片倉工業製糸工場跡地を自社で商業施設へ組み替える不動産事業への転換

外部から「資産株」と名指しされた土地を、売って現金に換えるか、自ら開発して収益に変えるか

時期 1973年3月
意思決定者(推定) 片倉工業 取締役会
論点 祖業喪失後の資産活用
概要
1972年に香港系の投資家が片倉工業株を買い占め、全国の工場用地に対して株価が安すぎると指摘したことを受け、翌1973年3月の取手ショッピングプラザ開業を皮切りに、製糸工場跡地を自社で商業施設へ組み替える不動産事業へ移った経営判断。
背景
生糸の主用途である婦人靴下がナイロンに置き換わり、1954年の無配転落以降は工場の集約と多角化が続いた。売上高300億円前後に対して単体の当期純利益は数億円にとどまり、1969年12月期は損失を計上していた。
内容
指摘された土地を売却して現金化するのではなく、跡地に自社で商業施設を建てて賃料を受け取る側へ回った。1973年の取手・松本を皮切りに、1981年に松本カタクラモール、1983年に大宮カタクラパーク(現コクーンシティ)と規模を拡げた。
含意
祖業の設備は失われても、繭の集荷に適した土地として選ばれた立地は小売の商圏として使えるという読み替えであった。不動産は2025年12月期に4事業の営業利益の6割超を占める柱となった一方、資産価値と株価の差を突かれる関係はその後も続いた。
筆者の見解

事業を失った会社に残るものは何か

この判断の核心は、多角化の成否よりも、資産の使い方を誰が先に決めるかという点にあったとみることができる。1972年の買い占めは、片倉工業が自社で気づいていなかった価値を突きつけたのではなく、気づいていても動かせなかった価値を外から動かした出来事に近い。跡地を売れば一度の利益で終わり、開発すれば毎期の賃料が立つ——この選択は、祖業を失った会社が「何の会社になるのか」を土地の使い方で答えたものといえる。工場から商業施設へという転用は、1967年のゴルフ練習場から1983年の大宮カタクラパークまで16年をかけており、買い占めが一夜で方向を変えたわけではない点にも留意が要る。

同時に、この決断は同じ問いを長く残した。賃料が収益の中心となった今日でも、保有する不動産の価値と株式の評価は離れたままで、外部の投資家はその差を繰り返し指摘してきた。事業で稼ぐ会社と、資産を持つ会社は、株式市場では別の物差しで測られる。祖業を失った企業が土地に活路を求めるとき、その土地はいずれ「誰のものとして活かすのか」という問いを連れてくる。片倉工業の1973年の選択は、その問いを半世紀にわたり抱え続ける道でもあったとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

祖業の生糸が失った市場

片倉工業の祖業である生糸は、1950年代に入って市場を失った。米国向けの婦人靴下という最大の用途がナイロンへ置き換わり、輸出産業の花形とされた生糸の需要は細った。1954年に無配へ転落した同社は、以後、全国に散らばる製糸工場の集約と合理化を進める一方で、生糸部門の不安定さを補う新規事業へ次々と手を伸ばした。1954年5月の婦人靴下、1960年7月のメリヤス肌着、1961年12月の合成繊維ビニロンと、繊維の川下や隣接分野への参入が重ねられた[1][2]

多角化は収益の立て直しには届かなかった。単体の当期純利益は1968年12月期にほぼ消え、1969年12月期は2億5,000万円の損失となった。売上高は1968年12月期の272億円から1970年12月期の316億円へ伸びており、規模ではなく利幅が痩せていた。もっとも同社は、この時期すでに工場用地の別用途への転用へ手を付けている。1967年6月、大宮工場の敷地内にゴルフ練習場を開き、旧製糸工場跡地の開発事業を始めていた[3][4]

全国に残った工場用地と、外部からの指摘

工場を畳んでも土地は残った。明治期から全国各地に構えた製糸所の敷地は、戦後の市街化によって鉄道駅に近い市街地の土地へ変わっていた。1972年、香港系の投資家が片倉工業の株式を10%前後まで買い占めた。工場用地を中心に33万坪とされた保有資産に対して株価が安すぎるという判断によるもので、外部から「資産株」として名指しされた。古い取得価額のまま帳簿に眠っていた土地の値打ちを、保有する当事者ではなく外部の投資家が先に読み取った[5]

指摘の土台には、資産の厚みと利益の薄さの落差があった。単体の売上高は1971年12月期に314億円、1972年12月期に289億円で、当期純利益はそれぞれ7,000万円、2億円にとどまる。300億円前後を売って数億円しか残らない損益計算書の一方で、貸借対照表には全国の土地が古い簿価のまま並んでいた。株式を買い集めて経営に資産の活用を迫れば、その差額が株価として現れる——そう見込む投資家にとって、当時の片倉工業は格好の対象であった[6]

決断

売らずに、自ら建てて貸す

片倉工業は、名指しされた土地を売って現金に換える道を採らなかった。1973年3月、茨城県の取手製作所をショッピングセンターとして再開発し、取手ショッピングプラザを開いた。工場を閉じた跡地に自社で商業施設を建て、賃料を受け取る側へ回る方法である。土地の値上がり益を一度の売却で確定させるのではなく、毎期の収益へ置き換える選び方であった。同年5月にはホテル松本を開き、長野県内でも工場用地の転用に着手した[7]

転用は小さな施設から積み上げられた。1975年4月にカタクラ園芸センター山梨店、1976年3月にニューライフカタクラ平店と、地方都市の跡地へ生活関連の店舗を置いていった。製糸工場は原料の繭を集めやすい養蚕地帯に建てられており、その多くは県庁所在地や鉄道の要衝から遠くない。工場としての立地条件が、そのまま小売の商圏としての条件へ読み替えられた。祖業の設備は失われても、祖業が選んだ場所は使えるという理屈であった[8]

1980年代の大型化

1980年代に入り、施設の規模が変わった。1981年3月、長野県松本市の工場用地に松本カタクラモールを新設した。創業の地である信州で、製糸の拠点が商業の拠点へ置き換わった格好となる。同じ1981年12月期の単体売上高は544億円、当期純利益は5億1,000万円で、繊維の売上を含めた全社の利幅はなお薄い。商業施設の賃料はまだ会社を支える規模には達しておらず、投資の回収はこれからという段階にあった[9][10]

1983年4月には、埼玉県大宮市の製糸工場跡地に大宮カタクラパークを開いた。1967年にゴルフ練習場を置いた敷地であり、16年をかけて同じ土地を段階的に商業施設へ組み替えたことになる。前月の1983年3月にはニューライフカタクラ大宮店も開いており、単独の店舗ではなく面としての開発へ進んだ。この敷地はのちにコクーンシティへ発展し、片倉工業の不動産事業で最大の資産となった[11][12]

結果

賃料が祖業に代わる収益源となるまで

跡地の開発はその後も続いた。2004年9月にカタクラ新都心モールを新設し、2015年4月には大宮カタクラパークと同モールを統合してコクーンシティとし、同年7月にコクーン3を加えた。2013年3月には、1920年の法人化以来の本社があった東京・京橋の跡地に東京スクエアガーデンが竣工している。製糸所の敷地は地方の商業施設へ、本社の敷地は都心のオフィスビルへと、保有地の性格に応じて用途が振り分けられた[13][14]

収益の構図は、1972年に外部から突かれた通りの方向へ動いた。2025年12月期の報告セグメントは不動産117億円・営業利益44億円、医薬品117億円・同10億円、機械関連78億円・同8億円、繊維68億円・同7億円で、売上では不動産と医薬品が並ぶ一方、4事業の営業利益の合計69億円のうち6割超を不動産が占めた。祖業を継ぐ繊維の営業利益は7億円で、賃料が製糸に代わる収益の中心となった[15]

資産と株価の差を突かれる関係は残った

一方で、外部の株主が資産の価値を突く関係そのものは解消しなかった。1990年代には香港の投資家を原告とする株主代表訴訟が争われ、原告は控訴審で勝訴したのち、勤め人である取締役に巨額の賠償を負わせるのは酷であるとして訴えを取り下げた。買い占めから20年余りを経てなお、外部の投資家と経営陣が法廷で向き合う関係が続いていた[16]

保有資産に比べて株価が安いという評価も、形を変えて残った。2013年の株式相場では、片倉工業は昭和飛行機工業や帝国ホテルと並ぶ再開発関連の常連銘柄に挙げられている。2019年には、アクティビストとして知られるオアシスがこれまでに投資してきた先の一つとしても名が挙がった。工場跡地を自社で開発する道を選んでも、資産の価値と株価の差そのものは消えなかったとみることができる[17][18]

出典・参考
  • 証券調査(7)(1971年4月)
  • 片倉工業 有価証券報告書 第117期(2025年12月期)【沿革】【セグメント情報】
  • 片倉工業 沿革(公式サイト)
  • 片倉工業 会社年鑑(単体業績)
  • 週刊東洋経済 1997年6月21日号「[特別レポート]株主代表訴訟の改悪を許すな」
  • 週刊東洋経済 2013年5月24日号「【特集 まだ間に合う! 日本株大作戦】異次元相場を生かす銘柄選び必勝ガイド」
  • 週刊東洋経済 2019年12月14日号「【第1特集 最新! 危うい会社リスト】アクティビストに狙われる」

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