1964年に東京都文京区で設立された大京観光が起源。
1968年にマンションの分譲を始め、1978年に事業主別のマンション発売戸数で全国首位に立った。分譲と管理の大手だったが、2019年にオリックスの公開買付けを受けて上場を廃止した。
横山修二氏は1960年7月、個人で営んでいた大京商事を株式会社に改め、不動産の仲介を主な業務として発足させた。横山修二氏はそれ以前の1958年11月に社員40人足らずの坂内商事へ入り、建売住宅のセールスを担当していた。独立の際、坂内商事で課長だった横山修二氏は7〜8人の部下を連れ、社長の了解は得ていたと説明している。仲介だけでは採算がとれず、大京商事は渋谷や千葉で小規模な建売住宅の販売にも参入した。オリンピック前の好況と別荘地ブームが重なるなか、那須白河地区での別荘地の開発分譲に着手。物件を自ら探して販売する営業の型は、仲介から出発したこの時期に根を持つとみられる。
大京グループは那須白河の事業の広がりに合わせ、1964年に販売を担う会社を2つ設けた。1月に設立した大京開発は、大京商事が開発した別荘地の販売を専ら受け持った。同じ1964年の12月には事業量の急増を受けて販売部門を拡充し、ホテル経営も目的に加えた大京観光を資本金500万円で設立した。大京観光が設立時に掲げた業種は、宅地建物取引業・建設業・ホテル業の3つである。那須で開発した別荘地は後楽園の700倍の広さに及び、大京観光は日光や新甲子温泉にもホテルを建てた。販売とホテルを1社に持たせた設計は、のちに観光事業を残す下地になったと推察される。
1965年9月、別荘地の造成と建設を担う大京地所を設立し、大京グループは商事・開発・観光・地所の4社で機能を分けた。別荘地の分譲はのちの大京の資金の土台となった一方、横山修二氏に「那須の切り売り屋」という呼び名を残した。ただ同然の山林や原野を高値で販売したとして、横山修二氏は原野商法の代表格と批判された。横山修二氏は1990年に、別荘地は2年で切り上げたとして『ズバリ、と方向を変えたんです』と振り返った。実際には大京観光の別荘地分譲は1970年代も続き、1974年9月期の売上高の42.3%を別荘地が占めた。方向転換の時期は、本人の回想より数年遅かったのだろう。
1968年1月、大京観光は大京商事と大京開発から営業譲渡を受け、グループの事業を自社に集めた。大京グループは1960年代後半、余暇需要を見込んだレジャー用地の分譲から、大都市の住宅需要に応える事業へ業容を広げると決めた。新たに手がける分野は、住宅地の造成と建売住宅、中高層住宅の建設販売である。全国規模で事業を展開するには仕入れ・建設・販売を1つの組織で通す必要があり、大京観光を母体として4社を1つにまとめた。横山修二氏は別荘地の販売で得た資金を元手に、土地を取得してマンションを建てる事業へ移った。別荘地で育った営業の人員を、都市の住宅へ振り向ける再編でもあったと思われる。
1968年2月、シリーズ最初の物件となる「ライオンズマンション赤坂」の売り出し。横山修二氏は用地の取得費を抑え、その分を低い販売価格に反映させる方針をとった。同じ時期の秀和が高級物件を主力としたのに対し、大京観光は中堅サラリーマンを顧客に据えた。横山修二氏はこの方針を、『中堅サラリーマンでも買えるようなマンションを作ってきた』という言葉で表している。1970年時点で横山修二氏は、都市への人口集中と地価の高騰に応える都市開発の一環として、この名を冠したマンションを各地に建設した。建築学会賞を受けるような代表作はないという業界の評価も、戸数を優先した路線の裏返しだった。
1969年4月、不動産の管理を担う大京管理の設立。1982年時点で大京観光はマンションの管理を別会社の大京管理に任せ、24時間体制で運営していた。戸数の少ない小規模な物件には巡回管理を採り、管理人の退勤する午後6時以降は大京管理の本社が故障の通報を受けた。横山修二氏は管理体制を、オートロックなどの安全対策や販売組織と並ぶ経営の特徴に数えた。1977年に供給したマンションは1棟あたり30.4戸と小規模で、都市型の物件が多かった。小さな物件を数多く抱えるほど、分譲後の管理をグループ内で受け持つ利点は大きくなったと考えられる。
大京観光が1966年、現地資本と提携し通産省の認可を受けて那覇市に設けた合弁会社が、沖縄大京観光である。1969年5月、沖縄大京観光は恩納村で「万座ビーチ大京ランド」の第1期工事を終えて開業した。施設にはヨットハーバーやプール、熱帯植物園を備え、モーテルタイプ20戸とホテルタイプ10戸を建てた。続いて恩納村に敷地24万坪・18ホールのゴルフ場、沖縄大京カントリーを完成させた。横山修二氏は進出の理由に、沖縄の観光資源の豊かさと観光地としての将来の潜在力を挙げた。マンションへ軸足を移す途上でも、大京観光は観光事業を収益源の一つとして育てようとしたとうかがえる。
1971年4月、大京観光は大京地所を吸収合併し、4社の組織統合を終えた。1968年の営業譲渡と合わせ、仕入れ・建設・販売を一貫して担う体制が大京観光1社にそろった。統合後もレジャー用地の分譲は続き、1971年5月に南紀白浜オレンジランド、1974年12月に中伊豆ニューライフヴィレッジを分譲した。大京観光が事業の主軸を中高層住宅の分譲へ移したのは、石油危機後の総需要抑制策と土地対策を受けた1975年以後である。別荘地の売上高は1974年9月期の147億99百万円から、1975年9月期には23億81百万円へ減少した。統合を先に終えていたことで、用地と人員をマンションへ振り替える判断が速くなったのだと推量できる。
1977年の1年間に大京観光が供給したマンションは2,951戸で、2位の長谷工不動産の2,507戸を上回り業界首位に立った。うちライオンズマンション・シリーズは2,240戸で、前年の1,217戸に比べ84.1%の増加にあたる。販売を担ったのは300名のセールスマンで、物件の平均70%は各自が管理する見込み客との契約で埋まった。1971年頃までの飛び込み訪問から、団体との提携と電話による顧客管理へ販売方法を改めた。横山修二氏は1982年に、営業社員の給与を15〜16年前に歩合給から固定給へ改めたことが販売力に大きく効いたと説明した。1978年時点の給与は一般社員と同じ体系に、実績に応じた3段階の営業手当を加える仕組みだった。
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事実根拠:出所(大京)