オービックビジネスコンサルタント公認会計士業からの転身と会計ソフト事業会社の設立、沖電気から得た1億円の製品開発への全額投入

帳簿を検める側にとどまるか、作る側へ回るか——製品の完成と同時に運転資金が尽きた創業期

時期 1980年12月
意思決定者(推定) 和田成史・野田順弘 社長・オービック 社長
論点 創業と初期の資金繰り
概要
1980年12月、公認会計士の和田成史氏が、オービック社長の野田順弘氏の誘いを受けてパソコン向け会計ソフトの事業会社を東京都千代田区に設立した経営判断。沖電気から得た1億円を全額製品開発に投じ、製品が完成した時点で運転資金が尽きた。
背景
1980年前後まで、日本企業の会計業務は汎用大型機やオフコンで処理するのが通例で、専用のハードとソフトを一体で買う形をとっていた。パソコンの登場で安価な会計ソフトという空白が生まれ、そこへ公認会計士らが興した4社が相次いで入っていった。
内容
資金は野田氏の出資と、和田氏の事務所が開発したシステムの販売権を沖電気に売った1億円。最も多い時期で80人近いプログラマーを投じ、1億円を使い切る頃に製品ができた。つなぎ融資の担保は27歳の本人に用意できず、父の土地を差し入れている。
含意
社員4人で3か月1000万円という目標を置き、実際には3か月で1300万円を売った。実演を見た客のおよそ半分が購入し、資金の苦しさは2年続いた。1983年にTOPシリーズ、1986年に東京支店・大阪営業所と、販売の足取りは創業期の売り方の上に伸びた。
筆者の見解

資金が尽きる設計で走れた条件

沖電気から入った1億円は、製品ができあがった時点で1円も残っていなかった。開発費と運転資金を分けて持つという初歩の手順を、和田成史氏は踏んでいない。企業の財務を外から検めてきた公認会計士が、自分の会社ではその原則の外に出た点に、この創業の性格が表れている。1億円を薄く延ばして小さく作れば、パソコン用の会計ソフトという市場そのものを取り逃がすという読みが働いていたとみられる。父の土地は、その読みに賭けた分の担保であった。

ただ、これを個人の胆力だけで説明すると、同じ時期の構造を見落とす。パソコンの登場に気づいた公認会計士は和田氏だけではなく、PCA・ミルキーウェイ・日本マイコンがほぼ同時に生まれ、4社で市場の9割以上を分け合った。和田氏の側にあった固有の条件は、出資を申し出た野田順弘氏と、担保に土地を差し出せる父がいたことである。資金が尽きる設計のまま走れたのは、失敗したときに何を失うかを引き受ける他人が二人いたからだといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

パソコンの外側にあった会計業務

コンピュータが企業に入って以来、日本企業の会計業務は汎用大型機やオフコンで処理するのが通例で、専用のハードとソフトを一体で買う形をとっていた。1台あたりの投資は重く、経理を機械にのせられるのは相応の規模を持つ会社に限られる。1980年前後にパソコンが世に出ると、この前提がくずれた。どのパソコンでも動く安価な会計ソフトを売れば、それまで機械を持てなかった中小企業が顧客になる[1]

この空白に気づいたのは一人ではなかった。1980年前後、パソコンの登場に合わせて公認会計士らがPCA、オービックビジネスコンサルタント、ミルキーウェイ、日本マイコンの4社を相次いで設立している。帳簿の実務を知る者が、機械の側を安く作り替えるという同じ発想に同時に行き着いた。4社はどのパソコンでも動く安価な会計ソフトを投入して市場を広げ、以後も市場シェアの9割以上を4社で占め続けた[2]

順調だった資格業と、作る側への関心

和田成史氏は1952年に東京で生まれ、1975年に立教大学経済学部を卒業した。翌年から大原簿記学校の会計士課に勤め、1979年に退職して、1980年3月に公認会計士として登録している。二次試験には23歳で合格していた。会計士としての仕事は順調だったが、和田氏は当時から、これからは会計システムが重要になる、できることなら自分の手で作ってみたいものだと考えていた[3][4]

専門知識で何か社会に役立つものを創造してみたい、というのが本人の言い方であった。会計士として学んだことをすべて盛り込み、自分なりに理想を追ったシステムを組めるのは、自分で作る場合だけである。安定した資格業を持つ者がなぜ危険を負うのかという問いに、和田氏は後年、リスクとは変化であり、その変化こそが成長の機会だと答えている。この時期、公認会計士としてオービックに出入りするうち、同社社長の野田順弘氏と面識を得た[5][6]

決断

誘いは相手の側から来た

話を持ちかけたのは野田順弘氏の側であった。和田氏が26歳、野田氏が40歳ほどの頃、年末か年始の挨拶に出向いた席で、会計士としてではなく企業として会計システムの仕事をやってみないか、自分も出資すると水を向けられた。予想もしていない話だったが、和田氏はその場で引き受けている。1980年12月、コンピュータの販売とプログラムの製作・システム設計を目的として、東京都千代田区に株式会社ビック・システム・コンサルタント・グループが設立された[7][8]

手放したのは、帳簿を外から検める側にいるという安全な立場である。公認会計士の登録から9か月しか経っていない時点での転身であった。翌1981年5月には商号を株式会社オービック・ビジネス・コンサルタントへ改め、本店を新宿区へ移して新宿三井ビルに事務所を構えている。オービックからは設立時に出資を受けたが、和田氏は後年、経営に口出しされた覚えはなく金融支援も受けていないと述べ、両社の関係を出資と家族ぐるみの交際にとどめて説明した[9][10]

1億円を全額、製品開発へ

設立の資金は野田氏の出資だけではなかった。和田氏の事務所が開発したシステムがあり、その販売権を沖電気が1億円で買っている。この1億円を元手に製品開発へ入り、最も多い時期には80人近いプログラマーが開発に加わった。そして1億円をちょうど使い切る頃に、製品ができあがった。開発費と運転資金を分けて置くという手順を踏まず、手元の資金を全額そのまま製品に変えた設計であり、完成の日が資金の尽きる日と重なった[11]

製品があっても運転資金がなければ、売る前に止まる。和田氏は銀行からつなぎの融資を受けたが、当時27歳の本人に担保となる資産はなく、父に頼み込んで父の土地を担保に差し入れた。判を押してもらったときの気持ちを、和田氏は絶対に成功させるという執念だけだったと振り返り、うまくいかなかった場合を考えもしなかったと述べている。借入でつないでいる間に売上を立てるほかなく、本人を含む社員4人で3か月1000万円という目標を置いた[12][13]

結果

3か月で1300万円

結果は、3か月で1300万円であった。最初に製品を買ったのは社員10人から20人ほどの会社のオーナー経営者がほとんどで、目の前で操作してみせると反応がよく、実演を見た客のおよそ半分が購入した。作った側が使い方をその場で示し、買い手が納得して決めるという売り方が、この製品には合っていた。和田氏はここで、事業として成り立つという手応えを得ている[14]

それでも資金の苦しさは2年ほど続いた。専務を務めた妻の和田弘子氏も公認会計士だが、この時期のストレスから直径5センチほどの円形脱毛症になっている。会社は1983年11月に「TOPシリーズ」を売り出し、1986年9月には東京支店と大阪営業所を開いて、販売の体制を主要都市へ広げ始めた。設立から17年後の1997年3月期には売上高59億円・経常利益18億円を計上し、3か月1000万円を目標に置いた会社とは別の規模になっている[15][16][17]

出典・参考
  • 日経ベンチャー 2001年9月号「編集長インタビュー 和田成史 オービックビジネスコンサルタント社長」
  • 週刊東洋経済 2000年2月5日号「[トップの履歴書]オービックビジネスコンサルタント社長 和田成史 財務・管理会計ソフトで次代を担う」
  • 週刊東洋経済 1997年4月26日号「企業売買 会計ソフト 優良ベンチャー『発売中』最新ルポ 『会社は高く売れるうちに売れ!』」
  • オービックビジネスコンサルタント 有価証券報告書【沿革】

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