1990年に広島市南区で設立されたマンション販売代理会社が起源。
2002年に松竹浪花座跡地で日本初の開発型流動化スキームによる資金調達を行い、不動産投資ファンドの運用にも進んだ。広島発の不動産会社として東証一部に上場したが、2008年に民事再生を経て清算へ向かった。
房園博行氏は1990年5月、マンションの企画と販売代理を目的に、資本金5,000千円でアーバンコーポレイションを広島市南区皆実町に設立した。房園博行氏は大手マンション業者の大京で営業の実績を上げた人物で、バブル崩壊後の不動産不況が始まる時期に会社を辞めて独立した。周囲からは、なぜ不況の入り口で創業するのかと疑問視する声が多く出た。最初の事業には、デベロッパーの物件を売り切って販売価格の4%を手数料として受け取る販売代理を選んだ。契約は成功報酬型とし、売れ残っても罰則を負わない条件にした。同年12月には企画・販売代理の第1号物件を受託し、販売を始めた。土地を仕入れる資金の無い独立者にとって、在庫も原価も抱えない代理業は、営業の力だけで始められる数少ない事業だったとみられる。
アーバンコーポレイションは1992年1月、共同分譲事業の第1号となる「アーバンビュー八丁堀」を販売した。代理業に専念した最初の2年間を経て、創業3年目に企画開発へ事業を広げた。共同分譲では、土地を自社で取得しなかった。遊休地の処分に悩む企業には分譲マンションの事業主になることを勧め、企画と販売、アフターサービスを引き受けた。個人の地主には等価交換を提案した。原価の約3割にあたる土地を地主が出し、建築を受け持つアーバンコーポレイションが住戸の約7割を受け取って分譲した。土地代の借入が無いため、分譲の利益を得ながら金利負担と在庫のリスクを抑えた。1996年時点でも、法人との共同事業と地主との等価交換の2つの方法で分譲を続けた。
アーバンコーポレイションは1991年8月、ビルとマンションの総合管理を担う管理事業部を設けた。1993年3月には管理事業部を分離し、全額出資の子会社アーバンコミュニティを設立した。分譲経験の無い法人と共同事業を進める際、アーバンコーポレイションは企画と販売に加えてアフターサービスも担った。1996年時点の取扱量は年間約1,000戸、300億円だった。房園博行氏はその流通量を背景に、購入者向けの家電やカーテンの販売を含む住宅のインフラ事業を広げる考えを示した。管理事業は、2001年3月期の連結計画で売上高2,870百万円、構成比12.0%を見込む規模になった。販売した戸数が積み上がるほど管理の受託も増えるため、管理会社は販売後の顧客との接点を保つ収益源として位置づけられたと推察される。
アーバンコーポレイションは1996年9月、日本証券業協会に株式を店頭登録した。創業から6年での株式公開だった。1996年3月期の受取手数料は1,050百万円で、売上総利益の53.1%を占めた。手数料率は販売価格の4%程度で、特定メーカーの系列に属さず広島地区の多様な物件を扱った。手数料には原価がかからず、売上高がそのまま粗利益になった。売上高の65%弱を占める分譲不動産は、粗利益では552百万円、構成比28%弱にとどまった。公開後最初の決算となる1997年3月期は、売上高6,548百万円、経常利益516百万円だった。土地の在庫を持たない手数料事業が利益の過半を生む構造は、不動産不況のなかでも投資家にリスクの小さい事業として受け止められたと思われる。
1997年3月時点で、アーバンコーポレイションは広島都市圏の新築マンション市場で19.6%のシェアを持ち、2位以下はいずれも1桁台だった。1995年10月に発売した37戸の「アーバンビュー平和公園」は、発売当日に1戸を除いて契約が決まった。房園博行氏は、業界の商品企画が建築コストを抑える規格化に傾き、売り手の都合を押しつけがちだとみていた。そこでモデルルームを訪れながら購入しなかった客の情報を蓄え、価格や間取りを含む見送った理由を分析した。房園博行氏は『どうすれば買うのかを分析すれば、売れる企画はできる』として、その逆の条件を企画に据えた。社員104人の7割を占める営業部隊は、建設前に顧客データを収集する仕事を主に担った。1996年には購入者の4件に1件が独身女性となり、間取りへの要望も変わっていた。
アーバンコーポレイションは1997年3月、経営の合理化を目的に子会社ハトラスの全株式を売却した。ハトラスの起点は、創業4か月後の1990年9月に外食事業部として開いた手作りパンの店「ブレッドサロンハトラス」だった。外食事業部は1995年2月に全額出資の子会社として分離された。売却は店頭登録から半年後で、マンションと関係の無い事業を切り離した。房園博行氏は店頭登録の前後の説明会で、広島の近県5県への拠点展開と東京・大阪での情報収集を次の戦略に掲げた。リスクを取らない事業構造を重んじる房園博行氏の考えも、本業以外の事業の継続とは合わなかった。公開企業として経営資源をマンションの企画・分譲と管理に集中し、県外への展開に備えたのだろう。
アーバンコーポレイションは1997年4月、関西地区の営業展開を目的に大阪市中央区へ大阪支社を設けた。1998年4月には東京都千代田区に東京支社を置き、首都圏の営業を始めた。同じ月には、首都圏で売った物件の管理を受け持たせるため、ビューティービルサービスの全株式を取得した。同年12月には、アーバンコミュニティがホームサービスの全株式を取得した。房園博行氏は1996年の時点で、東京と大阪に事務所を置いて顧客情報を収集する構想を示した。地域別の分譲・手数料売上高は、2000年3月期に首都圏76%、大阪9%、広島市15%となった。会社は、同じ販売戸数でも東京は広島より単価が高く、その差がそのまま利益の差になると説明した。広島で19.6%のシェアを得た後の成長余地は、単価の高い大都市にあると判断したと考えられる。
アーバンコーポレイションは2000年12月、東京証券取引所市場第二部に上場した。上場前の2000年3月期は、中古物件4棟をリニューアルして分譲する不動産流動化の売上が加わった。連結売上高は173億1百万円、連結経常利益は13億29百万円となった。自社が先に取得した土地を共同事業にする際の提携料や、販売代理の前段で受け取る企画料も増えた。2000年5月の決算短信では、新しい事業手法で分譲の収益を確保する中期経営計画を掲げ、連結ROE10〜15%を意識した経営を打ち出した。2001年3月期の計画は売上高24,000百万円で、分譲不動産事業が71.3%を占めた。土地を先に取得し流動化の物件を抱える事業へ移るには資金と信用が要り、取引所への上場はその手当てだったとうかがえる。
アーバンコーポレイションは2001年2月、不動産投資ファンドの運用を目的にピーアイテクノロジーの株式を譲り受けた。2001年6月時点の出資比率は67.7%で、REITの仕組みのなかでは資産運用を受託する投資顧問会社に位置づけられた。同じ説明会では、償還期限2005年9月30日、当初転換価額2,130円の円建転換社債で40億円の調達を終えたと報告した。資金使途は不動産流動化ビジネスの事業資金とされた。2000年の説明資料は、分譲マンションの粗利率が低下するなか、流動化の保有物件を増やして全体の粗利率を高める方針を示した。物件を一般分譲で売り切るだけでなく投資家向けのファンドに移して回す素地は、2001年までに整ったと読める。
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事実根拠:出所(アーバンコーポレイション)