出光興産三十七年ぶりの外部資本導入と、会長の一声で白紙に戻った上場
「資本はゼロをもって理想とする」を掲げた会社が、投機的格付けを機に銀行へ優先株を渡すまで
- 概要
- 1998年9月にムーディーズから「B2」の投機的格付けを付けられた出光興産が、2000年6月に優先株式2,900千株を発行して290億円を調達し、2001年3月末までに880千株を追加して合計378億円を増資した経営判断。1940年の設立以来、出光家以外の外部資本を受け入れるのは初めてで、資本増強そのものが37年ぶりだった。
- 背景
- 1991年ごろからの二次精製装置の増設と1993年の脱ベンゼン装置への500億円投資で、1993年度にはグループの有利子負債が2兆円を超えていた。1996年の特石法廃止で価格競争が激化し、金融危機で銀行が融資を拡大する体力を失うと、借入金の大きい非上場企業という出光の姿は、そのまま信用不安として読まれるようになった。
- 内容
- 引き受けたのは東海・住友・住友信託の三銀行と東京海上火災保険、住友生命の5社である。優先株には議決権がなく、銀行からの役員受け入れもない。財務体質の強化を求める銀行団と、経営の独立性を守りたい出光側との妥協の産物だった。メインバンク4行のうち東京三菱は増資引受リストに入らなかった。
- 含意
- 増資を発表した2000年5月の会見で出光昭氏は株式上場の検討にも言及したが、7月初めに出光昭介会長が「上場はしない」と述べて白紙撤回に至った。社長に実権がないことが外から見える形になり、資本の開放は2005年の資本組み替えと2006年の上場まで持ち越される。
理念と資本のあいだにあったもの
出光昭氏は「資本はゼロをもって理想とする」という創業以来の考え方を、資本というのは人だという趣旨で説明していた。社員が育っていれば必要な資金は後からついてくる、という順序である。この理念は、株主への説明責任を負わずに長期の設備投資へ踏み込める自由を与えた一方で、危機のときに株式市場から資本を入れる回路を持たないという弱さと表裏だった。1998年に効いたのは後者である。銀行が融資を拡大する体力を失うと、借入金だけに依存する資金調達は行き詰まった。優先株という妥協は、その弱さを認めながら支配権だけは手放さないという、二つの要請の折り合わせであったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
本業に投じた資金が積み上げた二兆円
出光の借入金は、投機や不動産ではなく本業に向かった投資の結果であった。電力会社の燃料転換で重油が伸びなくなり、調達する原油が重質油比率の高い中東ものを中心としていたため、1991年ごろから重油や重質油を軽質化する二次精製装置を増やしている。1993年には500億円をかけて、ガソリンからベンゼンを抽出する装置も建設した。規制の実施は2000年からで、業界に先駆けた前倒しの投資である。こうして1993年度にはグループの有利子負債が2兆円を超えた[1][2]。
1996年に特石法が廃止され、石油製品の輸入が完全に自由化されると、業界は精製から販売までのすべての段階で過剰設備を抱えたまま価格競争に放り込まれた。出光も1995年から新入社員の採用を大幅に絞り、1994年にグループ全体で約1万人いた社員は1998年には約8500人まで減っている。ただし定年制を置かず、会社の都合で人を減らさないという方針は保っていたため、人件費の圧縮には限界があった[3][4]。
断ったはずの格付けが一方的に付けられる
1998年5月、ムーディーズから格付けをしたいという手紙が届いた。出光は株式も社債も公開しておらず、経営内容は銀行に説明しているとして断っている。ところが銀行サイドからの要望や、石油大手で格付けされていないのは出光だけという事情もあり、一方的に格付けすると通告された。同年9月に付いた格付けは「B2」、すなわち投機的水準である。出光昭氏は、借入金も多く格付け会社の物差しに合わないことは最初から分かっていた、と述べている[5][6]。
格付けの直後に業界の地図が動いた。1998年10月、日本石油と三菱石油の合併が発表される。民族系各社が最良の結婚相手と目していた日本石油が先に相手を決めたことで、後に残る合併相手はどこをとっても弱者連合にしかならない状況となった。燃料油の販売総量では首位にあった出光だが、単体で1兆3000億円の借入金を抱え、株式を公開せず経営情報が不透明であることから、合併相手としては敬遠される側に置かれる[7][8]。
決断
議決権のない株を銀行に持たせる
2000年6月、出光は優先株式2,900千株を発行して290億円を増資した。2001年3月末までにさらに880千株を追加発行し、合計378億円となる。1940年の設立以来、出光家以外の外部資本を受け入れるのは初めてで、資本増強そのものが37年ぶりだった。引き受けたのは東海・住友・住友信託の三銀行と東京海上火災保険、住友生命の5社である。優先株には議決権がなく、銀行からの役員受け入れもない[9][10][11][12]。
この形は、銀行団と出光の双方が譲れる一点であった。財務体質の強化を求める銀行団に対し、出光は経営の独立性を守りたい。議決権のない株であれば、自己資本は積み増せても支配権は動かない。もっとも銀行の側にも温度差はあり、メインバンク4行のうち東京三菱は増資の引受リストに入らなかった。優先株の配当負担は借入金利よりも割高で、資本コストの面では必ずしも有利な調達ではない[13][14][15]。
結果
会長の一声で白紙に戻った上場
増資を発表した2000年5月の記者会見で、出光昭氏は将来の資本政策として株式の上場も検討すると明らかにしていた。ところが7月初め、出光昭介会長が「上場はしない」と発言する。社長も白紙撤回を表明し、計画は二カ月で消えた。当時の連結の長短借入金は1兆7000億円で、これに対する資本金は10億円である。2000年3月期の連結純利益240億円に対して支払利息は416億円に上り、期間利益だけでは劇的な借入金の削減は望めなかった[16][17][18]。
この一件は、社長と会長の力関係を外から見える形にした。実務のトップである昭社長の方針が、創業家を代表する昭介会長の一言で覆ったからである。株式上場の表明は「開かれた会社」へ踏み出す意思表示であったはずだが、撤回によって、出光家が経営権を握り続けるという意思のほうが前に出た。資本の開放は2005年10月の資本組み替えと2006年10月の東証一部上場まで、五年余り持ち越されることになる[19][20]。
- 週刊東洋経済 1998年11月21日号「[編集長インタビュー]出光昭 出光興産社長 投機的格付けには業績でこたえたい」
- 週刊東洋経済 1998年12月5日号「[特集]食う会社・食われる会社 石油 日石、三菱の結婚で業界は大ショック 敬遠される出光興産」
- 週刊東洋経済 2000年6月3日号「[Lineup/産業・企業]変身 出光が初の外部資本導入 経営理念最優先を果たしてどこまで貫けるか」
- 週刊東洋経済 2000年9月9日号「[特集]このお騒がせ会社に未来はあるか 出光興産 会長の一声で上場は白紙。つきまとう金利上昇リスク」
- 週刊東洋経済 2005年10月1日号「[KeyPerson]出光興産社長 天坊昭彦 2006年秋に東証1部上場を目指す」
- 出光興産 有価証券報告書【沿革】