年9月には1872年創設の旧官営富岡製糸場[6](株式会社富岡製糸所)を合併した。明治政府が国策で立ち上げた製糸産業の象徴を民間企業の片倉が引き受けた格好で、輸出産業としての生糸の最終的な集約者という位置を占めた。

  • 片倉工業 有価証券報告書 第117期(2025年12月期)【沿革】
    • [3]1920年3月に片倉組を株式会社化し片倉製糸紡績株式会社を設立した
    • [4]片倉製糸紡績は資本金5,000万円で設立された
    • [5]設立時の本社は東京の京橋に置かれた
    • [6]1939年9月に1872年創設の旧官営富岡製糸場(株式会社富岡製糸所)を合併した
  • 片倉工業 有価証券報告書 第117期(2025年12月期)【沿革】
    • [1]1873年(明治6年)に片倉組(片倉工業の事業起源)が創業した
    • [2]1872年に明治政府が群馬県に官営富岡製糸場を新設した
    • [3]1920年3月に片倉組を株式会社化し片倉製糸紡績株式会社を設立した
    • [4]片倉製糸紡績は資本金5,000万円で設立された
    • [5]設立時の本社は東京の京橋に置かれた
    • [6]1939年9月に1872年創設の旧官営富岡製糸場(株式会社富岡製糸所)を合併した

「片倉王国」の到達点と1954年の連続赤字、1969年の無配転落

1932年時点で片倉製糸紡績は従業員数3.8万名、製糸所62カ所を擁し、創業家の片倉家は『製糸王』『世界のシルク王』と形容された。同社は当時の日本における大企業の一角で、『片倉王国』と呼ばれる広域経営圏を保有した。1943年10月には東亜栄養化学工業株式会社(現トーアエイヨー[7]、連結子会社)を設立し、戦時下の食糧・栄養確保政策に対応する事業として設立し、後の医薬品事業の母体とした。同年11月には商号を『片倉工業株式会社』(現社名)に変更し[8]、製糸専業の社名から事業多角化を含意する商号へと改めた。1946年11月には大宮製作所を新設[9]、1949年5月に東京証券取引所に株式を上場し[10]、戦後復興期の繊維需要を捉える資本基盤を整えた。

  • 片倉工業 有価証券報告書 第117期(2025年12月期)【沿革】
    • [7]1943年10月に東亜栄養化学工業株式会社(現トーアエイヨー)を設立した
    • [8]1943年11月に商号を「片倉工業株式会社」(現社名)に変更した
    • [9]1946年11月に大宮製作所を新設した
    • [10]1949年5月に東京証券取引所に株式を上場した

戦後復興期の生糸需要は1950年代前半に転機を迎えた。1950年代に合成繊維のナイロンが普及し、高価な天然繊維である生糸の需要が急減した。婦人用靴下というそれまでの主用途で安価なナイロンへの代替が進み、東レがナイロンの量産を本格化させて急成長を遂げる傍らで、片倉工業は祖業の需要を直撃された。1954年度・1955年度の2期連続で赤字(無配)に転落[11]し、戦前まで『製糸王』と称された名門企業の業績悪化として業界で注目された。1954年5月には片倉ハドソン靴下株式会社を設立し婦人靴下事業を開始[12]、1960年7月にはメリヤス肌着事業に進出[13]するなど川下の衣料品へ業容を広げたが、いずれも合成繊維時代の量販競争のなかで本業の不振を補えるほどの規模には到達しなかった。

  • 証券調査(7)(1971年4月)
    • [11]1954年度に赤字(無配)へ転落した
  • 片倉工業 有価証券報告書 第117期(2025年12月期)【沿革】
    • [12]1954年5月に片倉ハドソン靴下株式会社を設立し婦人靴下事業を開始した
    • [13]1960年7月にメリヤス肌着事業へ進出した

国内工場の合理化は1958年から始まり、全国に点在する不採算製糸工場の閉鎖・集約を本格化させた。1961年12月に日本ビニロン株式会社(現ニチビ[14]、連結子会社)を設立して合成繊維ビニロンへの参入を試みたが、東レ・帝人など合繊大手の量産投資に追随できず事業化に失敗した。生糸部門の合理化遅れと合繊新規事業の不振が重なり、1969年12月に無配転落した。1873年の創業から96年、1920年の法人化から49年で、祖業の蚕糸業が競争力を失った時点だった。

  • 片倉工業 有価証券報告書 第117期(2025年12月期)【沿革】
    • [14]1961年12月に日本ビニロン株式会社(現ニチビ)を設立した
  • 片倉工業 有価証券報告書 第117期(2025年12月期)【沿革】
    • [7]1943年10月に東亜栄養化学工業株式会社(現トーアエイヨー)を設立した
    • [8]1943年11月に商号を「片倉工業株式会社」(現社名)に変更した
    • [9]1946年11月に大宮製作所を新設した
    • [10]1949年5月に東京証券取引所に株式を上場した
    • [12]1954年5月に片倉ハドソン靴下株式会社を設立し婦人靴下事業を開始した
    • [13]1960年7月にメリヤス肌着事業へ進出した
    • [14]1961年12月に日本ビニロン株式会社(現ニチビ)を設立した
  • 証券調査(7)(1971年4月)
    • [11]1954年度に赤字(無配)へ転落した

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片倉工業の沿革1920〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1873〜1969年「世界のシルク王」の到達点から戦後の無配転落まで片倉組を改組し片倉製糸紡績を設立
ジョイント商会を設立
1872年創設の旧官営富岡製糸場(富岡製糸所)を合併★★
東亜栄養化学工業を設立
社名を片倉工業に変更
大宮製作所を新設、後の加須工場に移転(2021年事業撤退)
東京証券取引所に株式を上場
片倉ハドソン靴下を設立、婦人靴下事業開始★★
片倉機器工業を設立
メリヤス肌着事業開始
日本ビニロンを設立
片倉富士紡ローソンを設立
大宮ゴルフセンターを新設、旧製糸工場跡地等の開発事業に参入★★
1969〜2008年香港系投資家の買い占めを契機にした不動産事業化と4本柱の形成製糸工場跡地を自社で商業施設へ組み替える不動産事業への転換

1972年に香港系の投資家が片倉工業株を買い占め、全国の工場用地に対して株価が安すぎると指摘したことを受け、翌1973年3月の取手ショッピングプラザ開業を皮切りに、製糸工場跡地を自社で商業施設へ組み替える不動産事業へ移った経営判断。

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★★★
取手ショッピングプラザを開業
松本カタクラモールを新設
大宮カタクラパークを新設
片倉キャロンを設立
蚕糸事業を1製糸工場・1蚕種製造所へ集約し、製造業務から完全に撤退

1988年3月、片倉工業は蚕糸事業を熊谷工場(製糸)と沼津蚕種製造所の2拠点へ集約すると決め、1992年に熊谷工場の生糸製造を止め、1994年12月に両拠点を休止して蚕糸関係の製造業務から完全に撤退した経営判断。

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★★★
松江片倉フィラチャーを新設
いわき片倉フィラチャーを新設
熊本ショッピングセンターを新設
宮之城片倉フィラチャーを新設
岩本謙三熊谷片倉フィラチャーを新設
岩本謙三カタクラ新都心モールを新設
岩本謙三富岡工場の建物を富岡市へ寄付し、翌年に社有地を売却して保有を終える

2005年9月、片倉工業は旧官営富岡製糸場を引き継いだ富岡工場の建物等を群馬県富岡市へ寄付し、2006年1月に同工場の社有地を同市へ売却して、1939年から66年に及ぶ保有を終えた経営判断。

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★★★
岩本謙三沼津カタクラパークを新設
竹内彰雄オグランジャパンを設立、オグランの繊維事業を譲受
2008〜2025年コクーンシティ拡張と祖業切り離しの完遂竹内彰雄東京スクエアガーデンを竣工
佐野公哉コクーン2を新設
佐野公哉大宮カタクラパークとカタクラ新都心モールを統合
佐野公哉コクーンシティを新設
佐野公哉コクーン3を新設
上甲亮祐東近紙工を子会社化
上甲亮祐FPGテクノロジーの全株式を取得★★
上甲亮祐三全を子会社化
上甲亮祐日機マギルス事業部を設置し高所作業車両等の販売・メンテナンス事業に参入★★
出典・参考
  • 片倉工業 有価証券報告書 第117期(2025年12月期)【沿革】
  • 証券調査(7)(1971年4月)

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