片倉工業富岡工場の建物を富岡市へ寄付し、翌年に社有地を売却して保有を終える
売らず貸さず壊さずと決めた資産を、どう手放すか——18年続いた維持費の負担をどこで切るか
- 概要
- 2005年9月、片倉工業は旧官営富岡製糸場を引き継いだ富岡工場の建物等を群馬県富岡市へ寄付し、2006年1月に同工場の社有地を同市へ売却して、1939年から66年に及ぶ保有を終えた経営判断。
- 背景
- 1987年3月の操業停止後、同社は「売らない」「貸さない」「壊さない」の3原則を掲げ、管理事務所を置いて18年間保存した。修繕などに年1億円以上を投じており、収益を生まない敷地の維持費が固定的な負担として残っていた。
- 内容
- 保存の対象である建造物は無償で市へ寄付し、財産としての土地は対価を得て売却する二段構えを採った。3原則のもとで売却も賃貸もできない建物について、保存を継ぐ主体へ引き渡すことで負担を解いた。
- 含意
- 収益を生まない不動産を手放す一方、コクーンシティや東京スクエアガーデンなど収益を生む不動産の保有は強めた。譲渡から8年後の2014年、富岡製糸場は世界文化遺産に登録された。
自ら狭めた出口を、どう開けるか
この判断の難しさは、譲渡そのものよりも、その前の18年にあったとみることができる。「売らない、貸さない、壊さない」と決めた時点で、片倉工業は資産としての処分の手段を自ら封じ、年1億円以上の支出を期限なしで抱える立場を選んでいる。上場企業が収益を生まない資産にこれだけの期間と費用を投じ続けることは、株主に対して説明の要る選択であった。それでも方針を保った末に、無償で譲るという最後の一手で負担を解いたところに、この決断の性格がうかがえる。
寄付という形が選ばれたのは、保存の継承と費用の解消を同時に満たす道が他に見当たらなかったからでもある。建物を無償、土地を有償と分けた処理は、守るべきものと売れるものを冷静に切り分けた実務でもあった。企業が抱える非事業用の資産には、帳簿の数字だけでは決めきれない性格を持つものがある——手放し方の設計しだいで、負担の解消と社会的な継承は両立しうる。世界遺産という結末は後から与えられたものであり、2005年の時点でそれを織り込めたわけではないという点も、あわせて見ておきたい。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
操業する明治の建物
片倉工業が1939年9月に合併した富岡工場は、長く現役の製糸工場であった。1981年の時点で建物は築100年を超え、フランス人技師ブリューナが設計した木骨煉瓦造の躯体はほぼ当時の原型のまま使われていた。現存する工場建築物としては国内最古とされ、地元の住民や小中学生、建築関係者の見学が絶えず、年間3,000人が訪れていた。重要文化財の指定は受けていなかったが、操業中であることがその理由で、申請すれば適用されるのは確実とみられていた[1][2]。
操業しているあいだ、保存の費用は生産の費用と切り離せない位置にあった。取締役富岡工場長の福元昶氏は、建物について「我が国の貴重な財産」と述べつつ、日常の使い勝手に不便な点があることも認めている。同時に生産設備には資金を投じて近代化を続け、全自動の繰糸機を備えた国内で最も新しい設備の製糸工場であるとも語った。古い建物を保存しながら生産性を上げるという両立は、工場が回っている限りにおいて成り立つ組み合わせであった[3][4]。
操業が止まり、費用だけが残る
1987年3月、片倉工業は富岡工場を休止した。海外から入る安価な生糸の影響などにより、明治5年の開業から115年続いた同工場の生糸生産が止まる。1994年12月には最後の製糸工場である熊谷工場も休止し、蚕糸業から完全に退いた。生産が消えた敷地には、明治の木骨煉瓦造の建物群だけが残った。収益を生まない資産が、そのままの形で貸借対照表に載り続ける状態となる[5][6]。
片倉工業は、この資産を市場に出さないと決めていた。操業停止から2005年の寄贈までの18年間、同社は「売らない」「貸さない」「壊さない」の3原則を掲げ、管理事務所を置いて落雷や火災に細心の注意を払いながら建物を保った。修繕などにかかった費用は年1億円以上とされる。2005年12月期の連結当期純利益24億円に対し、この負担は事業の浮沈にかかわらず毎年生じる固定的な支出であった[7][8]。
決断
売却でも解体でもなく、寄付
2005年9月、片倉工業は富岡工場の建物等を群馬県富岡市へ寄付した。自ら定めた3原則は、この資産の出口を著しく狭めていた。売らないと決めた以上は買い手を探せず、貸さないと決めた以上は賃料も立たず、壊さないと決めた以上は更地にして転用することもできない。維持費の負担を断つには、保存を続ける意思と能力を持つ主体へ引き渡すほかに道が乏しく、地元自治体への無償譲渡がその答えとなった[9][10]。
保有した期間は1939年から2005年までの66年に及ぶ。合併によって引き受けた官営工場を、生産設備としての役目が終わったのちも18年抱え、最後は対価を取らずに手放した。のちに竹内彰雄社長は、日本の近代化を後世に伝える史跡を残せたことを誇りとして語っている。企業として費用の側から見れば負担の解消にあたり、譲り受ける市の側から見れば保存の継承にあたる——寄付という形は、その両方を同時に満たす選択であった[11][12]。
建物は無償、土地は有償
譲渡は二段構えで行われた。建物等の寄付から4カ月後の2006年1月、片倉工業は富岡工場の社有地を富岡市へ売却している。保存の対象である建造物は無償で譲り、財産としての土地は対価を得るという分け方であった。文化財として守るべき対象と、通常の不動産として評価できる対象を切り分けたことで、企業としての資産処分と、地域における保存の継承が同じ取引のなかで両立した[13][14]。
譲渡が済んだ2005年12月期の連結業績は、売上高502億円、営業利益41億円、経常利益42億円、当期純利益24億円であった。前期の2004年12月期は売上高490億円・当期純利益10億円で、収益は回復の途中にある。年1億円以上の維持費は、この規模の会社にとって単独では致命的ではないものの、いつまで続くか見通しの立たない支出であった。期限のない負担を、期限のある一回の手続きへ置き換えたことになる[15]。
結果
手放した先で起きたこと
譲渡から8年後の2014年6月、富岡製糸場と絹産業遺産群が世界文化遺産に登録された。登録にあたって文化庁は、関係者の努力なしに登録はあり得なかったとして保存の経緯を評価している。操業を止めた工場をそのまま残すという判断がなければ、明治5年の建物群が登録の対象として残ることはなかった。片倉工業が手放したのは維持の負担であり、保存された建物そのものは失われずに引き継がれた[16][17]。
所有者でなくなったのちも、片倉工業と製糸場の関係は途切れなかった。同社は株主優待の枠組みを使って株主から富岡製糸場への寄付を募り、2018年時点で寄付は4回目、累計118万7,000円に達している。毎年およそ100人前後、約30万円が集まる規模で、所有と維持の責任を負う立場から、支援を仲立ちする立場へ関わり方が変わった[18]。
手放した不動産と、抱えた不動産
富岡の譲渡と前後して、片倉工業は別の不動産を抱え込んでいる。2004年9月にさいたま新都心でカタクラ新都心モールを新設し、2013年3月には京橋の旧本社地に東京スクエアガーデンを竣工させた。2015年4月には大宮カタクラパークと新都心モールを統合してコクーンシティとし、同年7月にコクーン3を加えている。賃料を生む不動産の保有は強め、生まない不動産は手放すという線引きが、この時期に明確になった[19]。
その結果は事業構成に表れている。2025年12月期の報告セグメントでは、不動産の売上高117億円に対して営業利益は44億円で、医薬品117億円・10億円、機械関連78億円・8億円、繊維68億円・7億円を大きく引き離す。4事業の営業利益の合計69億円のうち6割超を不動産が占めた。富岡を手放した判断は、収益を生む不動産へ資源を寄せる整理の一部として置くことができる[20]。
- 日経ビジネス 1981年3月9日号「わが社の富岡工場(片倉工業)」(日経マグロウヒル社)
- 片倉工業「片倉工業と富岡製糸場が歩んだ歴史」(公式サイト)
- 片倉工業 沿革(公式サイト)
- 片倉工業 有価証券報告書 第117期(2025年12月期)【沿革】【セグメント情報】
- 片倉工業 有価証券報告書 第97期(2005年12月期)【主要な経営指標等の推移】
- 時事ドットコム(2014年6月21日)「富岡製糸場の見取り図」
- 日本経済新聞(2014年6月21日)「片倉工業「売らない、貸さない、壊さない」で保存 富岡製糸場」
- J-CAST 会社ウォッチ(2018年5月15日)「富岡製糸場「最後のオーナー」片倉工業 株主優待で「支援」続ける」